2005/1/30
今年の黄櫨
17・1・30
今年の黄櫨・はぜの木は、特別に赤い。
例年では、黄櫨は静かに眠っている季節、1月の末に成って、屋久島は到る所真っ赤な黄櫨の紅葉で、目を奪われてしまう。
その原因は、昨夏の台風の影響だ。
昨夏の台風18号は、雨が降らず、荒れた海から強風が運ぶ塩分が、島の木々を塩漬けにしてしまい 、海岸から数km内の山の木々は、葉を落とし、葉を落とさない杉や松の木は、茶色く枯れ上がってしまった。
そして、10月には、山中の木々に新芽が吹き出て、まるで4月から5月の新緑の季節と同じ様に、山の全面若葉が生い茂った。
初夏の山と違うのは、所々針葉樹である、杉や松の木が茶色に変色して、存在する事である。
秋芽を出す植物の性質が、秋なのに、春のシステムを目覚めさせたのである。
その為に、島中の桜が、秋に開花してしまった。
今年の春に咲く為の、桜の花の蕾は、短い秋の間に、再準備出来たのであろうか。
例年なら、12月中に雪が降り始め、岳から吹き降ろす冷たい風で、赤く色付いた葉は落ちてしまうのだが、今年は、岳に雪が積んだのは1月に成ってからで、ようやく中旬から、黄櫨の葉は赤く色付き始めた。
例年よりは、1〜2ヶ月遅れて紅葉した事になる。
今年の自然現象から、何か、私が学ぶべきモノが有るのだろうか。
例年通り、初夏に出揃った木々の葉が、台風で吹き飛んだり塩分で枯れたりして、10月にもう一度、山中の木々が新緑を迎えた。
そんな現象は、何十年に一回の現象だろう。
その現象を参考にするとすれば、人間社会の戦争や革命が、台風に例えられ、それ迄の体制が壊されて、新しい仕組みが出来る事に似ている。
日本と西ドイツが、第二次世界大戦の後、著しい経済成長を見せたのは、戦に負けて0からの出発が出来たからである。
しかし、戦後60年が経過して、日本もドイツも、嘗ての勢いが見られなく成って来た。
今年の黄櫨の紅葉と同じで、盛りを過ぎて、後は落ちて行くしか無いのだろうか。
日本は、政治や経済もさる事ながら、教育が最悪の状態に成りつつある。
政治家や、大手の商社等の不祥事は、人心の荒廃が原因である。
教育が立て直されない限り、根本の処の問題は解決されないであろう。
栄枯盛衰は世の常である。
人間社会ばかりでなく、地球上の生命も、その法則どおりに存在し、その法則に則って進化を続けて来た。
地球の、生命活動の大きな展開の内で、人類の盛衰も繰り返されている。
現在の地球の状勢を見ていると、何か大きな、転換が来そうな感がある。
「満ちたら 欠る」の諺の通り、張りすぎた糸が切れる時が、近付いている気配が有る。
自然の黄櫨の木は、葉は落ちても、必ず、春には芽を出すが、果たして、人間のそれはどうであろうか。
平成17年1月30日
礒邉自適
2005/1/28
57歳最後の日
17・1・28
「岳に雪 里には赤い 櫨紅葉」
昨年の台風の影響で、一斉に芽吹いた黄櫨・はぜの若葉が、ようやく寒波を受けて真っ赤に色づいて来た。
今年ほど、鮮明な赤い櫨の紅葉を見た記憶が無い。
それは、若い元気な葉が、寒に触れて反応したからだろう。
それとも、私の気持ちが、自然の色合いを、楽しむ余裕を持って来たから、そう感じるのだろうか。
私は、明日で満58歳と成る。
昔は数え歳だから、還暦を迎える年齢ではないだろうか。
自分の、58年間の人生を振り返って見ると、多くの変化を求めながら、生き続けて来たものだと思う。
両親が、屋久島の安房川の岸辺に、艀・はしけから降り立ったのは、昭和21年8月3日(旧暦7月7日)なので、其れから58年6ヶ月が経過している。
母親は、長男である私を頭に、5人の子供をもうけて、現在4名が健在で、計16名の孫が出来ている。
父親は、一人の子供の結婚も見ぬまま、49歳の若さで、この世を去ってしまった。それから、40年が経ってしまっている。
