2005/4/29
真空の世界
17・4・29
本日は、祝日の「みどりの日」である。
その原因は、本日が、亡き昭和天皇(1901〜1989)の誕生日であったからである。
其の「昭和天皇霊」の、私に対する働き掛けは強い。
昭和天皇が亡くなった日の1月7日夜半、私の心臓に、その御霊がドカーンと飛び込んで来た。
其の、昭和天皇霊だけではなく、1984年6月4日(旧暦5月5日)に、私に憑依して来た霊魂の中には、過去の天皇霊が複数存在した。
その中でも、「天智天皇」や「後醍醐天皇」の霊は強く働いている。
その天皇霊の影響か、今朝未明には、21年振りに、私の意識が宇宙意識に成っていた。
其れは、一切の物が無く、言葉や音も無い真黒の闇の世界である。
ブッダ・釈迦の謂う「法・ダルマ」も無く、老子の謂う「道・タオ」も無い。唯 静に、重い静寂だけが存在する世界である。
私は、ようやく原点の処へ還った様である。
其れは、私の58年間の人生ドラマや、過去の歴史の欠片も無い、真の暗闇の世界で、許されるべき件も、何も無い世界である。
其の世界こそ、過去の聖人や、神官が、求めた世界なのかも知れない。
自分を知ろうとしても、存在する、現在の自分を知る事は出来るが、自分が存在する前の世界、何も生じていない原初の世界を、視る事は難しい。
全ての自我が消え、相対世界である、三次元の対象物質に向かう意識が消え、自分に内在する過去の記憶が、全て消去された時、初めて、意識の原盤が視えて来る。
それは、黄泉の世界が、黄色く色付く前の世界だ。
其処が、老子の謂う玄の世界である。
其処から生じる世界に、老子は仮の名として「道」を与えた。
老子は謂う、「始めに 玄と云う統一の世界が有り、それから生じた物が道で、道は二(タオ、陰陽)と成り、二から三(はたらき)が生じ、三から全てが生じた」との世界の、源である。
私は、21年振りに、その宇宙の原点に、意識が運ばれていた。
日本の天皇家も、中国の皇帝も、成り立ちの元は、同じシュメールの出である。
シュメールでは、王の事をスメラと呼び、スメラが世界を治める事を「スメル(シュメール)」と言った。その文化は、7000年の歴史が有る。
その民族には、強い霊意識が働いていただろう。
その意識が、楔形(くさびがた)文字を生み出している。
彼等が、文字を発明する迄は、人間の意識は、常に、真黒の闇を見詰めていたはずである。
人間は、文字が生まれた時より、灯の下で、文字を見詰めて生活する様に成り、聴覚まで駄目にしてしまったのである。
だから、玄の響きに耳を傾ける人間が、居なくなったのだ。
中国の古典には「玄の響きは 誰でも聴ける。だが、それには掛かる努力が要る。」と有る。
老子は「弦を鳴らすと 宇宙の音が消える。」と謂い、人間が人工的な楽器の弦を弾いて音を出すと、それに人間の聴覚は占有されて、宇宙の響きが聞こえなく成ると謂っている。
それは、視覚は闇の中に在っても、聴覚が三次元に執われていれば、静寂の中に深く入れないとの理ではないだろうか。
全ての、始まりの「源・みなもと」に返ってこそ、物事の原因に巡りつく事が出来る。
その原因の、原初に立ちかえった者だけが、スメラとしての大役が、務まるのではないだろうか。
我々は、三次元に肉体を持って、人間として生活していれば、意識は相対的な世界に執われて、四次元の世界にチャンネルする事は、不可能である。
その為に、代表として王を選び、其の王の生活が困らない様に、皆で建物を建ててやり、衣食等の貢物をして来た。
その事が、現代社会では忘れられている。
宗教の世界では、今でも、似たような仕組みは有るが、それは大衆の現世利益に応えるものであって、玄の世界に通じて、現象世界の調和を図るものではない。
其れは、寧ろ、反対の世界である調和の「破壊」に、手を貸している様なものである。
日本の天皇家は、西洋の王家とは異なり、神官としての要素が高い。
今一度、日本の伝統に立ち還り、真の「政・まつりごと」を復活させる必要が有るだろう。
今日は、その事を告げる為に、昭和天皇の誕生日を使い、霊魂達が働き掛けて来たのではないだろか。
真黒の闇に身を置けば、もう言葉も文字も無くなり、静かな時空だけが過ぎ去って行くのかも知れない。
人間が、何故、此の世に誕生して来るのか、その答えは、玄の響きに聴いてみなければ解からない。
平成17年4月29日
礒邉自適
2005/4/27
鎮魂の編(ふ)
17・4・27
気付いてみれば、本日4月27日は、二番目の「井上佳子」の七回忌の日である。
佳子とは1988年11月21日に結婚して、1997年に死別と成った。
丁度10年余りの付き合いであったが、その間様々な事柄が有った。
佳子と初めに出会った時、佳子の魂しいが「倭姫・やまとひめ」と言う名の人であったと、高知県室戸岬に行く途中に在る、「千手観音」をお祭りしてある社で告げられた。
当時、私は「倭姫」が如何なる人物か知らなかったので、早速辞典で調べてみた。
すると「倭姫」は、垂仁天皇の皇女といわれる伝説上の人物。天照大神の祠を、大和の笠縫邑から伊勢の五十鈴川上に遷す。景行天皇の時、甥の日本武尊の東国征討に際して尊に草薙の剣を授けたという。と 広辞苑に載っている。
