2002/9/20
グリーンレスト
14・9・20
今日は「一人の涅槃」との文章を書き終わって、「グリーンクラブ」と書いたつもりが、「グリーンレスト」と、手は勝手に書いている。
其れは、私には頻(よ)く有る現象なので、早速「レスト」を調べて見た。
「レスト」は「レストラン」とか「レストルーム」の「レスト」で、「rest @休息。停止。A音楽の休止符」と、載っている。
有紀書房カタカナ語新辞典
是は、私に起きた現象なので、休息の意味であろうと想われる。
漢字の「休」は「人+木」の組み合わせで、「人が 木に寄り掛かって 休んでいる象形文字」である。
其の事からも解かる様に、木と人間のやすらぎは、一番身近な処に位置している。
有名なインドのお釈迦さんも、厳しい修行を止めて、木に寄り掛かって「休息・レスト」した時に、悟りが訪れている。
樹木は、グリーンの代表である。
「グリーンgreen」は「@緑。若い。A緑地」と載っていて、「若い美しい緑」の意味だから、葉緑素が精一杯活動している状況を、描写している言葉だ。
「クリーンclean」も「@きれいな。清潔なAみごとな。あざやかな。」の意味だから、「グリーン」と「クリーン」は、元は同意語の様な気がする。
両方を兼ねている日本語が、「青い」とか「清々(すがすが)しい」の言葉ではないだろうか。
「嫌な事を全て止めて 清々(せいせい)する」との事が、「レスト」の意味であり、其れを 新緑の美しい時に行う。
此れが「グリーンレスト」の意味だろう。
そうであれば、冬枯れの景色では難しい事になる。
東北の、冬枯れの景色の中で、木に寄り掛かっても、精神が引き締まって、逆に余計な事を考えてしまうだろうし、真白い雪景色の中で、清々しく成るのは、又別の状態なのかも知れない。
釈迦牟尼仏や、イエスキリストの説法の場面には、雪景色が出て来ない。
悟りに必要なのは、身を引き締める事ではなく、身を弛める事なのだろう。
道元禅師も「身心脱落」と謂って、身と心を弛める理・ことを訓えている。
グリーン・緑の中で、レストして、クリーンな自分に成る。
其れに適した季節とすれば、4月から6月の間の、日本の気候は、最適と言えるだろう。
私が、3月5日から自然食を始めて、神の世界に入ったのは、丸三ヵ月後の6月4日(旧暦5月5日)であった。
其の時、屋久島は紫陽花の季節で、「時告鳥・ホトトギス」や「鴬・うぐいす」の鳴き声に包まれ、木の葉が出す芳香に含まれた、風薫る季節である。
丁度其の季節は、中年の男性が、五月病に罹る季節とも言われているので、グリーンの発するエネルギーは、人間の魂をクリーンにする力があるのだろう。
屋久島の自然は、年中緑で被われ、木々の中には、秋にも芽を出す種類も有る。年中、「フィトンチット(露、phytoncide)」が、満ちていると言えるだろう。
屋久島は、グリーンレストには、持って来いの場所である。
其れは、私が屋久島で生れ育ち、37歳迄生活して、体験を積んでいるし、全国18年間旅をして、他の領域も見て回っているので、自信を持って謂う事が出来る。
現在は、街の中に在る神社も寺院も、昔は人里離れた、山中に存在していたのだ。
寺の名前が「○○山○○寺」と付いているのも、其の事の名残である。
日常の生活空間から出て、山中に在る社や寺に行って、静かな気持ちに成る。
その儀式として、清い水で手足を清め、口をゆすいで手を合わせたり、柏手を打ったりする。それが「レスト」の儀式である。
日常の営みを止めて休息をする、その儀式的な禊ぎの言葉が、「レスト」の外国語に置き換わって来た。
此れは、屋久島の事が、世界に知らされる前触れなのかも知れない。
平成14年9月20日
礒邉自適
2002/9/20
一人の涅槃
14・9・20
「涅槃・ねはん」とは、梵語の「nirvana・ニルヴァーナ」の音訳から生じた言葉らしい。
辞典言泉では「滅度、寂滅と訳す。@すべての煩悩の火がふきけされて、不生不滅の悟りの智恵を完成した境地。解脱。」と 載っている。
