2003/8/15
水の島
15・8・15
今年のお盆は、三日とも連続雨である。
昨夜も、雨音の中に眠っている所為か、夢には、滝の水が流れ落ちるのが映って来た。
私の意識が「そうか 屋久島は 水の島なのだ」と思うと、「違う 地球が 丸ごと 水の世界なのだ」と、別の意識が現れて来た。
考えてみれば、屋久島に雨が多いのは、屋久島が、水を生産しているのではなく、大きな地球の水の循環システムの中で、丁度、屋久島が雨の降り易い条件下に、あると言う事である。
中国の南の方で、蒸発した水分が、屋久島の方に移動して来るし、台風の通り道でもある。
南の湿った空気も、九州本土に届く前に、屋久島の二千メートル級の山岳に捕まってしまう。
屋久島に、雨が降らなくなる時は、地球上の何所にも、雨が降らない時ではないかと想ってしまう程だ。
そんな屋久島に、生れ育った私だから、雨が嫌いと言うのではなく、「今日も又雨か」と、一人で呟く程度で、雨が降るのは当たり前の事として、受け取って来た。
私は、屋久島で産まれて56年経っているが、私の生れた頃は、未だ、ビニール製の雨合羽やゴム製の雨合羽も無いので、二ヶ月程、農作業が出来ない年もあったと、父親に聞いた事がある。
当時は、未だゴム合羽でも、手に入り難かったのであろう。
私達が農作業をしていた頃も、未だゴム合羽であり、着ると重くて、破れ易かった記憶がある。
やがて、ビニールの合羽が出来て、何と、軽くて働き易いものかと感じたが、冬に成るとゴワゴワして、バリバリと破れるので、あまり長持ちはしない物だった。
雨が降り続いても、牛馬の餌である草刈りに、毎日出て行かなければ成らない。晴耕雨読の様な、呑気な気分には成れない生活だった。
雨が降る、降らないに関係なく、草刈りには行かなければ成らないので、晴れた日と、雨の日の、区別をする心にも、成れなかったのである。
晴れたら晴れたで、晴れた時の農作業が待っている。
現在の様に、ハウスの中の作業でも有れば良いが、当時は、その様な物も無いので、雨の日は、雨に濡れながら出来る作業を行って、天気に成るのを待って、晴れの日しか出来ない作業を行うのである。
当時の農作業は、天気と切り離す事が出来なかったのだ。
私にとって天気とは、自分と一体のものであり、天気の事を外して、自分の存在を考える分けには、行かなかったのである。
其の習慣が、現在でも身に沁み着いていて、自分の思考が、天気に左右されるのだろう。
お日様は、当(照)るもので、心に沁みるのは「水」だとの漢字は、その事を能く表していると想う。
私達が、農業をしている頃は、縁側で日向ぼっこをする余裕などは、皆無だったのである。
晴れた日に、しなければ成らない事は沢山あった。
上天気の日に休む事は、罪人の様な感覚さえ生まれていた。
其の私も、現在では、ようやく上天気の日に、何もしないで家に居る事が、疾・やましくなくなったが、数年程前までは、晴れた日に何もしないで家に居ると、罪の意識に襲われていた。
私が雨を好きなのは、雨が降れば、休んでいても罪の意識が無く、気分が楽に成れるからかも知れない。
屋久島でも雨が降らないで、「砂糖きび」や「さつま芋」等が、枯れかかったりする事も有った。農業は、雨が降らなければ一番困るのである。
野菜の種子は、蒔く時期が外れると、収穫に影響が有る。
種子を蒔いた後、雨が降らないとやきもきする。
長雨よりは、旱魃の方が怖かった事も、雨にやさしさを感じる、原因と成っているのだろう。
屋久島は、大量の雨が急激に降るが、地形が、其れに合せて出来ているので、災害は少ない。だから、雨に対する憎しみは少ないのだろう。
近年に成って、森林を皆伐して、土砂崩れが起き、災害を受けたりしているが、其れは、人間の自業自得であり、雨の所為ではないのである。
私は17歳の時、父親が亡くなって、農業を継ぐ事に成った。
そして、一年間、自分の責任で経営をして見ると、屋久島は雨が多いので、草を除去しても、しても、後からどんどん生えて来る。
持ち畑の、全部を取り終えない間に、もう最初に取った畑には、草が生えてしまっている。
私は、其れを見て、「嗚呼 私の人生は 草取り人生で 草に一生追われて 生きて行かなければならないのだ。」と、感じてしまった。
其れと、畑のPH(酸性度)を計る器具を借りて来て、PHを計り、度数に応じて石灰を撒いても、数日も経たない内に、大雨が降って、畑の土は、太平洋に赤茶色の帯となって、流れ出して行く。
私は、自分の行動と、投資したお金が一日にして、無駄に成るのを見てしまった。
其れ等の事から、草取りに追われない農業で、畑の土が流されない方法は無いものかと考え、草を生かす農業、土が流れない農業として、ポンカンと肉用牛の生産に切り替る事に決めて、20歳から資金を借りて経営の転換を図った。
其れは、技術的にも、内容的にも正解であったが、国の政策に疑問を持ち、25歳で農業から撤退する事にした。
多量に降る雨を、敵にするのではなく、味方にする方法を考えたのである。
今でも、その考え方は、間違ってはいなかったと思っている。
あの時、農業を止めていなければ、現在の様に水を好きに成り、水と戯れる私は無かったであろう。
農業をしている時は、水や雨の存在は、自分の対象側に有り、自分を水の内側に、持ち込む事は無かったであろう。
激しい雨音を聞けば、畑の農作物の事を、心配してしまう生活を続けていれば、現在の様に、雨音の中に、自分を浸し、心の中に、水が沁み込んで来るのを、楽しむ余裕は無いだろう。
自分の外側を流れる水は観察出来ても、自分の内側を流れている水や、他の動物や、植物の内側を循環している水にまでは、意識は伸びて行かなかったであろう。
子供の頃は、台風が通過する時に、素裸で外に飛び出し、強い風に吹き飛ばされながら、ヨロケル身に、雨粒が激しく突き刺さって来るのを、面白がって楽しんでいた。
夏休みに、暑い日差しの中、砂糖きびや薩摩芋の草取りを、汗と泥塗れに成りながら遣って、冷たい川に飛び込んで、身体を洗い流す時の、気持の良さは今でも忘れない。
毛穴で感じて来た、水の気持ち良さは、脳裏に沁み込んで、離れない様である。
四季の雨の中で、夏の雨は、人間の源点を蘇らせる力が、有るのではないだろうか。
水の世界に、深く入れば入るほど、自然生物のいのちが身近に成って来る。
深い森と、清い水に接していれば、小鳥や動物だけではなく、人間だって優しく成れる。
森がなければ、砂漠や草原に住む民族の様に、他国を攻め、収奪をする様になり、水が有っても、海に生活すれば、海賊にでも成りかねない。
私は、喧嘩や暴力は苦手である。
私は、小学校の頃から、親から借りて自分の畑を持ち、草花を栽培して、店に売って、自分の小遣いを稼いでいた。
草花を育てるのは、水の管理が一番である。
家に飼っていた、馬や牛にも、水を飲ませなければならない。
生き物と、水の関係は、学校で習わない内に、理解していたのだろう。
水を与えて、相手を大事にする事。
其れが、私に、知らず知らずに身に着いた、ライフワークなのかも知れない。
