2004/11/26
自分
16・11・26
私が、興味を覚えて居たのは、自分の事だけだった様に想えて来た。
私は、他人の為に生きて来たのではなく、自分の為にだけ生きて来ている。
其れが分かるのは、私の気持ちが、お金とか権力とかに向かっているのではなく、何かを知りたいだけで動いて来ているからだ。
その「何か」が、自分の存在理由だったのだ。
其の理が知りたくて、二度も結婚をしたり、仕事も幾つも替えたりして来た。
私は、37歳の時に、全ての三次元的活動を止めて、神の世界に入った。
神の世界とは、自分が、神の世界に関わって行く事で、起きて来る現象の事である。
神社に出かけて、お願いをするのが、神の世界だと思われているが、其れは神の世界ではなく、三次元の事を、神に押し付ける行為だ。
其れは、人間事の世界であり、神の世界とは言わない。
神の世界とは、三次元の人間社会を全部棄て去って、自分の心身を、神の世界に差し出して、自分の身を神の宮代とする事である。
其の世界で、ようやく人間とは、何なのかが見えて来る。
人間の身体は、現世の人間だけのものではなく、神や神霊の物でもあるのだ。自分の身体を、自分の事に使う事を全部止めると、100%神霊が代りに身体を使用する様に成るのである。
そして初めて、人間が何の為に、この世に存在するのかが、理解出来て来る。
私は、1984年6月4日(旧暦5月5日)に、4311体の神霊の「御霊の思頼・みたまのふゆ」を受けて、此の神の世界に入り、神霊達に自分の体を貸して来た。
其れから20年が経過して、ようやく元の自分に、返った様な気持ちがしている。
そして、自分の人生を振り返って見ると、私は、自分の事だけにしか興味が無くて、今日迄生きて来た事に気付いた。
妻や、子供や、友達、其れに仕事や社会をも、全て、自分の事を理解する為に利用して来たのである。
自分に関係が有った人達に対して、大変申し分け無い気持ちもするが、私が「人間とは 何なのか」の答を出す事が出来れば、其の人達の中にも、私の努力を認めてくれる人が、現れるかも知れない。
釈迦や、老子以後、何人の人が「自分とは 何者なのか」の答を出したのであろうか。
殆どの人が、日常の生活に追われて、自分の存在理由を理解しないまま、死んで行く。
それでは、この宇宙が、存在する意味を失ってしまうのだ。
人間は、宇宙の意志が働いた結果として、存在して居るものである。
其の理に目覚めた者が、未来の宇宙を、支えて行くのである。
私が求めて来たものは、自分の真実の働きだったのである。
其れは、人間を救うとかの話しではなく、宇宙が何故、存在するのかの、自然律を求めてのことだったのだ。
自然律とは、雌が在り、其の働きを助ける為に雄が創り出され、雌は身体の情報を、雄は、魂の情報を繋いで来ているのである。
其のシステムは、宇宙が存在する限り、継続する一番確かな現象である。
私は、惟、その自然律を護って、歩いて行けば良いのだ。
女性は、其の為の唯一の存在であり、私の存在も働きも、女性が存在しなければ止まってしまうだろう。
神は、私を、お金や権力から護りながら、女性の存在を、私の意識の対象として使い、私の人生を組み立てて来ている。
其の事は、当の本人は、何も気付く事は無くても、是からも、永遠に続いて行くのだろう。
マリア自身が、どうしてイエスを産んだのか、理解出来なかった様に。
平成16年11月26日
礒邉自適

2004/11/13
霊界の企画書
16・11・13
今朝のメッセージの映像には、畳よりも大きな紙一枚に、小さな文字でビッシリと、文字が横書きに書かれ、線も引かれているのが映って来た。
その一項目の意味は、定かではないが、これから始まる神事の、様々な内容が順序立てて、計画的に書かれていたのだろう。
それから、年配の小柄の男性の顔が、目の前にハッキリと迫って来て視えた。私は、その顔から想像出来るのは、知恵の神と伝えられている「少彦名命」である。
