2003/4/28
ほどく
15・4・28
日本語の「ほどく」に、漢字を使用すれば「解く」と書く。
此れは、「仏陀・ブッダ」を「ほとけ・仏」と、日本語で呼ぶ事の原因にも成っている様である。
「仏陀」とは、「真理に目覚めた者・覚者」の意味で、物事の真理を理解し、全ての執着から脱する事が出来た人の、呼び名である。
真理に目覚め、全ての「執着」や「柵・しがらみ」から「ほどけて脱した者」を、仏教用語で「解脱者・ゲダツシャ」と呼び、解脱者が「仏・佛」の本来の姿である。
日本では、物事から離れない状態を「しがらみが多い」と表現する。
其れは、解脱と、反対の処に位置する言葉である。
色々な厄介事が積み重なって、身動きが出来ない状態が、「ほとけ」と反対の姿である。
インドの「釈迦」は、民衆のそんな姿を見て、解決の方法を探って、山中で6年間の修業を続けた。
そして、修業を続ける事も、執着の一ツの姿だと気付いて修業を止め、池の水で禊をして木に寄りかかって休み、悟りを得たのである。
日本の古神道でも、同じく、水で禊ぎをする方法が採られており、神社で清い水で身心を禊ぎ、神主の払いを受け、潔白に成ろうとする。
根本的な処では、仏教(釈迦の教え)も、古神道の行法も、同じ要素を含んでいる。
仏教では、しがらみ・柵をほどき、執着を離れる事が大事とされる一方、インドでは「ヨーガ」と言って、神とむすばれることを願うし、日本の神社でも注連縄を張って「結び・むすび」を願う。
英語の「宗教」の意味も「religion・リリジョン(再び神とむすばれる)」で、やはり「むすび」が概念の元と成っている。
どうして、ほどかれる事と、むすばれる事が、対に成っているのだろうか。
此の事を良く考えて見れば、人間社会のしがらみや、執着から「離れ・ほどかれ」て、神の世界とむすばれる事を意味していて、世界中の人が、両方の事を同じ様に願っている事に成る。
では、此の両方を解決する方法が、果たして有るのだろうか。
私の体験から、此の事を説明すれば、「解脱」と「むすび」は、全く反対の言葉で、対に考える事自体が、変しな事であるのだが、これを四ツに分けて考えれば、理解され易い。
柵・執着 ー 神無し
禊ぎ祓いーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
解脱 − むすび
図の様に、禊ぎ祓いを境として、「解脱・ほどける」すれば、同時に、神との「むすび」が起きる事が分かる。
人間の普通の状態では、柵や、執着が強く有って、神と結ばれていない。
しかし、禊ぎを正しく行えば、成仏し、神とむすばれる事に成る。
これが、神社での禊払いの儀式と、注連縄の意味である。
私の体験を、もう少し述べると、解脱をすれば、意識が正しい道に帰るので、判断力が蘇り、何が真実なのかが、能く理解出来る様に成る。
そして、真理の道を歩き、正しい行動をする様に成るので、聖霊が味方と成ってくれるのである。
これが、日本の神道の伝統「神霊の思頼・みたまのふゆ」であり、日蓮が云う処の「諸天善人皆加護に着く」である。
イエスキリストも、ヨルダン川で禊をした時に、聖霊に満たされ、同じ事が起きている。
そして、解脱する方法として、仏陀と成った釈迦は、他人にも出家する事を奨め、イエスキリストは「私に付いて来なさい」と、やはり仕事や家族から自由に成る事を奨めている。
解脱するには、どうしても家族や社会から、一度、自由に成らなければならないのである。
私の場合も、無庵師匠に「自適さんは 大事な役目があるので 仕事を止め 家族と別れてくれ」と云われ、それを実行して、釈迦やイエスの様な事が、自分に起きたので、此の世界の実体が能く分かるのである。
私の体験から、結論めいた事を言うと、真理を知る為には、一度、一切の行為を止めて、禊ぎをし、潔白の状態に成って、何の物差しも使わず、無意識のセンサーを取り戻す事が大事であり、本来の無垢の状態で物事を見詰めれば、全ての真実が明らかに見える様に成るとの理・ことである。
これは、社会や学校で習う事とは、別の世界である。
学校や社会は、執着と柵の巣窟であるので、何かの物差しが必ず掛かっている。
其れは、色眼鏡を掛けて物を見ても、本当の色は見えないのと、同じ理・ことである。
人間本来の、素直な眼・まなこを取り戻す事が出来れば、何が真理であるかが見えて来るので、道から外れている概念が、どんどん剥がれ落ちて、意識・魂が透明に成って来て、柵や執着の原因がハッキリと自覚されて来る。