当時17歳だった私は、父親から、是と謂った訓えを受けないまま、父の跡を継いで、此処迄生きて来た。
私の生き方を、いま振り返って見ると、不思議な程、父の生き方を真似ている様に想える。
否、父以上に、父らしい生き方を貫いて、生きて居るのかも知れない。
私の父親は、家族の食物が無くなりそうでも、他の人々に分け与えていた。
しかし、それでも家族を養う為に、最低の安全は確保していたと思う。
しかし、此の私は、自分の家族までも犠牲にして、20年間を過ごして来た。それは、そうしなければ、家族の未来も、人類の未来も無い事を、神に知らされたからである。
37歳から、この身一つで未来社会の創造の為に働いて来た。
その成果が、どれ程のものであったかは、私自身が知っているだけで、誰一人其の全容を理解する者はいない。
部分的には、私と係りを持った人々は、その時点、その時点で、感じ取る事が出来たかも知れないが、20年間の動きの全体像は、見えていないだろう。
神々が、私に、何をさせようとして来たのか。
是迄の20年間の歩みの中から、私自身が、感じ取らなければならないのだ。
私は、屋久島に帰って4月24日で丸三年と成る。
其の頃には、今回私が関った、新しい通信教育の高等学校も、開校の運びと成るだろう。
そして、20年前の遣り残して居た事柄も解決して、新たな、私の人生が始まるのではないだろうか。
此れから始まる出来事が、プログラム的に私から始まる事なのか、父親「礒邉勲」の人生から始まっていた事なのかは、定かではないが、何か、目に視えない一本の糸の様なものが繋がっていて、全ての物事を、運んでいる様な感じがする。
それを、神の働きと呼ぶのであれば、確かに、神の働きは存在しているのだ。
全国を旅していて、私が出会った長老の方々は、何人も、私が現れる事を知っていて、喜んでくれた。
私の事を理解出来る人達は、相当な見識が有る人格者であった。その人達の多くは、現在この世にいない。
しかし、私の感じでは、その長老達の考えや意念と、同じ方向を持った人達が、増えて来ている。
其れは、全体的な想念の世界が、レベルアップして来ているからではないだろうか。
20年前に、私を理解して下さった長老達と、同じレベルの人達が、増えてくれば、自ずと、私の意見も、拡がり始めるのかもしれない。
幸い、数名の人が、正月から自適塾開講の準備を始めて下さっている。
其れ等の準備が出来上がれば、一気に、神の計画が動き出すのではないだろうか。
私は、唯 神の存在の証明だけを、頭に置いて居れば、よいのだろう。
深い緑の中の、赤い櫨を還暦の衣として。
平成17年1月28日
礒邉自適
2005/1/21
神は未来を創造する者にしか憑かない
17・1・21
私の、21年間の体験から謂える事は「神霊は 未来を創造する者達にしか 憑かない」との事である。
と謂うのは、神霊が、人間界に働きかけをして来るのは、自分の遣り残した事の続きを、行いたいと意っているからである。
神社で唱える祝詞にも、自分の我を祓い清めれば、「神霊の思頼・みたまのふゆ」が来る、と書いてあるのも、その為であるし、日蓮宗の「南妙法蓮華経を唱えれば 守護霊が皆加護する」と言うのも、それと同じ意味である。
毎日の生活の為に、お金や、財産の事だけを考えている人には、神霊の思頼は遣って来ないのである。
昔の事を、研究している人達でも、其れが、未来の創造に繋がるものであれば、何等かの守護が有るかも知れないが、其れが、宝捜しの様な、人間個人の欲望の為ならば、神霊の協力は得られないであろう。
神霊ではなくても、先祖の霊魂が子孫に、何等かの働きかけをして来る事は、昔から信じられているので、家の中に仏壇を設けたり、お墓を建てたりして、祖先の霊をお祭りするのである。
自分の先祖霊だけでなく、「氏神様」と言う、自分の部族全体の祖先を祭る神社や、日本の一番古い氏神様として、天皇家のご先祖である「天照大神」をお祭りする事も続けられている。