「少彦名命・すくなひこのみこと」とは、「大国主の命」が出雲の国(島根県)の国造りを行った時に、出雲に現れ、大国主の命に知恵を授けた神だとされている。
いよいよ、新しい国造りが始まるのだろうか。
今度の国造りは、大国主命の時の出雲一国の国造りでは無く、神武天皇の大和(奈良県)の国造りでも無く、明治維新の日本国の国造りでも無い、世界維新の国造りなのである。
私は20年前、屋久島で神界からその件(こと)を頼まれて、全国の旅に出発した。そして判明した事は、その事は私から始まったのでは無く、それは太平洋戦争の敗戦日である昭和20年8月15日に、奈良の「矢追日聖氏」に告げられていた計画だったのである。
私は、昭和22年1月29日に屋久島の安房に産まれているので、私が産まれる前から、その計画は始まっていた事になるのだ。
矢追日聖氏に告げられたメッセージは、地球儀が現れて、世界中に日の丸が立っているのが視えて、日本から世界維新が始まるとの事で、12月の冬至の日を元旦とする、カレンダーに因る政治(まつりごと)をしなさいとの理・ことであったとの事。
「正傳矢追日聖」http://star.ap.teacup.com/170606/210.html
だから、矢追日聖氏は昭和20年12月23日より、冬至を元旦として祭りを催し始めている。それからすると、今年の12月21日の冬至が、59年目の元旦と言う事に成る。
今年も12月23日に、59年目の元旦祭が奈良市の大倭神社で行われる。
矢追日聖氏は、1996年2月8日に84歳で亡くなっているが、亡き後もその元旦祭は続けられている。矢追日聖氏の誕生日は、1911年12月23日で、祭りと同日であるが、今上天皇も12月23日生まれであり、世界救世教の岡田茂吉氏も12月23日生まれである。
そして最も不思議なのは、今話題に成っているマヤの暦が、2012年12月22日が現在の世界の終わりの日で、人類の目覚めがあれば、23日より新世紀が始まると伝えられている事である。
マヤ暦からすると、何千年も前から、残り8年で人類の歴史が変る事が、分かっていたと言う事に成るのだ。これらの事から考えると、カレンダーとは、神の計画に取って一番大事な物という事に成る。
カレンダー(暦)が無ければ、神界も計画が立てられず、霊界人も現世人に対して、働きを起こせないと言う事に成る。
私達に先ず出来る事は、冬至を元旦とする正確なカレンダーを作成して、神の計画がスムースに運ぶ様に段取りをして、霊界人の働きが遣り易い様に、準備をする事である。
その神の計画に名を付けるとすれば、「メサイヤ(Messiah)計画」と成るだろうか。メサイヤとは「メシア(Messias)」で、元ヘブライ語で「油を注がれた者」の意であり、古代ユダヤ人が待ち望んだ、救いの主の言(こと)であり、そのギリシア語訳がキリストである。
「油を注がれた者」とは、神に選ばれた者の意味で、神に選ばれた者は、40日間岩山に篭らなければならない。
旧約聖書のモーゼも、新約聖書のイエスも、マホメットも皆岩山に導かれている。
日本でも、「弘法大師空海」や、大本教の「出口王仁三郎」其れに山岳信仰の元に成った「役行者」等も、岩山で修行をしている。其れに、日本の古い神社は皆岩山が御神体とされて来た。
私の生まれ育った屋久島は、全山が花崗岩の岩山であり、樹齢数千年の木々が繁っている。
日本の伝統は古神道にあり、古神道では「神籬・ひもろぎ」「盤境・いわさか」が一番大事とされ、神籬と盤境の無い神社は正式な物ではなく、只人間霊を斎っているだけである。花崗岩の岩が有り、大きな老木が立っていて、禊の為の清い水が流れている。それがメサイヤ、メシアの誕生する、最低の条件であると言えよう。
日本列島は、その条件に恵まれた国と言えよう。日本の国土が、神の州(くに)とされるのも、理由があっての事なのだ。その日本から、神の真実が解き明かされ、世界の精神的な支えと成る。その事が、今度日本から起きる、世界維新の意味なのである。
