2003/7/29
家離・たび
15・7・29
自分の精神的なたびを、「旅」と書くしかない事に、長らく不満を覚えていたが、ようやく日本語の、「たび」のイメージを捉えることが出来てきた。
漢字の「旅」の字は、軍隊が列を組んで、旗を立てて行進している様子を表す象形文字である。
私の旅は、唯一人にて、神の為に進む行為なので、「旅」の字は合わない。旗も立てていないし、行き先さえ確定していないのである。
普通の人であれば、「たび」の語を聞いても、旅行の事ぐらいにしか思はないだろうが、私は「心のたび」までを意識しているので、日本語の「たび」の意味を知りたかったのである。
それが、「日吉眞夫さん」にプレゼントされた古語林を調べて見て、「たび」とは、家を離れる事の意味であることが判明した。
家を離れる事が「たび」であるなら、釈迦牟尼仏の教えである「出家」も旅であるし、イエスキリストが「私に付いて来なさい」と云って、弟子を家から連れ出した事も、たびをさせる事と同じであることが分かる。
人間は、悟る為には、家を離れる事が不可欠の様である。
日本語の「たび」を、漢字に置き換えるとすれば、「出家」か「家離」と成る様である。
此の事を、基準として考えれば、家から遠くへ旅行に出かける事も、たびの一部である事には間違いない。
しかし、旅行は女・子供でも、老人でも出来るが、釈迦やイエスに付いて行くたびは、女・子供は出来ない。
子供は、大きく成って一人前に成ってからでないと、たびをする事は出来ないのだ。
女性も、その意味では「たび」には不向きである。
其れは、女性は家庭に在って、子育てをする事が本能である事から言っても、正しい事である。
人間以外の動物の世界も、群から離れて行くのは雄の方であり、雌は群に残り、子孫を残して行くのが役割である。
女性は、遺伝子的にも、家を離れてはいけない様に出来ているのだ。
動物の群は、雌が群を維持している事で、雄が武者修行に出て行けるのである。雄は、血筋が重ならない様に、武者修行が済んでも、自分の育った群には帰らない。
他の血筋の、群のボスと戦って、自分の遺伝子を残して行くのである。
純粋な生命システムから言っても、たびをするのは男性であり、女性はシステムを維持するのが役割の様である。
女性が、群のシステムを完全に維持してくれるからこそ、男性は心置きなく、旅に出掛ける事が出来るのだ。
その理・ことは、人間の家庭にも同じ様に言える事である。
家庭は、母親が、しっかりと維持を続ける事で安定し、安らかな空間と成り得る。
子供達が大きく育つ為にも、精神的基礎が出来る段階の家庭は、重要な意味を持っている。
私が子供の頃から、家離をする事が好きだったのは、母親がしっかりしており、安定出来ていたからだろう。
安定した環境の中に居るからこそ、刺激を求めて家離・たびをする気持が起きて来るのだ。
家庭が不安定であれば、ゆっくりと家離をする事は出来ない。
寧ろ、家を飛び出しても、気に成るのは家の事だけであり、心のたびをする余裕は生れない。
私が、念願の全国への家離・たびに出掛けられたのも、母親がしっかりしていたからであり、妻や子供を実家に帰しても、実家に対して心配が無かったからである。
母親が、病気であったり、妻や子供に障害でもあったりすれば、其れを放って措いて、家離をする事は出来なかったであろう。
その意味においても、母親や妻子に感謝したいと想う。
私は18年間の全国の巡回が終り、屋久島に帰って一年間が過ぎた。
改めて、此の19年間を降り返って見ると、実に多くの方達の世話になり、又協力を受けた事に、感謝の念が湧いて来る。
「帰る」の漢字は、【解字】「肉+箒(竹ほうきを手にする)」の組み合わせで、人が無事にたびから帰った時、清潔にした場所で神に肉を捧げて、感謝をすることから、帰るの意味を表す。
後に、足を意味する「止」を付加し、其の歩行にかかわる意味を明らかにした。転じて、女性が落ち着くべき所に落ち着く、とつぐの意味を表す。
【字義】@とつぐ。嫁に行く。Aゆく。(往)Bかえる。もどる。引き返す。Cかえす。もどす。D身を寄せる。また、その所。Eくみする。味方する。また、あつまる。おちつく。Fまかせる。ゆだねる。G終わる。死す。二おくる。(贈)与える。 漢語林より
私は、その古代の人達の気持ちが、手に取る様に良く理解出来る。
其れは、私が長い家離を無事に終えて、自宅に帰る事が出来たからであろう。
此れが、屋久島に存在する、以前・もとの自宅に帰っているのでなければ、現在の心境には成っていないと想われる。
何処かの地に、未だ住んでいれば、其れは、未だ「家離・たび」の延長であり、帰り着いた事にはならない。
自宅に帰り着いたからこそ、「無事に帰った」との自覚が、湧いて来ていると考えられる。
自分の家を離れ、たびを終えて、再び自分の家に帰る。
その過程を、終了してこそ、たびが完成したと言えるのではないだろうか。
その意味で言えば、イエスキリストは殺されて家に帰っていないので、旅の途中で死んだ事になり、釈迦牟尼仏は、自分の産れ育った家を、他の王に破壊され失っているので、たびを終えて帰り着いた事には成らない。
故郷が存在し、故郷の自然の中で、自分の、生い立ちからの人生を振り返って観る時、本来の人生の意味が理解されて来る。
屋久島に生れ育った人でも、島を離れ、家離・たびを済ませていなければ、大きな人生の意味を、悟る事は出来ないし、島外から島に移り住んで来た人達も、たびから帰ったとの実感を持つ事は、出来ない。
真の「たび」の実感を得て、自分の存在意義を確かめる為には、出発地点と、再び帰る地点が、確保されていなければならないのだ。
私に、此の様な気付きが起きたのも、家離をする事が出来たからである。
普通では、考えられないタビがどうして出来たのか、其れには、様々な条件が揃った事が挙げられる。
・無庵師匠に見出された事。
・私が家を離れても、皆がなんとか遣っていけると考えられた事。
・聖霊の導きが有った事。
・神が森羅万象を支えていてくれた事。 等が考えられる。
私のタビは、私が家離をする事だけではなく、神や聖霊が係っていたのである。
其の事を考えると、この宇宙自体が、タビを目的としている理・ことが、理解されて来る。
私は、人類の代表者として神に育てられ、聖霊の導きと、人々の協力を受けて、タビを続ける事が出来たのだ。
だから、私の家離・たびで得られた収穫は、私一人だけのものではなく、人類共通財産であり、神の収穫物でもあるのだ。
仏教用語に、「往生(おうじょう・ワウジャウ)」と在って、この世を去って神の世界に帰る事を意味しているが、其れは、此の世での役目を無事に果たして、大手を振って、あの世への大道を帰る事である。
私は、此の世でのタビを終え、宿命を果たして、大往生する事が出来るのだろうか。
私が気に成るのは、中国の老子は、最後に周から立ち去って、函谷関(かんこくかん)を通って、何処かにタビ立っている。
日本の空海は、魂を身体から切り離して、未だに高野山に居るという。
彼等の行動から見れば、タビとは、もっと深い意味があるのかも知れない。
私は、現在56歳である。
老子や空海の事を考えると、未だ、家離が終ったとはとても思えない。
これからも「荼毘・ダビ」に服する迄、何が起きるか分からない。
一応、重要な一課程が、過ぎただけなのかも知れないが、先ず、家離が終了した事だけは、自覚しておこうと意う。
平成15年7月29日
礒邉自適
2003/7/25
つみけがれあらもうば
15・7・25
「今日一日 無事にありますように」此れは、人々の一番手短な祷りの言葉です。
其の祷りの気持ちの前には、昨日までの不都合な事は、全て消えて欲しいとの望みがあり、幸せに成れます様にとの、未来の時間への希望が含まれています。
昨日7月24日は、中南米に住んでいた、マヤの人達の暦では、一年の最後の日であり、日本の大晦日の日に当ります。
南米は赤道直下ですから、日本の様に四季がありませんので、一年の終り・イコール冬の季節との考えはありません。
マヤの人達は、地球の気候よりは、宇宙の星の運行に興味を持っており、現在の天文学にも劣らない、観測技術を用いていました。
月や太陽の他に、金星の運行までを取り込んだ、複雑な暦を作り、生活を営んでいたのです。
その内容を見れば、現代人よりも、マヤの人達の方が、優秀だと考えられる程です。
マヤの暦では、今日25日は、一年で一日余る日で、心の整理をする日と成っています。
日本では、12月31日の夜、お寺で除夜の鐘を打ち、一年の煩悩を祓いますが、同じ様な願いがあったのではないでしょうか。
今日の日付の意味を、気にしていた所為か、今朝は「あらもうば」との言葉が出て来ました。