其れらの事も、全て、人類の平和や安泰を願っての事である。
しかし、現在の世界の状況を見ると、神霊の働きが、正しく、此の人間世界に行き渡っていない様に想われる。
其れは、民衆が自分の宗教や、国家の都合に因る処の争いに巻き込まれて、神霊の思いや、頼みに耳を傾ける人々が居なくなり、平和な未来を創造する者達が、活動出来なく成っているからであろう。
数少ない人々が、何とか、現状を変えたいと活動を続けているが、何しろ現代社会は、世界がグローバル化しており、狭い地域の一部の出来事は、広い世界に伝わり難い状況である。
その為に、神霊界も努力を続けてはいるのだが、その結果が表に現われ難く成っているのだ。
急激に変化が起きれば、人間社会が動揺を来たすであろうし、目立たない穏やかな動きであれば、人々の気を引く事も出来ない。
それらの事柄を考えると、変化が急激に起きても、人々の動揺が少ない動きを、起こさなければならない。
では、その様な動きとは、どの様なものであろうか。
昔は、軍隊を連れて、自分の意見に従わない者の首を刎ねて廻れば、社会を変化する事も出来たし、昔の神霊は、其れを許してもいただろう。
しかし、現代社会は情報社会であり、その様な事は、一朝で世界中に知らされてしまい、敵は生じても、平和な社会を創造する事には繋がらない。
それは、現在のアメリカの姿を見れば、理解出来る事である。
現在・いまのイラク国に対する、アメリカ国の遣り方では、世界の民は付いて行かないのは、皆の知る処である。
アメリカやイギリスの兵隊が、イラクの人達に加えた虐待の現場写真が、インターネットで、世界中に知らされてしまった。
もう暴力に頼って、変化を求める事は、出来ない世の中と成って来ている。
その様な、暴力的な方法に拠る変化は、神霊も求めていないし、それに対して、協力もしないであろう。
若し、その様な事に対して、神霊の加護が有るとすれば、それは邪悪な霊であって、その様な霊には、神の許しは無いはずである。
神霊の働きを助けている宇宙根本霊は、地球の調和と生命の尊厳だけを、第一と念じているのである。
火山の噴火や、地震等は、地球の自然な活動であるし、天候の良し悪しも、人間の都合に因る価値判断である。
それらの現象が、人間にとって災いと成るのは、その人々が、神霊との結び付きが、余り良くないからであろう。
宇宙根本霊の為に、役に立つ働きをする者には、高級神霊が導き手と成って、協力をするはずである。その為の精進であり、修行である。
日本の伝統である「惟神の道・かんながらのみち」とは、自分の個我的自意識の活動を止めて、宇宙根本霊の働きに身を任せ、自由に生きて行く事である。それが、「サマディ・三昧」であり「自然法爾・じねんほうに」の世界である。
サマディとか、自然法爾の生き方は、宇宙の意識変化に自分が合わさって、生きて行く事である。
その様な生き方をする者が、新しい世の中の創造のエネルギーを、生み出すのである。
老子の謂う「道・タオ」や、釈迦の言った「法・ダルマ」とは、私達が人間として、この地球に存在する為の唯一の概念なのだ。
タオやダルマの道を実行する者こそ、神霊の働きが地上に現出する為の、扇の要と成る存在なのだ。
その者を捜し出し、共に歩く事こそ、新しい未来を創出する事に繋がるのである。
平成17年1月21日
礒邉自適
2005/1/13
若い巫女さんとの出会い
17・1・13
私は、昨年11月13日の午後、屋久島の真北に飛び出している矢筈岬に有る八幡神社で、ある女性に出会った。
矢筈八幡神社は、岬の西側の岸壁に、波の力で出来た洞窟の中に、社が造られている。
駐車場から下って、波打ち際に有る細い道を歩いて行くと赤い鳥居が有り、階段を四、五段上がると、奥に向って8畳敷き程の細長い拝殿が有り、更に拝殿から10mくらい奥に、お社が建てられている。