真実が理解される事で、余計なモノが一切無くなり、純粋意識に立ち返れるのである。
純粋意識に立ち返る事こそ、釈迦の教えであり、日本の古神道の伝統なのである。
つまり、古い概念を、全て脱ぎ棄て去る事なのである。
無庵師匠が1984(S59)年に、私に初めて書いた物を下さった。
その書き物が、ようやく時節を得て、現実のモノと成って来た様だ。
ナニモナサザルナ ソノママデヨイ
自然無為
達人が 平凡に生くること
こそ 本科なり
カンヨウ
必要 こそ道
無庵記
平成15年4月28日
礒邉自適
2003/4/28
手のエネルギー
15・4・28
此処数日、自分の手の事が気に成っている。
「石川啄木」の詩「ジーッと手を見る」ではないが、人間の手は物を握る他にも、何かの働きが有る様だ。
仏教の仏像には、手に道具を持っている物も有るが、手に品物を一切持たずに、手の指の印だけの物も多い。
特に、釈迦の姿を現す仏像は、手には何も物を持たず、手と指だけで、意味を現している。
其れが、何を意味しているのかは、大抵の人は知らないだろう。
私も、其れを能く知らない人間の一人なのだが、何故か、此の私にも、手の指に、神のエネルギーが流れ込んで来て、釈迦と同じ様な、指の取り扱いをしなければならない時が多々生じて来る。
他人が身に着けている時計等の物品を、私が手にすると、相手の情報が読み取れたりもするし、遠方であっても、電話機で相手の気を調整したりも出来たりする。
此れ等の事は、未だ、現代の科学では証明されていないが、多くの人達が現実に体験したり、聞いたりもしている事である。
私は、此れ等の事が、どうして人間に起き得るのか考えていたが、近頃一ツの答えを導き出す事が出来た。
人間には、多くの事が出来るが、其れを大きく三種類に分けて、捉える事が出来そうだ。
一番目は、全ての動植物が有している、遺伝子を伝え残す為の、生殖行動に関するもので、動物の雄雌は生殖行為をする時は、性器に多くの血液が流れ、性器は充血し、エネルギーも意識も性器の方に向う。
これは、頭で考えなくても条件が揃えば、体はその様に反応する。
二番目は、人間の特長である大脳のシステムである。
人間は、動物の中でも、特に脳が大きく発達して、多くの言葉を使い、文字や絵を画く事が出来る。
其の為に、人間の脳は多くの酸素を必要とし、何かの行動を起こし、脳を使用すると、大量の血液が脳に送られる。
手の、脈を測る事に長けた者が脈を診ていると、患者が言葉を使って、物事を考えるのが直ぐに判るらしい。
頭を使用する時、脳に血液を送る為に、心臓の脈拍が変化するとの事である。
三番目は、歩いたり走ったりする時に、足の動きを支える為の、血液の流れである。其れが、一番血液を多く使用するので、心臓に一番負担が掛かる。
此の三ツの働きは、誰でも知っている事であるので、特に、是以上の説明は要らないだろう。
私が説明したいのは、先の三ツの働きの外に、人間の手には、別の働きが有るとの事だ。
私が、頭で考えて判断するのではなく、手で物事を知ろうとする時、手に意識が集中する。すると、手の平の血管が活発に成る様で、脈拍の勢いが強く成って来るのである。
私と、手を握り合って居る相手が、ドキドキ脈打つのが分かると言い、私の手がとても暖かいと言う。
私が、手で、何かを探ろうとすると、手に多くの血液が流れて来るらしい。
これは冷え性の人でも、歩くと、足の血液の循環が良く成り、温まる事と同じだし、感情が高まると「頭に 血が上って カッカしている」と言われる様に、使用する部分に、血液が多量に送られ、温度が上がる事を意味している。
では、どうして、私は両手に、血液が多量に流れ、情報を手にする事が出来るのだろうか。
其れに付いての、私の考えは、人間は何億年か時を遡れば、昆虫達と同じ先祖を有しており、昆虫と同じ仕組を持っているはずであるとの事だ。
昆虫は、皆 頭にヒゲ(触角)を有している。
昆虫は、その触角で、臭いや、温度や、風向き、空気の振動(音)等を、知るらしい。
処が、人間には、その触角も無いし、嘗て有った尻尾も今は無い。
しかし、尻尾の残跡は尾骨として現在も有るし、額には松果体として、嘗ての触角の根っこは残っている。
此の、触角の付いていた跡こそ、ブッダの第三の目として伝えられている部分である。
何故、額に有る松果体が「第三の目」と呼ばれ、ブッダ(佛)の証しとされているのか。
