2005/3/23
祖父

父
人が霊止で在る為に
17・3・23
私が、本来の「ヒト・霊宿(霊のとどまる者)」として、自覚が出来たのは1984年(S59)6月4日(旧暦5月5日)の事である。
その時に、私が気付いたのは、私に、霊魂が最初に留まったのは、その時が初めてではなく、霊魂が宿ったのは1948年の9月23日の祖父の葬式の日であり、私の記憶が鮮明に成ったのは、その時からである。
私の父(大正3年12月15日〜昭和39年10月23日)は、礒邉家の長男であり、私も又長男であるので、私は、祖父礒邉助次郎( 年 月 日〜昭和23年9月23日)に取って初孫である。
当時は、屋久島から、鹿児島市(実家は当時の谷山市磯辺)に行くには、小さな船で10数時間も掛かり、容易に行くわけにはいかなかったので、祖父が初孫を見るのは、あの世に旅立ってからの事である。
私の祖父は、私が初孫で可愛い為に、霊界に旅立つのを止めて、初めて会った私に、直ぐに憑依したのであろう。
私の意識は、当時1歳8ヶ月なので、鹿児島に着くまでの記憶は何も無いのだが、谷山の実家に着いてからの記憶が、妙にハッキリしており、帰りの船上の場面も鮮明に残っている。
私は、その時から、自分の父親に対して、意見を言うように成り、父を面食らわし始めている。
私の肉体に、祖父の霊魂が宿って居れば、私の口から、父を子供として、言葉が出るのも理解出来る事である。
その父も、私が17歳の秋に亡くなって、後の事が心配だったらしく、死んだ日から、私に憑依していて意見を伝えて来る。
その霊界の父親が、37歳の私に、霊界人を4311体も連れて、20年振りに帰って来たのである。
その時の父の言い草が、「おまえに苦労をさせたのは おまえの精神を鍛える為だった。もう大丈夫だから この人達に身体を貸しなさい。だけど 仕事とは思うな。何が有っても 遊びだ 遊びだと 思っていなさい」との、事だったのである。
父が死んだ時、私の下に四名の弟妹が在り、一番下の妹は、当時未だ5歳だったので、私が父親代わりと成ったのである。
父は鹿児島出身で、母(大正9年6月4日生まれ)は東京出身なので、屋久島には、親戚は一人もいなかったから、言葉通り、私が一家の大黒柱として、農業を営んで行かなければならなく成ったのである。
私は、17歳から37歳迄の20年間、実に、様々な体験をさせられたのである。
その体験も、自分の意志では無く、全部が、神霊や先祖の、霊魂の働きに因るモノだったと聞かされれば、何となくガックリするものがある。
しかし、37歳から57歳迄の、新たな20年間を振り返って見れば、確かに聖霊の働きが無ければ、現在の私の認識や、周囲の人脈形成も、有り得ない理・ことは、ハッキリ自覚出来ている。
是から77歳まで、新たな20年間が、どんな人生になるかは分からないが、私の先祖に取っても、神霊達に取っても、未知の領域に入って行く事には、疑いが無い。
2500年前の、時空を生きた「釈迦」や「老子」達も、当時を精一杯生きて、新しい価値観を創造している。
しかし、2500年前と、現在の人間社会や、文明や情報等には格段の差が有る。
釈迦や老子が、直接現在の世に現れても、手が出せないであろう。
その為に、私の肉体を4311体もの霊魂が借りて、様々な体験を重ねて来たのだ。
昨日は、文章を書いていると「コンテンツ」との言葉が頭に出て来た。
広辞苑で調べて見ると、contents・中身。内容。特に書籍の目次。と 載っている。
いよいよ、コンテンツを創り上げろとのメッセージであろうか。
4311体もの人達が、霊魂として存在していても、この世で肉体を持ち、手足を動かす者が居なければ、霊界人も神霊も、それこそ「手も足も出ない」のである。
今日は23日で、祖父は9月23日、父は10月23日が命日なので、両方とも本日が月命日である。
霊界人達は、自分の命日を約束事として、私の肉体を代わり番に使用している。