「あらもうば」とは、神社で唱える祝詞の中に出て来る言葉で、「罪穢有らむをば 祓へ給ひ 清め給へ」の事と想われます。
(かけまくもかしこき いざなぎのおおかみ つくしのひむかのたちはなのおどのあはぎはらに みそぎはらえへたまいしときになりませるはらえどのおおかみたち もろもろのまがごと つみ けがれあらむをばはらえたまい きよめたまへともうすことを きこしめせとかしこみかしこみももうす)
日本には、古くから、自分の身心に着いた、罪やケガレを祓い清めて、病気や災いからまぬがれようとの、考え方がある。
昔は、晦日以外にも、春禊・旧暦3月最初の巳の日と、夏禊ぎ・旧暦7月14日に、川や海で禊ぎをして、身心を清める儀式が行われていた。
現在、行われている8月15日のお盆の行事は、この旧暦7月14日の夏禊ぎの行事が、仏教の行事に置き換わってしまったもので、仏教とは本来、関係が無いものだったのである。
其れが、仏教に置き換わったのは、徳川幕府のキリシタン弾圧政策の影響に因るもので、「盂蘭盆・うらぼん」とは、梵語のウランバーナの音写で「はなはだしい苦悩」という意味で、仏弟子の「目蓮」が、餓鬼道に落ちた母の苦しみを救ったのに由来する物語を、夏禊ぎの儀式に利用したものであり、本来の目的である禊ぎの意味からは、外れてしまっている。
本来の夏の禊ぎの意味は、前日13日の夕刻に先祖の霊を迎える為に角口で篝火(かがりび)を焚いて先祖の霊を家に迎え入れ、7月14日に家の主・代表が、川や海の清い水で禊ぎを行い、神棚に野菜等を飾り、お椀に飯を山盛りにもって草の茎の箸を立て、先祖に供えて一族の繁栄を願うものだったのである。
野菜に四本足を付けて、動物の恰好にするのは、昔は動物を、供養物に使用していたからだと聞く。
日本の大晦日(年の晩)の行事も、此れと殆ど同じで、晦日には迎え火ではなく、家の角々に、先祖霊が宿る樹木の枝を差して、霊を迎え、供物を神棚に飾り、先祖の霊と共に新年を迎えるものである。
7日が過ぎると、今度はドンド焼きで、霊が宿った角木(松・椎・譲り葉・竹など)を火に焼べて、先祖の霊を、霊界に送り返すのである。
春3月の禊ぎは、農作業の始まりを迎えるので、一年の農作業の無事と、豊作を願ってのものではなかったのだろうか。
昔は、神社の神主や、天皇家だけに任すのではなく、各家々が、自分で、其の儀式を実行していたのである。
その事が、殆ど行われなくなった為に、私が、霊界の願い事を、一手に引き受ける事に成ってしまったのである。
昭和天皇は、身罷った日の夜中に、私の心臓に飛び込んで来て、大葬の日に再び現れ「わが身 既に遠く 良き代を 願い奉る」と告げて来た。
其れは、宮内庁や伊勢神宮にも、本当の修行を修めた者が居ないからだろう。
現在の人間は、アメリカ大統領を始め、皆が、全ての事を、自分の力・能力だと考えており、神や先祖の力が、自分達を護っているのだとの、考えが無いように想われる。
古代のマヤの人々は、神の力を一番大事なものとして、天空に意いを馳せていたのであろう。
人間一人の力は僅かなもので、自分一人の考えや想いでは、大きな事は出来ないが、イザ 神の意いと一体に成れば、考えられない様な事が起きる。
その事を、古代の人々は、大事として生きていたのだろう。
世界中の歴史を見れば、其の事が能く理解出来る。
神の力を得る為には、自分の小さな考えや、欲望や執着等を、全部棄て去らなければならない。
其の棄てる為の儀式が、禊ぎ祓いの行事なのである。
今朝のメッセージの「あらもうば」は、「禊ぎ祓いをして 無垢な人間に立ち返りさえすれば」との、事ではないだろうか。
禊ぎ払いを完全に行って、自分の自我意識から、利己の気持ちが無くなった時、神意と一体と成り、森羅万象の力が、その者の力と成るとの理・ことであろう。
日本には「みいつ・御陵威」との言葉が有って、辞典を引くと、「天皇・神などの威光」と 載っている。
私に頼って来た神霊の中には、「天智天皇」始め多くの天皇霊が在り、旅の途中で「昭和天皇」まで飛び込んで来た。
私に起きた出来事は、本来は、天皇が国民を代表して行うべき儀式なのである。天皇が「スメミマ」としての役目を果たしていれば、私には、此の様な出来事は無く、静かに普通の生活をしていた筈である。
天武天皇が、日本書紀の編纂を命令して、持統天皇の時に当時18部族に夫々伝わっていた「墓記(おくつふみ・奥津文)」を廃棄させた事が、最大の原因であろう。
それ迄、部族毎に行っていた儀式を、天皇家に纏めて一本化(物部族の儀式)した為に、其々の部族の儀式が消えてしまったのだ。
聖徳太子が、「和を以って尊し」を第一条件としたのは、18もの部族が、其々異なる儀式を行っており、政(まつりごと)が一体と成り難くなった事が、原因の処に有ったのではないだろうか。
多くの部族が、自分達の墓記を守護していれば、互いが禊ぎを真剣に行い続けていたかも知れない。
現在の世界情勢を見ていると、アメリカ大統領が、持統天皇と同じ過ちを犯している様に想えて来る。
人間にとって、一番大事な事は、自分の利己心を祓い清める事であって、自分のやり方を、他人や他国に強要する事ではないのだ。
マヤの人達が、何故、暦を一番大事としたのか。
其れは、神が、人間とコミュニケーションを図る時に、日付をメッセージとして使って来るからである。
神は、人間を動かす為に、スケジュールを組むのに、気象の移り変りと、人間の心情を考慮して、日程を組んでいる。
天界も、人間界と同じで、カレンダーが無ければ、共通認識行動が出来ないのである。
一方、人間側は、神が決めたスケジュールに、如何に上手く合わせられるかが勝負である。
その為に、禊ぎ払いを徹底的に行って、自我意識が出る事を止めて来たのだ。
中国にも、その考え方は4千年も前から在り、漢字の「知」の文字は、「矢+口」の組み合わせで「手に持っている 矢を神に返して 行為を止め、神の口(ことば)を受け取る」との意味である。
「知」とは、自分の考えや、遣り方を止めて、神の意志に添う事なのだ。
そして、神に知らされた事を、皆に、口を開けて知らせる事が「知+曰く」の組み合わせの「智・チ」の漢字の意味である。
日本の「かんがえる」も、元は「神返る」の意味だから、「知」と同じ意味を表すもので、「考・コウ」の「長生きした 老人の知恵」と、字を間違って使用していることに成る。
「知・かんがえる・神返る」とは、長生きした老人だけのものではなく、若者でも、禊ぎ払いを行えば出来る事である。
その事が、現代社会の風潮や、学校教育では取り上げられる事が無く、現代の詰め込み教育は、其れと反対の処に在る事になる。
中国の易の世界は、マヤの文化と、同じルーツが有るのではないだろうか。
日本では「聖・セイ」の漢字を「ひじり」に当てているが、「ひじり」とは「日知り」で、聖者が暦に明るい事を意味している。
聖者とは、天と地の間に在って、神の意志を受け取る者「日知り・霊知り・ひしり」との、役割の事であろう。
其の「ヒジリ・霊知り」の役割を果たすには、今朝のメッセージの「あらもうば」の意味を、しっかりと、自分のものとしなければ成らない様である。
今は、日本の部族だけではなく、世界中の部族の、聖霊達が、屋久島の山々に集まって、マツバンダの協議を重ねているのかも知れない。
屋久島の山岳の中心には、「神様のクボ」との地名があって、其の場所の山の名前は「ネマチ岳」である。
「ネマチ」が神のお告げを「寝て待つ」の「寝待ち」の意味であれば、一晩ネマチ岳で過ごして見たいと意うのだが、未だ神様の招待が無いので、行く事が出来ないでいる。
19年前、石塚山に詣でたら「石塚の 四方の山にたずねても 答えかえらじ 我が身に聞けよ」と告げられた事がある。
其れから、島の奥岳には一回も登っては居ない。
私には、山に登らなくても、天空の星々から、直接メッセージが届いているのであろうか。
それならば、古代のマヤ人と同じ状況に在ることに成る。
今年の旧暦7月14日は、8月11日月曜日と成っている。
此の日に、古代の禊ぎの儀式を行なえば、古代の霊魂が全員参加して、盛り上げてくれるだろうか。
8月11日まで、残り16日である。
次の天意が来るまで、「あらもうば」の言霊を噛み締めておきたいと想う。
古代の、マヤの神官達も、其れを、喜んでくれると良いのだが・・・・・。
平成15年7月25日
礒邉自適
2003/7/23
帰島感想 「屋久島の猿」
15・7・23
屋久島で、今一番島民が困っている事は、猿の農作物への被害である。
何人もの農家が、山に近い果樹園の栽培放棄をしている。
現在では、島内一周の道路や、屋久杉ランド線と、白谷雲水峡線の道路上に、猿の姿が見受けられるが、30年程前には此の様な事は無かった。
猿も、鹿も、人間の気配を感じると、直ぐに逃げ去っていたのである。