其れは、松果体が珪素(シリコン)の純粋結晶で出来ており、珪素の振動波は、あらゆる物に含まれている珪素と、共鳴を起すからである。
俗に云う、仏教用語の「全ての物に 仏が宿っている」とは、「全ての物には 珪素が含まれており その情報が共通されている」と、言い代えられるのではないだろうか。
それが真実としても、人間には現在、額の松果体には触角らしきものが付いていない。何が、触角の役目をしているのだろうか。
私は、その役目を、両手がしているのだと考えるのである。
嘗て、有った、二本の触角が集めていた情報を、分析する脳のシステムが、現在は、両手のセンサーの情報処理システムに置き換わっていても、何ら不思議な事ではない。
虫の触角も、人間の両手も、精子と卵子の受精から始まった物であり、生物の体は、一個の受精卵から、細胞分裂した物だから、根本の処は、基本的には同じ仕組を共有していて、同じ周波数が通じていると考えても、変しい事では無いだろう。
釈迦牟尼仏が、何故「生命は 全て一体である」と謂ったのか。
其れは、釈迦がこのシステムに同調し、生命の起源まで意識が遡って、生き物の根本の仕組みが、理解出来たからに違いない。
そして、生き物全体と、人間も、同じ生命場を共有している理・ことに気付き、「生命は一体であるから 無益な殺生をしてはいけない」と 謂ったのである。
全体が、同じ場に存在するのなら、他の生き物や、仲間の人間を殺す事は、自分の体の一部を、自分で破壊する事と同じである。
その事が、自分の両手の感覚として、直に伝わって来たのだ。
「自分の両手の中に 世界が在る」そう感じるのが「仏陀・ブッダ」の精神なのだ。だからこそ、全てに対して、慈悲の心で見詰められるのである。
自然の生物達の生活を見ると、自分の事だけではなく、他の生き物の存在も確かに把握している。
そうでなければ、自然の中では生きて行けない。
スーパーに並んでいる物を、手当たり次第に買って来る人間とは、全然違うのだ。
触角を失った人間は、社会の仕組みが無ければ、生きて行けない。
だが虫達は、自分の触角で情報を集めて生活している。
親も無く、社会も無いのに、卵から孵化して、自分一人で生活をして行くのだ。親に育てられ、学校を卒業しても、一人で生きて行けない人間とは、全然違うのである。
人間は、自分の両手を正しく使用する事を、忘れてしまっているのかも知れない。
釈迦が謂ったように、全ての人間に「ブッダ・佛」に成る素質が有るのなら、今一度、自分の手を、欲望の目的から切り離して、静かに、生き物の原点の触角の手として、見詰め直さなければならない。
仏陀としての自覚が蘇れば、仲間を殺す武器等は、手に出来ない筈だからである。
仏陀としての手なら、実に多くの働きに、自分の手を使う事が出来る。
だからこそ「千手観音」の様な姿の仏像も生れたのである。
目には見えない、触角の働きが、現在の我々の脳にも確かに存在し、潜在意識の世界で蠢(うごめ)いている。
私は、その働きを、取り戻す事に成功したのである。
私は、此の理・ことを、子供達に伝えるのが、これからの役目であろう。
第四番目の働きを認識して貰うには、純粋な子供達の方に可能性がある。
子供達が、その働きに目覚めれば、頭の硬化した大人も、少しは信じ始めるかも知れない。
平成15年4月28日
礒邉自適
2003/4/20
娘との再会
15・4・20
昨日4月19日に、二番目の娘と19年振りに再会した。
16日に、旅から島に帰って、17日・18日・19日と春の大潮で、海水がマイナス17cmまで下がり、一年で一番「イソモノ(磯の貝類)」が獲れる時なので、連日海に出掛けたのである。
昨日は、風向きが南西で、島の南側に位置する屋久町の方は、風が強く、磯が荒波・しけているので、風下に成る上屋久町に向けて車を走らせた。
17日は小瀬田地区、18日は楠地区を捜して獲ったので、其処を通り過ぎ、宮之浦を越して深川地区に着くと、波も無く「磯物・イソモノ」が居そうな岩が見えるので、車を海岸に止めてウエットスーツに着替え、網の袋を腰に着け手袋をはめて、磯物取りの道具の金の棒(屋久島ではクシと呼ぶ)を持って、岩場に向った。
時間は午後1時である。
19日は、干潮が14時59分なので、三時間は作業を続ける事が出来るので、余裕を持って始める事が出来た。