今朝は、午前3時に起きて、事務所でこの文章を書いている。
昨日は、「風 麦東 陶・ふうれんとう」の文字が伝えられて11年目の日であった。
3月22日は、誰の命日かと想っていたが、昨日は、NHKがラジオ放送を始めて、80年目の記念日だとニュースで伝えていた。
人間の情報が、電波に乗って80年も経つとの事である。
現在の世の中は、テレビジョンが文明文化の中心と成っている。
新しいコンテンツを組み立てるにしても、電波の存在を外しては考えられない。神の計画こそ、電波を利用した世界なのかも知れない。
インターネットに、新しいコンテンツをインプットする事が、これからの神事なのだろうか。
私が存在する事で、祖父や、父親も、霊界にて元気に活動していると考えれば、自分の孤独感も薄らぐし、何か力強く感じるものもある。
その様な事が、昔から人々に伝えられ、先祖供養の風習や、神社の創建等に成って来たのではないだろうか。
現代の学校教育では、霊の存在は古い迷信だと教えられている。
昔の教えとは、180度反対の処に有るのだ。それを改める事が、霊界からの願いなのかも知れないのである。
電波の世界も、光ファイバーの時代と成り、益々、霊界の振動波と近い物と成って来た。
無意識の世界が、有意識の世界と重なり合う日は近い。
平成17年3月23日午前4時47分
礒邉自適
2005/3/22
「風 麥東 陶」のメッセージから11年
17・3・22
本日は、1994年3月22日に「風 麥東 陶・ふうれんとう」との神のメッセージが有ってから、11年目の日である。
其の日の私の霊夢に、深い山岳の山頂に生えている、大木の枝の下に有る大石の上に、白い服を着た聖者が座って瞑想をしており、私が、その聖者の顔を覗き込んだら、その聖者は消えて、替わりに「風 麥東 陶」との漢字が映って来た。
「風 麥東 陶」の文字の意味は、「風習や 習慣を練り鍛えて 人々を導き教える」と言う意味に成る。
簡単に言えば、「未来社会を より良きものにする為に 努力をする」との事ではないだろうか。
近代社会は、相対的な物質社会は発展したが、絶対的な精神社会である、魂しいの世界が行き詰まりを見せている。
物質的な発展は、経済力は付くが、経済的発展は自然破壊を伴っているので、人心的な安らぎの場が少なくなり、神々の住む神秘的な場が、減少する事にも成る。
其れ等の問題を解決する為に、何等かの手を打ちなさいとの、神・天からのメッセージではないだろうか。
あれから11年が経ち、私は、私なりに努力を続けて来たのだが、未だ社会に私のしている事が、認められているとは言えない。
私が、神への祷りを続ける事で、全体的には間違いなく良い方向に、進んでいる事は実感しているが、それが、一般的人々に理解されているとは言い難いのである。
数日前より、自適塾で「風 麥東 陶」のホームページの作成を始めているが、急速には「コンテンツ(contents=中身。内容。特に書籍の目次)」が出来上がらない。
「風 麥東 陶」とは、法律を含め、暮らしの全般的な練り直しだから、莫大な情報量に成る事は間違いが無い。
私一人の力では、どうしようもない事は理解している。だからこその、神の願いなのであろう。
11年前よりは、世の中も随分と、考え方が変化して来ている。
其れは、世の中が行き詰まっての事だから、決して喜んではいられない事である。
地震や、津波や、天候不順等に因る災害は、益々拡大するだろう。
それは、人間に取って不幸な事でも、地球に取っては、元に戻そうとの自浄作用ではないだろうか。
人類が、自分自身で業・カルマを減じなければ、地球の自浄作用は止まらないものと考えられる。
私の言葉も、平和な世の中であれば、他人の耳には、届かないのかも知れない。
しかし、大きな天地異変が起きれば、其れは、其れで、情報の流れがストップしてしまうので、バランスが難しいと言える。
出来るだけ、平和裏に、神の計画が成功する事を、祷りたいものである。