其れは、縄文時代から、長年、猿も鹿も人間が食糧としていたからであろう。猿や鹿にとって、人間は敵であり、人間を恐れる事は、遺伝子にまで記憶されていたのではないだろうか。
其れが、18年振りに島で生活して見ると、鹿も猿も人間を見て一向に逃げる様子が無い。すっかり、人間に馴れてしまっている。
私が、猿を身近に見る様に成ったのは、30程前で、その頃は、尾之間温泉上の「自然植物公園」の中に、檻が有って、其の檻の中に、数頭の屋久猿が飼われており、私はその猿にハイビスカスの葉を差し入れると、喜んで食べるので、客人を案内する度に、ハイビスカスの葉を食べさせていた。
その他には、屋久杉ランドに通じる現在の道路が、森林道路として造られ、屋久杉の観察林として「屋久杉ランド」が整備されたので、その道路の中間地点で、屋久島町の予算で猿の餌付けが始まった。
屋久町平野集落に住む「鹿島氏」を、屋久町役場がその係りと決め、鹿島さんが毎日決まった時間に、さつま芋を持って車で山に登り、餌を与える様に成った。
一日一回、決められた時間が近付くと、猿の群れは道路に出て来て、鹿島さんの車が上って来るのを待っている。
群全体は、道路上で勝手に遊んでいるが、ボス猿は、道路に有る岩石の上に陣取って、道路の下り坂の方をジーッと見詰め、耳を澄まして、鹿島さんの車が登って来るのを待っている。
やがて、ボス猿が岩上で立ち上がって「キィーッ」と一声鳴いて緊張する。
私の耳には、未だ、車の音が聞こえないうちに、ボス猿の耳には聞こえているらしい。
其れも、車の音を聞き別けている様で、他の車の音では身動きをしないのである。ボス猿は、鹿島さんの車の音を、完全に覚えているのだ。
やがて鹿島さんの車が着いて、トランクを開け、袋を取り出して芋を手にすると、先ず、ボス猿が最初に何個かを両手に受け取り、座って食べ始めると、他の猿も準位に従って芋を受け取り、其々が、好きな場所に座って食べ始める。
当時は、さつま芋とピーナッツが大好きで、ポンカンの皮を剥いて与えても見向きもしなかった。
ポンカンの皮を剥いて、果肉の部分だけ渡しても、食べる者が一頭も居なかったので、皮の油分が嫌いというのではなく、ポンカンを食べた事が無いので、食べ物だとは思わなかったのだろう。
現在の状況から考えると、信じられない事である。
やがて一年が過ぎ、新しく生れた子供は、人間を見慣れているので、子供猿は、鹿島さん以外の誰からでも、物を受け取る様に成り、好奇心から、人間の差し出す物は、何でも口に入れる様に成った。
そして、ポンカンの果肉も、何の抵抗も無く食べ始め、その様子を見ている親猿達も、次第に、ポンカンの味に慣れていったのである。
猿の様子を良く観察していると、生れて数ヶ月の間は、子猿は、何でも口に入れるので、子供が何かを口に入れると、母親猿は、子供を道路上に押し付けて、嫌がる子猿の口の中に、無理やり手を突っ込んで、頬の所の口袋の中から、食べ物を取り出して、自分が食べてしまうのである。
私は、最初、その行動を見ていて、母親猿は、子供の食べ物まで取り上げて、自分が食べてしまうのかと想ったが、そうではなく、小さな子猿が何でも食べて、お腹を壊す事を、防いでいるのだと理解出来てきた。
親猿は、ポンカンを手にしても、匂いをかいで、食べ物とは意わずに捨てていたが、子供は知らないので、何でも口に入れてしまう。
其れは、人間の子供と同じである。
子猿は大きく成ると、ポンカンも食物である事を知り、どんどん食べ始めた。
猿の社会は、雄猿は成長すると群れを離れ、一匹でボスに成る修業を始める。
ポンカンが食べ物である事を知っている雄猿は、修業中に、里の方にも下りて来る。
そして、ポンカンが沢山有る場所を知った猿が、ボス猿と成れば、群全体を引き連れて、ポンカンのある人里に下りて来る事に成る。
人里には、大好きなさつま芋も有るし、時計草(パッションフルーツ)や、ビワ等も有る。猿にとっては、天国なのだから、一度、里山に住み着いた群は、奥山には帰ろうとしない。
新しい、ナワバリと食物を得た猿の習性は、瞬く間に、島中に広がって行った。もう島の猿社会には、人里の食糧情報は隅々まで広がり、遺伝情報の内にも、組み込まれてしまったであろう。
観光客のサービスと想って始めた事が、島全体の農家を苦しめる事と成ったのである。
役場が、餌付けをしなければ、猿も鹿も、人間は自分達を捕って食べる、恐るべき敵であった筈である。
自分達を食べる敵ではなく、美味しい食物を与えてくれる味方と成った人間は、恐れる相手ではなく、仲間的存在と成ってしまっているのだ。
中には、餌を与えない人間に対して、駄目人間として、折檻をして来る猿まで居る始末である。
島の自然林を伐採して、杉の単一林にしてしまった事も、猿が里山に移動する事に、拍車を掛ける事に成った。
椎の実や、樫の実・山桃が無くなった山は、猿にとって暮らし難いのだろう。
鹿も、私達の子供の頃は、隅に猟犬に追われて、砂糖キビ畑から飛び出して来て、人間を見ると山の方に一目散に逃げていた。
それが現在では、島内至る所に、昼間から出没していて逃げようともしない。
人間を見ても平然としている。
人間の方が、野菜や草花を守る為に、屋敷に網を張って、中に住んでいる有り様である。
私が、島を離れている間に様子が違っているのだ。
この状態が進行すれば、此の屋久島も、大分の高崎山と、広島の宮島をミックスした様な島に成ってしまいそうだ。
聖書風に考えると、猿と鹿と、人間が、仲良く同居する島として、絵に成るかも知れないが、農家としては、生きて行けない事に成ってしまう。
観光収入で、農家の人の生活を、看てあげる事が出来れば良いのだが、そう言う分けには行かないだろう。
農業収入は、全体の10%程まで落ち込み、観光収入が60%近くを占める様に成った屋久島の経済が、これからどの様に変わって行くのか心配である。
農家に生れ、25歳まで農業を営んでいた私は、複雑な心境である。
島の西部の半山・川原・瀬切と、一湊の矢筈半島には、下草が何も無く、毒の有る「くわず芋」と「アセビ・馬酔木」しか生えていない。
鹿の口が届く範囲には、緑の葉が無いのである。
其れは、広島の宮島と、同じ状況に成っている。
宮島は、食糧は100%島外から買っている。
何れ、屋久島も、自給率0の島に成ってしまうのだろうか。
私の子供の頃は、猿の姿は見た事が無く、鹿と言えば、11月に霙・みぞれが静かに降り始める頃、家の裏山で、雌を呼ぶ雄鹿の声が毎日聞こえ、あれが鹿の声だと親に聞いて、どんな姿で雌を呼んでいるのだろうかと、想像をする対象だったのである。
あの頃の、静かな島の情景は、思い出の中にしか無くなって来ている。
砂糖キビ畑も、芋畑も無くなって、所々に有る野菜畑の周囲には、網の囲いがしてある。
私の故郷は、私の思い出の中にしか、無く成りつつある。
海も、山も、川も、記憶の中にだけ残った、私の思い出の、遊び場と成ってしまった。
平成15年7月23日
礒邉自適
2003/7/22
集束
15・7・22
近頃、精神的な世界を、勉強をしていると、「時間」と「空間」の説明に、よく「メビウスの輪」が引用されている。
「メビウスの帯(輪)」とは、【ドイツの天文学者・数学者メービウス(1790年〜1868年)の名に因む。帯を一回ひねって、両端を張り合わせて得られる図形。表裏がない曲面の例】 (広辞苑)
だが、アインシュタインの四次元世界の説明にも使われている様で、過去の時間と、未来の時間の関係にも引用されている。
私は、自分に、此処数日に起きて来た現象を見ていると、自分の存在している位置に、過去と未来が、交叉して接触している様に感じる。
過去の事象の渦と、未来の事象の渦が、両方とも、自分の身に触れて、混ざり合っている様な感覚なのだ。
例えて謂うなら、銀河と、銀河の渦巻が、私の中で、混ざり合っている様な感じである。
私の存在を通して、過去と未来の時間がずれ込み、現象を起こしている様なのである。
釈迦の言葉に「三世に 私の存在が在り、衆生は一切我が子」と有る。
その実感が、私に迫って来ている。
三世とは「過去・現在・未来」の三世である。
「過去の世界も私で、現在の世界も私で、これから始まる未来も 私が因である。」との理・ことは、自分が宇宙の存在そのものであり、全てが、私の責任において、存在するとの意識である。
其れを、別の言い方をすれば、過去の世界の全て(因縁)が、現在の自分一身に集束して来て、新しい未来世界へと生まれ変って、出て行くとなるだろうか。
釈迦は、自分が関係した未来時間は、500年間は守られると云ったとの事。其れは、500年以後の世界には、自分の力が及ばないと言っている事になる。
釈迦が死んで、2500年が経ち、釈迦が予言した様に「無明」の時代と成り、人々は不安の中に生きている。
