2004/7/5
生命力
16・7・5
長崎県佐世保市で起きた、小学生殺人事件のニュースを見てから、子供達が「いのち」の世界が分からなく成っている様に感じて、妙に毎日が落ち着かなく成って困っている。
そんな日々なので、広辞苑で「いのち」の語を調べて見ると、「いのち」とは
(1) 生命力。(2)寿命。(3)一生。生涯。(4)もっとも大切なもの。
と載っていて、調べるほど「いのち」が何なのか、段々とぼやけて来て、益々分からなくなって来る。
私には、理解されなくとも、学校の教師達は大学を出ているので、子供達に「いのち」とは何々だと、教える事が出来ているのかも知れない。
私は、屋久島の農家の生まれで、家には、馬・牛・豚・山羊・鶏・犬・猫・小鳥・鯉等が居たので、動物の子供が産まれたり、小鳥が死んだりする体験は沢山して居たので、「いのち」とは、生きて居る物がいのち有る物で、死んだ物はいのちが無くなつた物と、理解出来ていた。
だから、山羊や、豚や、鶏を殺して食べる事は、いのちを取る事であると、自然に体験を通して感じて居た。
私の父親は、自分が飼育している家畜を殺す事を嫌がって、中間で宴会をする日には、朝から友人を家に呼んで、豚を殺すのを任せ、自分は何処かにトンズラしていた。
それと、家族の誰かの誕生日には「自適、今日は○○の誕生日だから、肉を食べたければ殺していいよ。」と云って、殺して良い動物を指示するだけで、自分では殺さないのである。
その頃は、今と違って、普段は肉類が食べられないので、小学校の高学年に成った頃から、鶏や山羊なら自分一人で殺して、捌ける様に成って居た。私が、長男だったので、其の役目が与えられたのだ。
一度は、山羊小屋に、子山羊を捕まえに這入ったら、雄山羊が怒って、角で小屋のコンクリートの壁に、私を押さえ込んだ事が有った。私が、逃げられずに泣き出したら、其の声を聞いた母親が駆け着けて来て、助けられた事も有った。
其の日、殺される予定だった子やぎは、雄山羊に救われた事に成ったのである。
私達の子供の頃は、何処の家でも、其の様な情景が子供達の瞳に映されていたのではないだろうか。私は、其の様な生活だったので、今でも家畜だったら、牛でも殺して捌く事が出来る。但し、鶏と山羊は自分一人で殺せても、牛や馬は図体が大きいので、誰か一人手助けがないと捌けない。
鶏や山羊や鹿などを殺す時は、首が下になる様に、足を縛って逆さに木に吊るし、首を切って血出しをする。何故、逆さにするかと言うと、体内の血液を全部外に出す為である。血が体内に残っていると、肉からも血が染み出すし、血生臭いのである。
動物が木に吊るされる時は、嫌がってバタバタもがくのを、無理やり縛ってぶら下げるので、最大の暴れ方をする。其の暴れる相手の隙を突いて、首を切ったり、心臓まで包丁を突き刺さしたりしなければならない。
上手く首を切ったり、心臓を突き刺したりする事が出来れば、血が凄い勢いで飛び散る。血が出始めたら、急いでその場を離れ、血が全部出てしまい、相手がぐったりして動かなく成るまで、見守って居なければならない。
完全に動かなく成ったら、木から下ろして、解体に掛かるのだが、死んだ動物の瞳は悲しみが満ちているので、出来るだけ瞳を見ない様にして、作業を続ける。生き物を殺すのには、是だけの作業の体験が含まれているのだ。
この様な体験を積んで居るので、私にはスーパーマーケットのケースに並べられている肉も、生き物の一部である事が理解出来ているが、今の若い人達には、只の肉であり、生き物の一部だとの認識は無いだろう。
有るとしても、其れは頭だけの知識であり、現実としての認識は無いであろう。
今回事件を起こした、長崎の小学生も、友人の首をカッターナイフで切った時には、凄い勢いで血が飛び散ったはずだが、それを見て居て、何を考えて居たのだろうかと、私は想ってしまう。少女は、飛び散る血を見て、ビックリしたのではないだろうか。