お社は、屋根が洞窟の上部に着く程なので、洞のギリギリ奥に有る事になる。社の中に祭られて有る御神体は、高さ1メートル程で幅20センチメートル程の棒板石で、古びた白い木綿の布で巻かれてある。
更に、其のお社の裏に回りこむと、昼でも暗い岩の割れ目が続いている。
私が行ったその日には、その行き止まりの中に、数本の蝋燭の灯りが見えた。私は不思議に意って、灯りの所を良く視ると、白い服を着た巫女姿の女性が、たった一人でお経を唱えている。
年齢は30歳代で、長い黒髪が腰まで伸びて、額には水晶の玉が光り、頭には紐が巻かれてある。其れは、とても現実的ではない。
その様子は、私も初めて見る世界で、しばらく声も出ないで見詰めていた。
しばらくして、その女性の祈りが終わり、洞窟から外に出て来たので、拝殿の中に座り、其の女性がガスコンロで沸かした、コーヒーを飲みながら話した。
年齢は、11月22日で34歳に成るとのこと。
京都の出身で、現在は東京に一人で住んで居て、生命判断や人生相談をしながら生活しており、巫女の資格を取る為の勉強もしていると言う。
京都の生家が、山岳密教の古いお寺で、子供の頃より山岳密教の世界に触れながら育って来たらしいのだ。
屋久島には、4年前から毎年来ていて、島に着いたら、直ぐに食糧を買って山に入るとの事。
今回も、奥岳に寝袋を持って入り、数日を山奥に篭ってから、里に下りて来て、矢筈神社で数日が経つとの事であった。
毎回、島に到着したら直ぐ入山するので、里の方は見学もしていないし、矢筈神社の宮司を兼ねている、宮之浦の益救神社の「大牟田宮司」の他には、余り知人も出来ていないとの事であるので、修業目的だけで、屋久島に来ているのだと解った。
私が「女性一人で 奥岳に篭って怖くないですか?」と問うと、平気だとの事。
私も20年前、一人で数ヶ月間、山野にて修行したが、最初の頃は、恐怖が少し有ったから、暗闇の中での一人の孤独感は、他人には伝えられないものが有るのを知っている。
だから、彼女の行動と言うか心構えには、少し驚いた。
私も、修業中に、石塚山等で神のメッセージを受けたので、「山の神」の話と成った。
すると彼女は、花之江河の池で、長い髪を洗う女性も見たし、翁岳には「時間・とき」に付いて、うるさく言う、年輩男性の神様が居て、高塚小屋から、竜王の滝に行く途中では、若い男の霊が話し掛けて来ると言う。
それらの話を聞いて居たら、彼女を屋久島の真南に、連れて行きたい気持ちに成ったので、地図を広げ「矢筈岬は 島の真北に位置するので 先ず真南の平内から 祈り始めた方が良いのではないですか」と勧め、彼女が了解したので、平内に案内する事と成った。
永田方向から島を巡り、平内に行って、安房経由で矢筈岬に帰るコースで出発した。彼女には、初めての島内一周である。
西部林道を通って、大川の滝を見学して、平内の学校の敷地に着いた。
そして、敷地から見える七子岳1488m、烏帽子岳1614m、破沙岳1259mの三岳に向かって、両手を合わせると、私の、両手の10本の指全部が、電流が通じるみたいにビリビリとして来た。
私は修行を積んでからは、大事な場所や、大事な話が出た時に、指が電気に触れた様に成り、痛むので、その現象が現れた時には、神霊の存在を身近に感じるのである。
その時は、10本の指に反応が起きたので、三岳の山頂を超えて奥岳の神々も、喜んでいるのだと想った。
平内の三岳とは、右側に見える岩の山頂が「破沙岳」で、中央が「烏帽子岳」左側に見えるのが「七五岳」である。
私は、永田の村から見える、「永田岳1688m」の眺めも好きだが、平内の三岳の岩の山頂にも、惹かれるものが有る。
屋久島では、古くから「岳参り」と呼ぶ行事が有り、各村々の代表が、その村に近い前岳の神様に、春と秋の二回参拝に登っていた。
現在では18有る村の4、5ヶ所にしか、その行事は残っていない。