倭姫とは、約二千年程前の時代に、生きていた天皇の娘で、伊勢神宮を開いた女性だったらしい。
当時は、天皇の娘が、生涯独身で神に司える「斎宮」と成っていたらしいのだ。
佳子の前世が、斎宮をしていた女性であったと知って、彼女が、天皇家や伊勢神宮に霊的に関係が有る事を知り、付き合いが始まったのである。
佳子との10年程の生活であったが、四人の子供も授かったし、様々な神のメッセージも受け取って貰った。
今朝のメッセージは、霊界に居る其の佳子が、取次ぎをしたものかも知れない。
始めに、机の引き出しに、真っ白い葉書が、数千枚入っているのが映って来た。そして、私は、その葉書が、何に使用されるのかをイメージしていると、皆に知らせるべき事が映って来た。
その場面には、「恵」の漢字が使用されている4〜5文字の題字が映り、右下の方に「今上天皇陛下」の横顔が在った。
其の画面が、看板と成るもので、日本の伝統を、世界に知らしめるモノである事が理解出来た。
その日本の伝統とは、「恵神生活」が題で、私の書いている文章が、「恵徳愛神文」であるとのイメージが湧いて来た。
ハッキリしていた「恵」の漢字は、専+心で専は糸巻きの形で、糸を糸巻きに一途に巻き取る姿から、一途に・もっぱら・の意味を表し、心を付して、他のものに対して、一途な心を傾ける。めぐむの意味を表す。と、漢語林には載っている。
恵神生活とは、神の意思を真剣に巻き取り、神の御心に適った生活を、するとの意味に成るだろうか。
それが日本の伝統であり、その事を伝え残しているのが、日本の天皇家であるとの事ではないだろうか。
現在の日本社会は、明治時代に、西洋の価値観を取り入れ、経済中心の生活に成ってしまっている。
日本の皇室は、西洋の王や、中国の皇帝とは意味が違い、神の意思に従う事が第一義とされて来た。それが日本の神道であり、神社の伝統である。
日本の神道は、「スメラのみこと(天照皇大神)」を中心に、宮司(建物を司る)、禰宜(霊をねぎらう)、神主(神に司え 儀式を掌る)、斎宮(神の憑代となる)、巫女(神楽等を舞い神を喜ばす)等の役割が整えられており、しかも一番大事な事とされているのは「御饌殿(みけどの)」と言って、台所の食べ物を司る者である。
その為に、伊勢神宮には外宮として、食物の神である「豊受の神(熊野大社の神)」が祭られている。
西洋の文化は、王を中心にパーテイ等を催して、人間自身が楽しく飲み食いをするが、日本の伝統は、神を喜ばし、神と共に共食(直会=なおらい)をする事である。
天皇の代替わりの時は、先祖の霊魂を、全部呼び戻し直会・なおらいをする。
それが「大嘗祭・だいじょうさい」の儀式である。
私は今朝、其のメッセージを反復しながら顔を洗っていると、今日が井上佳子の七回忌である事に気が付いた。
彼女は、霊界に帰って7年に成る。
今でも、私の妻としての自覚が有るのだろうか。
其れに、自分がこの世に残した、四名の子供の未来を、心配しているのかも知れない。
私は、1984年6月4日(旧暦5月5日)に神に頼まれて、一切の仕事を止め、最初の妻と三名の子供を里に帰し、修行を続けた。
そして、数年後二度目の結婚をした。その結婚も、修行の一環だった様である。
昔の人達は、あの世である霊界・四次元と、この世である三次元の人間社会が、一繋がりであると考えながら、生活をして居たのである。
その事が、再び、復活しようとしているのではないだろうか。
其の理・ことを、知らせる為の葉書が、未だ、真っ白の状態で映って来た現象と想われる。
何を、どう書いて、皆に知らせれば良いのか、其れが、今日からの私の作業と成るのであろう。
妻が亡くなって、子供達とも別れ、今日29日で、丸7年と成るのだ。
昭和天皇が亡くなった1月7日の夜中、天皇霊が私の心臓に飛び込んで来て、2月24日の大葬の日の朝、阿蘇の日の宮幣立神宮の事を知らされ、3月13日に初めて幣立神宮にお参りし、神社でのお告げで、蘇陽町に住む事と成ったのである。
そして、平成10年4月29日みどりの日(昭和天皇の誕生日)に、子供達とも別れ、家を出て、出雲の地に引っ越す事と成った。
まるで、天皇霊に振り回されている様な人生である。
昭和天皇の大喪の日の朝には、自動書記で「わが身 すでにとおく よき世を願いたてまつる」と、書かされている。
昭和天皇の御霊と、妻であった佳子と重なっている「倭姫命」の霊が、協力しあって、今朝のメッセージと成ったのかも知れない。
「ことあげ・事挙げ」をするのには、「旗印」や「大義名分」が必要である。
今朝のメッセージは、いよいよ「ことあげ」の準備と成るものを、告げて来たのではないだろうか。
平成17年4月27日
礒邉自適
2005/4/27
恵神生活
17・4・27
「恵・ケイ」とは、「専+心」の組み合わせの漢字で、「専」は糸巻きの形で、一途に糸を巻き取る人の姿を意味し、それに「心」を付して、ひたすら他の者に尽くす事。を意味する文字である。
恵神とは、神に頓(ひた)すら尽くす。神の情けに、専ら従うとの意味であろうか。
その様な生活が、理想的だと言う事であるのだろう。
今朝のメッセージには、「恵神生活」と「恵徳愛神文」との、語のイメージが伝えられて来た。
辞典には、「恵徳」も「愛神」も載ってはいない。