今朝のメッセージに現れた、一枚の大きな紙には、その手順が記されていたのではないだろうか。そうであれば、この現象世界にも新しい流れが、目に見える形で現れて来るだろう。
今朝のメッセージは、その前触れとして受け取っておこう。
平成16年11月13日
礒邉自適
2004/11/13
漢字の始まり
16・11・13
中国の漢の時代に、世界に拡がり始めた文字は、一体いつ出来始めたのだろうか。
最初の漢字は象形文字で、一番古い文字は甲骨文で、亀の甲や動物の骨に刻まれていた文字であろう。
次の時代が金文で、次に篆文が出来、現在使用されている現代文(今文)へと続いて来ている。
私が気付いた点は、「命」の文字が「口+令」の組み合わせで、「令」の漢字は「A+卩」の組み合わせであり、アルファベットの始まりである「A(牛の神)」と漢字の象形「卩(跽いて祈る人の姿)」で出来ている事に成る。
それが本当なら、アルファベットも漢字も、同じ文化の流れを組んでいる事に成る。
因みに、アルファベット「B」は「ベッド・家」の意味であるので、日本の天皇の寝所が「天御臥間・ あめのおふすま」と呼ばれる事とも関係が有りそうである。
その文化の流れの源を探ると、牛が神とされたのは、シュメール文化である。
其れに中国の「物」の漢字は、「天地間にある一切のもの。目に見えるすべてのもの。」を意味し、其れは、清められた生贄の牛の意味から「物」の意味となっている。
旧約聖書の物語に出て来る、エジプトからモーゼと一緒に脱出した人々の中に、牛を、神とする民が居た事が記されており、その人々はモーゼに因って、自分達の信仰を止めさせられている。
其れで、中東やエジプトにまで、シュメールの人達が移動していた事が分かるし、中国の漢字を考えた人の中にも、シュメールの民が居た事に成る。
其れに、日本の天皇・大君の事を昔「スメラのミコト」と言っていたのも、シュメール語の「葦の生える地を治める者」の意「スメル」から来ているのも、日本の地に、シュメール文化が流れ着いている事の証明である。
日本の事を「豊葦原の霊稲(ちい)穂秋の瑞穂の国」と言うのも、シュメール文化の名残ではないだろうか。
その文化が「食国のまつりごと」と成って、日本の伝統文化となり、現在、「神嘗祭・新嘗祭」の名で、天皇家で毎年続けられている。
日本の天皇家の神は、「御饌殿・みけどの」と言って、台所の神である。
天皇は、君(神に仕える者)として禊祓いをして、先祖の霊と共に「稲(い=飯)の霊(ち)」を通して、神の世界(大自然の法則)と、合意しなければならないのである。
其れ等の儀式の意味する処は、「謂う」の漢字として残っている。
「謂」は「言+胃」で、「胃」は「胃袋の中の穀物」を表しており、「月」は「肉」で、「田」は「口の中に米の字(殻の実がついた姿)」が入って出来ている。
この文字でも理解出来る様に、人間の意識は、穀物の霊を飯する事で、生じると考えられていたのである。
「私」の漢字は、「禾(イネ科の穀物)+厶」の組み合わせで、「厶」は「腕で抱え込む形」を示しており「自分の物だと、腕で稲穂や麦穂を抱え込む」事から、私有心を表現するものである。
この様に、文字を調べる事で、文化の流れが見えて来る。
漢字は、漢の時代に使用された、隷書の今文(現代文)で、その前は篆文で、秦の時代(前771年)、その前は殷の時代(前2100〜1600年)に、甲骨文字が使用されている。
その間、前1100年〜256年の周の時代に、鉄や石に刻まれた文字が、金文、石文として残っている。
「稲」の文字は、「穀物を手で臼から取り出している象形」で、3100年位前に、穀物を臼で突いていた事が分かる。
「爵」は「すずめの形をした盃に手を伸ばした象形」なので、「部下に酒を与える」の意味の甲骨文なので、4100年前には、穀物から酒が造られていたのだろう。
「各」は「夂+口」の組み合わせで、「夂」が天から地に向かう足の形で、「神霊が降って来る」意味で、「神霊が降る様に祈る(口)」の意味らしい。
古代では、各々が、神が降りる様に、祈っていたのだろう。