それも、秋の岳参りだけに、成ってしまっている。
私に、20年前に起きた現象や、彼女が奥岳で体験した事を考えると、神々が、山岳に住んでいる事は、間違い無い様である。
そうであれば、屋久島の奥岳に住む神々は、現在の人類の有り様に、心を痛めているのではないだろうか。
私が気に成っているのは、奈良に保管されている古文書に、西暦616年春三月に3名、五月に7名、七月に20名の計30名の「夜玖の人」が都に来て、そのまま帰らずに皆、奈良の都で亡くなった。と、記録が残っている件である。
屋久島の山岳は1000m以上の峰が、30座近く有ると云う。
その山々に、神々が住んでいて、人類の進歩を願っていたのであれば、30座の山の神が、30名の人達の肉体を借りて、奈良の都に上ったのではないか。
そして、その神霊の影響で、29年後の645年夏の「大化の改新」が起きたのではないかと、私は想ってしまうのである。
私の考えでは、1389年前に屋久島を出て行った神々が、再び、屋久島に帰りつつあるのではないかと意う。
その現われとして、様々な人達が島外から来て、島に住み始めているのではないだろうか。
島内には、これと言った職種が少ない。
そんな島に来て、生活を続けるには、何等かの能力が無ければ、長続きはしないと想われる。
昔の様に、島の山岳の神秘性が取り戻せるのなら、こんな嬉しい事はない。
今回、出会った若い女性が、一人で奥山に篭り始めたとの事は、何か、新しい時代の幕開けを感じてしまう自分がある。
彼女が、また今年も来島し、山々の神々が、彼女を優しく迎え入れてくれる事を祈りたい。
平成17年1月13日
礒邉自適
2005/1/10
意識の後に 魂はあるく
17・1・10
昨夜、瞑想をしていると、意識が前・さきに進み、魂しいは後方の高い所を、付いて進んでいるのが見えて来た。
このイメージで、私達が知識をいくら積んでも、魂しいのレベルが高く成らない理由が、理解出来る。
「気狂いに 刃物」の言葉が有るように、魂しいのレベルが低い人に、知識を与えると、マイナス効果に成る事は多々有る。
意識とは、知識の他に「視・聴・嗅・味・触」の五感の体験に因っても、積み上げられて行くものである。
「知識」と「五感」の働きに因って、心・こころが生じているのだ。
日本語の「こころ」とは、「コロコロ変化するもの」との意味であるから、知識と五感の働きに因って、心・意識は、千差万別に変化すると言えるだろう。
其の、コロコロ変化する意識を、どのように安定させるかが、昔から、人間の悩みと成って来たのだ。
人間は、お守りを身に付けたり、仏壇や神棚に、線香や蝋燭や、お札等の物品を設置したりする。
其の、毎日同じ所に、同じ様に、変化せずに存在する物品を、自分の意識の対象物として、心を安定させて来たのだ。
しかし、インドの釈迦牟尼仏、は、その様にしていても真理を悟る事が出来ないから、物品やお札から意識を離し、自分の内側に視線を向けなさいと謂っている。
法華経の中にも、その理を十二縁起として説いている。
「人間は 行くことで 五感が刺激され 意識が変化し続け 定まらないから 行く事を止めなさい。」と、訓えているのだ。
「法華経の12因縁起」http://wave.ap.teacup.com/20060106/
意識が静止して、自分の内側の働きが視えた時に、始めて、自分の本性が見えて来る。
その本性の働きこそ、「魂しい」と呼べるものである。
魂は「玉しい」だから、丸い球と成って動かないものである。
だから、魂が大きいか、小さいかの、大きさの差に言葉が成っている。
其れに、知識は「多い」か「少ない」かで、心は「弱い」か「強い」かの差の言葉と成っている。
心の漢字は、心臓の形そのままが、象形と成っている文字であるので、昔の人は、五感が強い刺激を受けた時に、心臓がドキドキと脈打つので、意識のセンターが心臓に有ると、考えたのであろう。