恵む徳とか、神を愛するとかは、普通の人間の立場で使う言葉ではない様だ。
神の代理である、「聖人」か「君子」が、民衆に対しての立場でなら、使用しても意味が合うのかも知れない。
「恵神生活」と「恵徳愛神文」を関連して考えると、恵神生活を実行している者なら、恵徳愛神の文章が書けるとの意味にも取れる。
私の書いている文章は、殆どが霊夢か、神霊のメッセージに因るものである。
私は、三次元的な人間社会の営みを全部止めて、四次元的神の世界に関わりを持って21年間過ごして来た。
其の私の行動が、「恵神的生活」と言う事であれば、私は、その様な生活を続けて来たと言える。
21年間も、その事が続けられた要因を深く考えれば、多くの方々の協力が有っての事だと気付く。
其の、私の活動を助けて頂いた人々の背景を考えると、神々が陰で働いている事が良く理解出来る。
それが、恵徳愛神の世界なのかも知れない。
私の文章が、その事の説明に成っているのなら、私も、本分を果している事に成るのではないだろうか。
私には、1994年3月22日に「風 麦東 陶・ふうれんとう」なる文字が告げられ、2000年7月22日には、「讜逓聖・とうていせい」との文字が告げられて来た。
「風 麦東 陶」とは、「風習を練り鍛えて 導き教える(薫陶)」の意味で、「讜逓聖」とは、「真理に当たっている理を、次から次に伝える ひじり」との意味である。
それらは、神々が人類の未来に対して、方向性を示して来たメッセージだと考えられる。
今、神々が何を考え、我々人間に何を望んでいるのか。
その事を探って行くのが、私の役割であり、恵神生活と、恵徳愛神文の語は、私に対するアドバイスの様にも受け取れる。
2012年12月23日迄、残り7年半余りと成った。
暮らしを正し、神の世界に同調する者を増やさなければ、遣って来る波動の嵐を、通り過ごす事は出来ない。
今朝は、その新しい動きを、始める様に告げて来たのではないだろうか。
平成17年4月27日
礒邉自適
2005/4/24
屋久島に帰って今日で丸3年
17・4・24
昨夜は、屋久島の安房中学校の同窓生の集いが、6時半より行われた。
場所は、船行に新しく出来た友人の店で、店内には本人の撮った写真が展示されていた。
島内には、現在24名が生活しているが、同窓生の名簿を見ると79名の名が有り、死亡が確認されている者が4名で、消息が判らない者が数名いる。
昨夜は、其の中の10名が集まった。
9名は島に住んでいる者で、1名は、島に新しい家を作り、数年先には、島に帰って暮らす計画だとの事。
その、大阪から島に帰って来る女性の店を兼ねた家で、当人の話を聞くと、子供も独り立ちをし、孫も居て、10数年前より始めた写真の世界を趣味にして、生活をしているとの事。
有名な写真家に習っているとの事で、写真はプロ級の出来映えである。
私達は、中学を卒業して40年余りに成る。
其々が、当時気付かなかった能力に、目覚めてもいる。
私は、農業の後継ぎに成る事を決めていたので、学校の授業時間以外には、殆ど机に向かった事は無かった。
それが、今は毎日の様に、机に向かって文字を書いている。
「夢にも 想った事が無い」とは、この事であろう。
10名が賑やかに話している中で、私は島に帰って、今日で丁度、丸3年に成る事に気が付いた。
私は、平成14年4月24日に、8年振りに島に帰って来た。其れは、平成6年の7月に、島に帰って以来であった。
当時は、熊本県阿蘇の日の宮幣立神宮の近くに、新しい家族と暮らして居たので、よもや、屋久島に再び帰って、生活するとは想ってもいなかったのである。
それが、何故か、島に帰り生活する様に成り、三年経過した今は事務所も出来、私の支えと成って下さる方々も、増えて来た。
屋久島には、私が協力した「新しい高等学校」も開校して、新たな世界が動き出している。
私にも、未だ会ってはいないが、島に初孫も出来た。
其々が歳を重ねて、自分の人生を切り開いて来ている。
昨夜の集いの目的の一つが、来年に迫った還暦の行事を、どうするかを話し合う事であった。
私も、還暦を迎える年代に至っていたのである。
自分自身は、未だ若いつもりで、還暦だとの意識は無いのだが、同級生だった友人達の姿を見れば、確かに、その年齢に達している事は明白である。
思い出を探ると、青春は未だ、数日前であった様な気持ちでいるのに、何時の間にか40年もの月日が経過してしまっていたのだ。
思えば、もう身体の方は昔の様な敏捷さも無いし、冬の寒さ、夏の暑さを楽しもうとの気力も無い。
しかし、何か若い時とは違った、充実感と、安心感が、自分を包んでいる。
若い時は、年取って老人に成る事は、悪い事の様な気分も有った様に想う。
しかし、還暦を迎える年代に成って、ようやく自分も年をとって、いずれ天に帰って行くのだとの、安らぎが生まれて来ている。
様々な事が、有った人生だが、もう何もせずとも、天界に無事に帰れる日が近付いて来ているのだ。
私の人生は、他の人達が見れば、随分と不安定な生き方だと思うだろう。
しかし、当の私に取って考えれば、自分の予想以上の事が起きて、その時その時には、大変だと意う事も多々有ったが、今になって考えれば、大変刺激的で、楽しめた人生だったと、思える様に成って来た。