「魚心有れば 水心」の諺もある。
自分が、魚の心に成れば、天は気持ちの良い水の世界を、与えてくださるのではないだろうか。
雨天のお盆中、水と人間の係りだけを、観じて過ごして来た。
インドのお釈迦さんが謂ったと云う「全てを 水に還す」とは、此の理だったのかも知れない。
今日は、終戦記念日である。
日本の軍部の人達が、水の心を忘れ去っていた事に、戦争の原因が有ったのではないだろうか。
お盆に、台風も来ないのに降り続ける雨は、これ迄の人間の罪を、洗い流す慈雨なのかもしれないと思えて来た。
緑り豊かな、水の島に生れ育った事に、日々感謝の気持ちが湧いて来る。
まるで 自分が、水から 誕生した 精であるかの様に。
平成15年8月15日
礒邉自適
2003/8/10
海の変り様
15・8・10
今年の夏は、大潮の毎に5〜6日間は磯物捕りをしている。
一日目か二日目の分は、自分で食べたり近所に上げたりして、三日目以後の分は、全国のお世話になった人へ、着払いにして贈っている。
磯物捕りは、私にとって一石四鳥の意味を持つ。
第一は、運動不足に成りがちな私は、3〜4時間の磯歩きは、丁度良い体力増進に成る。
数kgの荷を腰に着け、泳いだり、崖を登ったり下りたりしていると、結構な運動量に成るのだ。
第二には、私は、屋久島の成り立ちに興味を持って、仲間と地層研究会を催しているので、島中の海岸の地層を調べて回る事と、兼ねて出来ることに成る。
第三は、食糧の足しになり、磯物を差し上げた人から、野菜等を貰うので、随分助かっている。
第四は、最初に言った様に、お世話に成った方々への贈り物に使えて、喜んで貰っている事である。
屋久島で捕れる貝は、アサリやハマグリ等の砂浜で捕れるものではなく、岩場で捕れる巻き貝類等で、普通の商店に出回るだけの量が捕れないので、珍しいからである。
岩場で捕れる貝は、昔と余り変化は無い様だが、水中に潜って捕るトコブシの方は、激減している様である。
原因は、トコブシの食料と成る海草が、減った事に有る様だ。
海草が減った原因は、島で使う除草剤や、家庭排水の化学洗剤だと言う説などが有るが、定かではない。
屋久島に、飛魚が産卵に来なくなったのも、海草が無くなったからだとも言われている。
確かに、私が、磯物捕りで岩から岩へ渡る時に、水中眼鏡を掛けて海の底を見ていると、昔の様に海草が長く伸びて、ユラユラ揺れている場所が無い。
30年位前までは、海底を視ると、海草が揺れていて、長く其れを見詰めて居ると、船酔いを起しそうな気分に成る事があった。
伊勢海老が、塒・ねぐらの岩穴に帰らないで、海草の中に隠れて休んでいたりしていたし、モハミ(ヴダイの一種、藻食み)も群で藻の中に隠れて出入りしていたので、揺れる海草の中を、銛・モリを片手に狙ったりもしていた。
其れが、モハミの数も極端に少ないし、居ても藻が生えていないので、隠れる場所が無く、追い掛けると自分の住家にまで、逃げて行き、岩の下から出て来ない。
モハミだけではなく、餌が少ない所為か、伊勢海老も、昔の10分の1程も居ない様である。
30年程前には、結婚したばかりの妻を連れて、魚釣りに行き、妻が伊勢海老を何匹も釣り上げて、新聞のコラムに載った事があった。
伊勢海老を釣り上げたのは、妻だけで、私の針には一匹も食い付かなかったのである。
後で、其の原因を良く考えて見たら、妻は釣が不慣れなので、水中の深さが判断出来ないから、糸を深く下していて、餌が岩の上に乗っかっていたのであろう。
餌を探しに、群で遣って来た伊勢海老が、其れを、次々に食べて、釣れたものと想われる。
私の釣り糸は、水中の中間に有るので、伊勢海老は届かなかったと考えられる。
其の場所は、現在の空港が有る早崎の下だが、現在は海底が真白に磯焼けしていて、何も海草が生えていないし、割目の伊勢海老の巣を覗いても、一匹も住んでいない。
屋久島は、日本一魚の種類が多く、580種が数えられるとの事だが、種類は多いとしても、魚影は極端に少なくなっている事は間違いない。
私達が子供の頃は、貝を捕る為に、海底の石を引っ繰り返すと、ベラ類が20〜30匹は直ぐ集まって来て、舞い上がる餌を食べていたものである。
2メートル程の長さの竹竿で、川エビや、ヤドカリの身を釣り針に付けて、べラ釣りをすると、子供でも20〜30匹は直ぐ釣れていた。
現在は、同じ状態でも数匹しか集まって来ない。
夜、岩の隙間で眠るベラ類は、伊勢海老の餌に成っていたのではないだろうか。
海の中も、食物連鎖で成り立っている。
海草が生えなくなって、小魚が産卵できなくなり、べラの餌も無く、ベラ類が滅びれば、伊勢海老が減り、伊勢海老が減れば、其れを大好きな蛸も減ってしまう。
陸上の生物は、人間の目に触れ易いので、保護は比較的に遣り良いと想うが、海の中は、誰かが潜り続けて観察しなければ、絶滅していても、気が付かない事になる。
私達の子供の頃は、村の何歳か年長の子供が、年下の子供に釣や、貝捕りを、手取り足取り教えてくれたが、現在の子供達は、其れらの遊びが少なく成っている。
私が45年ぐらい前に、遊んでいた同じ場所を見ると、岩は昔のまま動かずに、同じ場所に、同じ姿形で、在り続けている。
しかし、其処には、嘗ての私達の様な子供の姿も見受けられず、水中にも昔の豊かさは無い。
あの頃の、海の豊かさは、私達の脳裏にしか残っていないのだ。
私の、56歳の磯物捕りの遊びは、一石四鳥に、もう一つ、海の思い出と観察が加わる事に成るが、何かの復活の手段が見付かれば、六羽目の鳥を得ることに繋がるのだが、今の私には、具体的な良い方法が見付からないので、一石五鳥で止めて措こう。
平成15年8月10日
礒邉自適
2003/8/9
意識の絡繰
15・8・9
「道」の漢字は、「行+首」の組み合わせで、「異民族の首を 埋めて 清めたみち」の意味の象形である。「首」の漢字は、目の付いた顔と毛髪の組み合わせで、「目」は人間の意識の意味であり、その概念は世界共通である。
そして、最大の意識の目は、山に住む神様に在ると考えられている。
○エジプトのピラミッドのラーの目
○ユダヤの石工の目。アメリカのドル札に印刷されている目。
○ベトナムの宗教・一ツ目の神。
そして、日本の奈良の三輪山や、滋賀の御神山の様に、花崗岩の山が御神体とされているのも同じ概念である。
世界中が何故、岩山が神の目と考えられ続けて来たのだろうか。
モーゼ・イエス・マホメット・空海・役行者・出口王仁三郎など、宗教の教祖に成っている人達は、皆岩山に引き寄せられている。其れは、岩山に意識が存在し、其れに見詰められていると、感じていたからであろう。
その他にも、チベットのカイラス山信仰や、オーストラリアやニューギニアの原住民達の、岩山を神の住む所と考える生活など、世界中挙げて行くと沢山出て来る。
又、岩石だけの信仰でも、ケルト族や、アステカ・マヤ人達、それにイースター島の石像等の石の文化は、神に近付く為のものである。