私はウエットスーツを着ているので、他人が渡れない、岸から離れている岩場に泳いで渡たり、崖で、下に降りる事が出来ない岩場を、海に入って泳ぎながら捜すので、他人が既に荒した後でも、絵物を獲る事が出来るのである。
特に、波の飛沫が掛かる場所は、普通の人は濡れるので近付かないから、私はそう言う場所を好んで捜す事にしている。
他人の捜さない所には、何年も経った、大きな物が住んでいるので、大形の物が多く獲れるのである。
深川の海岸の岩場は、堆積岩の「付加体・(付加作用によって海溝から大陸斜面中下部にわたって作られた楔状の地質体、多くの逆断層が発達している。)」にて出来ているので、板状に成った岩場には、人手で造られた様に、岩が縦に重なっており、波打ち際から上に向けて、丸い穴が並んで空いている。
其の殆どの穴には、トゲトゲの紫ウニが住んでいるが、海胆が入れない細目の穴には、「イソモノ・穴こ(アワビの小型の耳貝)」が身を隠している。
それを捜して、金テコで岩から外して獲るのである。
私は現在、地質に興味を覚えて研究しているので、岩も見ながら作業を続けたので、瞬く間に四時間程の時間が過ぎ、赤外線と成って行く夕日は、穴の中は見難いので止める事にした。
網袋には、口から出そうな程の量が、溜っている。
網袋の中には、「ウマンコ・宝貝」や「ニシンコ・巻貝」と、目的の「イソモン・岩場に住むトコブシでアワビに似ている」等が3〜4kg入っている。
車を止めた場所から、四時間歩き続けたので、直線距離でも2km程は、引き返さなければならない。
私は一度、磯から坂を上り、林を抜けて、島を一周している県道に出て、車の方に向かって歩き出した。
車を止めた道路の反対側には、19年前に別れた妻の実家が在り、妻だった人と、二番目の娘が現在も住んでいる。
私が、その家の前に達した時、丁度後から車が帰って来て止まった。そして、車から娘が出て来た。
娘と顔が合うと、娘も私の事は知っているらしく、顔が合うと笑ったので、私は娘に「イソモノを食べるか」と云って、袋ごと全部渡した。
娘は、笑顔で何も言わずに、受け取ってくれた。
私は「今日は 屋久町の方が風でシケていたので 此処まで来た。家には 昨日の分が有るから」と云って、自分の車の方に向かって歩き出した。
時間にすれば、一分間程の出会いだったのだが、言葉では伝わらない、何かの気持ちだけは通じた様に感じた。
娘達と別れたのは、1984(S59)年初夏の出来事だったので、丁度19年振りに再会した事になる。
二番目の娘は、1977年9月11日の生れなので、其の時7歳だから、小学2年生に成ったばかりの出来事で、両親に何が起きたのかは、理解は出来ない。
19年間一度も会っていないので、写真の父親像しか、頭には浮かばなかったはずである。
今年の、1月15日に安房で開かれた、ある講演会で、ビデオカメラで録画をしたり、カメラで写真を撮ったりしている私の姿は、母親と一緒に会場に来て見ているので、父親の現在の様子は知っている事は、私も理解していた。
離婚したのは、妻に何かの落ち度があっての事ではなく、私が、自分の運命に従い、勝手な行動を始めての事なので、妻は理由が分からず、驚いたであろう。
まして、三人の子供達は、その理由を知る由も無い。
妻や子供達には、長い長い19年間だったと想う。
私はただ、無我夢中で19年間を過ごして来たが、娘にとっては、父親の存在が空白の19年間だった事に成る。
その娘の空白を、埋めるモノが何なのかも、私に、何が是から出来るのかさえも、今の私には分からない。
ただ私が言える事は、自分の欲望で。勝手な振る舞いをしたのではなく、神に頼られて始めた行動なので、妻や子供達に、何ら、恥じる気持ちは無い事は、確かなことである。
子供達が可愛くて、家庭が大事だと想うからこそ、世の中を、どうにか正さなければと想い、踏み込んだ世界なのである。
私は、神の想いと自分の願いを、同じモノとして、19年間行動を続けて来たのである。
密教の「タントラ」の意味は「連続する」との事らしい。
私は正しく、タントラの行を19年間続けて来た事に成る。
此れからも、タントラの行を続けて生きて行く事に成れば、私は本当に、仏教の教えを守っている事に成り、如来の役を、演じる事と成るのだろうと想われる。
・「にょらい・如来」(梵語tathagata 多陀阿伽陀)【仏十号の一。仏の尊称。「かくの如く行ける人」すなわち、修行を完成し、悟りを開いた人の意。のちに、「かくの如く来れる人」すなわち真理の世界から衆生救済のために迷界の来た人と解し如来と訳す。如去(にょこ)。】 (広辞苑)
