2003/10/29
聖獣 ユニコーン
15・10・29
今日は、何も無い日かと意い、家の中を片付けていると、警察の方が二名自宅に訪ねて来た。
別に是と言った用が無い様で、雑談をして居ると、私が、横領されている土地の事の話になった。
警察の方が訪ねて来たのは、私の土地の件に付いて、調査に来たらしいのだ。
私は、安房の港の近くに、土地を三千三百坪買って整地をしていたのだが、私が島を離れている間に、私が使って居た会社の役員だった人間(池田保・富子)が、其の土地に、勝手に店舗や自宅などを、数軒建ててしまっている。
私がその事を、九州の友人に相談すると、早速友人が島に飛んで来た。
そして、法務局や銀行・役場を廻って、取り返す手続きを始めてくれた。
そして、是迄の実情を書いた文章を、島内の目ぼしい会社等に配布した。
其の文章に、虚実が有れば、名誉毀損と成る。
相手方が、警察に行ったのかどうかは分からないが、警察の方が、其の文章を持って廻ったら、訪ねた相手が、皆「其の通りです」と、応答したとの事である。
今日、自宅に訪ねて来た警察の方は、「自適さん、島の人達は 皆知っていますよ。」と言って、帰った。
其の後、この事を頼んでいる友人より電話が有って、「自適さんの頭に 一本角が生えている夢を見た。自適さんは 頭に角を隠して居るのですか。」と、言って来た。
私は、「其れは ユニコーンと言って 裁判の神様ですよ。」と答えた。
そして、しばらくすると、岡山の「スーリアさん」より、裁判官の人に付いての電話が有った。
私は、この三つの出来事から、今日は、法律や裁判の事に付いて、何かを考えなければ成らない日である事を感じた。
私の13年3月13日の文章「獬」の題で、その事を書いて有るので、読んで欲しいと意うのだが、学研「ムーブックス」から発売されている「久保有政」氏著の「日本の中のユダヤ文化」にも、ユニコーンや「獬」の事が詳しく載っているので、一読すると良いと想う。
其の中に「神である主はこう仰せられる。見よ。私はエフライの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエルの諸部族とを取り、其れ等をユダの杖に合わせて、一本の杖とし、私の手の中で一つにする。」(エゼキエル書 第37章19節)
「杖というのは王権を意味する。王は杖を持ち、其の杖は権威を表している。」 と 載っている。
私は、神に、自分の身心を召喚され、其の杖を持たされ19年が経過した。
そして、漢字の「伊」の文字が、「人が 一番大事な杖を 手の持つ事」を意味している事を知った。
ユニコーンは、神社の入り口に建てられている鳥居の、左側に置かれている高麗獅子の左側の物で、「一角獣・神獣」の像の事である。
其の「一角獣・神獣」は、神の言葉を間違って解釈した侭、門の外に出る者を、其の角で刺し殺す役割を、担っている物である。
其れに、右側の像は「ライオン・獅子」である。
高麗獅子はライオンを表し、ライオンは西洋では「水」の守り神である。
日本の神社では、右側を通って奥の社に近付き、左側を通って、外に出て来る様に決められている。
神社では、右側に御手水が有り、手や口を禊いでから鳥居を潜り、神に会って、左側から出て来る事に成っているのは、禊ぎ祓いをして神に会い「法・知」を授かって出て来るのを、意味しているのだろう。
神の門を潜る所に、水と、水の守り神である「ライオン・獅子」が備えられているのは、時代の古さを伝える物である。
神の代理者として、杖を授かる事は、天の法を授かる事を、意味している様である。
天皇家の一番大事な儀式である大嘗祭には、「履物」と「杖」が用意されているとの事だが、其の意味する処は、秘密とされている。
其れは、神に選ばれた者だけが知る事の出来る、神秘なのであろう。