私が、数年間関わりを持った、モラロジーの「廣池千九郎先生」の教えには「40・50は洟垂れ小僧、60歳に成ったら 少しは世の中の役に立つ事が出来るかも知れない。」と有る。
40歳や50歳では、未だ自分の事に精一杯で、世の中の役には立っていないとの理である。
事業や、商売で大成功していても、それは、物の氾濫や、地球の環境悪化に手を貸しているだけで、長期的に考えれば、地球の資源を無駄にして、人心を混乱させているだけに、過ぎないのである。
60歳代に成れば、自分の性的欲望や、食欲等も一応の沈静化を見る。
そうなれば、精神的立場が静かな処に在るので、地球の未来や、人類の在り方が正当に視えて来る。
その様な立場や、気持ちに成った時に、始めて、正しい指針が示せる様に成るのだろう。
その理を、廣池千九郎先生は説いたのでは無いだろうか。
そうであれば、ようやく私も、正しい立場で、物事の思索が出来るのかも知れない。
還暦で、真っ赤な上着を着るのは、衰え始めた心身を、赤い色を見る事で、視神経を通して脳に刺激を与え、ホルモンの分泌を促し、もう一度、若返らせ様とするものである。
旧時代なら、60歳でその行事を行っても、合っていたのかも知れないが、80歳を平均寿命とする様に成って来ている現在では、少し早すぎる様にも想える。
ようやく60歳に成って、カルマ・業が消え始め、静かな時を迎え様としているのに、赤い色を見せて、刺激する必要も無いのではないだろうか。
しかし、私も島の人間として、全国に散って暮らしている同窓生を迎える事に、協力せねばと考えている。
75名の人数が、何名集まれるのかは、未だ判らない。
時代は移り変り、人間の生活や心情は変化して来ている。
其の変化して行く事象から、人間は、何を感じ取れば良いのか、それが還暦を迎え様としている、私の課題なのかも知れない。
赤い色は見ずとも、私の内には、未だ赤い灯火が燃え残っている。
肉体が年老いるとは、有難い現象である。
何事にも行動的で、社会に迷惑をかけ、全て許されて来た過去の人生、漸く逆の立場として、私も、人々のカルマ・業を鎮魂出来る技が、身に付いて来ているのではないだろうか。
私は、もう屋久島の峰々を駆け、谷川を飛び越える体力は無い。
しかし、峰の花崗岩の上に静かに座し、平和を祈念する事は出来る。
赤き色の物に、心躍らせる年頃から、白き衣に身を包み、樹下石上が嬉しい年代と成って来ている。
年を重ねると言う事は、この様な理なのだろう。
屋久島の魅力は、深い森に、年老いた樹木が白い梢を晒し、幾千年の時の流れを現しているからである。
現代社会は、縁側で日向ぼっこをしながら「昔し昔し あるところに・・・」と、時と場所を超えた、世界の話をする年寄りが存在しない。
その為に、人間社会に、深みや遠近感が無くなったのである。
私達は、二年後に始まる、問題の団塊の世代である。
私達の年代が、一番多く社会に存在する。
その年代の人々が、未だ未だ、赤い色を見ながら、煩悩の火を燃やし続けるのか、それとも、静かな森の大樹の様に、社会に深みを与えて行けるのか、これからの課題と言えよう。
今日から、新しい島の生活が四年目と成る。
私も、この屋久島に産まれた事を喜びとしながら、自分の年輪を、確かめて行きたいと意う。
平成17年4月24日
礒邉自適
2005/4/24
シリコンチップ
17・4・24
昨夜、NHKのテレビ番組で、レーザービームの大型実験施設の事が放映されていた。
その実験施設で、使用されている部品が、小さなシリコンチップであるらしい。
私は、その件で思い当たる事がある。
と言うのは、私が21年前、屋久島の山野で修行をしている時、私が瞑想を行いエネルギーが高まってくると、岩を走っている石英の道筋を、高い電磁波が走って、岩が弾け飛んだり、草が焦げたりした事が有る。
その時は、何故、その様な事が起きるのかが理解出来ず、それが神の働きか、力だと、想ったりしていた。
しかし、其の後、様々な事を研究する内に、それは神の力だけではなく、人間が本来有している、生態的な科学反応である事が理解されて来た。
昨今、人間の脳は、電気の力で動いている事も、普通の人がみな知るところと成って来ている。
そして全ての物質も、磁気を発しているし、動物も全て、電気の力で身体を動かし、情報の処理をしているのである。
仏教で「第三の目」と言われる額の目は、シリコンチップが額の中に有り、情報の集積回路の一部の役割を果しているからである。
その「シリコンチップ(松果体)」の周波数が、宇宙の情報系のチャンネルと成るのだ。
「シリコン」は「珪素」の事であり、珪素は地球では酸素に次いで、多い物質だとされている。
そのシリコンの周波数は、石英や水晶ともチャンネルするので、第三の目とされている額のシリコン回路が働けば、水晶や石英と共鳴を起こし、宇宙の森羅万象と、情報の遣り取りが可能と成るのである。
石英は、受け取った電磁波のエネルギーを、何万倍にも増幅出来るので、人間の生体電気を、額のシリコンを通して石英の回路に送り込めば、岩が弾け飛んでも、決しておかしな事ではない。
屋久島の山は、全て花崗岩で出来ている。
花崗岩は、深成岩の一つで、石英、正長石、斜長石、雲母等を主成分として出来ている。