私達は、神に祈る事を、神主や坊主に頼んでいるが、神に通じていない神主や坊主に頼むよりも、自分で神に祈る事を、取り戻さなくては成らない。
その手掛かりは、文字や言葉に残されている。
一人一人が他人に頼ったり、他人に任せたりするのではなく、各自が、自分の責任に於いて、「リリジョン・religion(神と再び結ばれるの意味)」する時節を迎えているのではないだろうか。
平成16年11月13日
礒邉自適
2004/11/13
LOVE(ラブ)
16・11・13
昨夜、床に入って、物思いに耽っていると、LOVEのラブと、会のCLUB(クラブ)のラブが、同じ意味を持つ理が理解されて来た。
「CLUB(会)」は、同じ目的を持った者が、集い合うとの意味である。
「LOVE」も、異性同士が、同じ気持ちで会う事を意味しているし、テニス用語に使用する時もラブは、差が無くて「同じ・合っている・同点」の意味である。
「ラブ」とは、合体するとか、差が何も無い形態を、表す言葉では無いだろうか。
そうであれば、日本で使う愛のアイは「合い・会う」のあいと、お互いの思いが合うとの意味であり、愛し合うとは、会し合うとして考えた方が、正しいのかも知れない。
漢字の「愛」は、困っている人の為に、一方的に奉仕をする「自己犠牲」の意味だから、互いの気持ちが幸福(仕合せ)に成る事では無い。
愛は、一方的に、相手に尽くしきる行為の事である。
愛とは、恋愛もせず、結婚もせず、自分の子供も残さず、自分の一生を困っている人達に捧げた、インドの「マザーテレサ」の行為そのものであり、ラブに愛の漢字を使用する事は正しくは無い。
男女の思慕は、動物的な本能の現れであり、雄が、雌に対してプレゼントをしたり、サービスをするのは、鳥や獣でも実際に行っている、自然の生き物の行為の一部である。
日本語の意味が、漢字を不用意に使用する事で、随分と外れて来ている。
例を挙げると、「働・はたらく」は、「他人(はた)を 楽にする」が、日本の言葉の様・さまであり、「身体・からだ」は「空だ」。「美・うつくしい」は「うつむいてめでる」。「命・いのち」は「飯の霊(いのち)」。「人・ひと」は「霊宿(ひとどまる)」。等と、澤山在る様だ。
言葉が、本来の意味を失った時、森羅万象の姿が、正しく人間のイメージ(心象)に捉えられなく成って来る。
そう成ると、自然の法則と、人間の想いが通じなく成るのだ。
言葉が、真実から外れてしまえば、祈りの言葉も、神と通じなくなるのである。其れに、神のお告げも、正しく受け取れなくなるので、神も、人間に知らせを送り難くなるのだ。
現在の、神社や寺院のお札が、効力を発揮しないのも、言葉や文字が、正しく使用されなく成った為だと考えても良い。
もう一度、日本語と、漢字の関係を、見直す必要が有るだろう。
漢字が生まれた頃は、神と人間が、直接繋がっていると、考えて居たようである。漢字をよく調べると、其の事が良く理解できてくる。
神と人間との間も、やはり「合い」「合う」なのである。
「事」の漢字は、「枝+口(言葉)+右手」の組み合わせで、字義は「榊の枝に 言葉を書いた札を付け 右手で持っている形を表す。」との意味であり、神棚に、其れを捧げる者を意味しており、その者が、神に仕える神官である。
古代では、如何にして、神と人間が意志を合わすかが、一番の大事とされていたのだ。
現在では、天皇が君とされているが、「君」の漢字は「杖+右手+口・言葉」の組み合わせで、字義は「杖を右手に持った者が 言葉を発する」の意味である。
其れに「天皇」の語は、本来は「天」と「皇」は別の働きであり、天に「天帝」が存在し、その意志を受け取って、現世を治(しろ)しめす者が「皇帝」と呼ばれていたのである。
其の、天と皇を合わせて天皇としたので、天地の働きが、区別出来なく成ってしまったのである。
古代では、天の働き(四次元)と、地の働き(三次元)が別の働き故に、其れを如何に合わすかが、大事とされていたのである。
