2003/12/2
言葉は心の音
15・12・2
黒田節の「酒を 飲め飲め 飲むならば・・・・」の歌も、「酒」が無ければ人の心を打たないし、「槍」と言う物が、人の知る処でなければ、どれ程の量かも推測する事ができない。
だから、歌とは、心の対象に成る物が現れた時に、心が、物に打たれて鳴りだしたものである。
そして、歌とは、言葉に音が付いたものであり、言葉がなければ、音は生まれない事になる。
心が物を捉えても、言葉が無ければ、音は生まれないのだ。
だから、物がなければ、音は生まれないし、音がなければ、言葉も生まれない。言葉が生まれなければ、歌も生まれないので、人の心も、音を発する事がないことに成る。
人間が、静寂を保つには、言葉を忘れてしまえば、心は、音を発する事が出来なく成るので、沈黙の中に、身を沈められる可能性が出て来る。
瞑想とは、心が、物に打たれて音を立てぬ様に、する事である。
「悟り」とかの言葉が、自分の中で音を立てている間は、心が静寂ではないのだ。
心が静寂に成った時に、宇宙の意いが、一気に流れ込んで来る。
其れが、ブッダと成る瞬間の出来事なのだ。
ブッダ・仏陀に成ると言う事は、宇宙の情報が流れ込んで来ると言う事だから、全て言葉ではなく、振動のエネルギーとしてなのである。
其の振動を、自分の知っている言葉に、全て置き換える事など、不可能である。
言葉とは、この現象世界を、部分的に切り取って、音に換えて、意味付けする事である。
言葉に換えると、林檎を英語でアップルと言う様に、文化の違いで、音の選び方が異なってくる。
其の様に、林檎だとか、アップルだとかの名前を付けるのではなく、林檎其のままが、絵として脳・意識に流れ込んで来るのだ。
悟りとは、其れが林檎ではなく、宇宙全体の成り行きが、一度に我が身に情報として、入り込む事である。
釈迦の時は、其の情報を、自分の知っている言語に変換するのに、7日間掛かったのだ。
釈迦は、悟りたいと言う考えを捨てた時に、「悟り」と言う、最後まで頭に残っていた音が消えて、心が自由に成ったので、宇宙の情報が、一気に流れ込んで来たのである。
其の情報を、今度は、自分が知っている言葉を使って、音に組み換えて行ったのである。
其の作業が終り、其の場から立ち上がって三歩進んだが、其の、言葉に組み換えた音を、直接聞き分ける者が居ない事に気付いて、立ち止まり、「天上天下唯我独尊」と、最初の音を作曲している。
其れから、死ぬまで詠い続けたが、釈迦の音楽を、全部聞き分ける者は一人も居なかった。
釈迦が、40数年詠い続けた事の意味は、無音の世界に、人々を導く為のものだったのだ。
自分の心の音が消えた時、宇宙の音が、自分の心の音と成るのである。
宇宙には、人間が言うところの音は無い。
有るのは、光りのエネルギーだけである。
光りは、無音であり、其の光りが、物の形に変わった時、初めて音の世界が現れる。
人間とは、光りが、音の世界に現れ出たものである。
其の人間が、最初の観音菩薩だ。
人間が、語ると言うことは、観音菩薩の姿なのだ。
語るとは、光の変化したスガタを、表現する事なのだ。
光りの代弁者と成る事が、「弁財天・サラスヴァティー」の姿なのだ。
自分の内側に在る、蛇の脳こそ、弁財天の住処であり、観音菩薩の創造元である。
ブッダとは、楽器を手にしないで、光りの中心に座る、観音菩薩の姿なのである。
其れは、何者かが、打たなければ、鳴り出さない存在なのだ。
其処には 唯 腎臓が蝉の声を聴きながら 皆を支えて居るだけである。
平成15年12月2日
礒邉自適
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