私の様な体験が有れば、最初から、血が飛び出る事が分かつているから、其の様な事はしない。しないと言うより、出来ないだろう。其れが、体験が有るか無いかの違いである。
私の様に、自分が毎日、餌さを与えていた生き物を、食べたいから仕方無く殺すのには、勇気と決断が必要な事と同時に、悲しみの感情が供なつている。
少女は、実際に生き物の首を切って、血が飛び出す事の体験をしていないのだから、自分が何をしようとしているのかも、何が起きるのかの予想も、出来ていなかったのではないだろうか。
現代社会の子供達は、自分が食べている物が、かつて生きて動いていたのだとの実感を、得る場が無い。だから、生き物を通して、自分も生き物の一固体であり、誰にも親が有り、子が有るとの、命の流れが見えないのだ。
自分にも親が居て、自分が生まれ、やがて自分も成長し、大人に成ったら子供を産み育てて行くのだと言う、本当に当たり前の理が、分からなく成ってきているのだろう。
私は屋久島に生まれ、子供の頃から、山や川に罠を仕掛け、小鳥やうなぎを捕らえ、川魚釣りをし、海に潜ってイセエビや魚や貝を取っていたので、自分が生きる事は、他の生き物のいのちを奪う事であるとの自覚が出来ていた。
其れは、両親に、其の様にするのだと教えられたのではなく、小学生の頃より、上級生や村の先輩と一緒に遊んだり、農作業などを一緒に行なったりする事で、自然に学習したものである。
私は、父親が動物を殺す所を見た記憶が無いし、母親も優しい女性で、他人が枯れたからと言って棄ててしまった植木を、可愛そうだと言って拾って来て庭に植え、毎日言葉を掛けながら水を与え、植物を復活させる能力を持ち合わせていた。
そんな両親から、何故、私の様な、何でも平気で生き物を殺せる息子が育ったのかと言うと、人間は生きる為に、最小限度の殺生はしなければ成らないからである。自然の中で、くらしを立てるとは、そう言う事なのである。
処が、都会に産まれ育った人達は、デパートやスーパーに売ってある、既に処理された一部分の姿しか、目にする事が出来ないので、動物園で動物の生体は見て知っていても、ショウケースの中の肉と、動物園の動物とのつながりは、頭には浮かばないだろう。
況して、動物の体内には、温かい血液が大量に流れている事など、創造出来ないのではないだろうか。動物の体内には、赤い血が流れており、植物の体内にも水が流れている。そして、動物も植物も、空気を吸って呼吸をしている。
生命力とは、体内を水が流れ、呼吸をして生きているちから・力である。我われ人間も、其のちからで生かされている。
其の理を、実感するには、自分の手で、いのち有る生き物を殺してみる事も必要条件であり、自分の手で殺生を実行してこそ、殺生と言う言葉の意味も、理解出来るのではないだろうか。
何事も他人任せで、自分の手を汚さず生きている現代人に対して、神の忠告が、今回の長崎の事件ではないだろうか。
来年、屋久島に新しく高等学校がオープンする予定である。私も、其の学校創立に、最初から関わりを持っている。屋久島が本校で、全国から通信教育制度で生徒を募集する。この様な形態の学校が、島に出来る事に成るなどとは、昔なら考えられない事である。
文明が発達した結果、この様な現象が起きて来たのだ。中国の言葉に「陰極まれば陽に転ず。陽極まれば陰に転ず」と有る。正に、陽極まって陰に転ずで、文明が自然から離れ過ぎた為に、子供達を自然に返さなければならない事が、発生して来たのだ。
私の様に、島で産まれ育ち、37歳まで都会を知らずに生活して来た人間が、必要とされる時代と成って来た。子供の時から、島の自然の中で、島の自然の力だけで育って来た私が、感じている世界を、子供達に伝え残したいと想う。
男の子が男性として、女の子が女性として育ち、男性は翁として、女性は嫗(おうな)として、人々の人生の手本と成れる世の中を、創り出さなければならない。生命力とは、其の事が目的としてあるのだから・・・。