釈迦の力が消えて、2000年が経過し、2000年分のカルマ・業が、解決されなければならない時節を迎えている。
18年前、私を、突然襲った時間の波は、私をとんでもない世界へ運び去ってしまった。
其の時間の衝撃から、自分を立て直し、屋久島に帰って一年が過ぎた。
そして、7月3日より新しい時空の動きを感じている。
18年前、私は自分の時間を止めて、新しき時の針を回し、新しき時間の渦を起して、自分の時空を広げて来た。
私が、18年掛けて育てて来た、新しい事象の渦巻は、古い質量のエネルギーを吸い取って、力を強くし、人々を、私の新しい渦の内に取り込んで来た。
屋久島は、私が新しい渦巻を起こした中心の地である。
宇宙の古い質量が、屋久島を中心とした、新しい事象の渦に巻き込まれて、再生しようとしているのだろう。
私達は、今年の春より、島の仲間で、屋久島の地層の研究を始めている。
その地層の学問の中に“集束”との言葉がある。
積もり積もった堆積岩の頁岩に、地震に因る断層のヒビ割れが起き、片方が片方の下側にズレ込んで行く時、一つのヒビ割れの中に、「頁岩・ケツガン」は集束し吸い込まれて行く。
その岩の姿を見ていると、時間のズレで起きた狭間に、古い時間の記憶が全て吸い込まれて行く様に見える。
積もり積もった、幾層もの泥の頁の岩層は、幾千年もの時間で積みあがった、人間のツミケガレに想われてしまう。
其れが、いま、屋久島の花崗岩の聖なる力で、吸い込まれて浄化されようとしているのだ。
インドの神様に「シヴァ神」が在って、破壊と創造を司っていると云われているが、正に今、屋久島の山々の力が、その事を実行している様に想われて来る。
私に、起きている事は、私にではなく、島の山々の働きであると考えられる。私は、屋久島の山々の力が起こしている事を、自分の事として感じているのだろう。
静かに目を閉じて、目蓋に浮かんで来る映像を見詰めていると、確かに、宇宙のエネルギーの変化の様子が、映って来るのだ。
古い時間のレコードの溝は、新しい研磨機に因って削り取られ、消え去って行こうとしている。
古いレコード(記憶)にしがみ付いている者は、やがて、砕かれる日が来るだろう。
助かる為には、古い集束から離れなければならない。
メビウスの帯を、上手く通り抜ける為には、其れだけの用意をしなければならないのだ。
時間の壁は、もう直ぐ身近に迫って来る。
壁を乗り越えられるか、溝に落ちて地に飲み込まれてしまうか、其々の力量で立ち向かうしかない。
誰も、他人を助ける事は出来ないのだ。
深い輪廻の溝は、自分の力で越えるしか、他に方法が無いのである。
平成15年7月22日
礒邉自適
2003/7/22
固定された時間と流動的時間
15・7・22
此処のところ、気付いた事は、此の世界は、固定された時間と、流動的な時間の組み合わせで、出来ているとの理・ことである。
宇宙は、粒子と波動(振動)で出来上がっている理・ことは、皆の知る処だが、それが人間に認識されるには、言葉に置き換えなければならない。
私は、其の人間が使う言葉の中に、固定された時間と、流れる時間が有る事に気付いた。
其れは、中国の漢字は相対的であり、目に直接見える物の組み合わせで出来ているので、写真に撮れる物である。
だが日本語は、目に見えない事象の流れを説明しているので、写真に撮る事も出来ないし、手に取る事も出来ない。
例を挙げると、「心・シン」の漢字は心臓の形なので、人間の体から心臓を取り出せば、手に取ることも出来るし、写真に撮る事も出来る。
処が、日本語の「こころ」は、「コロコロ変わるもの」の意味で「変化するもの」との意味だから、心境を注しているので、写真にも撮れないし、手で触る事も出来ない。
「学」の字は「學」で「家の中に居る子供と 子供を世話する者の両手の意味」だから、家も、子供も、教師も、交わる行為も、皆写真に納める事が出来る。
処が、日本語の「まなぶ」は「まねる→ まねぶ→ まなぶ」と成ったものだから「まねる」という動詞は、その情景は現像出来ても、写真に撮る事は出来ないし、まねる行為を、物として手に取る事も出来ない。
この様に、漢字の表記と、日本語の意味を見比べて行くと、漢字は、相対的な世界であり、固定された物の姿を組み合わせる事で、意志を伝え様としている事が解る。
つまり、固定された質量の部分を、認識システムとして使用している事に成り、時間的にも流れないものである。
一方、日本語の場合は、変化しながら移り行く様を表しており、固定された物の表現ではない。
特に「悲しい」「苦しい」「楽しい」「うらめしい」「おとなしい」等と、日本語には名詞や動詞の後に「〜しい」を付して形容詞をつくっている。
「〜しい」とは、「その様だ」との雰囲気を表すものなので、全部写真には撮れないもので、絶えず変化して行く様子を表している。
こんな風に考えると、日本語は「流動的な時間」を言い表す言葉だと言える。
漢字が、日本に導入されて、約1500年程経つが、それまで漢語が無く、日本語だけで会話をしていた人々は、流れる自由な時間の中で、生活していたのではないだろうか。
現代社会は、目を覚ます時から、目覚まし時計に動かされて、自分の時間を社会機構に括り付けている。
24時間、365日、人間が造り出した人工物と、人工時間に、身も心も捕捉されて、身動きが出来なく成っているのである。
現在の人間社会は、物質社会なので、漢字を使用し、物を書類どおりに動かして行けば、自分の衣食住も、自動的に手に入る様に組み立てられている。
現代社会の人間は、漢字に拠って、コントロールされていると言えるだろう。
悲しくても、苦しくても、それらの時間帯は押し殺してしまい、手で数えられる紙幣で、自分のこころをごまかして、出口の無い深い闇の中に落ちて行く。其処には、自由な時間どころか、固定された時間さえも無く、心の震えさえ無いのだ。
宇宙には、流動的な時間の流れしかない。
一時的に、星や銀河の様に、固定された時間は有っても、其れは、流動的な運動の中で動かされているので、正確に言うと固定はされていないのである。
屋久島には、樹齢7200年と云われている縄文杉が存在するが、その形でさえ、孰(いず)れ粒子に分解されて姿を消して行く、7200年という時間も、永久なものではないのだ。
それなのに、現代人は、どうして物だけに拘わるのだろうか。
自由を説いた釈迦牟尼仏の訓えを「まねぶ」佛教徒でさえ、寺院や仏像に執着をしている。
釈迦の訓は、万物は流動しており、一時も同じ状態を定めないのだから、物と事に捉われては成らないとの理・ことだ。
其れは、日本の伝統である「禊祓い・みそぎはらい」の考え方と同じである。
自分の心が、日常の生活に縛られると、神の世界から取り残されると考えていたのである。
「みそぎはらい」とは、固定された時間を離れ、神の時間である、流れる時間の中に、自分を置く事なのである。
日本の価値観である「神惟ら・かんながら」とは、流動する時間に、自分の身を置いて、宇宙の進化と共に、成長して行く事を意味している。
神社に有る鏡も、鏡自体を拝むのではなく、鏡の向こう側に抜ける為の物だから、固定ではなく、流動を目的としたものである。
人間の役目とは、固定化された物質の為にあるのではなく、流れて行く時間の中で、認識を深めることなのだ。
その為には、日本語を漢字から切り離して、もう一度、本来の時間の流れの中に、立ち返らなければならない。
子供達を、固定化された時間の中に、閉じ込めてはならないのだ。
宇宙には、直線という固定された軌道は存在しない。
有るのは、粒子の渦であり流れである。
子供達に、一本のレールを敷いて、その路を歩かせるのは、神の法則に反しているのだ。
「〜しい」の言葉が、ついている言葉を理解する為には、自由時間の中に、子供を置くしかないのだ。
釈迦や、老子や、イエスの教えに共通している理は、そのことである。
「自由時間」と言う、流動性の流れの中にこそ、「たび」の意味があるのだ。
古代の人々は、花崗岩という固定された岩の内に、永遠の時の流れを観じていたのである。
動かない岩にこそ、数10億年の、時の流れの情報が詰まっているのである。
古代の人々は、動かない岩を拝しているのではなく、岩に秘められている数10億年の時の流れを、自分のものとしたかったのだ。
彼等は、その答えを「言葉・ことのは」に感じながら、自分が、言葉と一体と成り、自分の祈りが神への意乗りとなって、永遠の時間性へと、飛躍したかったのである。
女性は、永遠の流動性の中に生きているからこそ、直感的なのであろう。
女性の夢は、自分の時間の流れの中に、何かのメッセージを、瓶に詰めて流したいのだろう。
その為に、自分の身を少し削り取って、男性と言う分身を創り、闇の中に放り出したのだ。