私が今朝、何で「一人の涅槃」との題にて、文章を書き始めたかと言うと、「何もしないでよい 自由を得ている」との事を、感じたからである。
私は、何も目的が無い。
目的が無いと言うと、普通の人には誤解が生じるだろう。
少し具体的に言うなら、個人的な欲望が無くなり、何かを、自分からしようとの欲が、出てこない事である。
欲が有ったにしても、実行出来ない状態に在るのだ。
どうすれば、人類が幸福に成れるか、どの様に物事を考えれば良いか等の事は、18年の旅で掴んで来た。
其れに、生命の仕組みも理解出来てきたので、「智慧は付いた」と言っても良いだろう。
「智慧を完成した状態」と言えば、其れは当っているかも知れない。
確かに、私の心理状態は18年前の状況とは異なっている。
18年前の6月4日以降の時期は、解脱の状態ではあったが、其れは、老子の謂う「恍なり惚なり」の状態であり、見る目には、解脱の状態(体の事)ではあるが、「ブッダ・仏陀」の智慧が有る情態(心の事)では、なかったと言う事が出来る。
18年前の、其れは、確かに「神・宇宙」との一体感が全身を包み込み、幸福の絶頂感に在った。
其の時の体験が有るから、恍惚が如何なる現象・ものかは、良く理解出来ている。
しかし、其れは、自分だけの状況であり、他人は気味悪がって、近付いては来ない。
私が、安房川の中洲で、石の上で座禅をして居たり、山中に一人で静かに座って居たり、裸で歩いて居たりすると、其れを見た人達は、私の母親に電話を掛けて知らせるので、母親が私の事を心配して、心労で一変に歳取ってしまった。
母親にとって、一番頼りにしていた長男の私が、一切を捨て去り、出家してしまったのだから、大変なショックを受けたのである。
現在の様に、私に智慧があれば、母親に其の様な心配を掛けないで出来たかも知れないが、其の時には、そんな余裕は無かったのである。
仕事や、人間関係や、物や金の管理等、無心の境地に至る為に、邪魔に成る一切のものを捨てなければ、解脱は起きない。
釈迦牟尼仏や、イエスキリストも家庭を捨て、一切の束縛から離れ去っている。其れと同じ事が、私にも起きたのである。
私が、一切の人間社会の仕組みを捨て去って、自由を得てから、何が始まったかと言うと、神の臨在が始まったのである。
「臨在」とは「高い位置から 多くの物事を見ている意識が 下に降りて来て存在する」との、意味である。
其れ迄の、自分の意識(私心)が消え去って、高い大きな意識の目が、自分に住み着いてしまうのである。
自分の、其れ迄の小さな世界はフッ飛んでしまって、其処には、宇宙意識が同居してしまい、其れまで自分の内に無かった概念が、次々と発生して来る。
其れも、一日、又一日と言うのではなく、瞬間的に連続で遣って来るので、自分の概念を持ち込んで、自分の物差しで計っている余裕は、全然無い状態である。
人間の、現在の能力は、自分の知っている言語の意味を取り出して、其れに当てはめて物事を判断する。
自分の言語に置き換えて、正しいと思えば受け入れ、正しくないと思えば、受け入れない様になっている。
自分が、言語を仕入れた時に間違っていれば、永遠に、正しい答えを導き入れる事は出来ない。
其れが、人間の大脳の仕組みである。
だから、地球の生物の中で、宇宙の法・ダルマから外れているのは、人間と、人間に飼われて野生を失った、家畜などの動物達である。
其れ等は、人間の大脳が創り出した「まやかしもの」の産物なのである。
其の「まやかしもの」の世界から、脱出させようとするのが、般若(梵・prajna)の智慧の「色即是空」「空即是色」の経典の言葉である。
私は18年前、この人間の社会が、皆、まやかしものである理を悟り、人々に其の事を伝えようとしたが、まやかしの内に在る者には、其の行為は奇異にしか、想えないのである。
私は、其のまやかしの世界から、家族や友人達を救おうと、色々考えた末、その方法を探る為に屋久島を出て、全国行脚の旅が始まったのである。
私は、佛教やキリスト教、其れに日本の神社、御輿、相撲等の伝統を調べて、人々との共通言語を探して来た。