私の存在もまた、天罰としてでは無く、神の祝福として認識されたいと意う。
「風 麥東 陶」とのテーマが完成される為には、能力の有るスタッフが沢山必要と成って来る。
そのスタッフの呼びかけの為にも、インターネットのホームページの完成を、急ぎたい。
平成17年3月22日
礒邉自適
2005/3/18
意識とは
17・3・18
本日3月18日は、私が無庵師匠に捜し出された日であり、その日から22年目の記念すべき節目の日である。
私は子供の頃より、銀色のタイムトンネルの中に魂が吸い込まれて行き、異次元への旅をしていた。其の異次元への魂の旅で、子供の頃より、師が訪ねて来るのが見えていたので、屋久島を出ずに暮らしていたのである。
そして、其の事が現実の事と成ったのが、1983年(昭和58)3月18日である。その日から20年が経った。
そして、2001年11月7日に、無庵師匠は福岡の地で亡くなった。
無庵師匠は、私の目覚めの為に、自分のエネルギーを、使い果たしたのではないだろうか。
弘法大師空海の師である「恵果和尚(746〜805)」も、空海の目覚めの為に、全エネルギーを使い切って、空海の儀式を無事に終えると、数日後には亡くなってしまったと言う。
私は、空海程の密教的実力は無いが、近代科学に因って齎(もたら)された知識は、空海よりは備えているだろう。
釈迦や、空海が知らなかった事柄が、現代社会では、随分と解明されて来ているのだ。
天眼通の超能力は無くても、人工衛星や、携帯電話の御陰で、遠くの情報が得られる様に成っている。
昔の人々には、神の御技の様な出来事に、感じられる事が沢山有る時代と成ったのである。
其れ等の、技術や知識を使用して、本当の、人類の幸福を創造すべき時を迎えている。その為に、私には、大きな役割が与えられたのだと考える。
1984年11月から、全国の旅が始まり、2002年4月24日に屋久島に帰り、新たな島での生活が始まった。
そして、今年に入って数名で事務所を構え、世界に向けて情報発信を始める事と成った。
屋久島には、自然体験が出来る「おおぞら高等学校」も新しく出来たし、今後も新しい時代に向けて、様々な事が、此の屋久島から起きて来ると想われる。
私は22年前、無庵師匠に捜し出されなければ、島で一介の事業家で終わっていただろう。
人生とは、何が起きるか分からないものだと云われるが、私も予想外の人生と成って来た。
しかし、何故か、今の人生が、本当の自分の人生なのだと、妙に実感が有る処を見ると、私は自分自身の道を、確かに歩いているのだと想う。
仲間達と、楽しく未来創造を続けて行く事が、私に与えられた役割なのだろう。
今日からまた、新しい自覚のもと、人類の未来社会の為に進んで行きたいと意う。
無庵師匠は亡くなってしまったが、無庵師匠も、弘法大師空海を始め、多くの霊界人達と伴に、私の行動を見守っていてくれるものと意う。
私は、神の喜びを、自分の喜びとして、今後の人生を、歩いて行かなければならない。
屋久島の、雄大な大自然と共に・・・・。
平成17年3月18日
礒邉自適
2005/3/5
積み上げられる叡智
17・3・5
本日3月5日は、私が玄米正食の世界に入って、丸21年目の日である。
1984年(昭和59)3月5日に、無庵師匠が家族を伴って屋久島空港に降り立った。
無庵師匠は、前の年の3月18日に屋久島を訪れ、私は其の時、数時間話し「土地を探してくれ」と頼まれた。そして、無庵師匠が気に入った土地をお世話して、自宅の建築が始まった。
無庵師匠に出会ってから一年後の3月5日に、無庵師匠は家族と共に新しい家に引っ越して来たのである。
私も、其の日から、無庵師匠の下で一緒に食事をする事になり、初めて玄米自然食の世界に入る事になったのである。無庵師匠の其の時の話では、人間の細胞は三ヶ月で全部入れ替わるので、食生活を変え、生き方を変えれば、人生は変わるとの理・ことであった。