釈迦牟尼仏は、現代の仏教者の様に、寺院を建てて香を焚いたり、蝋燭を灯したり、経を唱えたり等の行為は、一切無く(逆に一切を止めるように教え)唯、宇宙の真理(法・ダルマ)を説いて、一生を終えただけである。
私も、寺を建て、現代の仏教者の様な真似をする気は更々無く、普通の人達と同じ様に生活をする事で、自分の存在意味を確かめて行きたいだけである。
私の名前の、自適は「悠々自適」の自適である。
自分の名前に相応しい生活が、出来る事を惟願うだけである。
私は、ようやく日本の伝統である「神惟道・かんながらのみち」を、歩く事が出来るのだろうか。
19年前、ビジョンで息子の死を見せられ始まった神行も、ようやく娘の笑顔で、完成を迎える事が出来、私の菩薩・ぼさつ行も、完了する事に成るのだろうか。
〔菩薩・ぼさつ〕(梵語bodhisattva 覚有情と訳す)【@(仏)悟りを求めて修行する人、もと、成道以前の釈迦牟尼および前世のそれを指して言った。後に大乗仏教で、自利、利他を求める修行者を指し、自利のみの小乗の声聞(しょうもん)、縁覚に対するようになった。菩提薩タ。】 (広辞苑)
二番目の娘の名は「悠美」で「悠久に美しいモノ」に、私が憬れて付けた名である。
私が望んでいた永遠の美しさとは、人間の幸せな笑顔の有る社会の姿だったのかも知れない。
成長した娘の笑顔は、私の潜在意識の、完成の姿なのではないだろうか。
娘と会った後の私は、自分の意識が拡大され、自分の意識では無い様な気分であった。
自宅に帰り風呂に浴って、ビールを飲んでも、娘の笑顔が思考一杯に拡がって、物事を考えられなく成ってしまっていた。
夜寝る迄、その情況が続いた。
そして今朝方見た夢は、別紙に書いたので、此処では述べないが、人間の笑顔とは、神その物の姿の表現なのではないかと想う。
伊勢神宮が有る伊勢地方には、民家の玄関の入口の上に、「笑門」と書かれた板が付けられている。
神への入口が「笑顔」であれば、私は昨日、娘の笑顔を通して、神の世界に達した事に成るだろう。
娘の方も、父親が手渡した3〜4kgの重さの獲物が、父親の存在の実感として、手に、確かな重さとして残っていれば、私も嬉しい事である。
「有」の漢字は、猟から帰った男が、右手に獲物を下げて、女に見せている姿を意味している。
父と娘の19年振りの再会を、月(潮)と太陽(風)が演出をしてくれた様である。
娘と出会った場所と、時間の設定は、人意では不可能の世界である。
森羅万象を司るモノの存在を、信ずるしか答えは無い。
19年間の、修業の結果を確信した、昨日の出来事であった。
昔から 分かっている事の 繰り返し
娘の笑顔で 再びの道
平成15年4月20日
礒邉自適
2003/4/13
仏の指
15・4・13
13日の15時57分に、愛媛県伊予市の蕎麦屋で食事をして居ると、私の左手中指に、例の痛みの信号が遣って来て、10分間ほど続いた。
私は、誰かの行動が、影響して反応しているのかと想い、スーリアさんに連絡を入れて見た。
4月13日は、岡山市に住む「スーリアさん」の誕生日で、私の長男「海生」の誕生日でもある。
スーリアさんは、丁度其の時間に、静岡県三島市の「水神社・みずかみしゃ」に仲間達と参拝中だった。
スーリアと、水神社と、私の左手中指が、どう関係しているのか考えて見た。
私は、4月11日より広島県双三郡吉舎町敷地に住む、友人「壇上宗謙氏」の寺「西光寺」を訪ね二泊させて貰い、13日の午前11時に西光寺を後にした。
私が、今回西光寺で気付いた事は、寺に有る絵や、仏像の釈迦の説法印が、左手中指を、右手の親指と人差指で、挟んでいるのである。
私は壇上氏に「この釈迦の説法印は 弟子の誰が前に座っている時のものだろうか」と尋ねて見たが、壇上さんも、其れは分からないとの事だった。
13日の私の指の反応は、その釈迦の様子と、丁度同じ状況である。
左手中指の痛みを止めるには、右手の親指と人差指で挟んで、気の流れを調整する事に成る。
私は、釈迦の説法印が気に成っていたら、丁度同じ場面を、体験する事になったのである。
そして、その時間に、スーリアさん一行が、「水神」をお祭りしている社・やしろに参拝していた事は、何を伝えて来ているものだろうか。
釈迦が悟ったのは、六年間の厳しい修業を止め、水浴びをして、スジャータの差し出したミルクを飲み、菩提樹の根本に休んだ時の事である。
