2005/10/30
物部の系譜
17・10・30
日本の神界のシステムが、此処のところに来て、明確に成って来た。
日本の歴史は、一応「神武天皇」から始まった事に成ってはいるが、今では世界の考古学が進歩して、日本人だけの価値観では、誰も納得しない処まで、時代は進んで来ている。
人類の発生は、約650万年前頃アフリカの中央部で、類人猿から分離して始まった事が、人骨の発見で裏付けされ、今の処、其れに対して、明確な反対意見は出ていない様である。
人間と、チンパンジーの遺伝子は99%が同じで、僅か1%の違いしか無いらしい。
更に、いのち(遺伝子の情報)を遡れば、38億年前に、酸を出し、岩を溶かして有機物質を作り出した、最初の微生物が、地球上のあらゆる生命の源である理・ことが、解かって来ている。
我々の「いのち」の年令は、38億年00000000歳と成るらしい。
何処かで、其のいのちの鎖が切れたモノは、此の世には存在しない事になる。
其の、遥かな「いのち」から考えれば、日本の歴史など無きに等しいが、私達は、其の歴史上の情報カレンダーを使い、日々の暮らしをして居るのだから、歴史を無視する事は出来ないので、せめて正しい歴史認識を、しなければ成らないだろう。
日本の暦は、神武天皇を紀元としており、イエスを紀元とする西暦2005年よりは、660年ほど長い事に成っている。
しかし、日本列島には、数万年前から、人類が住んで居た事は明らかに成り、鹿児島の火山灰で出来たシラス台地の下からは、9000年前に使用されていた、大きな縄文土器が発見されている。
其の時の火山活動で、南九州からイカダに乗って逃げ出した人々が、南米まで辿り着いて生き残って居ることが、土器や・言葉や・DNA診断で裏付けされてもいる。
更に、もう少し遡れば、一万年前の氷河期に現在のインドネシア諸島や、ニューギニア辺りの島々は、海水が100mも低くかったので、大きな大陸で有った事が判って来た。
そして其の大陸には、大勢の人々が生活していたらしい。
それが、氷河期の終りと共に、世界中に移動し、現在のマレ語が、語源と成っている言葉の使用領域と成っているらしいのだ。
一万年遡れば、自分は何人だと言っても、正しい言い方では、ない事に成ってしまう。其処から前は、創造の範囲に成るので述べる事は止める。
神武以前には、出雲の「素戔鳴尊」と「櫛稲田姫」の恋愛物語が残されており、出雲には、其の伝説を裏図ける神社も沢山存在する。
だから、私は鹿児島の人間では在るが、神武伝説だけには、固執しないで考えを巡らしている。
此処のところの霊界の様子では、聖徳太子以前の文化に戻す事が重要で、皇家と馬子一族に、物部守屋が殺され、流れが変わってしまった処を修正し、石上神宮の儀式の意味を、明確に打ち出す事が求められている様である。
現在の天皇家で行なわれている「新嘗祭」や「大嘗祭」の儀式も、元々は石上神宮の物部一族の儀式であり、古代では、物部が祭り事の実権を持っており、天皇(スメラノミコト)は、其の体制上での、一つの役割でしかなかったのだ。
伊勢神宮は、奈良の元神と、神武が持ち込んだ神の分離の為に、神武が持ち込んだ神を、奈良から外に出す為に、「豊鋤入姫」から「倭姫」が御杖に成っての創建が基であるから、長くても未だ1900年くらい前からの物である。
明治時代に、橿原神宮が造営され、明治天皇が伊勢神宮に参詣したのは、明治5年の事であり、薩摩が政権の中心に成らなければ、何れも無かった物事である。
今回、新しい歴史を創出する為には、世界の人達が認め、霊界の神霊達が、皆協力する内容でなければ成らない。
其の為にも、時代設定を何処に据えるかが一番大事である。
佛教を信じる人は、聖徳太子に重きを置いているが、聖徳太子が釈迦牟尼仏の教えを、全て理解していたわけではないし、太子が読んだ経典は、中国の鳩摩羅汁(くまらじゅう・344〜413)が西暦401年頃から訳した物であるから、神や霊界の動きとは、あまり関係が無いのである。
其のズレを、正そうとしたのが666年の天智天皇(近江遷都)であり、1333年の後醍醐天皇の(南朝設立)である。
しかし其れ等も、神界の建て直しには成功していない。
1999年の、666年の時間サイクルには何も無く、其のまま歴史は流れ、今日に至っているのである。
