2004/1/6
生命の寄生木
16・1・6
私達の肉体は、生命の宿り木です。
生命が、肉体から抜け出てしまえば、只の屍・しかばねです。
ヒトの肉体は、魂しいと言う生命が宿って、活動しているからこそ、価値が有るのです。
ですから、生命活動が活発で、魂しいが豊かであれば、幸福であると言う事になります。
其の、肉体に宿る魂しいの事を「みこともち・御事持ち・御言持ち・命持ち(宰・司)」と表現します。
古くは、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」が小戸のあわぎ原で禊ぎ祓いをした時に、右目から「天照大神」、左目から「月読み命」、鼻から「須佐之男尊・すさのおのみこと」生じた命・神・働きが、三命とされています。
ですから、三貴神とは伊邪那岐命の「両目」と「鼻」から生じた命ですので、人間の肉体を持っているのではなく、目には見えない働きの事を、意味しているですから、魂しいの事である理・ことが解ります。
だから、私達人間は、大きく分けて「天照」「月読み」「苆の尾・すさのお」の三つの働きの、どれかを司って働いている事になります。
其の、何れかの働きを熟・こなしている間は、満足を得ますので、「しあわせ(仕合せ)」を感じる事ができるでしょう。
私達は、働いてこそ、満足を得る事が出来るのですから、「天照」や「月読み」や「素戔嗚」の名を拝しても、何の意味も有りません。
自分自身が、其れ等の働きを行じる事だけが、目的と成らなければ成らないのです。
其の意味では、現在の宗教は正しいとは言えません。
天照界とは、相対的な世界であり、月読界とは絶対的な働きの世界であり、素戔嗚とは、物質を動かす動力の世界です。
自分に其の働きのどれが宿っているのかは、自分自身が、好みの人生を歩かなければ見えて来ません。
其の意味でも、人生は行動であり、体験を積んで行かなければ、何事も解決しないし、霊留・ひととしての完成も無いのです。
「霊留・ひと」とは、見込の有る人間の體に、先祖霊や、神霊が宿る理・ことを謂い現しています。
其の意味でも、人間の體は、寄生木であると言えるでしょう。
平成16年1月6日
礒邉自適
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