共通言語とは「同じ概念を 共有出来る 言葉のこと」である。
そして、ようやく、どんな人とでも、話しを合わせられる事が、出来る様に成って来た。
私は、未だ、此の世界に入って18年しか経っていないが、インドの釈迦牟尼仏は35歳で悟りを得て、仏(ブッダ・覚者)に成って、80歳の旧暦2月15日迄、説法を続けたと伝えられているので、私は未だ、釈迦の其れには45年及ばない。
だから、釈迦の涅槃経の次元迄は、至っていないのは勿論である。
私は釈迦の様に、方便による説法だけが、役目ではないようである。
釈迦牟尼仏は、イエスキリストの様に、政治や経済に注文を付けてはいない。
私は、釈迦の説法の続きと、イエスの経済の完成の念いを、実行しなければならないようなのである。
其れも神武天皇の様に、他の部族を殺す遣り方ではなく、全ての民族を救える方法を、見出さなければならないのだ。
私が、他の人々に理解されないのは、自分自身で、誰にでも簡単に納得出来る様な事を、しては居ないからである。
事業を興したり、本を出版したり、病気治しの奇跡を起したりの事を、何もしていない。
している事は、メッセージを文章にして、インターネットに載せたり、起きた出来事を写真やビデオカメラに撮ったりして、記録を残す事であるが、今の処、其れが何を意味しているのか、理解している人はいない。
其の事を、少し説明すると、「神と共用する」との言葉にする事が出来ようか。神とは、此の宇宙の実体の姿と、目に見えない働きの全てを、言う意味である。
私の肉体も、神の一部であり、私の心は、神と共に在り、私の意う事は神の想いであり、私の行動は神の代行である。
だから、私の身心は、森羅万象と同根であるが故に、神と、この森羅万象を共用している事に成るのである。
其れを、使い古された言葉で云えば、預言者と言う事になる。
旧約聖書は、聖者の霊夢が元に成っている。
現在、私に、同じ事が起きているのである。
其れは、当事者にしか理解できない事なので、縁の無い人には、解らないのである。イエスキリストの行動は、イエスに付き従った人にしか、解らないのと同じ事である。
私には、実に多くの人々が、救世の当事者である理・ことが見えているのだが、本人は、其れに気付いていないだけである。
だから、私の涅槃に付き合っていてくれる人は、未だ誰も居ない。
私は、全国に何百人の友人知人が出来た。
しかし、其れ等の人々は、私から此の世的に、其の人達に近付いて行っているのであって、誰かが、私の涅槃の世界に、付き合っていてくれる分けではない。
だから、私の涅槃は、未だ一人なのである。
平成14年9月20日
礒邉自適
2002/9/14
禊がれる
14・9・14
今朝の天候は、秋晴れで雲ひとつ無く、朝の空気は、ひんやりとして気持ちがとても良い。
自宅前の、安房川の川辺りから、前岳や明星岳を眺めて居ると、昔の事が思い出されて来る。
私は、父親が健在の10代の頃は、度々山岳に登っていた。
何故、山岳に登るのが好きだったのかは、自分でも良く分からない。
多分、一人で居るのが好きで、自然の中に遊ぶ自分が、他人に邪魔されなかったからではないだろうか。
もう直ぐ、秋の行事である「岳参り」の日が来る。
昔は1月、5月、9月と、年に三回岳参りが行われていたらしいが、ようやく秋の岳参りだけは、復活して来ている。
今年は、私も、島外からの友人も呼んで、一緒に、其の岳参りの行事に、参加しようと計画している。
屋久島の岳参りの行事が、何時から始められたのかは分からないが、安房生れの「泊如竹翁」を、五歳で村の寺に出家させて、京都に連れ帰ったのは、屋久島の山に来て修行をしていた「行者」であると傳う事からすると、400年程前には、何らかの事が、屋久島の山岳内で行われていたのだろう。
「泊如竹」が、屋久島の屋久杉を、島民に伐る様に勧める迄は、島民は屋久杉を「御神木」として恐れ、伐る事は無かったらしい。
其れから推測しても、山岳は神の住まいであり、人間が、手を入れてはいけない事になっていたらしい。