石英は、無水珪酸から成る鉱物で、珪酸は、珪素と酸素と水素との化合物である。
珪素の周波数を使えば、石英・水晶・花崗岩等に、アクセス可能に成るのである。古代の人達は、科学的には、その事を理解出来なくても、身体が反応するので、其の事を知っていたのであろう。
エジプトでは、ピラミッドが王の墓として造られているが、一番大事な王墓室は、遠い場所から花崗岩が運ばれて造られているし、日本の古い神社は、花崗岩の山が御神体とされている。
世界中で、花崗岩が聖なる場・物とされてもいるのだ。
古代の人達は、私と同じ体験をしていたのであろう。
現在では、その珪素の特質が生かされ、コンピューターの半導体や、太陽電池の部品が造られ、利用されている。
人間が、化学的に利用し始めている珪素だが、数10億年前から、私達の遺伝子は、珪素を上手に取り込んで、この肉体を進化させて来たのだ。
伝書鳩は、鼻の上にその珪素の塊を着けて、太陽の位置や地磁気を計りながら、遠い所からでも自宅に帰って来る。
鳩は、自分の鼻頭の塊が、珪素で出来ているとは考えてはいないだろう。
しかし、無意識の処で、その働きを生かしているのである。
人間も、鳩と殆ど変わりは無い。
自分の額の中心にシリコンの結晶が有って、それが無意識の世界で、自分をコントロールしているのだと言う理・ことに、気付かないでいるのだ。
昔の人間は、其の理に、或る程度気付いていたらしい。
額を、地面につける事を「ヌカズク」と言う。
額に、ヌカ(珪素)が有る事を知っていたのだ。
米糠のヌカは、珪素が沢山含まれている。モミガラは、90%近くが珪素で出来ているらしい。
だから、真っ白く精米された米は、珪素が0に成っていると言える。
珪素が剥ぎ取られた白米や、真っ白に精白された小麦粉で作られた、パンや麺類を食べていたのでは、伝書鳩の様には、正しく自分の持ち場へ帰れないのは当然と言える。
現代人は、自分が何者で、何処に帰る事が、原点なのかを見失っているのである。
昔の人の様に、何も無い岩山を、神の姿とは想えなく成って来ている。
花崗岩の山こそ、人が霊止(ひと)として立ち返り、遺伝子の蓄えている膨大な情報を、思い出す場所なのである。
ブッダとは、生命の情報に覚醒した者の呼び名である。
誰でも、佛を内蔵しているとの云いは、誰の内にも、遺伝情報が蓄えられていると言う事なのである。
其れを思い出すには、珪素の含まれた食物を食べて、花崗岩の山岳の、静かな場所で瞑想をしなければならない。
その場所が、神社や寺として選ばれ、現在にまで至っているのだ。
しかし、昔は山中であった所が、現在では町中に成ってしまって、清い水も流れていなければ、聖霊の住む森も無い。
その様な場所では、雑音は有っても、聖なる遺伝子の情報が蘇る事は無いのだ。
屋久島は、その意味で、最後の生命情報の砦と、成るのではないだろうか。
21年前に、私に起きた事が、皆に起きるかどうかは分からないが、私の体験を通じて、ブッダの世界を覗き見る事は、可能だろう。
私も、その為に全身全霊で、他人の目覚めの手助けを、したいと考えている。
平成17年4月24日
礒邉自適
2005/4/21
真実の証明
17・4・22
昨日21日は、空海の月命日であった。
その日に、当塾の「ひびお氏」が「真実の証明」とのメッセージを受け取った。其れは、明らかに、弘法大師空海の意に因る現象だと想われる。
私が、出雲でセミナーを始める事に成ったのも、1998年3月21日で、其の日は空海の命日であり、私のメッセージに現れる文字も、空海の書体(空海の筆)が多い。
空海は、筆の達人であり「弘法も筆の誤り」との云いは、「猿も木から落ちる」との諺と同意で、絶対的な世界を裏付けるものである。
その弘法大師空海の本意は、自分の興した「真言宗」の宗派の名に有る。
真言とは、マントラの事で、正しい真実の言葉は、宇宙の根源を動かす力を持っているとの意である。
宇宙の根源の力を有するモノが「大日如来」であり、「ビルシャナ佛」の事である。ビルシャナ(大日如来)とは、「宇宙の真理の本体」と言う意味で、この宇宙は、ビルシャナの「本体(現れの身)」であり、だから宇宙には「意」が在り、人間は、その意を「言葉(マントラ)」とする役目(ちから)を授かっていると、密教では考えるのである。
だから、私や、ひびお氏に、空海の姿を通してメッセージを送ってくるのは、ビルシャナと名付けられた、宇宙の意思であると考えられるのである。
ひびお氏に現れた、「証」の漢字は「言+正」で、正は建物を建てるのに土台の上に柱を立て、柱の上に梁を横に乗せて、柱と組み合わせ、柱が真っ直ぐ立つ様に、固定している場面の象形である。
だから証とは、言葉を真直にする、正すの意味を持っている。
その意味から、日本ではさとす。つげる。あかす。いさめる。等に使用されている。
その証の字を使い、「真実の証明」との言葉が告げられ、私が、その証の人の様に知らされて来て、ひびお氏はその件を、人々に知らせる役目の様に感じられる。
私の18年の旅や、21年間の修行の事を、理解する人は少ない。
ひびお氏は、祖父の代から宗教を研究し、本人は世界を廻って来ている。
ひびお氏は、多くを語らないが、私以上に厳しい旅を続けたのかも知れない。