人間が、自分勝手に、其の杖を手に入れ様とすれば、ユニコーンの神獣に角で胸を突かれ、命を捨てる事に成るであろう。
「獬・かいたい」http://moon.ap.teacup.com/20061108/87.html
此処のところ、太陽に黒点が大きく現れ、磁気嵐が地球を襲っている。
太陽の磁気は、電気器具だけではなく、人間の心身にも、何がしかの影響を与える筈である。
私は屋久島での修業中に、自分の「いのち・氣」が、太陽の黒点に吸い込まれ、太陽の内に入った後、再び光りのエネルギーと成って、地球にサンサンと降り注ぎ、植物の葉に吸収されるビジョンを観た。
私達のいのちのエネルギーは、太陽が発している、磁気エネルギーで生かされているのかもしれない。
そうであれば、ユニコーンとは、其のエネルギーの門番ではないだろうか。
いのちの決まりを破る者を、見張っている存在こそ、王の資格が有るのかもしれない。
日本では、「お天道様に 見守られて生きる」との概念が昔から有る。
其の言葉や風習は、無意識で「獬・ユニコーン」の存在を、肯定しているのではないだろうか。
「天神様の細道は、行きは良い良い帰りは恐い、恐いながらも通りゃんせ。通りゃんせ。」
いよいよ、帰り道の時節に成った様である。
「ユニコーンの存在に お気を付け遊ばせ。」である。
平成15年10月29日
礒邉自適
2003/10/28
生きる希望
15・10・28
人間が、生きると言う事の根本の処には、性がある。
草木や鳥獣も皆、性の営みの力に拠って、生き様としている。
生物が生きるとは、命を継続する事である。
草木が成長して、花を咲かせ実を着けるのは、この働きの現れた姿であり、他のどの生物も、此の法から外れて生きる物は無い。
此の働きが、遺伝子の姿と成って、記憶を繋いでいるのである。
この記憶の継続性こそ、生物の生きる希望と成っているのだ。
人間の五感や六識も、この為の道具として発達したものである。
人間の體も この希望が無くなってしまえば、朝に目覚める事も無く、心臓が鼓動し、肺が呼吸する事も止まってしまうだろう。
生あるものが、生あるものとして存在するのは、この性その物の、力に因るものである。
性そのものが、陰陽の働きと成って、互いを求め合い、引き合って生の運動を起しているのだ。
その事の為に 花は 美しく咲き
小鳥は 美しく身を飾って 囀り
鹿や 牛や 山羊は 角を大きくし
猿は 手足を発達させ
人間は 脳を大きくして来た
人間が、言葉を話し、文字を書き、絵を画き、歌を唄うのも、皆この働きが本に成っている。
インドの釈迦が説いたダルマ(法)とは、生命の源となっている「いのちのみなもと」の働きなのだ。
宇宙の森羅万象の働きは皆、陰陽の働きで運動している。
その陰陽の働きから、何物も外れて、生じ続けて行く事は出来ない。
私達、地球の全生物は、其の働きの仕組みから、外れて生きる事は出来ないのだ。
だから、私達は、魂の源に辿り着けば、ただ陰陽を感じるしか無い事が解かる。
日本の神話も、イザナギとイザナミの男女の性から始まり、西洋の聖書もアダムとイヴの、男女の物語から始まっている。
元気とは、陰陽の働きのバランスが調和されていてこそ、適うエネルギーのバランスである。
現代人は、根本のエネルギーを使用しながら、生きてはいるのだが、走るレールを違えてしまっているのである。
命の火を、平和や幸福の為ではなく、戦争や不幸の為に使い、煩悩の火としてしまっているのである。
本来、生命の火は、宇宙との調和と安定の為に使うものであって、地球の破壊の為に使うものではないのだ。
命のエネルギーは、本来は陰陽の働きが和して、未来の創造へと向う為に在るのであって、互いが、傷付け合う為のものではないのである。
希望とは、異なる性(はたらき)が、求め合って和する事なのだ。
その働きが正しく作用している間は、社会は安定し、平和な世の中と成るのではないだろうか。