イエスキリストも、神の世界に入ったのは、ヨルダン川で水浴びをして聖霊に満たされての事であり、日本の神話も「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」が黄泉の国から帰り、小戸のあわぎはらで水浴びをした時に起きた事が、元に成っている。
仏教も、キリスト教も、日本の神道も、みな水で禊ぎをした事が、始まりと成っているのである。
これ等の事を考えると、宗教の源には、水が関係しており、水には、神が宿っているとの理・ことは、世界共通の事として考えて良いだろう。
では、何故、神の世界に繋がるには、水に関わりを持つ必要が有るのだろうか。
インドでは、多くの人達が、ガンジス川の流れに身を浸して、祈りをしているし、日本の神道や仏教でも、海、川、滝で禊ぎをする。
昔から、世界中で水浴びをする事は、神に近付く事として、続けられて来たのだ。
私は、誰かに習ったり、云われたりしてではなく、自分自身が、無意識にそれらの事を、屋久島の自然の中で行なう事に成った。
自分の考えではなく、私の意識に入り込んでいる何者かの霊が、其れを行うのである。
私は、ただ、其れに、身を委す事しか出来なかったのである。
おそらく、釈迦牟尼仏や、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」も、同じ体験をしたのではないだろうか。
禊に入る迄は、憑いている霊は、肉親の先祖霊か守護霊だけのようだが、禊が済んだ後は、宇宙全体の数知れずの霊魂が遣って来て、どれが誰かの、区別も不可能である。
名前も分からないし、どんな事が出来る霊なのかも分からない。
私はただ、その現象に身を委すしか、他に方法が無かったのである。
その結果が、現在起きて来る、両手の指のビリビリの反応なのである。
霊界と、現界の間に、私の肉体が在り、霊界の働きが、現界の人間に伝わる時、私の身体を通過して行くらしいのだ。
どんな働き・役目の霊が通ったのかは、両手の指の反応で感じるしかない。
其の現象を、簡単に説明すれば、左手は精神的な働きの者、右手は物質的な働きの者が、作用していると言えるだろう。
片手の五本の指も、其々の働きの区別が有るようだが、私にも未だ、明確ではないので、言う事は止めておく。
釈迦の姿・仏像を見ると、私と同じ事が起きていて、「様々な 指の組み合わせを していたのだなあ」と、考えさせられる。
日本の天皇家の元は、「スメラのみこと・大君・大王」と呼ばれ、シュメール文化の流れを伝えるものらしい。
「スメラのミコト」の働きは「御稜威(みいつ)の働き」と言って、神の世界と、人間の世界の中間に在って、エネルギーのトランスの役目をする事なので、インドの「釈迦仏陀」と、日本の「スメラのミコト」は、同じ働きの者と言う事が出来る。
仏教の得度式の儀式と、天皇家の大譲祭の儀式は、同じくシュメール文化(7000年前)の流れから、来ているものだと本に載っている。
何千年も、何万年も昔から、私と同じ事が起きていた人達が居て、其れ等の人達の体験が、現在でも目に見えない働きとして、続いているのだろう。
日本の神事の言葉に「天津日継・あまつひつぎ」と有って、その事の伝承を明らかにしている。
日本の長い歴史の中に、其の事が傳えられている事を、有り難く感じ、是からも、日本の伝統を、大切にして行かなければならないと感じているのは、私だけではないだろうと想う。
私の身に、起きている事柄も、其の長い歴史と、文化の積み重ねからのものであろう。
是からの人類の歴史に、私も、何らかの貢献が、出来れば本望である。
平成15年4月13日
礒邉自適
2003/4/7
正傳 矢追日聖
15・4・7
山口県萩市から、山陰道を出雲に向けて車で北上中、「正傳 矢追日聖」との言葉が、頭にいき成り出て来た。
私が「エッ、どういう事?」と想うと、イメージが浮かんで来て、矢追日聖氏の教えを、正しく伝え残さなければならない事が理解された。
「矢追日聖」とは、1911年(明治44年)12月23日(旧暦11月3日)「冬至」生れで、1996年(平成8年)2月9日に亡くなった奈良市の方で、私が初めて出会ったのは1985年7月27日であり、其れは奈良市大倭町の日聖氏の自宅であった。
前日26日に、野草社の石垣雅設氏を初めて訪ね、その日はあじさい邑(むら)の会館に泊めて貰い、次の日矢追日聖氏に会う事となったのである。