私に接している事で、その苦しい旅が、悟りへの道であったと気付き、気持がほぐれ、解脱へと繋がれば、私の存在も役に立つ事に成る。
ひびお氏だけでなく、その様な人々が増える事を、祈りたい。
ひびお氏の感想文を掲載して、皆さんの参考として欲しいと願っている。
平成17年4月22日
礒邉自適

真実の証明
H17・4・21
今朝、私は、不思議な夢を見た。
夢と言うより、私の意識は、かなり覚めている中で、私の眼の中に画像が浮かんで来た、と言った方が良いのかも知れないが、一人の高僧と思しき人(弘法大師空海風)が、壁面に書が掛けてある前に座り、又本人も、何か書いている姿が眼に入って来た。
その書の掛け軸の中は、背面が赤で、字が黄金色で書かれている。
私が近づくと、その僧が此方を向いた途端、衣冠を正した武士(徳川家康風)の姿に成り、壁面に吊るした書の掛け軸の字が、かなりの速さで、色々な複数の書体と成って入れ替わり、時々スポットを当てる様に、一字を照らして行く。
その光った書体の中で、「証」の字だけは確認出来たが、その他の字は、象形文字に変わったり、絵文字に成ったり、漢字の古語に成ったりで、判読さえも難しい状況に成って、くるくると替わり、突然軸の書が「真実の証明」と成った。
ふと、人物を見ると、武士の姿は当塾、塾長の礒邉自適氏の姿に成り、私と眼が会った途端、その姿はパアーッと光になって四方へ溶けて行った。
その光の暖かさを感じていると、突然、右の上椀部の下から、手先に向けて痛みが走り、手のひらから光が猛烈な勢いで、目の前に居る人達の方へ放たれて行くところで、その画像は終わった。
しかし、手の痛みの感覚だけは、起きた後の今も残っている。
次の画面は、私はかなり高いであろう山々の中に、平たい場所の頂きがある処から四方を眺め、その周りの山々はうっそうと木の繁るジャングルの様な場所であった。
そして、その平たい場所より、下を見下ろすと、洪水と土石流の様なものの流れが、人々を飲み込んで行くところで、自分自身の身体が、余りのショックで覚醒したところで、夢か、幻覚と覚える画像は終わった。
普段、殆ど夢を見ない私が、この様な事を見たのは、一体何なのか、ここ一ヶ月タイ国より戻って来て、毎日自適氏の言葉をワープロ化する事で、宇宙の真理に触れ、人間の本質をおぼろげながら、捉えつつあるのは事実である。
それまでは、一体自分は何の為に生きているのか。今後、自分は何をなすべきなのか。常に自問の中に有り、今までは「出来れば、纏まった金を手に入れて、タイやラオス、カンボジア等に小学校を建てたい。貧しくて学校に行けない子の為に物質ではなく、心の教育が出来れば、貧困から売春に走る少年少女達も激減するのでは無いか、安易に金を稼ぐ方法(売春や人を騙す等)ではなく、自然の中で心豊かに暮らせる生き方を選んで欲しい。」と願っていた。
しかし当塾に来て、宇宙の真理を塾長の言葉で見聞きする内に、部分的な人助けより、宇宙と一体と成った人間本来の姿を、インターネットを通じて、皆に知らしめる役目こそが、人生の役目ではないだろうかと思い始めた時の、この夢と言おうか、画像を見てしまい、今後の自身の方向の一端を垣間見た想いである。
2005年4月21日
自適塾 広報 ひびお
2005/4/18
動き出した御嶽の位置
17・4・18
今日は、仲間とメッセージに出て来た山岳の峰の位置が、何処の山なのかを調べて見ると、15日に映った辺りの峰々は、屋久島の中心に在る奥岳で、宮之浦岳(1936m)栗生岳(1678m)翁岳(1860m)安房岳(1847m)の様であり、16日に映って来た峰々は、右下の石塚山(1589m)花祈岳、太忠岳(1497m)の区域の様である。
若しかしたら、もう少し麓に近いノンキ岳(1370m)まで入っていたのかもしれない。
ノンキ岳から、私の寝泊りしている事務所までは、雪岳(1256m)トイモ岳(1054m)高平岳(493m)と下れば、もう目の前に、その高平岳の峰は見える。
高平岳は、高平区の岳参りの山で、山頂には神様「一宝珠大権現」が祭られている。
山の峰々が、無線基地の様に磁気を出し合って繋がっているのなら、15日と16日に映って来た配線図の映像は、神山のネットワークと言える。
これらの事を、昔の人達は「龍神」の通り道として捉え、風水の世界で考えていた様である。
古代の中国では、峰の繋がりは「龍の背中」と表現されており、現代ではシンクロニック‐ライン等と呼ばれている。
台湾から、開聞岳まで続く南西諸島の列島は、世界でも特に長い龍の背中と言えるだろう。
その列島の中でも、屋久島は大事なポイントである事は間違いない。
屋久島の宮之浦岳(1936m)は九州一の高山で、四国の石鎚山(1982m)と剣山(1955m)を除くと、後は日本アルプスまで、それ以上の山は無い。
恐らく、花崗岩の山では、宮之浦岳が、日本で一番高いのかもしれない。
富士山は火山で溶岩の山だし、アルプスは堆積岩が隆起した山である。
花崗岩が、龍と呼ばれる地磁気の回路と成っているのなら、私には「龍の道」が見えた事に成るのだ。
花崗岩は普通の岩より2・7%比重が軽いので、水に浮かぶ氷山の様に、頭が僅かに海面上に出て来るのである。
其の事を考えると、屋久島は見えない部分が、海面に出ている部分の、30倍有ると言う事に成るのだ。