山岳は敬うものであって、人間が手を入れて、荒らしてはいけなかったのだ。
岳参りの行事には、其のあたりの島民の気持ちが、良く現れている。
山岳に登れるのは、屈強な男子で、女性は、山に立ち入る事は出来なかったのである。
村を代表して、山岳に登る事は、神様への挨拶であり、現在の様な、山頂に登って、山を制覇した気分になる事とは、まるっきり反対側にあるのだ。
代表で、山岳に登る男性は、朝から海に行き身を清め、青竹の筒に海砂を詰めて、山頂に祭ってある神様に、供えに行くのである。
村と、山岳の間には、御座所が在って、小さな祠に、山の神が祭られており、その祠の前にゴザが敷かれ、男共の帰りを待つ女性達は、酒と御馳走を準備している。
女性達は、山に入る事は出来ないが、村外れの小さな森迄は出掛けて、神を祭る儀式に参加するのである。
屋久島の山岳は、村の直ぐ上に、海抜700m〜1300mの高さで聳えている。
永田地区だけは、一番奥の永田岳(1886m)を、直接目にする事が出来る。
畑で農作業をしていても、山岳は直ぐ側に存在して、人間を見下ろしているし、海に漁に出ても、自分の村の港は何処に有るか、山岳の形を見れば、直ぐに判るのである。
だから島の暮らしには、山岳は一番身近な物であったのだ。
島の人々が、子供を学校に出すとか、銀行や農協に借金があるとか、貯金がどれだけ貯まったか等の事に、心を使う様になって、未だ100年程しか経ってはいない。
其れ迄は、神様は「商売繁盛」や「学力向上」等を願うものではなく、自分や家族に、病気や災いが訪れない様に、願うだけのものであった筈である。
自分が幸福に成る事を願うのではなく、自分に不幸が訪れない様に、願うものだったのである。
其の為には、自分の身心を絶えず、清めていなければならない。
幸福に成る為には、物事を増やすのではなく、余計な物事を、少なくする事を望んでいたのだ。
必要な物は必要とするが、余計な物は、取り除かなければならない。
其れが「ツミケガレ」を祓い清める事である。
其のセレモニーの代表として、選ばれて山岳に登るのが、岳参りの男衆なのである。
山岳の神に、挨拶に行ける者は、村の代表であるし、やがては「村長・むらおさ」として、村のリーダーと成って行く人である。
村の長に成れる人は、山の神と通じなければならない。
山の神とは、森羅万象に通じる神であり、自然の調和を計り、人類の幸福を見護るモノであったのだ。
現在では、島外からの観光目的の人々が、年間何万人も、其の山岳に立ち入って行く。
其れ等の人々には、山の神を敬うとの気持ちは、無いのではないだろうか。
山の神の存在を信じ、山の神を敬う気持ちがあれば、気軽には、山に登れない筈だし、タバコの吸殻や、空き缶や、ゴミを捨てたりは出来ない。
都会からの生活習慣が、屋久島を制して、もう何年が経つのだろうか。
私が生れ育った松峰地区も、自宅の直ぐ裏山は国有林で、人々の立ち入りは禁じられ、大きな木が繁っていた。
其れが伐られて、杉の植林が成されたのは、私が小学校の頃であった。
伐られた木は、枯れてから一勢に火が点けられ、山一面が立ち上る炎で被われ、100メートル程離れていても、顔面が焼けそうで、青い木の枝を折って、顔を覆った記憶が有る。
其れから毎年、山は伐られて行き、その木は、自宅前の道路を、馬車が港まで運んで行く様になった。
屋久島の里山が、パルプ材として伐られ始めたのは、私が小学校の頃だから、今から40年程前と言う事になる。
それよりも前に、屋久杉の伐採は行われていた様である。
私が、中学校に通っていた時は、通学路をトロッコの線路が横切っており、何台も続いて、屋久杉を積んだトロッコが通る時は、踏切で通り過ぎるのを、待っていなければならなかった。
一番先頭のトロッコには、赤い旗が立てられて危険を知らせ、一番後のトロッコには白い旗が立てられ、もう安全な事を示していたので、白い旗が通り過ぎたら線路を渡っていた。
私が中学生の頃、山に登って遊んでいると、チェンソーの音や、大きな屋久杉が倒れる轟音が、山々に響き渡っていた。