魂しいが、大きくしっかりとしている者は、少々の事では、心臓がドキドキする事はない。
其の様に成る為には、多くの体験を積んで、情報が豊富で、骨太でなければならない。
それが、修業の言葉の意味だろう。
魂しいは、自分一世代の修業だけではなく、自分の先祖や、古代の聖人達の努力に因って、積み重ねられ出来上がって来てもいる。
自分の魂が、大きく成りレベルアップをすれば、古代の聖人達の霊魂と、合流する事も出来るのだ。
そう成れなくても、自分の代で努力を積んで、子孫の為の守護霊と成れば、何代目か後には、聖人達の魂と合流が出来る。
私が、昨夜、視覚化出来た世界は、大きな魂が、後方の上に存在し、私の意識が行じる道筋を、視ていたのであろう。
それは、自分の行動を、客観的に後方から見ていると、説明した方が良いだろうか。
自分の意識行動を、客観的に視られる様に成る事が、釈迦の勧めた、生き方なのかも知れない。
中国の荘子の言葉に「至人」と有り、「道を修めて その極致に達した人は、どんな場に自分を置いても、其処の人々と交わる事が出来る。而(しか)も、どんな行動をとっていても、真なる自分は、決して失う事が無い」と、荘子は謂っている。
それは、どんな場で、どんな人と行動を共にしても、何時も自分を客観的に見ていて、真の自分に覚醒しているとの理だろう。
「自分の癖を知っていて コントロール出来るのが大人で 自分の癖に気付けない人は 大人ではない」との言葉も有る。
自分の意識の動きを、見詰めながら生きること。
その為には、自分の魂しいを、大きくしっかりしたものに、完成しなければならない様だ。
その為にこそ、神佛の世界が有るのだ。
先祖の霊や、仏壇と神棚をいくら拝んでも、其れは、先祖の霊や佛の供養には成っても、自分の魂の達成には、直接には繋がらない。
魂しいが、宇宙意識に達する事が出来れば、人類以外の生物の魂も命のシステムも、視えて来る。
私達の意識の始まりは、38億年前の、微生物の時代までへも遡る事が出来る。最初の微生物は、酸を出して岩石を溶かし、其れをエネルギーとして取り込んで、生きていたとの事である。
其のシステムは、草木の毛細根の細胞や、人類や動物の胃袋の細胞の働きとして、現在でも継続しているし、空気(ガス)を取り込み始めた微生物のシステムは、植物の葉や、動物の肺臓の細胞として残って来ている。
私達の肉体の中には、38億年前の細胞の働きが、遺伝作用として、今でも働き続けているのである。
そのシステムが、私達を動かしているのだ。
餌を捜して、食べながら成長し、交尾をして子孫を残す。
その働きは、植物も動物も皆同じである。
その働きが、生きとし生けるもの全ての意識を動かし、生命を繋いでいるのである。
人間は、大脳が発達し、自分の行動を、客観的にイメージする事が出来る様に成った。その、客観的な意識の世界が、魂しいと呼んでいる世界であろう。
人類が、ゴリラ類から650万年前に分離して、言葉を持ち、意識を組み立て始めたのは、頭蓋骨の様子から240万年程に成るとの事。
だから、私達が、神や霊として認識を持てる様に成ったのは、240万年前からだろうか。
人間以外の、他の生物には、神や霊の認識は無いだろう。
だが、其れでも、人間よりは、自然災害等をキャッチする能力を持っている。
生物を存在せしめている働きには、未だ、人間に解明されていない世界が存在する。
私達の行動を、後の方から見詰めている目には、未だ、私にも不可解な部分が有る。
昔の人達も、「謂」と言う漢字が示す様に、食物の情報(いのち)から、自分を深く知ろうとの意いが有った様である。
38億年前から、生き続けている胃の細胞から、情報を得る為に、現在でも皇室や物部神社では、食物の神と共食する儀式「新嘗祭」が御饌殿で行われている。
天皇や、神主が、その理・ことわりを、正しく知っているのか、訊いて見たいものである。