私は、無庵師匠の教えの通りに仕事を止め、家族とも離れ、無庵師匠の訓えに従った。私の人生は、1984年3月5日・37歳の時を境に、大きく変化する事に成ったのである。
3月5日から、丁度三ヶ月目の6月4日(旧暦5月5日)に、私は安房川の岸辺で無庵師匠が見守るなか、禊ぎ祓いの儀式を行って神の世界に入り、六ヶ月後の11月半ばに車に布団や生活道具を積み込んで屋久島を離れ、全国行脚の旅に出たのである。
其れから、2002年(平成14)4月24日に、島に帰るまで、17年半の月日を旅に費やした事に成る。私は17年半もの間、全国でどれ程の数の人々に出会った事だろう。
私が、名前や顔を覚えている人達も、全国に何百人かは在るが、私の記憶には残っていなくとも、相手の方が私を覚えているのは、何千人かになると思われる。
私は屋久島生まれなので、出身地を名乗ると、屋久島の縄文杉との連想で、相手の記憶に残り易いのである。それと、私は誰彼となく神仏の事を話すので、相手の記憶にも残り易い様である。
私の、ここ数年の文章を取り出して読んで見ると、出会った人達とは月日の隔たりは有るが、社会全体が私の念いと共に変化して来ているし、皆が同じ流れの中で生きているので、私の伝えた事を認識出来る様に成って来ていると想われる。
現在では、無意識の世界には、共通意識(総合無意識)が通じていると考えられており、その例として101匹の猿の現象が有名になった。
全ての切掛けは、最初の一匹から始まり、それを手本として、新しい現象が拡がり、全世界が変化するとの考え方である。
其の猿の話は、見ている人は限られているのに、皆が、その事を事実だと想っているのは、情報が大量に流されたからであろう。
私が、無庵師匠の指導に因り、神と聖霊を四次元世界から三次元世界に通じさせる事に成功し、無意識の世界に、新しい概念を創出した事は、間違い無い事実である。
その証拠は、私と出会った事で、人生が変化した方達が何人もいるので、証明する事は可能である。
私が、是まで関係して来た事も、猿の世界と同じく、無意識の世界を通じて起きた事だから、情報が正しく大量に流されれば、信じる人間も、是から沢山現れるであろう。
現に、桜沢如一氏から始まった玄米自然食の世界は「マクロビオティック」として世界に大きな拡がりと成って、新しいライフスタイルとして定着している。
私も、その桜沢如一氏の世界に触れて、21年が過ぎた事になる。
桜沢如一氏が始めた、新生活のスタイルは、世界に拡がるのに数十年を要したが、現在はインターネット社会である。
釈迦や、イエスや、老子が説明したかった世界が、コンピューターグラフィックの技術で、容易に視覚化出来る時代と成っている。私の体験も、漫画やコンピューターの映像で、たやすく理解して貰える様に成るだろう。
私が目覚めるのには、無庵師匠の偉大なるパワーが必要であった。私が、私(吾・神の言葉を護るとの意味)に成る為には、無庵師匠の認識力と神通力が無ければ無理であった。
無庵師匠の認識力の為には、過去の偉大な人達の、体験に因る認識が土台と成っていなければ成らなかった。
私の現在の認識の力も、無庵師匠や過去の偉大なる人達の、成果に因るものである。私もまた、後世の人の為の、石垣の一個と成るべき存在なのである。
その様にして、無意識の世界の、偉大なる魂は積み上がって来ているのである。新しい魂の城は、完成に向けて着実に無意識の世界に築かれている事だろう。
その城の、建築の要員に選ばれる為には、日本の伝統の「食国の政(おすくにのまつりごと)」の儀式である、新嘗祭の真理を正しく学習しなければならない。
その為の第一歩が、私にとっては1984年3月5日だったのである。私の魂が、水晶の世界に同化して、チャンネルが立ち上がって21年が過ぎたのである。古代の叡智が蘇る日は近い。
平成17年3月5日
礒邉自適
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