其れに、屋久島は毎年1mmずつ、今でも隆起を続けているのである。
私が、岩山の発する磁気に関して思い出すのは、21年前、日本列島縦断の旅の途中、秋田県の黒又山の麓に古代に造られている、黒又山ストーンサークルに立ち寄った時の事である。
私が、右側のストーンサークル内に入って、石を立て直し始めた時刻に、新幹線のコンピューターが故障して動かなくなり、次の朝、左のストーンサークルを立て直したら、その時間に新幹線が走り出した事を記憶している。
不思議なのは、両方の石を立て直した時、そのストーンサークルの上空に、真ん丸い雲が発生し、その青空に出来た丸い雲を見つめていると、その丸い卵形の雲が、龍の形に変化して、親の龍に成長して流れて行ったのである。
私は、其の様子から、新しい龍が目覚めて、旅立ったのだと感じた。
黒又山は、人口のピラミッドと言われる程、ピラミッド型で形の美しい山である。
ピラミッド型の山は、エネルギーの渦が、バランスよく巡るのかもしれない。
古代の人々は、そんな気の流れを知っていて、人口のピラミッドを建設し、エネルギーを自分の手で、コントロールしようと考えたのではないだろうか。
黒又山のストーンサークルは、そのエネルギーを調節出来る者がいて、真ん中の立石に手を触れ、周囲には、近隣の長(おさ)達が自分の村の石を持って来て、それぞれ地面に立て、集団で祷りをして居たのを感じた。
私も21年前、何ヶ月も掛けて、屋久島全域の湧水の場所の石を、自宅に持って帰り、家中に二つの螺旋を造った。
其の、二つの螺旋の石の回路が出来ると、不思議な現象が、度々起こる様に成ったのである。
石には、不思議な力が宿っているらしい。
古い神社の御神体は、殆どが丸い形の石である。
昔の人達には、石が神の存在に深く関わっている理・ことは、当たり前の事として受け取られていた様である。
私は、自宅に集めた石の中から、パワーの強い石を、島の峰のスポットに運んでセットして回った。
その石の仕組みが、今、働き始めているのではないだろうか。
人間が、自然と関わり合う最大の事が、石の塊である花崗岩の山との、繋がりではないだろうか。
それが、一番大事な事であれば、屋久島に昔から伝わる「岳参り」の行事は、正しい風習であり、今後も、その伝統は続けて行かなければならない。
屋久島の山々が力を発揮し、地球の未来を、安定調和するのであれば、私もそんな嬉しい事は他に無いし、自分の21年間の努力も報われる事に成る。
ともかく、何か、良い事が起きて来る様である。
平成17年4月18日
礒邉自適
2005/4/17
植木鉢の土は何処へ消えたのか
17・4・17
植木鉢に、土を一杯入れて植物を植え、数年間植え替えをしないでいると、中に入れた土が全部消えてしまい、植物の根だけが鉢中一杯に詰まっている。
鉢の中に入れた土は、何処に行ってしまったのであろうか。
その答えは、書籍などにも載っていない。
どうして、鉢中の土が全部植物の根と入れ替わってしまったのか。
その答えは、植物の根が酸を出して土を溶かして吸収し、自分の身体としてしまったからである。
自然を観ても、自然芋・自然薯は地中に伸びて行くのに、人の指先の様な形の芋の先端から酸を出して、土を溶かしながら穴を空けて行き、その穴の中に自分の栄養・澱粉を芋として留め込んで行く。
特に、自然芋や薩摩芋、ジャガ芋は「粘土(アルミと珪素の化合物)」が好きで、粘土を与えると健康に良く育つ。
それは、芋類がアルミや珪素分を好んで吸収するからであろう。
「土を食らう」との言葉も使用されているが、それが、どんな過程を経てそう成るのかは、未だ明確にはされていない。
植物に必要な物は、腐葉土だと考え、堆肥を多く投入すれば、良い食料が得られるとの、考えぐらいしかないのではないだろうか。
腐葉土が、何故、微生物の栄養と成ったり、海に流れ出てプランクトンや、海草や、貝の栄養に成るのかの研究は、未だ浅いものである。
木の葉の成分にも、やはり根で溶かされ、吸収された土(鉱物の微量要素)の成分が含まれているのだ。
その植物や、海草等を食べる事で、動物は生命・いのちを継続している。
動物が生きて行く為には、何十種類のミネラルを必要とする。
それらを皆、植物の能力に依存しているのだ。
植物は、根で鉱物を溶かし、葉では、太陽のエネルギーを利用しながら炭酸同化作用をして、無機物を有機物へと変換している。
動物は、其の植物の働きに、全部を依存していると言えるだろう。
その植物の源は、38億年前の原始微生物である。
38億年前、最初に地球に現れた微生物は、酸を利用して岩石を溶かし、其れをエネルギーとして生き始めたとされている。
其の、岩を溶かして生き始めた微生物(シアノバクテリア)が、27億年前炭酸ガスを食べ始め、酸素を吐き出して、現在の地球の環境を造り出している。
その微生物が進化し、植物となり、その植物を利用して生きる、動物を生み出して来た。
私達人類も、その生態系の一部として進化して来た生物である。
では、私達の肉体の何処に、そのシステムが残っているのだろうか。
私達の身体の、臓器の一部と成っている胃の細胞が、38億年前の微生物のプログラムを伝えている。