そして、数多くの子供の中から、誰かが、良い便りを持って帰って来るのを、何億年も待ち続けているのである。
私の仕事は、幼子を股座にすわらせて、母親の永遠性の言葉を、子供に聞かせる事にありそうだ。
女性の思考には、直線は無い。
絶えず、流動する粒子の渦巻の流れの中に、彼女達は夢を投影している。
漢字が、象形から直線文字になって、彼女等は戸惑っているのだ。
漢字は、全て、男性が作り出したものであり、女性の流動性を、文字の中に閉じ込めてしまっている。
日本の「大和ことば」こそ、女性的であり流動的だから、子供を育むのには適していると言える。
私の父親が、私に「勉強しろ」と一言も云わなかったのは、言葉の秘密を知っていたからなのかも知れない。
私が、幼い頃覚えた言葉は、殆んどが、母親からのものだろう。
私は、父親からの漢字に因る教育を、された覚えが一つも無い。
私が、今の様な人間に育ったのは、47歳まで、殆んど漢字を書けなかったからではないだろうか。
考えて見れば、釈迦も、イエスも、文字の無い社会で生きている。
その点では、私も似ている処がある。
漢字に、興味を覚えて7〜8年に成るが、ようやく仏教の「不立文字」の意味が理解されて来た。
男性同士の、漢字に拠る議論から、大和言葉に拠る女性の言葉に、自分の思考を、変えて行かなければならない様である。
平成15年7月22日
礒邉自適
2003/7/20
禊がれて行く意識
15・7・20
「みそぎ」とは、身滌(みそそぎ)の訳らしく【身に、罪または穢(けが)れのある時や、重大な神事などに従う前に、川や海で身を洗い清めること。】
と 載っている。(広辞苑)
漢字の意味を調べると、「禊」は「示(ネ)+契」で、「契(ケイ)」は【罪・けがれを清めるために、人のはだにしるしを刻むの意味。示を付し、けがれを払うみそぎの意味を表す。】
「滌」【漢読みではテキ、呉読みではジャク。ジョウは間違い】と載っている。「滌」は「氵(水)+條」で、【音符の條は長いすじの意味。水を流して洗うの意味を表す。原字は攸。」とある。 (漢語林)
漢字で見ると、「禊」も「滌」も日本語の「みそぎ」には合っていないような気がする。
みそぎとは、自分の行為を一切止めて、自然の中に在る川に行って、手足を清め、口を濯ぎ、世間で身に付いた諸処の垢(業・波動情報)を取り除き、無垢に成ることなので、膚に入れ墨をしたり、わざわざ水を引いて来たりする人為的な行為は、日本語の“みそぎ”とは合わない事に成る。
釈迦や、イエスや、イザナギの命も、池や川で禊を行って、神の働きに目覚めているが、水を引く工事をしたり、入れ墨をしたりするような事はしていない。
仏教・キリスト教・神道と、日本に在る宗教のどれもが、水浴びから始まったものである。
此の事から考えると、中国には、本当の「みそぎ」の儀式が無く、概念が無いので、漢字が無いのかも知れない。
日本語の「みそぎ」を、漢字にすれば、「身削ぐ」の方が合っているのではないだろうか。
「みそぐ」とは、身に付いたものをそぎ落とす事である。
身に付いた余計なものを全て削ぎ落として、無垢に成れば、神霊の働きが寄り付いて来るとの考え方である。
私の場合も、屋久島の自然の川や海でみそぎをし、4311体もの霊が寄り付いて来た。
イエス・キリストも、みそぎを受けた時に、聖霊に満たされたと伝えられているので、同じ事が起きたのだろう。
私も安房川で、1984年6月4日(旧5月5日)に禊を行って、聖霊に満たされ、それから数ヶ月荒野を彷徨歩いた。
始めの頃は、様々な奇蹟が起きて驚いたが、私が完全に、神の存在を信じる様になったら、物に因る奇蹟は起きなくなった。
神霊は、人間が、神の存在を認識するまでは奇蹟を行うが、人間が、神の存在を信じてしまえば、奇蹟を見せる事は止める様である。
私は4311体もの聖霊に導かれて、全国を18年間回って来たが、屋久島に帰り生活を始めて一年が過ぎた。
島の自然の中で暮していると、全国を旅した18年間のツミケガレが払われてしまった様である。
日本各地を巡り、様々な情報を取り込んできた。
それらは現在、無意識の中にはあっても、私の日常の暮らしの中には、浮かび上がっては来ない。
完全に忘れ去った分けではなく、無意識の中に、潜在意識として眠っているだけだから、これから何かが始まって、刺激されれば又、表に現れ出て来るだろう。
今は静かに、18年前の禊ぎ祓いを再び実行して、自然と一体だった頃の状態を、思い出して、あの恍惚の世界は、何だったのか理解しなければならないと意う。
18年前の禊の直後は、自然と一体と成り、神は、直ぐ近くに感じられたが、自分自身にはゆとりは無く、無我夢中で、起きる現象に必死で付いて行くだけだったので、それが何なのか、理解する隙が無かった。
18年間の全国の旅でも、次々に場所も人も変わるので、出来事の全部を、理解する余裕も無かったのである。
島に帰った一年間も、新しい自分の立場を定める事や、人々との付き合いにエネルギーを使い、静かに瞑想をする間も無かった。
此処のところに来て、ようやく日常が安定し、今の自分を確かめ、感じる余裕が生れて来た様な気がする。
もう一度、18年前の禊の体験まで意識を戻して、禊とはどういう儀式で、何が起こり、何を意味しているのかを、私なりに整理して見たいと思う。
此れは、真実の禊を体験した者しか、分からない事である。
神社で唱える祝詞には、禊の事が書かれてはいるが、それを実行し、本来の意味を捉えている、宮司も神主も居ない様である。
私だけが今、建物も弟子も無く、仕事も家族も無く生活し、神霊も排除して、自分の本来の面目を取り戻そうとしている。
毎日、何もする事も無く、決まった事の無い状態で、自分に起きた現象を、静かに解読する時、本来の禊とはどんなものだったのかが見えて来る。
日本各地にも、禊の場は存在するが、何百年も人間に利用された場所には、人間の、様々な情念がこびり付いていて、禊ぎ祓う処か、過去の怨念を吸い込みかねない場所も在る。
その点、屋久島は未だ、ケガレが少なく、禊の場としては相応しい所である。
私が、屋久島で産み落とされたのも、その事が大きな要因なのであろう。
あれから18年が過ぎて、ようやく自分を冷静に観察し、客観的に見詰められる様に成って来ている。
これから、もう一度、禊ぎ祓いを体験し、一つ々の事を、明確に把握し、誰にでも理解出来る平易な言葉で表記して、人類全ての財産としたいと想う。
今一度、純粋意識に立ち返り、人間の真実性を確めたいと意っている。
平成15年7月20日
礒邉自適
2003/7/18
般若波羅密多(はんにゃはらみった)
15・7・18
今日は、朝早く湯泊りの温泉に行き、誰も居ない海中温泉に入浴した。
湯淵の中に、静かに浸って、潮が満ちて来るのを見ていたら、海の中に入って見たくなり、湯淵を出て海中に身を移した。そして、頭まで海中に身を沈めてから、立ち上がったら「はんにゃはらみった」の言葉が、低い声で自分の口から出始めた。
経を唱える様に、十分間程「はんにゃはらみった」だけが続いて、私の意識は、それ迄とは違った状態に変わったのを感じた。
私は、19年前、修業が始まった当時は、父親の位牌の有る仏壇で「南無妙法蓮華経」を唱えていた事は有ったが、「般若波羅密多」の文句を唱えた事は無い。「はんにゃはらみった」は、弘法大師空海の真言宗で、よく唱えられる呪文である。
私は、真言宗の信者でもないので何故かと想い、自宅に帰ってから広辞苑で「はんにゃはらみった」を調べて見た。すると「般若波羅密多」とは「般若波羅密」で「智慧の完成されたもの」との意味と載っている。
其の意味からすると、私の智慧が完成されたとの意味だろうかと想い、これ迄の自分の修業を振り返って見た。すると、「般若波羅密」とは、私の個人的な意識ではなく、自分の意識が消え去った後に、私の内に現れた、別の意識である事が解かった。
其れは、私が聖霊に満たされ、荒野を日夜さ迷い歩く様になって、家族や島の人々から気狂い扱いされ、誰一人口を聞く人が居なくなってから起きている。
人間社会は、言葉を使用する事で成り立っている。処が、気狂いに成った者が、他人に話し掛けると、相手は気持ち悪がって逃げて行く。だから、話す相手が一人も居ない事に成り、私は言葉を使用する事が出来なくなってしまった。
言葉を使用出来なくなった私は、数ヶ月間を、島の山中や海辺で過ごす事に成った。数ヶ月を孤独で過ごし、言葉を使わないと、自分の頭から言葉が消え去り、「歩く」とか「食べる」とかの言葉も頭には浮かばなくなる。
1人で山中に在れば、歩きたくなった時に、ひとりでに足が歩きだし、川の水を見て喉が渇いていれば、何も頭で考えなくても、自然に口水場に持って行って飲んでしまう。家族の誰かに「喉が渇いた」とか「オーイ ビール持って来い」とか言う必要が無いのだ。