此の様に、人間と神の中間に、岩山や石の文化が存在する原因は、何であろうか。岩石や、岩山に意識が存在し、其れは「神の目」であるとの考え方を、現代風に説明すれば、どういう理・ことに成るのだろうか。
私の場合も、禊を済ませ聖霊に満たされたら、屋久島の山岳に登ったり、島中の石を家に持ち帰り、螺旋構造に積み上げたりさせられた。
神の世界に入って、最初に遣らされた事は、石や岩山と取り組む事だったのである。
毎日毎日、石と取り組んでいる間に、私の意識は人間社会から離れて、自然との共鳴へと進んで行ったのである。自然と同化して行くと、様々な精霊の働き掛けが有り、奇蹟が起きるので、段々と、神の存在を信じる様に成って行ったのである。
屋久島の岩山で瞑想をし、岩や石と遊んでいる事が、神の世界への入口と成ったのである。イエスキリストが最後の夜、山上の石の所で一晩中祈って居たと言うのも、私には能く理解が出来る。
神の意識は、空から降りて来るのではなく、岩から発せられて来るのである。
日本では、「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」や「饒速日命・にぎはやひのみこと」が、山に降りた事に成っている。其れは、瓊瓊杵尊や饒速日命が、直接天から山に降りて来たと言うのではなしに、瓊瓊杵尊や饒速日命に、神が岩を通してメッセージを降ろしたと言う事である。
旧約聖書に因ると、アブラハムが息子の「イサク」を、神の燔祭にしようとしたのは岩の上である。
奈良に在る「石上神宮」は、御神体が裏山の花崗岩の山と言うことに成っていて、石の上が神の宮と記されているのが面白い。石上神宮は、物部家代々の先祖を祭る神社で、物部家は「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊・あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと」の子孫と云われている。
其の「饒速日命」が、どのルートで日本に渡って来たのかは分からないが、アブラハムの子孫の一部だとする考えも、全く外れているとは言い難い事である。
天皇家は、物部家の儀式を取り込んでいるが、岩山が神との考え方は現在無い様である。
日本には、未だ山岳信仰が残されているが、現在では、人間が神通力を得るのが目的のようで、「山自体が神である」として敬う事からは、外れて来ている様に感じる。
神通力を得ようとか、悟ろうとかの考えは、自分の考えや目的に原因を発するものであるから、山自体を神として受け入れる事とは、最初から入口が別の処にある事に成る。
屋久島に伝えられている「岳参り」の伝承は、自分が悟りたいとか、神通力を得たいとかの目的の為ではなく、山の神が、人間の幸福や平和を護ってくれているとして、年に数回お礼参りに、海水や、海の砂を、御供えに持って参拝するのである。だから、健康な男性が入山出来、女性や子供は参加出来なかったのだ。
現在では、子供や、女性達も、参加出来る様に成って来ているので、ハイキング的な要素が加わり、本来の目的からは外れている様である。
目的が変わると言う事は、目的意識が変化する事だから、考え方が変ってしまう事を意味する。
同じ、山に登る行為でも、目的意識が変われば、目にする物から、受け取る印象が変わるので、物に対する考え方が変化し、物の価値観が変ってしまうのだ。
私も、子供の頃は別として、37歳までは、屋久島の自然は生活の手段に有効利用するべきものと想っていたが、38歳からは、屋久島は神の身であり大切に守らなければならない物として、考える様になった。
其の意識の変化は、仕事を全部止め、一人に成って、屋久島の自然の中に、自分の身を投じて、不思議な体験をしたからである。
水道の蛇口からではなく、川から直接水を飲み、電気を点けて生活するのではなく、暗くなったら眠り、明るくなったら起きる。鍋で、煮た食べ物を食べるのではなく、木の実や、海の物を直接取って生で食べる。
そんな生活を、一人で自然の中で続けていれば、人間社会のシステムは、全て頭から消えてしまう。お金は、全く意味を持たないし、教育や文化も、全く関係が無くなってしまう。
自分が、それまで良いと想っていた事も、価値が有ると想っていた事も、全て必要がない事だと気付くと、意識は、それ迄とは逆転してしまい、価値あるものだったのが無価値に成り、無価値だと想っていたものが、行き成り価値を持って来るのである。
そうなると、普通の生活を続けている人達とは、行動が反対に成って来るのだ。
それ迄、立派な神社は「善なるもの」であったのに、大事な山を破壊した極悪な物事と成ってしまうのである。子孫が繁栄する事が、良い事から悪い事と成ってしまうのだ。
大きな建物は、資源の無駄遣いで、利己主義の塊と成ってしまうのである。
その様に、思考が動き始めると、頭が良い事が、悪い事になり、働き者は自然破壊者と成って来る。その結果として、人間の意識自体を、疑問に想う様に成って来る。
処が、不思議な事に、其れから数日を自然の中で過ごしていると、そんな疑問も何処かに飛び去って、透明な意識と成って行くのだ。
岩や、山は、もう気に成らないで、草や木と意識が一体と成り、虫や鳥と自分が同化してしまうのである。其処には、人間の言葉の会話ではなく、別の会話が成り立って来るのである。
それ迄の、言葉に拠る意思の疎通ではなく、生物全体の意識回路に、直接繋がるのである。
人間は、人間として別に存在するのではなく、自分は一個の個体ではなく、全体と一体の存在だと気付くのである。
其れが、古代から、人々が山に入る事の原因だったのである。本来のシャーマニズムとは、その様なものであったのだ。
山の神様に、自分の欲望を押し付けるのではなく、山の神と自分が一体化する事が、本来の目的だったのである。
その事を願う者が、王様に成ったり、宗教を起したりする分けが無い。
昔の仙人の暮しとか、聖者の生き方を見れば、その事は歴然としているではないか。自然の森や、清い川の流れが、地球から消えた時、その意識の源を求めても、もう遅いのである。
インドの釈迦仏陀が、「2500年後には 全ての民衆は無明に陥り 其れを救うのは 彌勒と言う一人の目明きの人間だ」と謂っている。其の目明きの「目」とは、山の意識と同化した人の目であろう。
日本語に残っている言葉に「目出度い」とか「お目出とう」と有るが、其れは山の目を得た人間が、此の世に誕生する事の意味なのではないだろうか。
屋久島の森が、その人間を生み出す最後の地であれば、それこそ世界遺産とするべき価値がある。
縄文杉は、その為のたった一つの看板にしか過ぎないのだ。縄文杉が看板であるなら、「看板に偽り有り」と言う事には成らないが、島民を含め、島外から島に立ち入る者達も、価値観を改めて貰わなければならないだろう。
屋久島も、現在・いまはぎりぎりの局面に達している。伊勢神宮や、石上神宮の存在も、ただの儀式伝承に陥っているのであれば、キリストが復活すれば又殺しかねないのである。