胃の細胞は、胃袋に入って来た材料を、酸を出して溶かす役目を担っており、十二指腸と膵臓は、その酸を中和する為に、アルカリ分を出して小腸に送る。小腸は、その溶液の中から栄養分を吸収するのである。
人間の身体の仕組みは、植物の延長線上に在るのだ。
胃の細胞は、自然芋の芋に生えている白い根と同根であり、小腸の絨毛は、落ち葉の下に広がる栄養吸収の為の、黒い根と同じ役目を果しているのである。
動物の胃腸と、植物の根のシステムは、裏返しに成っており、肺臓のガス交換と同じく、植物の葉と、人間の肺の「上葉・中葉・下葉」が、お互いに協力関係に有るのだ。
植物は、無機物を有機物に変え、動物は受粉を助けたり、種子を運んだりして、植物の繁殖を手助けしている。
動物は、一ヶ所から動けない植物の手助けとして、此の地球に生じた生物なのかも知れないのだ。
そうであれば、植物の生態を調べるしか、動物や人間の真実は見えてこない。
植木鉢の土が、何処へ消えてしまったのか。
それを知る事で、人間の存在の秘密も見えて来る。
それには、釈迦牟尼仏の訓えに有る様に、精進しながら、自然の中で、自分自身を見詰め続けて行くしか、他に道は無いのではないだろうか。
平成17年4月17日
礒邉自適
2005/4/17
養老孟司先生で想うこと
17・4・17
昨夜のテレビ番組で、養老孟司先生が出ると知ったので、スタッフと一緒に観た。
その番組に、先生が持ち込んで来たのが、変な人間像で、頭と手が特別にデカく、身体が小さい姿をしていた。
養老先生の話では、人間が脳を使用する、使用量の大きさを形に表現した物との事で、人間は、特に、背中の事には意識を殆ど使っていないので、絵の身体が小さいのだと言う。
足も、申し訳程度に付いているだけで、手の大きさとは比較にならない程小さいのである。
私は、その人間像と、先生の説明を聞いているうちに、私が21年前に、4311体もの霊魂に、身体を使われる体験させられた事が、大変重要であった事が理解されて来た。
21年前までは、私も普通の人と、其れほど変わらない生活をしていたと思う。
家族が有って、毎日金を稼ぐ為に働いて、テレビも毎日観るし、酒も毎日飲んでいたのである。
それが、36歳の時に無庵師匠に捜し出され、37歳で家族と離縁し、仕事も全部止めて、修行を始めた。
車に乗る事も止めて、素足で歩き回り、山野で生活をするので、他人との会話も全然無くなった。
時計も全部壊し、時間を忘れ、テレビも新聞も見ないので、人間社会の事が全部、頭から消え去ってしまったのだ。
喋る相手も居ないし、木の実や海草等が有っても、稀に食べるだけなので、口に神経を使う事も無いので、舌や口を使用する脳が、休んでしまったのである。手も、仕事や車の運転をしないので、手を使う神経も休んでいる。
昨夜、テレビに出た人物像と、全く反対の世界に成ったのである。
全身素裸で、素足で歩き回るので、背中を蚊や虻に刺される。
その為に、背中に意識が集中するし、素足で歩くので、足の裏が全面刺激される。
だから、脳も前頭葉ではなく、後頭葉が動き出したのである。
それらの行動は、それまで使用していた部分を休ませ、それまで休んでいた部分を刺激する、内容を持っていたのである。
私自身が、それらの知識を持っていた分けではないので、私の細胞が目覚めて働き出したのか、その様な生物のシステムを詳しく知っている精霊が、私の意識をコントロールしたかの、どちらかであろう。
ともかく、その様な修行らしき事が、半年程続いたのである。
私の肉体は、それまで取り込んでいた不純物を、皆、身体から追い出して、全身の神経が蘇生したのである。
全身の60兆個の細胞が眠りから覚めて、本来の活動を始めたのだと意われる。
人間も、本来は、自然の中で生きている動物と同じく、生物全体や、森羅万象と同様に、宇宙の一部として存在していたのだ。
私は、それを取り戻したのである。
私は、養老先生の謂う「バカの壁」を壊したのであろう。
全身全霊が、元の状態に還れば、自然と調和して、生きて行かなければならない事が、能く理解出来てくる。
そうなれば、自然破壊をする行為は止まるし、生物全体のバランスを図る様に成って行くのだ。
その理を説いたのが、インドの釈迦牟尼仏なのである。
私も釈迦と同じく、本来の人の姿に、たち還っただけなのだ。
養老先生も、インドの釈迦が何を謂っていたのかが、ブータンに行って能く理解出来たと言っている。
「全てが 脳に在る」と云う養老先生の言に、私も賛成である。
何故なら、脳こそ、生命の最先端の姿なのだから、脳を見つめる事で、生命全体の根源が視えて来るからである。
養老先生は解剖学者だから、視える物の形から、命の世界に入っているが、私は細胞が蓄えている情報に、自分の無意識の世界を利用して、接触を続けて来た。
私と、養老先生の間には、方法は違っても、生命に付いてのバカの壁は無いかもしれない。
私は最初から、養老先生の本は好きで、何冊か買っているが、一度、養老先生に直接、お会いしてみたいものである。
私は四年前、愛媛県松山市で「養老先生」の講演を聴きに行き、最前列で質問もしている。
先生の覚えている事ではないと意うが、会って見れば、何処かで、会った事が有ると思うかも知れない。
それが、脳の不思議なチカラなのだから。
平成17年4月17日
礒邉自適