人間の幸も、個性ある別々の者が出会って、「会い・合う」時に、喜び(互いが仕え合せる)が生じるのである。
異なる肉体が、一つに溶け合い結ばれる時や、意見の違う者同士が、共通の想いに達する時こそが、喜びに繋がるのである。
相手が不足している、大事な物を自分が与えて、相手に満足の様子が生じ、相手の感謝や笑顔が返って来る時、其処に、自分の悦びが生じるのである。
「LOVE・ラブ」とは、その様な意味合いの世界なのだろう。
フランス語のランデブーも、ラブに関係が有るのかもしれない。
離れていた者同士が出会う時、LOVEの気持ちが、正しく生じるのではないだろうか。
人が旅をするのは、自分の足りない部分を、補強する為のものなのかも知れない。
自分から、失われてしまった神性を、取り戻そうとの意識が、人を旅に向わすのだろう。失われてしまった、神との一体感を、何時取り戻して、本当の仕合せ、仕え祀る実感を、味わえるのだろうか。
中国の老子の語に「恍なり惚なり 惚なり恍なり」とある。
其れは、光と自分の意識が一体となり、宇宙が自分で、自分が宇宙であるとの気持ちを、表現している。
世界の宗教にある、神は愛だとか、アミダが無量光の意味なのも、皆同じ潜在意識から発生したものだろう。
LOVEが「合い」であり、想いが重い(かさなる)であれば、私は、神とのおもいがかさなり合って、生きている事になる。
私は今、「幸せです」とは云えないが、「道(タオ)・法(ダルマ)」を、実行している者であると、言う事に成るのだろう。
平成16年11月13日
礒邉自適
2004/11/12
自己を確立して行く
16・11・12
本来、人間には、産まれた時点では自己が無く、成長しながら、死んで行くまでに、自己を形成して行くのである。
それは、生まれ落ちた時に、母親の顔を視て覚える事から始まり、母親を見ている自分を造り出す事から、自己の形成が整って行くのだ。
赤子の時から、狼に育てられた子供は、自分が狼だと思っており、人間が近づくと恐れて逃げ様とする。
それは、人間としての自覚が、一切無いからである。
日本語を調べると「人」の「ヒト」は「霊が止どまる・宿る」の意味なので、本来なら「霊止・霊留」と言う漢字を使用するべきで、「人」の漢字は、「歩いている人」の横向きの姿の象形であるから、日本の古代人の考えの様に、霊の器の意味は無い。
更に日本語では、「カラダ」に「身体」を当てているが、本来は、霊が宿っていない肉体は、「空だ」との意味の様である。
これらの事柄からも、人間の自己認識は、生後に創られていく事が理解出来る。
日本に、古くから傅る古神道の世界は、「祓いたまえ、清めたまえ」で、余計な理屈を取り除く事が大事で、現在の学校教育の様に、必要の無い知識を詰め込むのとは、反対の遣り方だったのである。
人間が、生きて行く為に必要な知識は、そんなに多くは無いのである。
現在の世の中は、人間が生きて行くのには、必要の無い事柄が多過ぎて、その余計な事の為に、精神的に余裕を失い、また資源の無駄遣いも行っている。
その余計な事柄が、人間形成の邪魔に成っているのだ。
現在の世の中は、知識の多い者が優秀とされ、静かに、必要最小限を守って生きている人は、大事とはされない傾向にある。
日本の古神道の教えとは、反対の方向に進んでいるのである。
子供の頃から、本当に、人間に取って必要な事だけを教え、育てる、親や教師が少なく成り、社会全体のシステムも反対の方向に動いている。
余計な事柄を、押し付ける教師が善いとされ、知識を捨てさせ様とする教師は、職に着く事が出来ない。
本物の人物が、生き辛い世の中なのだ。
だから、子供達も、本物の人物を目にする機会が無く、正しい自己認識を形成したくても、そのお手本が無いのである。
狼に育てられた人間が、狼の様に暮らしているのと同じく、道から外れた人達に取り囲まれて育った人間は、やはり道から外れている事に成るのだ。
正しい生活の中で、育つ人間を増やさなければ、神霊が宿りたくても、土台の意識が悪ければ、宿る事が出来ない。