今後、霊界が動き出し、新しい歴史が創出されるには、奈良の石上神宮の、物部の儀式を、再認識する処から始め無ければならい。
其れは、物部の始まりである「饒速日大王・にぎはやひのおおきみ」が、霊界の中心と成っているからである。
私に訪れた、4311体の霊魂に拠る「神霊の思頼・みたまのふゆ」の最後の頼みが、其処に有る様だ。
石上神宮は、物部一族の代々の霊を祭る社で、初代「宇摩志麻遅命・うましまじのみこと」は、島根県大田市の物部神社の裏山が御稜と成っている。
私の守護霊の中では、其の宇摩志麻遅命神霊が、一番縁が深い様である。
今回、佐賀で行なわれた「古代かがり火まつり」には、はるばるニューヨークから参加され、講演も為されたニューヨークのレストラン「おめん」と「まつり」のオーナである「品川幹雄氏」は、親の代からの天理教の支援者で在られるが、天理教の開祖「中山みき」に掛かった神霊も、石上の物部の霊である。
其の品川幹雄氏は、日本の伝統を世界に広める為に「品川文化財団」を設立され、日夜努力を為されている。
其れは、今後、世界を立て直すのに、重要な役目を担う事は明らかである。
日本には、幸いにして天皇家が存在し、日本の伝統文化を伝え続けている。
日本では、どんな政権が誕生しても、其の伝統だけは護られて来た。
西洋の王家は、武力に拠る政権奪取で出来たものである。
日本の天皇家に近いモノは、王家ではなくバチカンの方であろう。
しかし、其れもイエスの死後380年経ってから、ローマの王の支援に拠って出来上がったモノなので、そう古い物でもなく、イエスの意志からは、遠く離れたものである。
其の点で言えば、日本の寺院も、殆どが、釈迦の訓えからは逸脱している様なので、あまり大きな事は言えない。
日本の天皇は、山に木を植え、田植えをし、稲刈りもする。
世界に、百姓の仕事を、一番大事な事としている王様は居ないであろう。
そして新嘗祭では、先祖の霊魂を全部呼び戻して、直会をするのである。
これは、霊魂不滅の教えを伝えているし、輪廻転生が有る事を裏付けている。
代代の「スメラミコトの道・皇道」とは、代代(節節・よよ)の節目を「つかさどる」ことである。
其のシステムを「天津日嗣・あまつひつぎ」と呼んで、永く伝えて来たのが日本の文化である。
天皇陛下が、自ら木を山に植えるのは、「須佐之男尊・すさのおのみこと」と、次男「「五十猛命・いそたけるのみこと」の行為を、受け継ぐ物である。
日本の永い歴史は、日本の財産であり、世界に誇れるものである。
何処かの国の様に、世界から武力に拠って財宝を取り上げ、陳列している国とは、根本的な処に違いが有るのだ。
私達は、其の様な文化が存在する此の日本国に生まれた事に、感謝をしなければ成らないのだ。
古代の物部は、其の名の通り、東西の物を管理する部族で、スメラのミコトの生活を支えていたのである。
それを、蘇我馬子が皇族(聖徳太子ら)と組んで、権利を取ってしまったのだ。
其の事件から、佛教が皇室に入り込んで、神事がおかしく成ってしまっている。
シッタルダ王子は、王家を捨てて野に下った人間である。
其の人の訓えには、政治の遣り方は、含まれてはいない。
シャカ・シッタルダは、政治から離れることを説いた人なのである。
日本の神武天皇や、中国の老子の様に、祭り事(政治)に関わった人間ではないのだ。
寧ろ、其れを嫌がったと言うか、其れを捨てた人なのである。
だから、是から、新しい祭り事を始めるのには、取り敢えず「お釈迦さん」は必要無いのである。
是から必要に成るのは、「大国主命」や「少彦名神」、其れに「饒速日命・にぎはやひのみこと」等の御霊である。
神武天皇は、饒速日命の子孫の「長髄彦・ながすねひこ」の養子に成って、其の後を継いだだけである。
是からは、人類が真剣に地球環境を護りながら、自然と調和し、幸福に成る世界をデザインして行かなければ成らないのだ。
其の行動を支えるのが、霊界に存在する聖霊達の役割である。
私が、此処まで思索が進んだのも、釈迦や老子の意識の残骸が残されていて、手掛かりに成ったからである。
特に、是は日本での出来事なので、「弘法大師空海」や「一休宗純禅師」の存在は大きなモノがある。
是からは、霊界の人達よりも、今世を生きる、我々の活動の方が大事である。
もう、神社やお寺に行って、頼み事をする時代ではない。
神々は、現実に取り組む人達にしか力を貸さないであろう。