私の後方の魂しいには、何人もの、天皇霊が影響している様である。
本来の「新嘗祭」の真実が、皆に理解される日は、近いのであろう。
平成17年1月10日
礒邉自適
2005/1/5
拾い集めた分子構造
17・1・5
今朝は、頭の中に「拾い集めた 分子構造」との言葉が出て来た。
これは、簡単に解釈すると「現代の科学は 宇宙の一部分だけを拾い出して、その物の成り立ちを解釈しているに過ぎない」との意味ではないだろうか。
広辞苑で「分子」を引いてみると、(MOLECULE) 原子の結合体で、物質が、その化学的性質を保って存在しうる、最小の構成単位とみなされるもの、高分子のように数千から数万の原子から成るものもある。
「構造」は
@ いくつかの材料を組み合わせてこしらえたもの。また、そのしくみ。くみたて。
A 全体を構成する諸要素の、互いの対立や矛盾、また依存の関係等の総称。と載っている。
私には、化学の世界は良く分からないが、観念的には科学として、物の世界を科り知ろうとする能力は有ると自覚している。ノーベル化学賞を貰った「福井謙一氏・奈良県生まれ(1918〜1998)」の謂っていた一言が、私の記憶に残っている。
「私は 無限のこの宇宙のたった一部を 覗かせて貰ったに過ぎない」その福井先生の一言で、宇宙の構造は人間にはとても計り知れない現象(もの)である、と自覚されたのである。
仏教の一派の真宗では、「南無阿弥陀佛」と唱えるが、その意味は、帰依しますアミダ(無量壽・無量光)へとの理であるから、「人智では計り知れないモノに自分の全生命を帰依します」との事であるので、福井先生の理と通じる世界が有る。
仏教の語に「色即是空・空即是色」と般若心経に有るが、是は色(しき)とは、現象界の物質的存在の事で、そこには、固定的実体が無く、空(くう)である。
又 空である事によって、初めて現象界の万物が成り立つという事であるので、色と空の間に、原子や分子の世界が有る事に成り、我々人間の思考は昔から、無の宇宙空間の内に、有が何故に生じるのかに向かっていたようである。
私自身も、中学1年の理科の時間だったと思うのだが、先生に「この世に有る物は 皆 目に見えない分子が集って 出来ているのだ」と教えられ、学校の帰り道に、麦畑の中に入って、麦を押し倒して、その上に仰向けに寝転んで、青空を背景に実る麦穂を見ながら、「この麦の穂も 葉も 土も 皆目に見えないモノが組み合わさって出来ているのか」と、感激を覚えた事が有った。
その時の体験が、大人に成って色即是空・空即是色の話を聞いた時に、妙に納得する事が出来た要因だったかも知れない。
「色即是空・空即是色」が、言葉の上で理解出来ても、それを実際に体験し実感を持つ事が出来たのは、38歳の時だから、分子の理を聞いてから25年も後になってからである。
それから、又20年が経過し、もうすぐ58歳と成る。
58歳の年齢を迎え、漸く、人間が認識出来る世界は、末だまだ、宇宙の成り合いの一部である事が理解されて来ただけである。
私達人間は、自分の肉体の仕組みは漸く理解されて来たが、其れが、何故その様に有って、日夜働いているのかは把握出来ないで居る。
末だまだ「無量壽・無量光」の世界を、卒業出来ないでいるのだ。
それが、親鸞上人の言う「自然法雨」の世界ではないだろうか。
一個の分子構造や、生物の遺伝子の仕組みを視覚化出来ても、その働きや、宇宙の謎を解き明かした事には成らない。
医学が進んで、医者の数が増えても、病気や病人は増えるばかりである。
私達は、もっと謙虚に成って、自分の存在の奇蹟に、立ち向かって行かなければならないのだろう。
自分達に都合の良い、分子構造だけを拾い出さない為にも・・。
平成17年1月5日
礒邉自適
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