だから、「霊止」が少なくなって来たのも、ナルホドと納得が行く。
現代社会の世の中に住む者が、徳の有る神霊を受け入れて、正しい知恵の有る社会が出来上がる様に、努力をしなければ成らない時節に至っている。
そうしなければ、子供や若者が、お手本とする人物が居ない事に成り、豊かな人格形成の場が生まれないのだ。
人が、霊止として完成する為には、其れなりの場と指導者たるべき人間が、必要なのだ。
社会の中に、誰か一人でも、立派な人格者がいなければ、人々の目標が立たなくて、誰も本当の人生が何なのかが、分からなく成るのだ。
人間が正しい「霊留・ひと」として成長し、自己確立が出来るには、それなりの場と指導者たるべき人が必要なのである。
その為の施策を、誰かが取るべき時を迎えている。
平成16年11月12日
礒邉自適
2004/11/9
確かなこと
16・11・9
私達人間が、自分自身で確かな事として、自覚出来ている現象(もの)は何でしょうか。
女性は、自分自身が子供を産む事で、何も無い所から形有る物が生じ、育って行くので、自分の存在感を確かめられる。
しかし、男性にとっては、自分の子供も、自分の子供かどうかは確かめようが無い。
100%と自分の子供だと言う確認は、得られないのである。
だからこそ、男性は、ビルを建てたり、橋を架けたり道路を建設したり、本を書いたり絵画を描いたりして、物質を造り出して、自分の存在感を確かめようとする。
エジプトのピラミッドなどは、その一番良い例と言える。
しかし、どんな物も、形ある物は、いつかは朽ちて行く。
其処に、男性の悲しみが有るのだ。
だから、男性は精神的なものを求めて、求道者と成るのである。
世界の宗教も、男性が創り出したものであり、女性の、其れは、物真似でしかない。
女性が、熱心に取り組む生け花や茶道、書道等、その殆どが、男性が創造した世界である。
女性は、物質に触れる事で、自分の存在を確かめているのだ。
子供を、産み育てた体験の無い女性が、どこか安定感が薄いのは、女としての満足度が低い事と、男性が創り出した社会で、男性の物真似をしているに過ぎないからである。
現代社会では、男性も、株式や証券等の実体の無い物に振り回されて、一喜一憂しているので、社会全体が不安定と成っている。
私達が確かなものとして、確かめられるのは、大自然の形態と、それに触れて居る時の自分だけである。
現代社会の不安定さは、自然の失われた都会で、生れ育った人達が、社会の中心に在って、物事を決めているからである。
社会の中心に立つべき人間が、自然の中に立ち返り、意識を禊ぎ祓う事しか、世界の安定は無いだろう。
人間の意識を、元の処に返すしか、未来社会の安定は無いのだ。
人間が、一番確かめなければならないものは、大自然の法則だけである。
その大自然の法則こそ、人間が、確かなものとして確認出来る、唯一の世界なのだ。
平成16年11月9日
礒邉自適
2004/11/1
みそぎ(禊)
16・11・1
私の古い自宅は、築50年くらいだろうか。
その家が、8月29日に屋久島を直撃した、台風16号の強風で瓦が飛び、家中が水浸しに成った。
私は強風の中、瓦を捜し、屋根を上り下りし、壊れた瓦を取替えたり、家の中の家具類を移動して、雨漏りから守ったりと、台風が30日午後に通り過ぎるまで頑張った。
何かの、修行をしている様な24時間であった。
暦を見て調べると、8月29日は旧暦では、7月14日である事が分かった。
本来なら、旧暦の7月14日は、お盆の中日・なかびで先祖供養の日であり、先祖の霊魂を自宅に迎える為に、前日13日の夕刻庭の門口で火を焚き、神棚を設けて、飯を茶碗に山盛りにして草の箸を立て、他にも魚や野菜を供養して、14日に一家の主が禊祓いをして、夜に先祖の霊魂と「直会・なおらい」をするのが、日本の「食国の祭事・おすくにのまつりごと」の傳統行事である。
現在、その行事は「お盆」と呼ばれ、仏教の行事の様に想われているが、本来は神道の行事であり、天皇家の「新嘗祭」とも、出自は同所であろうと想われる。