現代社会では、会社から自宅に帰った夫が、妻に対して発する言葉は「風呂」「飯」「寝る」の3言だと云う話も有るが、その3言さえも無い世界である。
食事をする時も、誰かに「皿を出して」と云う事も出来ないので、自分で皿を出して用意をしなければ成らない。
人間も、一人で暮す時は、動物と同じで、言葉が必要ないのだ。人間は、言葉を使用する事で、自分のアイデンティティーを確めているのである。それが、相手が無く、言葉を使用しないと、言語の世界が薄らいでしまうのだ。
話し相手が無く、言葉を使用する機会が全く無ければ、人間の思考から言葉が消え去ってしまうのである。
対象となる話し相手が存在しなければ、「私」と云う自己が認識出来なく成って行き、数ヶ月話し相手が全く無い状態が続けば、私と云う実体が消えてしまうのだ。 其れに、山中には、ビデオカメラも鏡も無いので、自分の顔も見る事が出来ない。
「ヒトの噂も75日」との諺が有る様に、人間の脳細胞は3ヶ月で入れ替わってしまうと言う。3ヶ月自分の顔を見ず、言葉も使用しなければ、自己の存在が薄らいでしまう。
その状態が続いて、自分の意識が失われている時に、何かの衝撃と成る刺激が加われば、異次元に飛び込んでしまう事に成る。それが悟りの瞬間と成る。
悟りの瞬間とは、自分の自我意識が百パーセント消えて、替りに、宇宙の記憶が飛び込んで来て、宇宙意識に目覚める事なのだ。
その宇宙意識こそ、般若波羅密の智慧なのである。自我意識が消え去って、宇宙意識と繋がった、新しい自我の誕生である。その状態を覚醒した者を「ブッダ」と呼ぶ。般若波羅密とは、ブッダ・佛陀の智慧なのである。
今日海水で水浴びをしたら、「はんにゃはらみった」の呪文が自然に口から出たという事は、私に新たな段階が訪れた事を意味しているのだろう。
私は、密教の修業を学んだ分けでもないのに、どうしてこんな現象が起きるのだろうか。その原因こそ、宇宙に秘められている、智慧の現れなのであろう。
修行とは、行を修める事なので、現場で実際に体験を積み上げなければならない。私は、学校や寺院で修行をした分けではないが、屋久島の自然環境の中で、現実的に現場で様々な体験を積んで来た。「修験道」との言葉が有るが、私は正に、「修験道(体験を修める道)」を実行して来た事に成る。
「修験」とは、自分の足で歩く事であり、自分の手を使って何かの行動を実行する事である。他人の体験を通して、自分の体験とする事は、絶対に出来ないのである。
現代社会は、釈迦仏陀や、イエスキリストの言葉を、知識で仕入れて、自分が然・さも体験したかの様に錯覚している者が多い。
自分の手足で、現場を体験していなければ、宇宙の現象(現実)と自分を一体化する事は出来ないのだ。
般若波羅密とは、自分の体験を通じて、宇宙の真理の本体(大日如来・ビルシャナ仏・阿弥陀佛)と一体と成る事なのである。
その事に、取り組んだ私は、19年前(1984年6月4日・旧暦5月5日)に安房川で禊をして、虚空会の儀式の体験をし、4311体の聖霊を此の身に引き入れる事と成った。其れから18年間、聖霊の働きに身を預けて、全国を旅して来た。昨年屋久島に帰り、島の生活が一年過ぎた。そうして、今朝の海での禊の出来事である。
私は、19年前、屋久島の山中や、川と、海岸で、瞑想を数ヶ月続けた。屋久島に再び帰島して、19年振りに、又、都会で仕入れた人間社会の「ツミケガレ(知識や物)」をミソギハラって、ブッダの状態に返らなければならないのだろうか。
今は、自分から求める事は何も無いのだが、人々には、何か私から得るモノが有るのだろう。それが、般若の智慧から出ているモノなのかは分からないが、日々移り変わる森羅万象の現れである毎日の営みから、出て来る言葉であれば、自然にまかせて自由に振る舞っていれば良いのだろう。
真言とは、寺院の中に有るものではなく、日常の生活の中にこそ在るものだと理解されて来た。
私が何者と成ってしまったのかは、自分では認識出来ないが、自由な人間に成っている事だけは自覚出来る。
これからは、私の前に誰が座るかで、自分の反応がどう現れるか、それだけに視線を向けて行こうと想う。
19年前と違って、携帯電話が有るので、山頂や川や海で瞑想をしていても連絡が付く、何も自宅に1日中居る必要も無い。時代は、確かに変わっている。私の意識も、其れに合わせて、日々変わって行かなければならない。
社会の変化も、又、宇宙意識の現れであれば、私の意識と離れてしまう事は無いだろう。
「衆生一切 我が子」との釈迦の言葉が、自分の言葉として定着する事を願うばかりである。
平成15年7月18日
礒邉自適
2003/7/10
「悟りのガイド」は途中迄
15・7・10
私は、霊夢の導きにて、是まで精神的な旅を続けて来たが、古代では当たり前だった其の事が、現代では成されていない。
私は、屋久島に帰り、一年が経過して、ようやく新しい価値観の基で、古いかたちの生き方が始まった様である。
島には、現在100名を超すガイドが居て、登山・島巡り・公園案内・カヌー・ダイビング・海亀産卵見学等、色々な案内が為されている。
私は、其れ等の案内風景を見て、感じている事は、精神的な旅とは、随分違っているとの理・ことである。
自然ガイドは、先ず一番大事な事は、客の安全を護る事であり、安全を確保しながら、植物や名所の説明をして歩く。
案内される方は、身の危険を感じる事も無く、相対的な知識を増やして行く。案内の場所と時間を消化すれば、後には思い出の外は何も残らない。
処が、精神世界の旅は、是とは全然違っている。
精神的世界は、肉眼には見えない世界だから、此れだと言って、指で差し示す事が出来ないのだ。
其れに、インドの釈迦牟尼仏が謂っている事は、物や形体に名称を与えて、相対的認識を行っている間は、絶対に悟れない・覚醒出来ない、との事である。
是は、現在の屋久島の自然ガイド(エコツーリズム)とは、反対の処にある。
釈迦の教え(仏教)と、見識を増やす為の見学旅行は、目的が全く、逆の立場にある事に成り、永久に悟る事は出来ない。
処が、釈迦が悟ったのは、森の中での六年間の修業の後、池で水浴びをして樹木に寄り掛かり休んだ時なので、場所としては、屋久島は釈迦の悟りの場の条件と一致している事に成る。
要は、場所と条件は同じでも、人間の目的が違っているのである。
知識を増やす事と、知識を忘れ去って頭を空にする事は、全く逆の作業である。
釈迦牟尼仏が、智慧の宝庫と成り得たのは、見識を人一倍頭に詰め込んだからではなく、頭を空にしたからこそ、宇宙に記憶されている叡智が、自分のものとして遣って来たのである。
私は19年前、屋久島の山の中で、素っ裸に成って、自分の自我意識が無くなるまで瞑想を続けた。
そして、自分が0(ゼロ)に成り、自分の本来の面目(めんもく、本旨)に辿り着いたのである。
其処に至るには、無庵師匠の助けが有り、途中迄は同行して貰ったが、途中から手を離され「今日からは 自分で歩き出せ」と告げられ、荒野の中に出る事に成った。
自分の面目(趣旨)を捉えるには、他人が、天(神)と自分の間に介入してはならないのである。
精神的世界のガイドは、入口まで案内するだけで、他人の現場には立ち入らない。
現場には、立ち入らないけれども、絶えず見護ってくれている。
其の師・ガイドの行為が、旅をする支えと成るのだ。
行為の最後まで、手を直接差し伸べる事は、悟りの弊害と成るのである。
神の世界に、到達する直前の、最後の段階には「悪魔(鬼の姿をした校長先生)」が出現して、最後の仕上げの試練(テスト)が有る。
その時、師が側に居れば、師の方を向いて助けを求めてしまう。
そうすると、最後の場面は目線から消えて、二度と、其の場面に接触する事は不可能と成る。
自分が、どんな危機に陥っても、他人の手を借りてしまえば、失敗と成るのである。
此の事も また自然ガイドとは違う。
ガイドに、最後まで面倒を見て貰い、身の安全を確保するのとは違うのである。
悟りへの旅は、自分の力だけで川を泳ぎ渡り、彼岸に上がらなければならない。それは、「セルフ・ライディング(自分の力だけで自分に光を当てる)又は(自分の足で着地する)」と、言えるだろう。
誰も、自分に光を照らして、見護ってくれている者は、其処には居ないのである。存在するのは、闇の中に存在する神の意志だけである。
神は何も言わず、語らずに、その現場の舞台を、用意してくれているのである。
目に見えない神の手を探って、誰も居ない、未知の世界に入って行かなければ成らない。
其処には、道路も案内板も有りません。唯一有るのは、真実を知りたいという自分の内側に存在する、生命の叫びのような力だけである。
真実を知りたいと意う何者かと、二人三脚で、いのちの向こう側へ抜けるのです。