逆に、未来を創造する為に働く人達の、邪魔に成る者達の整理に入るだろう。其れは、地球上の全生命の危機を回避する為には、仕方の無い事なのだ。
私も、其の地球の生き物の一員として、21年間働いて来ただけである。
21年前、「出口王仁三郎」に履かされた下駄が、次の年、石上神宮の社の中で瞑想して居ると、天に召され上がって行く映像を見せられた。
其れは、ビジョンだけで、下駄はそのまま縁の下に残されていた。
其の下駄が、京都府亀岡市に着いた時には、金具が弛んでチャラチャラ両方音を立てていた。
其の私を見た「杉岡伴太夫氏」が大本教に案内し、霊界の「ナオさん」と「王仁三郎」の「玉串渡しの儀式」が行なわれるのを見せられたのである。
だから、大本教の霊界も、物部と繋がっている様である。
是から、どう物事が展開して行くのかは判らないが、多分其れも、私達人間が是からどう動いて行くかに、掛かっているのだろう。
全てを、人間の自己責任で、遣って行かなければ成らないのだ。
そうしなければ、神が、地球や人間を創造した意味が、無いからである。
「大物主命・大巳貴神・おおなむち」とは、其の事を遣り遂げた者に、与えられた名なのであろう。
まだまだ、自分の中に巣くう、自我意識の蛇と戦う日々は続く。
老子の言葉に「本当の勇者とは 敵に勝つのではなく 自分に勝つ者だ」と有る。
私の、魂の旅は、未だ先が長い様である。
(写真は、大田市の物部神社の裏山の「うましまじ」の御陵。2001年6月15日 両足の裏からエネルギーが強力に流れ込み、写真にも光りが写る。太陽は後ろ側にあるので、逆光で撮ったものではない。)
平成17年10月30日
礒邉自適
2005/10/2
意識は何処から始まったのか
17・10・2
私達は、自分の内側に、潜在意識と呼ばれている意識の世界を有している。
しかし、其れは、目には見え無い世界の事である。
其の、目には見え無い潜在意識が、私たちを動かしているのであれば、其の潜在意識が、何処でどの様に創られているのかを、突き止めなければ、我々人間は、いい加減な生き方をしている事に成る。
私たち人間には、「安心」と「不安」の両面の心の立場が有る。
其の二つの立場は、同じ日常の中に同居しており、どちらが表に出るかで、幸か不幸かの感情が生まれる。
其の感情にも、潜在意識が深く関わっている。
私達は、潜在意識を突き詰めて、答えを出さなければ、「幸」も「安心」も得られないらしい。
昔から人間は、自分の潜在意識が安定しない為に、十字架や、仏像や、お札を考え出して、其処に意識を括り付けて来た。
中には、お金や宝石を集めて、其れに意識を縛り付ける人も居る。
其の意識を、日本語では「こころ」と呼んで来た。
こころや意識は、どうして出来上がるのか、其の答えは、化学が是だけ発達しても、未だ明確には成っていない。
其の答えを提示したのが、過去の聖者である「釈迦」や「老子」である。
漢字の「心」は、心臓の形その侭の象形であるので、不安な時に心臓がドキドキする事から、感覚的に意識の反応する所として、心臓を持ち出したのであろう。
日本語の「こころ」は、情報に因って意識が「コロコロ」変化するので、こころと名付けたものらしいから、「心」より「こころ」の方が、潜在意識の存在を考える上で、都合が良いと想われる。
日本語では、興奮する事を「胸がドキドキする」と言う。
其れは、心臓の存在が対象と成っている。
日本では、感情の変化が、心臓に影響を与えると考え、心臓の位置から臍の位置へ、感情を下ろす事をテクニックとして考え出し、「腹を据えて 落ち着く」との言葉を創り出している。
しかし、テクニックだけでは、安心立命には届かない。
やはり、潜在意識に答えを与えないと、不安は常に付き纏って来る。
私たちが安心出来るのは、目に映る確かな物質を、自分の物として、所有している時である。
其の目に見える物とは、仏像や御札であったり、お金や通帳の数字であったり、高価な宝石だったりするし、大きくて立派な家と、家族だったりする。
中には、多くの部下が、自分の配下にあると、安心する者もいる。
しかし、其れ等の物は、何時消えるかも分からない不安定な物だから、潜在意識は安定する処か、益々、不安を強める原因と成る物である。
我々の、潜在意識が安定する為には、「安心」を創り出さなければ成らないのだ。安心とは、潜在意識が安定している時の状態を表す言葉だろう。