イエスキリストや釈迦仏陀も、建物を必要とした分けではない。
屋久島の、緑と、水と、岩が、神のヤシロなのである。その中にこそ、真実の神が宿るのだ。
神社で唱える「大祓詞・おほはらへのことば」にも「國つ神は高山の末、短山の末に上り坐して、高山のいぼり、短山のいぼりを掻き別けして聞こしめさむ・・・・・」と有る。神が森に住む理・ことは、古代からの常識なのである。
我々は、本来の意識を取り戻すべき時を、迎えているのである。
平成15年8月9日
礒邉自適
2003/8/8
鎮魂(たましずめ)
15・8・8
1988年8月8日に、長野県の八ヶ岳で「いのちの祭り」が催しされ、私もそれに参加した。
早いもので、それから丸15年が経過した事になる。
いのちの祭りの内容は、古代では「たましずめのまつり」として行われていた様なものだと、私には感じられる。
「いのち」とは、いま有るだけの現象に対して言うのではなく、遠い昔から永遠に継続されている「タマシイ・魂」に対しての、呼び名の様な気がするからです。
私の「いのち」も、私から始まったものではなく、両親と両親の先祖と、38億年もの永いトキを繋いで来ている、生命の鎖(スサ・苆)が存在するからです。
私は、1983年3月18日に無庵師匠に探し出されて、翌年の3月5日より、禊の世界に入りました。
そして、三ヶ月後の6月4日(旧5月5日)に神の世界に入り、今日まで神霊との付き合いが続いて来たのです。
6月4日に、安房川の岸辺で水浴をして、4311体の聖霊に満たされました。その時、私に起きた事が、たましずめの意味が現実化した「モノ(現象)」だったのでしょう。
「たましずめ」を広辞苑で調べると、次の様に載っている。
・「たましずめ」【鎮魂】〔シヅメ〕
@生者の遊離した魂を招いて、その身体に鎮めること。
A「たましずめのまつり」の略。
・「ちん・こん」【鎮魂】
@をおちつけしずめること。たましずめ。
A死者の魂をなぐさめしずめること。 〜引用終了〜
私は18年掛けて、4311体もの霊魂の鎮魂を続けていた事に成ります。
たましずめの祭りは、現在でも物部系の神社で毎年行なわれています。
天皇家も、物部の儀式を継承しているので、毎年11月23日の新嘗祭の前日に、その神事を催しています。
奈良の「石上神宮」は、物部代々の霊魂を鎮魂する為に、11月22日に行われ、物部初代を祭る島根県大田市の「物部神社」でも、毎年同じ時に行われています。
何時の頃からか、日本の神事は、物部族の儀式中心に行われるように成って来たようです。
天武天皇が日本書紀の編纂を命令して、次の持統天皇の時に、儀式を一本化するまでは、18の部族が其々に「墓記文(おくつきのふみ)」を伝えており、18部族が皆異なる儀式を継続していた事が窺えます。
18の部族の代表に、自分達の文化である習慣を棄てさせる事は、相当の権力的圧迫が必要であり、何かの条件が提示されたものと考えられます。
天皇家が、18の部族の先祖の霊魂を、代表して奉斎すると、約束でもしない限り、全部の部族が納得する分けが有りません。
其の約束が、現代では守られていないので、4311体もの霊魂が、私に頼って来たものと考えられます。
私が、18部族の「神霊の思頼・みたまのふゆ」を、受けた事に成ったのです。
私が、全国の神社を廻った時、神社の神霊が「こんな所まで来て頂いて 申し訳無い。ありがたい。」と、お礼を言って来たのです。
勿論、全部の神社でと言う分けではありません。
神霊も、元は、一個人の人間だった存在ですから、分離・分霊する事は出来ませんので、何所に現れても、其れは一個の霊魂が、飛び回っているだけに過ぎませんので、本来は遺体を埋葬した場所の御陵だけが、正式な「社・やしろ」であると言う事に成ります。
神社に勤務する禰宜職とは、霊をねぎらう役目の者ですから、御陵の無い分社に禰宜が居る事は、おかしな事に成ります。
禰宜職とは、お寺の「墓守坊主」と同じ職業と言う事に成ります。
私の、身体を借りに来た4311体の霊魂・神霊は、天皇霊や部族長だけではなく、仏教者や宗教の教祖、哲学者なども居たので、神社だけではなく、寺院の方でも、鎮魂が正しく行われていないと言う事でしょう。
日本の神社で、唱える大祓祝詞の中には、「神霊の思頼」と有りますが、これは鎮魂の儀式が正しく行われれば、神霊の思いや頼みが、その者に寄り付くということに成ります。
私の存在は、古代から行われ続けられていた儀式に、正しく取り込まれた事の証しとなるのでしょう。
現在では、天皇家や、宮内庁・神宮等で行われている神事が、只の行事化されていて、真実の事柄が起きていないとの事に成ります。
私の、18年間の全国の旅は、神霊の命を受けた「遵(じゅん)行」の旅だったとも言えるでしょう。私は、霊魂達が昔し人間であった時、生れ育ち、活動した場を、実際に自分で直接踏み、霊と時空を共有しながら、神霊の思頼を理解し、願いが適う様に、思考と行動を続けて来ました。
私は、現在・いま自分の故郷である屋久島に帰り、気持の整理をしております。 4311体の霊魂と、その後に憑いて来た天皇霊や、何人かの霊達も、私の邪魔に成らない様に、静かにしてくれている様です。
私は、霊魂・神霊が自分の身体に入り込む前の、礒邉自適を思い出しながら、自分自身の意識の組み立てを行なっています。
書く文章も、昨日から「です」「ます」の文章用語の、口語体に成って来ています。
私の意識が、報告形に成り、過去の思い出の整理に入っている事は、間違い無いようです。
私の旅が、終ったと言う事は、「神霊の鎮魂」が成功したとの事ではないでしょうか。
鎮魂は、「ふるたま」と対に成っている言葉ですが、「振魂・ふるたま」は辞典にも載っていません。辞典に載ってもいないという事は、もう社会から忘れ去られた事柄なのでしょう。
「勇気を奮って」の言葉は残っていますが、振魂の行事は消えてしまっているようです。
昔の男性には、武者振い(震い・顫い)との所作が、起きていたのですが、現在の男性には、余りその事が実感されないのか、使われない言葉と成って来ました。武者振いとは、自分の使命感が、肉体と同調した時に、起きる現象です。
鎮魂の儀式が行われた後、自分の宿命に気付けば、心は晴ればれとして、自分の人生に立ち向かって行けるのです。
天皇の代替りの儀式が「大嘗祭」ですが、その儀式は、新しく天皇の役に着く者が、鎮魂の儀式を済ませ、天皇家の代々の先祖の霊(すめみおや・皇御祖)の思頼(ふゆ)を受ける為、悠紀殿と主基殿にて祖霊と直会(なおらい)をするものです。
直会が成功すれば、先祖の霊が新天皇の身体(空だ)に入り、天皇は自分の使命感に目覚めて、武者振いして立ち上がり、供えられている履物を履いて、殿から出て来なければ成りません。
其の事が、もう1300年間も成功していないのです。
だからこそ「昭和天皇」はじめ、4311体もの神霊が私に頼って来たのです。
人類の未来は、たった一人の「天津日継・あまつひつぎ」の御魂に掛かっていると言えるでしょう。