自分の命・いのちを捨て去って、向こう側に抜けた時、永遠の世界、真実の世界が存在するのです。
私は19年前、安房川で禊をして、神社の鏡の向う側に抜け、神の世界を見て来ました。
私は神の世界に、其のまま留まらずに、人類のガイドとして帰って来たのです。
この神の世界は、日本の古神道では「言挙げせず」と云って、教えてもいけない、聞いてもいけない、見せてもいけない、と伝えられている世界です。
ですから、私も、自分の世界へ旅人を取り込む事は、ダルマ・法・道に反する事に成りますので、途中までの、導き手に成る事は出来ますが、最後までお付き合いをする事は出来ないのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
道(ルート)は、私が遣り遂げた事で、見えない世界にデータとして残っています。現場も、古代の世界ではなく、いま屋久島と言う名が付いて現存します。
そして、私も未だ56歳で元気で存在しています。
料金制定も有りません。其れは、私の商品ではないからです。
永遠に綴られている宇宙の営みですから、其々が自分に代価を払って、進んで行かなければなりません。
神社や寺で、何百万円か寄付をしたら、出来ると言うものではないのです。
今世で駄目なら来世で、来世で駄目なら次の世で、と 永遠に、何時かは通らなければ成らない道です。
私が、此の世に存在する内に、テキストを貰いに来たら如何でしょうか。
お代は頂きません。
必要なのは、貴方の中に真実を知りたいとの、お伴が居るかどうかという事だけです。居ないのなら、私の伴をお貸しいたします。
この料金も頂きません。目に見えないので、値段が付けられないのです。
私の中に住む、真実を知りたい伴も、もう随分と、利巧に成っているのではないでしょうか。
貴方を、巧みに誘導する事は、疑いないと想います。
どうぞ一度おためし下さい。
※これは 平成15年6月27日に出て来た、言葉の題で、書き始めたものに追記したものです。
平成15年7月10日
礒邉自適
2003/7/6
綴られて行く魂
15・7・6
文化とは、「文・あや」が変化して行く事である。「あや」は、「心の意・おもい」の事だが、「あや・心・意」は言葉に因って組み立てられ、変化して行くものである。
猿と人間の差は、言葉を使い、文字を使用するか、しないかの違いである。
人間は、言葉を使う事で、言葉に自分が振り回され、文字を使う事で、自然の働きから分離して来た。その為に、人間は常に不安を覚え、元に還ろうとして、神佛を求める行動に走って来たのである。
だから、本来の自分自身に還る為には、言葉に頼る事が無かった時代の、原点に帰らなければならない。
本来の自分に還る為の方法に、祈りの行為がある。「祈・禱」の漢字は、「人が鈴の飾りの付いた旗を持ちながら、幸福に近づくことを願う様から いのりの意味を表す」である。 漢語林より
「祈・セツ」を日本語の「いのり」に当てているが、日本語の「いのり」は、人間の姿ではなく、心の状態を表す言葉だから、「祈」をする人物が、心の中で何を想っているのかを、考えなければならない。
日本語の「いのり」の言葉の意味は、「いの」が「帰る」の意味だから、神に向かって「いのる」とは、「神に帰る」との意味に成る。其れだと、漢字の「祈・セツ」と同じ意味を持つ事に成る。
祈る人の姿は、世界共通のものである様なので、人間の行為としては、「跽・ひざまづく」事は、理に適っているのだろう。
アルファベットの「B」も、人間が跪いている形で、人間の意味であるし、漢字の「命」の字も「卩」がアルファベットの「B」と同じで、人間が天の神に対して、命令を待って跽いている姿を現している。
因みに「A」は牛の象形で、「令」の頭の△と同じで、「令」の漢字は「△(A)+卩(B)」の組み合わせで、「牛神を 跽いて祈る人」の意味である。
そして、知らされる言葉が「命令」の「令」である。
日本語の「いのる」とは、自分の身に、神の意志が降りて来るか、自分の念いが神に通じるのを願うかのどちらかであり、神・天の意志と、自分の意志が、共通のモノと成る事を目的とした行為である。
現代風に言えば、この世は、全て波動・振動で出来ているので、神の振動に、自分の振動が同調して、波動が同じ物に成り、神と自分の想いが一体と成る事を、願う行為であると言えるだろうか。
「意・イ」の漢字は、「未だ 音にしない 心のおもい」の意味だから、自分の言葉として、他に話す前に、神と一体と成り、間違いが無いかどうかを確かめるものとも言える。
「話す」の漢字も、人間が「はなす」時には、舌が動くので、「話・ワ」とは「言+舌」の組み合わせで、人間がものを言う時は、舌が動いているとの絵・象形と言う事に成る。
話すとは、自分の意見を他人に向けて「はなす・離す・放す」事だから、日本語ではピッチャーが、キャッチャーに向けてボールを投げる事と、同じ様子を言い表している。
優秀なキャッチャーに出会う事が出来れば、自分の能力以上のものが出て来る事も有るのだ。其れと逆に、優秀なキャッチャーに、自分が成る事が出来れば、相手の潜在能力を引き出して遣る事も出来る。
「教育」の語は、明治時代に英語の「エディケーション・education」の訳として出来た言葉だとの事。エディケーションとは、相手の長所を引き出して育てるとの意味らしい。
相手が、説明出来ないでいる胸の内の意いを、上手く引き出してやる事が出来れば、親としても、教育者としても、友人としても役に立つ事に成る。
その理・ことは、人間関係ばかりではなく、神と人間との関係にも当て嵌める事が出来る。聖者や、預言者とは、神霊の意向を良く受けとれる人物の事であり、神に対して良きキャッチャーと成れる者の事である。
聖者や預言者は、自分の要求を神に押し付けたりはしない。神霊の意志を受け取り、此の三次元世界である「人間世界」が、神の意向通りに創造される事に、協力をするのである。
言葉とは、人間の為にだけ存在するものではなく、神霊との交信の為にも必要なものであり、漢字の多くは、神と人間の交信の様子を、絵として画いたものである事が、象形文字を見れば良く理解出来る。
宇宙に存在するあらゆる物質は、「ナミ・振動」に拠って出来ていると言う。光も、音も、物質も、全部ナミに因って生じているものである。言葉は音の世界であり、文字は光の世界(視覚)と、物質(筆・ペン紙)の世界の組み合わせである。
神と人間の関係性は、全部ナミで出来上がっている事に成る。その理・ことを考えれば、「いのり」とは、神と人間が、同じ周波数のナミに同調する事であると言えるだろう。
人間は、祈る時に、跽いて両手を胸の所で合す。何故、胸の所で両手を合すのだろうか。其れは、胸の場所が意識のセンターだからである。
漢字の「文・ブン」の文字は、人間が両手を広げた形で、胸に自分の意いを入れ墨している象形である。古代の人々は、自分が一番大事とする事柄・おもいを、胸の中心に入れ墨する事で、意志が変わらない様にしたのである。
「文・ブン」を、「あや」と日本語に当ててあるのは、自分の心の「あや(意い)」を言葉に織り込む事を意味している。
そして、織物が発達して、絵柄を布に織り込む事が出来る様に成ったので、「糸」を加えて「糸+文」の「紋」が、生まれたのである。
「意識」とは、自分の心の「意・模様・あや」を織り込む事を、意味しているのだ。人は、自分の胸に直接入れ墨をする事から、「文・あや」や「綾・あや」に自分の気持ちを依託するように成り、入れ墨の風習は一般的ではなくなったが、「文」の文字だけは現在まで使われ続けているのである。
私達人類は、自分の胸に去来する「おもい」を、言葉に変えて意識を組み上げて来たのである。
「文化」とは、その言葉に組み込んだ“おもい”が、時と共に変化して行く事を、言い表す言葉なのだ。
私達は、遥か昔の人々が、言葉に織り込んだ“おもい”を伝える事で、文化を発達させて来たのである。私達の魂とは、古代から続く言葉の「あや」の連続性に拠って成りたって来たものである。
この文章の題を「綴られて行く魂」としたのは、その意味からである。
では、私達の胸に去来する“あや”とは、何処から来て、何処へ去って行くのだろうか。
その根拠は、私達自分自身の胸のセンターに出入り口が有り、私達自身の胸の所から出たり入ったりしているからである。
その理・ことを、昔の人達は知っていて「食国の政・おすくにのまつりごと」と言って、神と人間の間に立つ者は、言葉を汚さない為に、食べる物を一番大事にしなければならないと訓えている。
漢字の「謂・いう」は、「言+胃」の組み合わせで、「言葉は 胃袋の中に有る 穀物から生じる」との意味の象形文字である。