私は、約一年半の全国巡りが同年7月2日に終り、最後に泊った旅館「木津館」の主人の紹介で、京都府丹後の網野町の龍献寺住職「安井桂造氏」を訪ね、安井氏の紹介で亀岡市の西光寺住職「田中真海和尚」の所に翌3日に着いた。
其れが、私の島外での人間関係の始まりである。
西光寺で数日を過ごし、丁度、寺に一週間の修業に来ていた「笑太郎君」と旅に一緒に出る事となった。
私が、喜太郎の音楽に興味を持っていたので、笑太郎君が「喜太郎とは 知り合いなので 会いに行こう。」と言う事になって出発し、途中、長野県大鹿村の笑太郎君の友人「アキ」の家に立ち寄った。
すると、アキの言う事には「自適さんは 奈良の野草社の石垣さんを 訪ねた方が良い。石垣さんなら 自適さんの話が解るだろう。」との事になって、次の日、奈良に向って引き返す事になったのである。
午後4時頃、奈良市に着いて、「大倭あじさい邑」内に在る、野草社の代表「石垣雅設氏」と初めて会う事となった。
石垣氏との会話の中で、私が「途中の 古墳の所を通ったら 頭に『法主』と出て来たのですが。」と言うと、石垣氏が「それは 此のあじさい邑の理事長の事ですよ。理事長の矢追日聖氏は 通常、法主さんと呼ばれています。」と云って、矢追氏に連絡を執って下さり、翌日矢追日聖氏の自宅で会う事になった。
野草社の事務所で、石垣氏と話している間に、私が、体で何かを感じたので、時計を見ていたら、その時間に長野県の「地附山・じつきやま」が崩れていた事が、次の日判明した。
次の日、私と笑太郎君、其れに石垣さんと野草社の社員計五名で、日聖氏の自宅を訪問した。日聖氏と、奥様が、自宅の畳の客間で私達を温かく迎えて下さり、私は自分に起きた事を話した。
今は、何を話したかは覚えていないが、他の人が聞けば、頭が変しいと思う事を話したであろう。
日聖氏の所には、私の様な状態の人間は 数多く訪れるので、少しも変な顔をせず私の話を聞いて頂いた。
私が、日聖氏に「私が大事な人に出会うと 地球が喜んで 何かを起こすのです」と云うと、突然、日聖氏が「あんた 今日の新聞を読んだか」と訊くので、私が「いいえ」と応えると、「今日の新聞に 昨日 長野で山崩れが起きた記事が載っている」と云う。
時間を聞くと、其れは、私が気に成って、時計を見た頃の時刻であった。
その事で、私は、石垣さんと矢追日聖氏が、神にとって大事な存在である事が分かったので、一目置く様になったのである。
矢追日聖宅で、話が盛り上がった時、私は上半身裸に成り、日聖氏の前で座ったまま一回転し、「今度の肉体は 若いので 大丈夫だ」と云うと、日聖氏が「私の所の霊は 女の霊だからなあー」と云った。
矢追日聖氏が、福祉の邑を造ったのは、聖武天皇の皇后「光明皇后(藤原安宿媛・あすかひめ)」( 701〜760)の、霊の働きに因るものだとの事。
世直しは、女霊では難しく、男霊で無ければ駄目だとの意味の事が、伝えられたのである。
私に、世直しの霊が憑いている事は、矢追日聖氏に理解して頂いた様である。其れから数度、「あじさい邑」を訪れていて、1987年(昭和62年)1月14日より一年間、石垣さんの野草社の手伝いをする事となった。
石垣さんとは、87年11月21〜22日に「スピリチュアル・タイム」とのタイトルで、全国から「あじさい邑」の大倭会館に、70名程集まって貰い、話し合いを持ったりもした。
話を、最初の方に戻すと、矢追日聖法主の教えを、正しく伝えろとの事なので、矢追日聖氏の教えの真髄が、何なのかを確認しなければならない。
日聖氏の伝記は、野草社より「やわらぎの黙示」と「ながそねの息吹」の二冊が出版されているので、詳しくは其の本を読んで頂ければ良いが、私が大事だと想っている所だけを、幾つか書き出して見よう。
1、矢追日聖氏のよく言われていた事は、「私は 信者も 弟子も一人も要らない。私が行っている事は、霊界の人達の成仏を願っての事であり、霊界に滞っている人達が、全部成仏すれば、霊界人が現世の人達に憑いて、何かを行おうとの事が無くなり、現世の人間と、神が、直接繋がる事に成り、世の中は平和に成る。」との理・ことで、日聖氏自体が、自分の意志ではなく、神霊の思いや、頼みに動かされていた事を証明している。
是は、私と同じ状況を示しており、私が、霊団に肉体を貸している事と同じことが、日聖氏にも現にあった事が理解出来た。
私が、日聖氏の前で、裸になって体を見せ、「今度の肉体は 若いから 大丈夫。」と云った事の理由も、其処にあったのだろう。