現天皇から、皇太子に移譲される時、大嘗(譲)祭が、成功するかどうかが、最大のポイントと成るでしょう。
2012年12月23日までに、何をするべきか、是から、明らかに成って来ると想われますが、先ずは、自分の鎮魂を行わない限り、その答えは見付からないでしょう。
私は、自分の鎮魂は18年前に済ませ、振魂の現象も起き、4311体の神霊の思頼も受けて、その鎮魂も済ませました。
私個人の、「いのちのまつり」は終了したものと想われます。
此れからは、他の人々の鎮魂を見守る立場と成るのでしょう。
平成15年8月8日
礒邉自適
2003/8/7
生命の源点
15・8・7
私達人類は、行き成り人間に成ったわけではなく、約40(±2)億年の時間を掛けて進化して来た理・ことは、今では、全ての人々が知っている事である。
しかし、草木はともかく、鉱物やガスで出来ている星にまで、「命・いのち」が存在すると言い出してしまえば、生命有るものと、物質との境界線が無くなってしまう。
私自身は、岩や樹木とも意識が通じるので、「岩が生きている」と言われても別に抵抗はないのだが、其れでは、現代社会では非常識だと言う事に成ってしまうので、何処かで境界線を引きたいと想う。
私が、何故、この様な事を言うかというと、未だ、「生命(いのちあるもの)」と「物(いのち無きもの)」の境界が、ハッキリと定義出来ていないと思うからである。
現代社会は、科学が発達して、人間の肉眼では、見えない小さな生き物の存在が、明らかに成って来ている。
近年の報告によると、地下数千メートルにまで、岩石の中に微生物が住んでいて、その総量は地上の全生物量よりも多いそうである。
その微生物は、岩石を利用し、硫酸や硝酸と鉄を化学反応させ、そのとき発生するエネルギーを使って、有機物を創り出して、生きているという事である。
40億年も前から、その様な微生物が活動して、地球の環境を変化させ、現在の生物が生きられる環境に、地球を整えて来たのである。
では、私達人類と、40億年前の微生物とは、いのちの繋がりが有るのでしょうか。
私は、確かに、現代まで、その働きは継続していると考えます。
人間の體の仕組みは、複雑な様に見えますが、原理は簡単です。
人間は、堆肥の材料を集めて回る為に、現在の體の仕組みを、作り上げて来たのです。
植物は、土の中に根を広げて栄養を吸収していますが、人間は、堆肥工場として腸を造り、栄養を吸収しています。
人間の體の仕組みは、植物の世界と、裏表が逆に成っているだけです。
岩石を、酸で溶かしていた微生物は、現在・いまは、動物の胃袋の細胞と成っており、口から入って来た材料を胃酸で溶かします。
そして、小腸の細胞が根を出して、消化された栄養を吸収しているのです。
植物も、根から酸を出して、岩石を溶かして吸収しています。
例を挙げると、自然芋(山芋)が、芋に生えている産毛の様な白い根から、酸を出して、土や砂を溶かして穴を開け、同時に溶かしたミネラル分を吸収して、蔓や葉に送って繁茂し、其の葉が炭酸同化作用で得た澱粉で、自分の芋を大きくして行きます。
自然芋の根は、もう一つ有り、地面の落葉の下に、横に10メートル程四方に長く伸びている根が、腐葉土に含む栄養を吸収しています。
そして、芋に生えている「細毛」が、岩を溶かすので、人間の胃に相当し、落葉の下を這う黒根が、「小腸」の働きに当ると言えるでしょうか。
植物も、私達人間も、目には見えない、小さな微生物の、集合体と言う事が出来ます。
生命体とは、微生物の集合体と言う事が出来るでしょう。
釈迦牟尼仏やイエスキリストの生きた時代には、其の事が、感覚的には捉えられても、肉眼には見えないので、名付ける事も出来なくて、言葉で説明する事が不可能だったのです。
人間の體を、構成している60兆個の微生物(細胞)が目覚めて、本人の思考が生じても、他人との言葉の共通性が無ければ、説明する事が出来ません。
唯一、理解出来るのは、生命のシステムに目覚めた者・仏陀としての存在だけです。
釈迦牟尼仏の誕生から、2500年が経ち、科学が発達した現在では、釈迦の言葉も、現代用語に置き替える事が出来ます。
私達、地上の全生命は、全て繋がっており、同じシステムの内に在るのです。それが、釈迦牟尼仏の教えである仏教の真髄です。
私達は、40億年前、岩を相手にして、此の世に存在を始めたのですから、岩が懐かしいのは当たり前の理・ことだし、40億年前に別れた仲間が、岩の中に沢山住んでいるのです。
私達が、岩にも「生命・いのち」を感じるのは、その所為でしょう。
山芋の白根が、私達の胃袋と同じであり、地面を走り回っている黒根が、私達の小腸と同じだと考えれば、植物も、大地も、自然も、身近な物となり、私達の気持ちも、豊かに成るのではないでしょうか。
唯一つ考えなければ成らないのは、他の地上の生物は、自分が食べた粕の「堆肥・糞尿」は大地に返すのですが、人間だけは、大地に返さず、水洗便所から河川や海に流しているので、自然の法則に反していると言う事に成ります。
我々、動物が吸う酸素も、微生物が32億年も前から、長い時間を掛けて造り出したものです。
人間は、其の空気のバランスを、僅か100年程で壊そうとしているのです。
人間は、自分の體が、母親から数10年前に産れたと考えがちですが、母親の前に、40億年もの長い時間が有る理・ことを、想うべきです。
そして、我々人類は、60兆個の細胞が、一時も休むことなく活動しているからこそ、存在を続けられる理・ことを知るべきです。
生命の年令は、40億歳なのです。
私達の「いのち・命」は、全てが、関連して繋がっているのですから、いのち・命は、個人と考えるよりは、全体と考えた方が、しっくり来るのではないでしょうか。
仏の世界とは、ブッダが観じた世界と言う意味ですので、私達も、生命の本質さえ解すれば、「ブッダ(佛・覚醒者・目覚めた者・悟った者)」と、成れる分けですから、仏に成った、成仏したと言う事に成ります。
私達は、中国の西遊記に登場する、孫悟空と同じ旅をしている事に成るのです。岩から産れた者として、三蔵法師の悟りの旅へ、同行しなければならないのです。
生命進化の源点は、岩に有ったのです。
日本中の、古い神社の御神体は、殆どが、丸い石の球です。
古代の人達は、岩の存在と、人間の生命が、深い仲である理・ことに、気付いていたのでしょう。
是らの理に気付けば、夜空の星々も、身近なものとして感じられて来ます。
今月は、火星が六万年振りに大接近するそうです。
火星の岩の中にも、地球と同じ微生物が、住んでいるのかも知れません。
私達のいのちは、宇宙の果てまでも、その触角を伸ばして行きそうです。
平成15年8月7日
礒邉自適
2003/8/7
ものくさ
15・8・7
昨日、「十種の神宝」を調べて「もの(物)」と「くさ(種)」が、同じ意味である事が判った。
其れは、言葉を使用していた古代の部族の違いであり、どちらかが方言と言う事に成る。モノも、クサも、品物の事であると判ったのである。