私が、長い心の旅を続け達した結論は、単純な原理に辿り着くことで、終着を迎えた様である。
老子の謂う『雄の何たるかを知った上で、雌の立場に身を置く』
その言葉が、置き薬として、ようやく私の心にも、効いてきそうである。
平成15年10月28日
礒邉自適
2003/10/7
見えてきた座標軸
15・10・7
宇宙には、平面の世界は無く、全てが全方向に開いている世界である。
だから、人間は、机の上ばかりで勉強をすると、視覚は紙面の上に落ち、遠近感や無限性を失ってしまう。
私の意識が、何故自由なのか、其れは、私が紙面に向かう時間を、最低限に抑えて来たからであろう。
と言う事は、昔の人達は皆、私と同じ視覚を、有していたと言えるだろう。
と言うより、現代人の様に、机の上の紙面に、目を向ける事が無かったのだ。
そうであるなら、人間の潜在意識を探るのには、紙の文字に、視覚を奪われていなかった、昔の人達の使用言語に、焦点を、合わせなければならないと言う理・ことに成る。
昔の人達の意識は、学校や図書館等に向いていなかった事は、確かである。
彼等の意識は、固定化されてはおらず、全方向への、開放型であったはずである。
全方向に開放型であれば、自分自身が、中心に位置しなければならない。
其れは、金銭と家財、其れに権力者のイス等に、意識が捉われる事では無い。一ヶ所に居て、前後、左右や、上下に意識を向けていれば、自分が、何れかの方向に動き出す事にはならない。
会社に行くとか、自宅に帰るとかの、意識が無いのだ。
会社や、家族の為に、自分が、動き回らなければ成らない事が、消えてしまうのである。
月は、地球の周りを廻り、その地球は、太陽の周りを廻っている。
そして、太陽も銀河の円盤を廻っている。
其の銀河の中心は、台風と同じで、中心は空に成っている。
何故、物質の中心は、力を強く持てば、空に成ってしまうのだろうか。
其処には、重力とか、引力の秘密が隠されている。
太陽系の次元までは、中心に大きな物体が有るが、銀河のレベルに成ると、中心に物体が、必要ではなくなるのだ。
其れは、銀河レベルに成ると、粒子的な運動状態に成るので、物同士が結び付きを失うからであろう。
粒子的に、自由な状態に成った物は、自分の位置を、自由に変える事が出来るのだ。
釈迦牟尼仏や、イエスキリストが謂った、自由に成るとの理は、自分が一個の粒子として、自由に振る舞える様に、成る事ではないのだろうか。
彼等は、自由に変化出来る事を、無意識の世界から、イメージとして取り出していたのではないだろうか。
自由に振る舞える様に成れば、変化する事も自由である。
自由に成る事に成功した者は、一番力のある中心へと導かれ、其の周囲を廻り始め、一つの渦を形成する事になる。
其れが、人間の、集団形成の始まりにも成る。
現在の人間社会は、自由に成った者の周囲に、人間が集まるのではなく、人間の自由を奪う貨幣を多く有した者を中心として、人が集まっている。
現代社会は、真の人間が、中心と成るのではなく、お金という真の力ではない物に、人間の視覚が奪われて、偽りの力に振り回され、人間の意識はバラバラに成り、混乱を増すばかりである。
私自身は、其れ等の呪縛から解き放たれて、何かの中心を求めている。
しかし、私自身が、回る為の中心のモノを、見付けられないのだ。
創価学会や他の宗教は、人間を中心として回っているが、私は、其れ等の人間が対象ではない。
私は、現在・いま故郷である屋久島に住んで、自分の身が、何を欲しているかを探っている。
探っていると言うより、慥・たしかめていると言った方が、適切かも知れない。
ただ単に、「五感」と言うが、五感が働く源に、未知なる別の感覚が潜んでいる。
私の感じ方では、意識は、後頭部の脳髄にセンサーが有り、心は「鳩尾・みぞおち」がセンターである。
