2003/7/10
「悟りのガイド」は途中迄
15・7・10
私は、霊夢の導きにて、是まで精神的な旅を続けて来たが、古代では当たり前だった其の事が、現代では成されていない。
私は、屋久島に帰り、一年が経過して、ようやく新しい価値観の基で、古いかたちの生き方が始まった様である。
島には、現在100名を超すガイドが居て、登山・島巡り・公園案内・カヌー・ダイビング・海亀産卵見学等、色々な案内が為されている。
私は、其れ等の案内風景を見て、感じている事は、精神的な旅とは、随分違っているとの理・ことである。
自然ガイドは、先ず一番大事な事は、客の安全を護る事であり、安全を確保しながら、植物や名所の説明をして歩く。
案内される方は、身の危険を感じる事も無く、相対的な知識を増やして行く。案内の場所と時間を消化すれば、後には思い出の外は何も残らない。
処が、精神世界の旅は、是とは全然違っている。
精神的世界は、肉眼には見えない世界だから、此れだと言って、指で差し示す事が出来ないのだ。
其れに、インドの釈迦牟尼仏が謂っている事は、物や形体に名称を与えて、相対的認識を行っている間は、絶対に悟れない・覚醒出来ない、との事である。
是は、現在の屋久島の自然ガイド(エコツーリズム)とは、反対の処にある。
釈迦の教え(仏教)と、見識を増やす為の見学旅行は、目的が全く、逆の立場にある事に成り、永久に悟る事は出来ない。
処が、釈迦が悟ったのは、森の中での六年間の修業の後、池で水浴びをして樹木に寄り掛かり休んだ時なので、場所としては、屋久島は釈迦の悟りの場の条件と一致している事に成る。
要は、場所と条件は同じでも、人間の目的が違っているのである。
知識を増やす事と、知識を忘れ去って頭を空にする事は、全く逆の作業である。
釈迦牟尼仏が、智慧の宝庫と成り得たのは、見識を人一倍頭に詰め込んだからではなく、頭を空にしたからこそ、宇宙に記憶されている叡智が、自分のものとして遣って来たのである。
私は19年前、屋久島の山の中で、素っ裸に成って、自分の自我意識が無くなるまで瞑想を続けた。
そして、自分が0(ゼロ)に成り、自分の本来の面目(めんもく、本旨)に辿り着いたのである。
其処に至るには、無庵師匠の助けが有り、途中迄は同行して貰ったが、途中から手を離され「今日からは 自分で歩き出せ」と告げられ、荒野の中に出る事に成った。
自分の面目(趣旨)を捉えるには、他人が、天(神)と自分の間に介入してはならないのである。
精神的世界のガイドは、入口まで案内するだけで、他人の現場には立ち入らない。
現場には、立ち入らないけれども、絶えず見護ってくれている。
其の師・ガイドの行為が、旅をする支えと成るのだ。
行為の最後まで、手を直接差し伸べる事は、悟りの弊害と成るのである。
神の世界に、到達する直前の、最後の段階には「悪魔(鬼の姿をした校長先生)」が出現して、最後の仕上げの試練(テスト)が有る。
その時、師が側に居れば、師の方を向いて助けを求めてしまう。
そうすると、最後の場面は目線から消えて、二度と、其の場面に接触する事は不可能と成る。
自分が、どんな危機に陥っても、他人の手を借りてしまえば、失敗と成るのである。
此の事も また自然ガイドとは違う。
ガイドに、最後まで面倒を見て貰い、身の安全を確保するのとは違うのである。
悟りへの旅は、自分の力だけで川を泳ぎ渡り、彼岸に上がらなければならない。それは、「セルフ・ライディング(自分の力だけで自分に光を当てる)又は(自分の足で着地する)」と、言えるだろう。
誰も、自分に光を照らして、見護ってくれている者は、其処には居ないのである。存在するのは、闇の中に存在する神の意志だけである。
神は何も言わず、語らずに、その現場の舞台を、用意してくれているのである。
目に見えない神の手を探って、誰も居ない、未知の世界に入って行かなければ成らない。
其処には、道路も案内板も有りません。唯一有るのは、真実を知りたいという自分の内側に存在する、生命の叫びのような力だけである。
真実を知りたいと意う何者かと、二人三脚で、いのちの向こう側へ抜けるのです。
自分の命・いのちを捨て去って、向こう側に抜けた時、永遠の世界、真実の世界が存在するのです。
私は19年前、安房川で禊をして、神社の鏡の向う側に抜け、神の世界を見て来ました。
私は神の世界に、其のまま留まらずに、人類のガイドとして帰って来たのです。
この神の世界は、日本の古神道では「言挙げせず」と云って、教えてもいけない、聞いてもいけない、見せてもいけない、と伝えられている世界です。
ですから、私も、自分の世界へ旅人を取り込む事は、ダルマ・法・道に反する事に成りますので、途中までの、導き手に成る事は出来ますが、最後までお付き合いをする事は出来ないのです。
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道(ルート)は、私が遣り遂げた事で、見えない世界にデータとして残っています。現場も、古代の世界ではなく、いま屋久島と言う名が付いて現存します。
そして、私も未だ56歳で元気で存在しています。
料金制定も有りません。其れは、私の商品ではないからです。
永遠に綴られている宇宙の営みですから、其々が自分に代価を払って、進んで行かなければなりません。
神社や寺で、何百万円か寄付をしたら、出来ると言うものではないのです。
今世で駄目なら来世で、来世で駄目なら次の世で、と 永遠に、何時かは通らなければ成らない道です。
私が、此の世に存在する内に、テキストを貰いに来たら如何でしょうか。
お代は頂きません。
必要なのは、貴方の中に真実を知りたいとの、お伴が居るかどうかという事だけです。居ないのなら、私の伴をお貸しいたします。
この料金も頂きません。目に見えないので、値段が付けられないのです。
私の中に住む、真実を知りたい伴も、もう随分と、利巧に成っているのではないでしょうか。
貴方を、巧みに誘導する事は、疑いないと想います。
どうぞ一度おためし下さい。
※これは 平成15年6月27日に出て来た、言葉の題で、書き始めたものに追記したものです。
平成15年7月10日
礒邉自適
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