2、矢追日聖氏は、終戦の昭和20年8月15日に、大倭神宮で神に地球儀を見せられ、世界中に日の丸が立っており、新しい精神革命が、日本から起きる事を告げられている。
其れは、現代の価値観が行き詰まり、新しい価値観が日本から始まり、世界中に拡がる事を示唆している。
3、日本から、世界に拡がる価値観とは、紫陽花の花の如く一輪一輪が花開いて、其れが大きな花と成り、また花が沢山有る株と成り 根本は一ヶ所に集まっている。
そんな紫陽花の花の形の様に、一人一人、一民族、一国家が、皆 独自の特長を生かし、それが大きな和になっていると言う、個々が花開いている社会である。
現在の様に、力の強い国が、自分の国の風習や価値観を、世界に押し付ける遣り方とは、反対の考え方である。
4、矢追日聖氏が、一生を懸けて行った事は、福祉の村造りであった。
現在、あじさい邑には13の福祉施設が有る。
矢追日聖氏は、終戦後間もない大阪の市内に、ただ一人で幟を手にして立ち、生活に困っている人達を集め、皆で、施設を造り、現在の形までに持って来たのである。
あじさい邑は、日本の福祉の雛形として、福祉行政の最前線を務めて来たのである。
一応、宗教活動の認可は得ているが、宗教活動をするのではなく、人間の生活其のものに、関わり続けて来たのである。
日聖氏は、マザーテレサ的働きを、一生続けて役目を終え、安らかに往った。
矢追日聖法主が亡くなって、是までの7年間では、私に、日聖氏に付いてのメッセージが届いた事は一度も無かった。
其れが、4月7日に萩市を通過した時に、何故出て来たのだろうか。
萩は、明治維新の原動力と成った、幕末の志士を育てた「吉田松陰」の出身地で、松下村塾が在った曰(いわ)く因縁の地である。
其の、維新の草分けの地で「矢追日聖を正しく伝えよ」と出たと言う事は、世界維新に向けて、改めて、矢追日聖氏の事を考えろとの事であろう。
4月7日の日付を考えると、釈迦の誕生日の前日であり、昭和20年4月7日には、日本の国の名を付けた「戦艦大和」が、屋久島の西南沖で沈んだ日でもある。
日本は、軍隊を持って世界に力を見せる事は、此の日で終っている。
日本は、軍隊を持つ事は、永久に憲法で放棄している、世界に類の無い国である。今日のアメリカの政策とは、反対の処に位置するものである。
今回のアメリカの遣り方で、軍隊を持って行う方法では、世界は平和に成らない事が示された。
矢追日聖氏が云う様に、人間が平和な社会を迎えるには、自分の欲望を禊ぎ、霊界の鎮魂を果たして行かなければならないのだ。
そして、人々が幸福に暮せるのには、福祉の充実が大事である。
私個人には、具体的な計画は未だ立っていないが、協力者は増えて来ている。取り敢えず、矢追日聖氏の事を考えていれば、何か、する事が見えて来るかも知れない。
矢追日聖氏は、終戦の年から12月23日を元旦として、祭りをして来ている。
本来、太陽暦を正確に使用するのなら、冬至が年の変わり目に成らなければならない。現在の元旦は、冬至から7日ずれている事になる。
世界を見ると、歴史が変る時には、暦も変っている。
しかし、今だ、世界共通のカレンダーは出来ていない。日本から、世界維新が始まるのであれば、先ずは、正しい暦の作成から始めるのも、一手であるのかも知れない。
矢追日聖氏が、終戦の日から始めた事が、神の意志に拠るものであり、世界維新の準備だったのであれば、霊界も其の為に、58年間段取りを続けて来た筈である。
吉田松陰をはじめ、若くして、維新の為に命を捧げた人達や、太平洋戦争で国の為に若い命を散らして往った人達の想いを受け取って、平和な社会を創造して行かなければならないだろう。
私達が、早く気付かなければならない事は、日常の生活ばかりに意識を捉われて居てはいけないとの事である。目先の事ばかりを考えて、努力を積んでも、未来と合致していなければ、無駄なエネルギーの浪費で終ってしまう。
私も、自分の老後と、子孫の為にも、大きな視点を持って、今後の人生に取り組んで行かなければならない。
追記:大倭あじさい邑では、毎年12月23日に元旦祭が行われており、参加は誰でも自由です。
場所 〒631-0042 奈良市大倭町4−6 大倭教
TEL[0742-44-0015]
平成15年4月7日
礒邉自適
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