他には、セックスは睾丸に有って、ペニスの頭ではないし、暴力は、心には無く手に有るし、移動は、意識には無く足に有る。
其の証拠に、足と手を組んでしまえば、暴力と移動行動は止まってしまう。
自分の周囲を、視覚化するのは目であり、位置を確かめるのは聴覚である。
其れ等の、働きを全部止めてしまえば、太陽は、自分の為に昇り、月もまた自分の為に満ち欠けするし、雲も、自分の為に浮かんでは消えて行く存在となる。
あらゆる物が、自分の為に回っている事に成るのだ。
しかし、それも座禅をほどいて、立ち上がってしまえば、目は、食物や生殖相手を求め出すので、手や足は、其れに連られて動き出す。
其処には、もう、自分を中心とするモノは、全て消えて無く成っている。
其れが、動物としての人間の業・カルマである。
太陽や、銀河の中心は動かなくても、エネルギーを吸い込み、吐き出しているのだ。
しかし、人間は、植物の様に、宇宙型では生きて行けない。
木や草も、雄花は、花粉を飛ばす為に、拡散意識を有さなければ、役目を果たせない。
雌花は、反対に、動く必要が無く、受けるエネルギーだけを維持すれば良い。
雌花の働きこそ、宇宙の真理を受け継いでいるのだ。
老子の謂う「雄の立場を知った上で 雌の立場に身を置け」とは、その理・ことわりを意味している。
雌と言っても、それは説明の為であって、生き物の雌の姿ではなく、宇宙の働きの本質を説いているのである。
其処に「座標軸」の言葉の意味がある。
其の、座標軸の働きを視覚化する為に、机の上の紙に落したのが、周囲に菩薩を置く、大日如来の中心の姿なのだ。
そして、其処にまた、視覚の罠が仕掛けられてしまうのだ。
仙人や、聖者が、どうして森の中に住むのか、其れは、視覚化出来る物が、動かない為である。
人間は、経済と言う、動かなければ壊れてしまう世界を創り出し、人間全体が自ら創り出したその罠に填って、自由を失っている。
私は、其れ等の世界から脱出し、19年が過ぎ去った。
19年前に、神が、私に告げた「座標軸」の何たるかが、ようやく意識に補足出来て来た。
其れは、私を中心に、物事を組み上げる為に、神の意識が、働いているからである。
私が、その様に感じる程、物事が動き出している。
私は惟、「疑・ギ(人が頭をあげ、思いをこらしてじっと立つ姿の象形)」の文字体で、立ち止まっているだけで良いのだろう。
中国の老子の姿を画いた絵は、動かない牛の背に、乗った姿である。
其れは、「大日如来・マハーヴァイローチャナ」を、人間化したもう一つの姿である。
一昨日から、岡山の「伊丹さん」や、東京の女性にも、牛のイメージが届いている。
牛とは、動かないで生きている「佛・ブッダ」の現れ身であるのだ。
木陰に寝そべって、静かに、草を反芻(はんすう)している牛の姿こそ、佛の涅槃をイメージするものである。
昨日のメッセージに有った「ヌーのごちそう」とは、草食の理だろうか。
其れは、草の心と書いて、芯の文字である。
座標軸とは、草の心を知る理でもある様だ。
釈迦牟尼仏が、花一輪を手にして、静かに瞑目している「拈華微笑」の世界も、又座標軸の一つの世界である。
光を食べて生きる植物こそ、永遠のブッダを、秘めていると謂えるのではないだろうか。
動きの無いモノこそ、実は、宇宙の中心的働きをしている、モノだったのである。
目に見える働きをしている者は、中心ではなく、周りを廻る、一粒の粒子にしかすぎない理が見えて来た。
中心とは、重い力を有するが、姿が無いのである。
肉眼の目には見えない、其の力の存在こそ、実は座標軸であり、事象の特異点なのである。
私は2〜3日、野菜の水菜を生で食べている。
清い水で育った水菜こそ、宇宙の神秘を、帯しているのだろうか。
私の、今日の魂は、水菜の代弁なのかも知れない。
平成15年10月7日
礒邉自適
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