其の「安心」とは、日本語では「やすらぎ」であろう。
やすらぎとは「安ら気」で、「やすらかなきもち」の状態と言える。
其の、安らかな気持ちを齎す為の教えが、釈迦や老子の教えである。
しかし現代社会は、釈迦や老子の教えでは、生き難い仕組みに成って来ている。其れは、彼等の教えが、正しく理解されていない為である。
と言うより、彼等の教えより別の価値観が、世間を席巻してしまっているからである。
其の為に、煩悩が煽られ、社会全体が、欲望追求の海に成ってしまっているのだ。
必要以上に飲食をし、生きる為に必要の無い物を買い漁りする。
更に、必要のない行動を起こし、其れ等の煩悩の嵐が、子供達の人生まで狂わせてしまっているのだ。
潜在意識は、デパートにも売っていないし、学校の教育にも登場しない。
一番大事なモノが、売られてもいないし、教育の世界にも、出て来ないのは何故であろうか。
それは、目に直接見え無い物だからだろう。
見え無い物だからこそ、売り物ではないし、方程式も無いので、試験にも出て来ない。
だから良く考えれば、只で手に入るモノであるし、意識の無い空間は存在しないのだから、無制限に手に入るモノでもある。
潜在意識とは、元々、自分が持っているモノだから、誰も買う必要が無いから、売ってもいないのだ。
其の、誰もが持っている潜在意識を活用する様にすれば、一番の省エネにも成るし、地球の安定にも繋がり、平和の貢献にもなる。
そう考えれば、現在の経済システムは、全て、逆向きに成っている事に成る。
昔から、其の原因は探られており、向きを変えるのが、神社の社の階段や、水の上を渡る「かつらぎ橋」である。
皆が、物を見て組み上げる「顕在意識」から、「潜在意識」を求める方に、橋を渡って移動すれば、天秤棒も傾きを取り戻すだろう。
其れが、神の存在に一段一段近く成る理なのだ。
かつらぎ橋を渡るには、お金は要らないし、派手な服を身に着る事も、宝石で身を飾る必要も無い。
誰でもが、無制限に簡単に渡れる橋なのである。
潜在意識とは、我々が、自分の力で手に入れるモノではなく、本来持って居る意識なのである。
其れこそが、神に通じる意識(心)なのだ。
其れを、日本語では「たましい」と呼んで来た。
「たましい」も、デパートにも売っていないし、学校の教育にも登場しない。寧ろ、戦後教育では、迷信の世界だとされ排除されて来たのだ。
私達の肉体こそ、潜在意識が組み上がった物である。
総ての意識は、この自分の肉体に、記憶されているのである。
其れを、思い出す場が、神社や寺院である。
其の大事な場である、神社や、寺院が、今では、顕在意識を植え付ける場と成っているのが、一番の問題なのである。
学校の教育者や、会社の上役が、みな其の理・ことに無知なので、世の中は、不安の坩堝と化してしまっているのだ。
潜在意識の窓口が、「夢」の世界である。
かつらぎ橋を渡るのは、天の川を渡る事である。
天の川は、銀河の中心である。
銀河の中心を渡る事は、自分の魂しいが、源に還る事である。
其処に、たましいを還せば、もうこころが不安に成る事はない。
世俗の、低い橋を渡るには金が掛かるが、高い天の橋を渡るには金は必要ない。
天の橋を渡るには、手を使う必要も無いのである。
ただ、意識を其処に向けるだけで、其れは瞬間的に、其処に存在しているのだ。
其れが、其処に、一瞬でも無く成れば、我々の肉体は存在しないのだ。
手を合わせて祈る仕草は、自分の掌を合わす事で、自分が存在する事を確かめ、其れを胸に置く事で、意識をセンターに持って来る事になる。
其れが一番安上がりで、簡単で、間違いの無い方法なのである。
其の作法を護り伝える為に、教会や、寺院や、神社が建てられて来た。
しかし、其処へワザワザ出掛けなくても、潜在意識は、自分の中に在り、自分を包む宇宙全体に、満ちているのである。
自分がいま、瞼を閉じて眼に浮かぶモノ、其れこそが、自分の今の意識なのだ。其れを確かめるのには、自分の健康な身体以外には、何も要らない。
其れを、釈迦牟尼佛は「頼れるのは この己の肉体だけだ」と説き、宇宙に満ちている潜在意識を、佛の世界と謂ったのである。
だから、釈迦の教えを護るには、釈迦の存在を表す仏像に向って、祈っては成らないのである。
一番大事なのは、自分の手が、今何を掴まえているかを、確認する事である。其の行為が、潜在意識の扉に関わりを持っているのだ。