佛教の中にも「精進・しょうじん」との言葉があり、日本でも禅宗の寺では、台所で食物を用意する者が「典座・てんぞ」と言って、優秀な者が選ばれる。
日本の天皇家の伝統で、一番大事な理は、「天皇・スメラのみこと」の食事を作る「台所(御饌殿・みけどの)」を祭る事である。
この様に、中国でも、日本でも、佛教でも、神仏と交わる者は、食物を一番大事とする理が伝えられて来ているのだ。
食べる物が、人間の魂を左右し、「あや・意」を変化させ、言葉の選択をすると考えられているし、「御饌殿・みけどの」の「饌」の和製文字が、その理を能く伝えている。
現代の日本社会は、言葉が乱れ、日本の大事な文化が若者に伝わらなく成って来ている。「スメラのみこと・天皇」に成るべき皇太子が、テニスをしたり、英国に英語の勉強に行く前に、するべき事は国内に澤山有るのだ。
いまの儘では、言葉の持つ「あや」は、変な方向に向かい、神の働きと掛け離れた意識が、不幸の綴りを織って行くのではないだろうか。
漢字は、人間の暮らしを相対的に現したものだが、日本の大和言葉は、人間の内側に働く、目には直接見えない魂の働きを表現するものである。
漢字の文字が書いて有るお札だけを、幾ら神社や神棚に張っても、何にも成らないのである。
正しい言葉が有って、道に適った念いがなければ、幾ら祈っても効果は無いのだ。正しい言葉の「あやの者」が一人でも多く現れて、神(天地)に通じる意いを念じなければ、人類は救われないであろう。
屋久島の方言に、「もう あやが 引っ切れた」と有る。此れは「自分の想いが 体力的にも 精神的にも、エネルギーが続かなくて 切れてしまった」と言う意味である。
私は19年間、是まで、よく「あや」が切れないで続けられたと想う。
其れは、神の意いを受け取りながら、キャッチャーとしての役目を果たして来たからである。
私は、自分の胸に、どんな意味の言葉を入れ墨すれば良いか、未だ決まってはいないが、地球生命全体の中で生きている私には、自分一人の勝手で言葉を選ぶ事が出来ない。
島の、猿や鹿と同じ物を饌・ケとして、もう1度、森の中で深く考えて見たいと想う。
平成15年7月6日
礒邉自適
2003/7/3
現場には物を通した言葉が有る
15・7・3
私の人生は、机にしがみ付いて哲学書を読んだ分けでもなく、指導者を求めて誰かに付いて、弟子の修業をしたわけでもない。
私の父親も、私に、是と言った教えを、残してくれた覚えもないのだが、何となく、此の様な事を考える人間にまで育った。
私の父には、暴力は無かったし、「勉強をしろ」とかの、言葉に因る強要も覚えが無い。
其れなのに、文章を書いたりする処までに育って来ている。
勿論、私の文章は、文筆家の様に、言葉や文字が、正確で練れた物ではない事は、自覚しているが、ろくに勉強もしていない私が、言葉を繋げる事が出来るのは、自分でも不思議な事である。
確かに、私も中学校までは学校に通って学んだし、親や社会から、言葉遣いも習い、或る程度は本も読んでいる。
しかし、自分を良く観察して見ると、私の思考は、自分の体験の映像を説明する為に、其れに合った様な言葉を捜して、繋ぎ合わせている様な感じなのだ。
此処数年、書いている文章も、半分以上が、夢で視た映像を、何とか言葉に変換して、整理をし、忘れてしまおうとするものである。
私の書いているものは、小説の様に、人間が頭で考え出した、架空の創造物ではないのだ。
私の書いているものが、夢の説明なら、夢も人間の頭の産物だから、やはり頭が生み出したものだと、他人に云われれば、一言も無いが、意識的に創作活動として取り組んでいないので、私の作品と言うわけではないのである。
私の書いている文章は、自分の毎日の日記の様なものだから、他人に読んで貰う為とか、これで生活をしようとかの目的も無い。
強いて言うなら、霊界人達の鎮魂の為にと成るだろうか。
私の文章には、自分が見た事も、聞いた事も無い語が有るが、その事が、霊界人が係っている事の、証拠と成るのではないだろうか。
私は、農家に生れ、小さい時から、両親と畑で過ごして来た。
畑仕事では、必要以外の言葉はいらないので、一日中畑に居ても、「お茶にしようか」とか「もう止めて帰ろうか」とか、限られた言葉しか交わされない。
世間話も無いし、映画や音楽の話題も無い。
グルメの話とかは、夢にも出て来ない。
服も、盆と正月に、弟妹が一着ずつ、通学用の服を買って貰うだけだったので、ファッションとも無関係である。
其の様な環境で、私は育ったのに、どうして一人前の人間に育ったのだろうか。
改めて、その事を考えると、家には、馬・牛・山羊・豚・鶏・犬・猫等が居たので、牛馬や山羊に食べさせる草刈をしたり、豚の餌にする薩摩芋を刻む行為をする時に、「牛の草を取りに行かなければ」とか「豚の餌を刻まなければ」とか、声には出さないが、行為自体を、言葉で判断していたので、其れ等の日常が、言葉を組み立てる事に繋がったのかも知れない。
良質の草を刈って来て、牛馬が美味しそうに食べるのを見れば、「そんなに美味しいか」との気持ちが、言葉に拠って生じて来る。
誰かに、此の行動には、こんな言葉が使用されるべきであるとか、教えられた分けでもないのに、いつの間にか、数多くの言葉を、現場の中から、汲み取っているのである。
私の頭には、方程式の様な、専門用語は何も残っていない。
頭が覚えられないのである。
私の頭の中には、現場の映像が無いものは、記憶され難いらしい。
樹木の名前も、生活に利用した物は、名前を覚えているが、生活に直接関係の無い物は、覚えていないし、聞いても直ぐ忘れてしまう。
鳥の名前も、自分が飼っていた小鳥や、罠を仕掛けて捕まえて食べた鳥の名前は、今でも忘れないで覚えている。
是等の事を考えると、私の思考は、現場主義型と言えるのではないだろうか。
其れは、都会生れの子供達が、パイナップルが、木に実っていると想っているのとは、反対の処に在る。
しかし、其の私には、テレビ放送の「TBS」とかの、会社の名前を聞かれても分からない。都会は、私の現場ではないのだ。
屋久島の、自然の中に生れ育った私は、都会の建物は、ゴミ箱の様に思えるのだ。
其れが、何故かと考えると、自然は、人間が手を加えなければ、美しい緑の自然に還って行くが、都会の建物は数10年すれば、醜い廃棄物と成ってしまう物であるからであろう。
都会で生まれ育った子供達と、自然の中で育った子供達には、言葉の持つ背景が違うのだ。
自然の中で生まれ育った私達には、遊びと言えば、自然の海・川・山が思い浮かび上がって来るが、都会の子供達の遊び場としては、異なった情景が浮かぶだろう。
人間が生きると言う事は、自分が置かれた現場から、どの様な言葉を汲み取って行くかに、掛かっているのではないだろうか。
屋久島に帰って、改めて、島の暮らしを考えるとき、都会の人間が考えた「文化(言葉)」が、島の文化を破壊して、僕等が育った現場は、消滅し掛けている様である。
田畑は荒れ放題で、何処の家にも牛馬も居ないし、鶏さえ飼っている家は、捜して歩かなければ、目にも付かない状況である。
島で育った言葉を、使う人が居なくなった時、島の自然と共に、存在した魂が消えてしまい、島の自然と人間の鎖が、切れてしまうのではないだろうか。
人間の「心(魂・意識)」が、言葉に拠って出来るものであるなら、現場を失った子供達には、島の言葉が無くなり、其れに伴って、島の魂も、失われてしまうのではないだろうか。
今日、政府も、現場教育の大切さを打ち出しては来ているが、都会で生れ育った人達が、机にしがみ付いて幾等考えても、現場が建物の外にまで、脹みでる事は無いのではないだろうか。
磯物捕りを、一週間続けた私の身は、机に座ってペンを握っていても、沈んだり浮かんだりする感覚が、時おり襲って来る。
現場とは、自分の身を其処に置いて、全身全霊で取り組んだ時に、はじめて自分の物と成って来る、ものなのではないだろうか。
今日は、波の揺れを感じる自分を、不思議に想いながら、ソファーに座っていて、言葉が如何なるものなのか、少し解った気に成って来た。
釈迦牟尼仏が、臨終の時に、謂い残した言葉に、「一生 修業を怠らず 続けなさい」と有る。
人間は、場が変れば、直ぐに思考も変ってしまう。其れは、便利でもあるし不便でもある。
佛教には、何時も変らぬ心を保つ為に「精進・しょうじん」との言葉もある。
自分の身を置く現場を、何処にするか、もう一度、真剣に考えて見なければ成らないようだ。
日本には、古くから「言霊幸合う国・ことたまさきあうくに」と言う言葉が有る。
昔の人は、現場にこそ、言葉が生じる力が有る理を、知っていたのではないだろうか。
自然の中にこそ、人間を、幸せにする言葉が存在するのだと、世界に示す時節に至っているのではないだろうか。
平成15年7月3日
礒邉自適
1 | 《前のページ | 次のページ》