神事の物(くさ)を管理していた部族が、物を管理する事から「物部・もののべ」との部族に成り、天皇家の物品管理の役割を果たす事に成ったのである。
辞典で調べると「ものぐさ」には、「物種」と「懶・物臭」が有るが、物種は「物の材料の意味」で、懶と物臭は「無精なこと」で「品物の様に動かない様(さま)」を言い表す言葉である。
「懶・ラン・ライ」は「ものうい」で、「心がつかれて動かない」の意味である。「物臭」は、「臭」の「くさい」の「ぐさ」を音に使用しただけなので、意味は無く「種」と同じ文字の使用の問題である。
是等の事を考えると、古代の人達が、自分のアイデンティティを、どの様にして維持しようとしていたかが理解できる。
現代人が、十字架や仏像を飾って祷りの対象としたり、「南無妙法蓮華経」や「南無阿弥陀仏」とかの文字を書いた軸を掛けて、心の頼りとするのと同じ事が、昔から行われていた事が解る。
「十種神宝(とくさのかんだから、じっしゅしんぽう)」の中に、「蛇の比礼(頒巾・肩巾)」、「蜂の比礼」と出て来るが、この「ヒレ」も、布に心の指針と成る物を画くか織り込むかして、心の支えとした物であろう。
屋久島で飛魚が獲れるが、飛び魚は世界では50種類前後居るそうで、日本に30種以内居るが、其々が自分の「ヒレ・鰭」に異なる模様を着けて、仲間の識別をしている。
人間の生活方法も、飛魚と余り変わらない様だ。
軍隊で、敵を沢山殺した人は、胸にキラキラした勲章を多数着けているが、其れ等の行為は、飛魚より下位の内容ではないだろうか。人間が人間を殺して、威張る事自体、頭が狂っている証拠である。
古代の人達が、「蛇」や「蜜蜂」を標としたのは、生物の本質を知る事で、自分の精神構造を探ろうとしたからである。
現在でも、ヒンドゥー教では「蛇」はシンボルであり、フリーメーソンの結社のシンボルには「蜜蜂」が使用されている。蛇は「知恵」を意味し、蜜蜂は「システム」と「搾取」を意味している。
人間は、何かの章(しるし)が無ければ、頭にイメージが湧かず、イメージが出来なければ、体を動かせないものらしい。その点、現代人は、数字を章(あきらか)にした「紙幣(お金・ドル)」が存在するので、其れに因って体が壊れるまで動く事が出来る。実に、有り難き世の中である。
今や、神も、十種神宝も、必要無くなったのである。
そう言えば、釈迦仏陀は、経本を必要とせず、鉦や太鼓等何も使用していないので、十種神宝(仏具)は必要無かったらしい。釈迦は、お金を必要とせず、物種としては托鉢一個だけである。布施を受ける、鉢を手にして、村を巡回して食料を得ていたのである。
中国の漢字の「有・ユウ」の意味は、「右手+肉」の組み合わせで、右手に肉を持っている象形であり、やはり食料が物の一番前に有る。だから人間は、神棚や仏壇にも、食料を供えるのだ。
人間は、死んで肉体を失っても、霊魂は未だ食料を欲しがるらしい。十種神宝の中にも、最後に食料の事が入っている。
私は、現在、仕事も無く、収入が無いのだが、托鉢に出掛けなくても、食料は皆さんが持って来てくれたり、宅配便で送って下さるので、実に有り難い。
そのお陰様で、毎日瞑想を続けられ、答えを文章化出来ている。
中国の文化で一番の傑作は、漢字の存在である。インドの釈迦は、2500年前の人だが、中国には5000年も前より、釈迦の概念に似たモノは存在している。
人間の存在は、「品物」なのか、「魂(命)」なのかの疑問は、人間の意識が生じた時点からの、課題だった様だ。
「付」の漢字は、人が左腕の脈を、右手の親指で看ている象形である。
「寸」は、左腕と、右手の親指の事だから、「一寸(スン)」とは右手の親指の長さであり、「一寸見(ちょっとみ)」とは、しばらく自分の心拍数診る事で、自分の脈を計る事から来ているのではないだろうか。
「寺・ジ」は「止+寸」の組み合わせで、出発点の線の前で暫く・一寸立ち止まり、自分の脈を看(はか)ることを意味している。
自分が行動を起す前に、自分の脈拍をはかり呼吸を確しめる。其の事を、実行している人の教えを、書いた書物を、保管する建物の名が「寺」である。
神社の、蛇の比礼や、蜂の比礼の理・ことわりを文章にすれば、寺が必要と成って来る。其れが、政治的な事であれば、政府・「府(广+付)」の建物と成るのだ。
人間が、死んで「物」と成ったのか、其れとも「霊宿・ひと」として、生き物であるのかの境界に、「寸」の世界が有るのだ。
其の一寸の世界は、神と、人体との間に、魂として存在している。
其の絡繰・からくりを知った釈迦は、一番の「懶・ものぐさ」を実行している。
6年間もの、ものぐさを続けた結果、全ての物種の原因を理解したのである。
現代の世の中は、働く事が「善」であり、懶・ものぐさをしている人間は「駄目人間」とされる。
現在の日本は、ものぐさ人間である「釈迦・仏教」は許されず、「働く事が善」であると説いた「孔子・儒教」の教えが、教育の基盤と成っている。
一寸と立ち止まって、脈を診ている人は、社会の流れから取り残されてしまうのだ。
早い呼吸を続け、脈拍を高めて居なければ、存在出来ない世の中が、そう長く続く分けが無い。何故なら、この世の物種の量には、限界が有るからである。
十種神宝の中の、四つの玉は、宝石的な価値が有る物ではなく、生命を左右する働きを意味する物である。
死にそう(脈が止まり掛けている)に成っている者を、どの様にして救うかに、古代人は悩んで居たのである。
現在では、緊急医療が発達したので、「死反玉・まかるかえしたま」も必要なくなった。
十種神宝の意味を、現代風の言葉に置き換えるとすれば、身心の健康管理の道具と言えるだろうか。無論それは、自分だけの精神ではなく、先祖代々の魂が同居している事を、含めての意味である。
釈迦仏陀が説いた様に、人間は、死んだ時にただの物体だけに成るのではない。我々は、生物を動かしている、根本の力(はたらき)に気付かなければならないのだ。
全てに、行き詰まっている現代社会で、本来の姿に立ち返る為には、「道反玉・ちがえしのたま」の意味を、思い出さなければならないだろう。
私も、肉体と言う物に、魂しいと呼ぶ生命電気が流れて、心臓や肺という物種の働きで、生を受けている。
言葉が少なく、文字が発達していなくて、教育体制が整っていなかった古代社会では、「十種神宝・とくさのかんだから」は一番の文化保存の方法だったのだろう。其れに替わるのが、現代社会のコンピューター機器である。
コンピューターに、どんな生きた情報を込められるかが、此れからの人類の課題ではないだろうか。
平成15年8月7日
礒邉自適
2003/8/5
ある人への手紙
15・8・5
日本人の「アイデンティティ(自己の存在認識)」が失われてしまった現在、何がしかの方法を採らなければ、日本人の存在感は永遠に失われてしまう。
大人達が、存在意義を失ってしまえば、子供達は、何を目的として感じて行けば良いのだろうか。国民の代表である、天皇家が、只のマイホームに成ってしまうのであれば、寧ろ無い方が良いのではないだろうか。