あの、目も見え無い、耳も聴こえない「ヘレンケラー」が、成し得た事を見ても、其れは明らかな理・ことである。
平成17年10月2日
礒邉自適
2005/10/1
自分
17・10・1
古代社会の誰が、「自分・ジブン」との概念を持ち「自分」との語を、定義付けしたのだろうか。
其の御仁に対して、慄・おののきと尊敬を覚える。
「自分・ジブン」とは、自らの存在理由を知りたいとの理由から、「自(鼻の形)」と、「分(刃物で左右に切り分ける)」の意味を使い、「自分を 左右に切り分けて 自分の内側を観て 己の存在理由を探り出し 答えを得る」との、意識の目的を鮮やかに示している。
其の目的は、人間の永遠のテーマでも有り、其の模索は現在でも続いている。
其の答えを、明確にしたのが、中国の「老子」と、インドの「釈迦」である。
釈迦は、宇宙意識に到達し「衆生一切」を我子としているし、老子は、恍惚の中に身を置いて「道」の中に溶け込んで居る。
其の二人の超人は、同じ次元に到達し、其々の答えを出している。
其の答えとは、釈迦の「法・ダルマ」と、老子の「道・タオ」である。
法と、道と、呼び名は異なっても、差し示す処は同じである。
彼らは、この宇宙が誕生する瞬間に辿り着いて、久遠正覚を得ているのだ。
彼等には、「時間」も「空間」も無い、超越したトキが訪れたのだ。
彼らは、138億年の時間の螺旋を通り抜け、暗い宇宙空間に、我々の住む空間が、質量を持ち誕生するのを、自分が「産婆」の立場で観ているのである。
そして彼等は、森羅万象の変化が、自分の在り様だと、覚醒したのである。
人間の存在は、138億年の宇宙形態の最前線の姿なのである。
其の理に至れば、統べての現象が自分の為であり、全ての責任が、自分に有る事に成る。
其処の立場に至れば、もう何事も、言葉にする事は出来ない。
言葉を発する事は、宇宙の波動を乱す事に成るからである。
ナザレの「イエス」も、其の理には気付いて、「貴方達は あの山は動かない物だと想って居るだろう。ところが、私が山に『動いて 海に入れ』と云えば、山でさえ海に入るのだ。」と、云ったと伝えられている。
光に例えられている、宇宙のエナジーの世界は、意識だけが、確かな物なのである。
日本でも、「弘法大師空海」は、其の事を実感として捉えている。
其れが、「阿字の子は 阿字の地へ帰る」との短い言葉だ。
誰かが、久遠実成の世界に還り着き、答えを出せば、其れ迄の不純物質は取り除かれ、真実のマントラの海が拡がるのである。
其れが、仏陀を求める民の潜在意識である。
多くの民の存在は、其のたった一人の仏陀が、トキの節目に現れ、答えを出してくれる様にと、長い間、現象を支え続けて居るのである。
たった一人の、其の仏陀とは、別の名を「チャクラヴァルティン・転輪聖王(てんりんじょうおう)」と、呼ぶ事からも其れが解かる。
2600年毎に、時の節目に現れる其の現象こそ、この我々の住む宇宙が、竹の様に、節目を創りながら成長している証である。
もう、新しいトキの節目は出来上がり、次の空間が育ち始めている。
もう、仏陀を待ち侘びる事は無い。
仏陀は、其の作業を既に終え、再び、闇の中に溶け去ったのだ。
後は、今の瞬間に「空即是色」で、現象化している人々で、新しい空間の成長を支えて行くだけである。
もう宇宙(エホバ)は、過去の情報は拭い去り、新しいテーマに向かって進んでいる。
我々が、其れに気付かないのは、未だ、自分の仕入れた情報を、頭上まで被覆してしまって居るからである。
其のシールドを剥がしてしまえば、新しい情報が、目の前に存在する理に気付くのだ。
真実の「祓いたまえ 清めたまえ」のトキを、迎えているのである。
早く目覚めた者から順番に、新しい縦糸に成る事が出来るのだ。
自分の芯を立てたい者は、早く過去の衣を脱ぎ差って、トンボの様に大空に飛び立たなければ成らない。
何時までも、ヤゴの様に風を嫌がって、微温湯に浸かって居ては救われない。
自分で、自分の分けを知り得ない者は、答えを得た者の智慧を、参考にするしかないだろう。
其れでも、良いのだ。
どうせ結果は同じだし、始まりも、同じ処だったのだから。
他の何処にも、行き様の無い我々なのだから・・。
平成17年10月1日
礒邉自適
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