今のままでは、子供も大人も、真の幸福感が得られないままである。
未来は、現代に兆しを現していると言われているし、病気は軽い内に治せとも言う。今回も、事件が突飛な事として終わり、後が続かない事を祈りたい。
平成16年7月5日
礒邉自適
2004/7/5
真実の言葉
16・7・5
私達が、現在日常使用している言葉は、人間の都合に原因するもので、古代社会の人間の様に、自然と一体化したものではなく、人間が築いた文化の影響を受けて、真実の処からは外れてしまっている。
其れが顕著に成ったのは、小説や映画・テレビ等で、人間が勝手に創り出した、不自然な映像や言葉が使われ、其れが暮らし全体の中に、行き渡ってしまったからである。
特に、言葉が相手を幸福にするもではなく、自分の我欲を押し通す事の為に、使用され始めてから、言葉が信頼出来るものではなくなったのだ。
神社や寺院に行っても、神仏との意いの遣り取りではなく、自分の我欲を、神佛に押し付けるだけに成って来ている。
真実の言葉とは、自然を舞台として、神と人とが、協同して、この世に存在する為に、使用されるものである。
其れが現在・いまでは、自然が舞台ではなく、神が不在いで、人間が我欲で、創り出した都会で使用される言葉の概念が、自然の中で生活する、田舎の人達にまで広がってしまった。
その事が、最大の問題なのである。
現在の世の中は、先進国と呼ばれている国々の言葉や概念が、都会で開発された品々と共に、後進国と呼ばれている国の、自然の中で暮らす人々の所にまで持ち込まれて、その地域の文化を破壊し、本来の言葉の世界が失われ様としている。
幸いにして、我われの住む日本国は、国全体が、他民族に一勢に侵略された事が無いので、未だ、方言等も残っており、本来の言葉や意味を、取り戻す事は可能であると思われる。
しかし、日本の現在の若者文化ほど、言葉が乱れている国は無いとも耳にする。
其れは、日本のテレビ番組や雑誌等が、是でもか是でもかと、言葉の世界を踏みにじっているからである。
人間は、子供の時から、言葉に因って世界を認識して、大人に成って行く。
それが、今は、子供の頃より、間違った言葉の中で育つので、正しい意識の組み立てが行えず、混乱の内に、身体だけが成長し、見掛けだけの成人となっているのだ。
そして、その若者が、子供を産み育てるのだから、子供達の世界が乱れるのは、当然の事と言える。
日本語の「ひと」の言葉の意味は、先祖の「霊(ひ)留まる」との意味だから、産まれた子供を、正しい言葉で導かないと、先祖の霊も同調(コミニケーション)出来ず、深みの有る落ち着いた子供として、成長することが出来ない。
先祖・両親・子供・孫と四世代以上に渡って調和してこそ、魂しいが安定して進化して行くのである。
又そうしなければ、魂しいとして残り続ける事が出来ないのだ。
日本の文化は、皇御祖(スメミマ・先祖代々の霊)を祭り続け、魂しいを継続させる事が、最重要とされて来たのである。
魂を継続させるには、先祖が使用していた言葉を、正しく使用しなければ、神霊との意志の疎通が出来ない。
日本語しか、使用しなかった昔の人の霊に、英語や仏教用語でコミュニケーションを図ろうとしても、意味の疎通は上手く行かない。
その理を、現代人は忘れ去っているので、社会全体が混乱を引き起こしており、調和が失われているので、幸福な人々が少ないのだ。
物には恵まれて居ても、心底から安心立命が実感出来ないのも、其処に原因がある。
お盆や、年の瀬に、先祖の霊を祭り、葬式や年忌等に詠む「経典」の文言や、神の為に奏上する「祝詞」の意味を、もう一度、再確認しなければならない時を迎えている。
日本の伝統を、護り続けなければならない天皇家が、その事を再確認しなければ、日本の伝統は失われ、皇御祖も浮かばれないのではないだろうか。
平成16年7月5日
礒邉自適
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