天皇家の存在とは、日本人(大和民族)のアイデンティティを支えるものであったはずである。だからこそ、地方の氏族が戦って、幕府が代っても、日本の国家は安定して来たのである。
国家の魂が失われて、中心の力が弱まった時には、必ず、何者かが立ち上がって来た。其れが現在・いま、此れだけ国家が方向性を失っているのに、何者も立ち上がって来ない。これは、どうした事であろうか。
其れは、男が男性の機能を失ったからである。男性の、本来の働きとは、民族のアイデンティティを立ち上げる事に有ると言える。
天皇陛下に、其の力が出せないのであれば、古い血筋から血を蘇らすしか他に手段が無いのではないか。
神武天皇2660年前、崇神天皇2000年前、天智天皇1333年前、後醍醐天皇666年前と、過去666年毎に、其れは起きたのだ。
今回は、西暦2000年(1333年+666年)には、何故、其れが起きないのか。
その原因は、国民全部がテレビの娯楽番組に視線を奪われて、問題点に気付こうとしないからである。いまとなれば、国民の意識を取り戻す為には、最早テレビの画面に血の復活を訴えるしかない。
何故なら、日本人の血の中には、神武天皇の血だけではなく、神武の兄弟達の子孫や、神武の三人の息子達の子孫達が、九州には何万人も居るし、出雲の「須佐之男尊・すさのおのみこと」や「大国主命」の子孫も、全国に何十万人も居る。長野の諏訪地方には、「建御名方神・たけみなかたかみ」の12名の子供達の子孫も、広がっているのだ。
今や、日本の皇室には、女の子だけしか産れなく成っている。それは、「チ(霊、魂)」の力が弱まったからである。チの弱まりとは、血筋の弱体化であり、霊力の弱まりでもある。
霊魂の力を取り戻すには、其れだけの儀式が行われなければ成らないし、人間側の認識作用が必要である。
その儀式を執り行う前に、南九州王朝、出雲王朝、諏訪王朝の血筋に対して呼びかけを行わなければならない。
幸い、日本には、古代の人達の御魂やしろとして、神社が建てられ、現在まで伝え残されている。
其れを、証拠として、一大叙事詩を創らなければならない。残された時間は、少ない。
天皇家や、宮内庁には、何ら期待出来るものはない。何故なら、憲法に因って、其れを禁止しているからである。
日本国民は、自分を救い、自分のアイデンティティを取り戻す為に、自らが立ち上がらなければ成らない時を、迎えているのである。
広島の日を前に
平成15年8月5日
礒邉自適
2003/8/5
解放された夏
15・8・5
昨夜は、19年振りに、身心が解放された感覚がおとずれた。
私は、19年前の夏、何も身に着けず、素裸で屋久島の山中で、幾日をも過ごした。
産まれたばかりの姿と同じく、身に何も纏わず、産毛までもが、空気の流を感じている。其の感じは、実際に行って見なければ、解からない感覚である。
素裸になると言う事は、恥ずかしいとの気持ちを、棄て去る事である。
人間は、生まれた時から服を着せられ、素裸は恥ずかしい事だと、訓えられて来た。
素裸が、恥ずかしいと思っているのは、人間だけである。
其の、他人に押し付けられた考えが、人間を最後まで縛って、不自由にしているのだ。
身に、何かを被っている事は、宇宙と、自分との間に、異物が存在する事に成る。
全てを、取り去って、たった一人で素裸に成って、手足を自由に広げた時、自分と宇宙は一体と成り、その間には、邪魔する物は一切無い。
其処には、宗教や哲学等も、一切消えてしまっている。
私は19年前、仕事も一切止めて、家族とも別れ、自然の中で素裸に成って、全てから解放された。
寺に行けば、寺の服があり、神社に行けば神社の服がある。
処が、山中に行けば、身に着ける物は一切何も無い。
水中に入れば、水が着物であり、水から上がれば、素肌を空気が流れ、産毛がそれを感じるのである。
化粧に気を使うことも、顔の髭を剃る事も無い。
誰の目を、気にする事も無く、全てから自由なのである。
其処には、お金も、財産も、権力も、名誉も、何かの責任も、一切無いのである。
唯一有るのは、自分の存在を感じている、自分の感覚だけである。
水の冷たさを感じる自分
虫の声を聴いている自分
風邪の流れを感じている自分
雲の流を見ている自分
有るのは、何かを感じている、自分だけなのだ。
そこには、他人が存在しないので、人間の言葉を使用する必要が無い。
水が冷たくても、気持ち良くても、それを誰かに告げる必要が、全く無いのである。
何日も何日も、言葉を使わなければ、言葉が、頭から消え去って行く。
其れが、三ヶ月も続けば、自分の名前さえ、頭から消え去って行くのだ。
もちろん、曜日も時間も消え去って、カレンダーが無いので、日付さえも分からない。
自分が、親である事も、誰の子供であるかなども、全て消え去って、イマ(今)だけを感じているセンサーだけが、生き残っているのだ。
言葉が消え去っているので、思考は外側には広がらない。
意識は、感覚の出所に向って行くしかなくなる。
五感の働きが、外側に向かっているのではなく、内側の意識の本体へと、向うのだ。
言葉を使用しないので、大脳の働きは停止して働かなくなり、動物的な食欲や性欲も消え去って、中脳の働きも止まってしまう。
残るのは只、心臓の働きと、呼吸の肺の働きだけである。
それを動かしているのは、中枢神経の本である、古皮質である。
脳の一番奥、脊髄の頂点だけが、生き残っているのだ。
其処に住んでいるのは、もはや自分ではなく、蛇か蜥蜴なのだ。
止めようにも、止められない心臓と呼吸が、自分を占領してしまっている。
その圧力に勝つには、もう肉体の死しか、方法が無い。
何日も、何日も、水だけを飲んで、心臓の鼓動と闘って行った。
やがて、心臓の鼓動に打ち勝って、音が消えた時、胸を大きく波打たせていた呼吸も弱まり、肉体は大地に倒れた。
是で、全てが、終わったのだ。
其の安らぎの向こうに、宇宙の始まりの音が、聴こえて来た。
私は、自分が消えて、永遠の世界へ、返って行けるのである。
永遠の世界に、返り着いた自分は、宇宙の始まりに辿り着いて、更なる生命の発生を、直視したのだ。
私は、その永遠の働きの、動きと共に、再生されて来た。
宇宙の記憶と共に、再び、呼吸と鼓動を取り戻したのである。
それからの自分は、元の自分ではなく、天地一切と一体の自分である。
自分が休むとき、天も休み、天が休むとき、自分も休む。
そんな時間が、19年も続いて、ようやく元の位置に帰って来たのだ。
永遠の、日溜り中に身を置いて、再び、あの感覚を思い出している、自分が在る。
永遠の時の挟間から、身を乗り出して、自分の乗り物を、見てしまったのだ。自分の乗っている汽車が、長いカーブを曲がって、トンネルの中に入ろうとしているのを、横から見てしまったのだ。
永遠の時間の向こう側には、終着駅は無いのだ。
その世界に、自由に、手足を宇宙の中に拡げた時、自分が本当に存在している事が、感じられるのだ。
今日は、久しぶりに解放された自分を、取り戻している事に気付いた。