禊の行事は3月の「春の禊」と、7月14日の「夏の禊」が有り、其の夏の禊ぎが、仏教のお盆に摩り替わったものである。
その原因は、徳川幕府のキリシタン弾圧の影響で、神道の儀式が仏教化した物と云われている。
その7月14日の日に、私が自宅と共に「禊ぎ」に遭った事が、何かの意味ある事なのだろうか。
私と、私の自宅だけでなく、屋久島の奥岳の山頂に有った、ゲンコツ岩も親指の部分だけを残して、崩落してしまっていると聞く。
その後の台風でも、23号の軌跡を見ると、足摺岬に上陸して変則的な動きで曲がり、次に琵琶湖の中程で、A角に曲がって東京に向かい、東京でも変則的に曲がっている。
23号台風の影響で、一番大量に雨が降った場所は、四国は神町で、奈良は天川村だが、天川村には天河神社が有り、祭神は天川弁財天である。
琵琶湖の中に浮かぶ竹生島には、弁財天が祭られている。
東京にも「水天宮」が在り、いずれも水の神様である。
新潟地震で、「皆川優太ちゃん」が生き埋めに成った場所は、妙見町で「妙見様」も水の沸く場所に祭られる神様で、優太ちゃんの父親の名前が「皆川学」で、「みな かわにまなぶ」である。
地震の被災地の名前が、「広神町(神をひろめる)」や「小千谷市(おじや・雑炊)」の名である事も、水の災害を伝えている様に思われてしまう。
この度の災害は、弁財天・水天宮・妙見宮・青滝寺等と、水の神を祀る場所に関係が有る様に想われてしまう。
東京の人形町の横に有る「水天宮」の神様は、九州の久留米市の水天宮が本宮で、筑後川の水の神であり、妙見神は北九州市小倉の足立山に在る「妙見神社」が全国の本宮であり、妙見神信仰は北斗星と重なって、中国から導入された物の様である。
弁財天は、インドの川の神「サラスヴァティ」が元で、サラスヴァティは女神で財産を管理し、中国でも。妙見神は宇宙の中心を司る神で、北極星や北斗七星を現象化として、信仰の対象と成っている。
旧約聖書でも、「神は 最初に水を天と地に分け・・」と有るので、西洋でも、水は宇宙の最初の物質である事を認めている。
宇宙は、水素原子(H)から始まっている理は、全ての科学者が認めている。
Hから始まった、宇宙の初期の元素に、炭素や酸素が有り、早い段階で水が生じている。
何10年かに一回、地球を訪れる彗星が、氷の固まりであるのも、その証拠の一つだろう。
昔の人達は、水の存在の意味を知っており、水の存在を、神として祀って来たのである。
そして、水の持つ振動波に熟知しており、その働きをコントロールする事が、神事であると考えていたのだろう。
諺・ことわざに「火の無い所には 煙は立たない。」と有るが、「水気の無い所には 神が働かない。」とも、言えるのではないだろうか。
神道だけではなく、仏教でも、キリスト教やイスラム教でも、儀式には必ず水を使うし、神と人間との交わりの儀式には、必ず水が用いられる。
その事からしても、水の働きは、神の働きの一番近い処に在り、人間に幸福を与える事も、災害を与えて気付きを迫る事も、水を持って、現象化させているものと想われる。
水無き所には、生命は無い。
私達生物が、存在出来るのも、水が循環しているからである。
その一番大事な水を、我々人間が粗末に取り扱い、感謝を忘れる時、自分の肉体の水を始め、地球環境に存在する水が、ストライキを起こすのも、当然の出来事と言えよう。
私は水の島、屋久島に生れ育った人間として、人々の気付きが、早く起きる様に願いたい。
それは、水の神に祈るのではなく、人間様に対しての祈りである。
特に天皇家の儀式や、神社や寺院を生活の場としている人達が、早くこれらの事に気付き、皆に対して、率先して行動を始めるべきであろう。
その理・ことに、人間の気付きが遅れれば、更に大きな災害が起きる可能性が、高くなると想われるからである。
平成16年11月1日
礒邉自適
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