私の、身に寄り付いていた多くの霊達が、離れてしまっている様だ。
お盆が近付いて来たので、自分の故郷へ皆、帰って行ったのだろうか。
自分の身体を、自分一人で自由に使える事は、何かしら勝手が違っている。
自分で、遣りたい事が無ければ、身体も心も動き出さない。
本当の自由とは、自分の身体を、誰かが使ってくれる事で、私は、自由にして居られたのではないだろうか。
妻が居なければ夫も出来ず、子供が居なければ父親も出来ず、仕事が無いので現場に出て行く事も出来ない。
せめてもの自由は、ペンを持って、文章を書く事である。
それさえも、取り上げられれば、再び、心臓の鼓動と、呼吸の圧迫に押しつぶされそうである。
そうなれば、昔の様に、森の中へ立ち入って、水の流れと戯れるか、蝉の声に身を沈めるかして、静寂(しじま)から、逃げ出さなければならない。
赤子が、何故、手をバタバタ動かすのか。
それが、ようやく理解されそうに成って来た。
耳が聴こえ始め、目が見え始めるのは、不自由の始まりなのではないだろうか。
五感に振り回される事から、再び 逃げ出さなければ成らないようだ。
平成15年8月5日
礒邉自適
2003/8/4
物の名
15・8・4
今朝、瞑想をしていると、「浜木綿・はまゆう」の花と「山牛蒡・やまごぼう」の花が映って来た。
海岸に、自生している植物の花と、山野に、自生している花が両方映って来たのには、どう言う意味が有るのだろうか。
両方とも、白い花で、夏に咲く草花だし、今が丁度その季節である。
8月に入って、私の気持ちは穏やかで、身の回りにも特別な事が無く、聖霊達も静かなので、頭も思考が停止してしまっている様だ。そんな中で、夏の白い花が映ってきた事に、どう言う意味合いが有るのだろうか。
浜木綿も、山牛蒡も、食料にするものではないし、花を切り花として使用する物でもない。私の思考が止まっている為に、是と言ったヒラメキも無いので、浜木綿の名を辞典で調べて見た。
「浜木綿」とは「ハマユフ」で「ハマオモトの別称」と載っている。
浜のオモトなので「オモト」を調べると、「おもと【万年青】」と有り、年中葉が青いからの様だ。浜に生える、年中青い植物の意味合いの様である。
一方「山牛蒡」の方は、単に「山にある牛蒡」との意味で、牛蒡は「キク科の植物」と載っている。
牛蒡は、中国原産で日本に持ち込まれたとの事なので、牛蒡の名は中国名という事に成る。オモトの方も、中国音の烏木毒(wu-mu-tu)からの様なので、両方の名が中国で付けられたことに成り、日本には元々呼び名が無かった事に成る。
中国で、植物に名前が多く付けられたのは、植物が薬に利用されたからであろう。アマゾンに住む原住民も、樹木の名前を500種類程知っているが、殆どが、薬効の意味が木の名前と成っている様である。
と言う事は、人間は、自分に利用価値の有る物には、名前を付けるが、価値の見出せない物には、名前を与えないとの事の様である。
其れは、人間の気に成らない物には、名前は必要無い事になる。
その様に考えると、園芸に興味が無い人には、花の名前等どうでも良い事になり、そんな人達ばかりに成れば、花の名前は忘れ去られ、名前が無くなれば、花自体も栽培されなくなり、自然の中に自生する植物以外は、消えてしまう事に成る。
浜木綿や、山牛蒡は、自然の中に勝手に生えている物だから、人間が名前を与えなくても、永遠に生存出来ることに成る。
人間社会は、言葉に因って成り立っている。言葉は、名詞から始まったと想われるので、物に名前を与える事から、文化が生じたと考えて良いだろう。
物に、名前が付けられていなかった大昔には、人間の思考は、どの様に働いていたのだろうか。
私は、此処数日、思考が止まっている。だから、白い花が映って来たのだろうか。人間が、勝手に付けた名前を、浜木綿(浜万年青)も、山牛蒡も嫌がっているのだろうか。
白い花は、赤や黄色の色が付いていないので、色彩を特色として呼ぶ事が出来ない。白いだけの花でも、花の形状は異なっている。その形状の違いで、私達は識別をしている。そして、その形に因って食べられる物か、薬として使えるかどうかの、区別をし、名前を与えて来た。
食べられもせず、薬にも成らないで、花の色彩が美しくもなければ、人間に名前を与えられ、利用される事が無いと言う事に成る。
私を捜し出した無庵師匠は「自適さん 名前を出さないでも 生きていける人間が 一流なのだよ。有名な人は 名前を出さなければ 生きていけない人なのだから 二流の人達なのだよ」と、教えてくれた。
この事からすると、今朝の白い花のメッセージは、色も無く、人間に食べられも利用もされず、名前も付けられずに、生きて行く事が、一番大事だと教えて来たのだろうか。
数日、思考が動かないので、食べ物が悪くて、脳味噌が駄目に成っているのかと想っていたが、そうではなく、私の業・カルマが、皆外れたとの事なのかも知れない。
私の脳が、生れたばかりの子供の様に、物の姿形は目に見えていても、何一つ名前を知らない、無垢のままの状態に、返ったと考えて良いのではないだろうか。
私が8年前、中国の王様の体に、針を打っていた人の子孫に、合計7回針を打って貰った事がある。その方が言うには、王様は、北を背にし、南を向いて深く椅子に座り、背筋を真直ぐに伸ばして、頭で何も考えてはいけないのだと教えてくれた。
私の意識が、現在その様に成っているのかも知れない。
今朝の白い映像は、初めに浜木綿の花が、四本横に並んで咲いていて、次に山牛蒡の花が三本纏って咲いていた。四本並んでいた花から、三本纏った形へと移った。浜木綿の花弁は6弁であるが、山牛蒡の花は小さい花が数え切れなく付いている。
其れ等の形状が、何を現しているのかは分からないが、名前が無くても、花は其々の形を護って役目を果たし、遺伝子を伝え残しているのである。
私が、人類にとって、どんな形状の働きをし、雌花の役目なのか、雄花の役目なのかも、未だ明確ではないが、他人に名前を付けられない生き方をしなければ成らない様である。
チベットのゾクチェンの教に
「大いなる 完成を知るには
最高峰の頂上に 立つようなものだ。
いかなる高さの山も 神秘には見えない。
視界から 隠されているものは 何もない。
この最高の山頂に立つもの 彼は 決て 誰にも
そして 何物にも 条件付けられることはない。」 と有り
ミラレパの教には
「悟りとは 宇宙に関する 知識ではなく
宇宙の本質を 生きる経験に 他ならない」 とも有る。
私の思考が止まり、白い花が映って来たと言うことは、私の潜在意識が、植物のシステムにまで、返り着いたとの事だろうか。
数日、頭が動かない事を気にしていたが、此の儘で良いらしい。私も、未だ、有る方が善いとの考えが、有った様である。
中国の荘子の語に「至人無己」とある。
私も、ようやく、古代の偉人の年令に、近付いているのだろうか。
平成15年8月4日
礒邉自適
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