屋久杉が、切り倒される音がする度毎に、山の神の気配が、薄らいで行ったのではないだろうか。
私の子供の頃は、春と秋の二回、山がゴーッと音を立て、その山鳴りの音で、冬が来る、夏が来ると、感じていたものである。
秋の山鳴りを聞くのは、澱粉にする為の「さつま芋」を収穫する季節だから、10月頃であろう。
畑に、掘った芋を所々に集め、根をむしり取りながら、虫食いや病気の芋や、小さい物を選り分けて竹ザルに入れて、四杯程ずつ麻袋に入れる。
翌日出荷する、割り当ての袋数に達すると作業を止めて、50kg用の竿秤で目方を計って、葛の蔓で口を縛って、車が通る道まで運び出していた。
薩摩芋の山に向い、芋のヤニで真黒く成った手で、芋をちぎって居ると、いきなりゴーッと音がする。
現在では、ジェット機が飛んだりするので、上空でする大きな音には慣れているだろうが、当時は頭の上でする音とは、カラスかトンビの声だったし、雷の音は、雷だと直ぐ区別が着く。
其の頃は、ゴーッと鳴る音は少なかったのである。
手を休めて、音のする方を見ると、其れは、屋久島の山々が鳴り響いている音であった。
そして、其の音は、ゴオーゴオー鳴り続けるのではなく、ゴーッと山全体が鳴る感じで、一回の鳴動で終るのである。
其の、山鳴りの音が聞えた頃から、高い山に雪が降り始め、山から冷たい乾いた風が吹き降りて来て、母親の手に、アカギレが出来始める。
母親の作業が終るのを、ジーと待つ妹達は、鼻水を垂らし始めていた。
春に植えられ、夏に繁って根を肥らせた芋畑が収穫され、土面だけに成った畑は、鳥が、残り物の芋を探し出して食べて、其の後には、麦の種子が蒔かれて行く。
夏の芋畑と、冬の麦畑の境目に、山鳴りがあった様に思える。
其の山鳴りも、現在は聞いたと言う人は居ない。
何時頃から、山鳴りがしなく成ったのだろうか。
屋久杉の伐採が進む程に、音は消えて行ったのだろうか。
山岳自体が、振動して音を出すだけのエネルギーを失ったのか。
其れとも、屋久杉が、音を出す切掛けを、山に与えていたのだろうか。
其れ等の事は、私には分からない。
私には、唯 思い出が残っているだけである。
もう一つ思い出したのは、トロッコの終着駅である安房港の、屋久杉貯木場の裏山に生えていた大松が、一本赤く枯れ上がったのは、私が中学二年生の時である。
最初の年は、其の一本だけが枯れたのだが、次の年には、貯木場の裏山に続く、中学校の裏山の大松が何本も枯れ、中学校から3km程山手に有る、私の家の裏山の大松も枯れてしまった。
其の年には、安房川の川辺の砂浜と、民家の間に生えていた大松も枯れ始めて、其れこそ「白砂青松」の言葉通りの風景は、消えて行く事に成ったのである。
其れから、尾之間の防風林の大松も、何本も枯れ始め、美しかった永田海岸の松も全滅となった。
松枯れは、原因が酸性雨の所為とか、松葉掻きをしなくなったので、土が肥えた為だとか、色々言われているが、私は、やはり松食い虫が原因だと想う。
私が、中学生の頃は、パルプも馬車で運んでいたくらいだから、道路も整備されていないし、自家用車等は無かったので、車の排気ガスが原因だとはとても思えない。
工場も一つも無いのだから、化学物質に因る原因は考えられないのである。
ハッキリした原因は、貯木場の松が一本だけ、最初に枯れた事にある。
其の、最初の一本が枯れた原因は何なのか。
それは、貯木場に入港する木材船が、松食い虫を運んで来た事を現している。
松食い虫が、数匹遣って来たのか、受精した雌が、一匹来て子供を産んだのかは分からないが、屋久島の松枯れは、其の一本の松から広がった事は、間違いない。
屋久島の風景から、大松の在る景色が消えて20〜30年に成るが、400年程前迄は、里から見える山々には、大きな屋久杉が生えていたのが、眺められていた事だろう。
と言うのは、海抜400〜500mの地点にも、昔切り倒された屋久杉の根株が、残っているからである。
私が、山に遊びに行っていた頃は、安房の水源地に成っている安房川の支流にも、樹齢500年程の杉が残っていたし、里に近い山の頂上付近には、寸詰まりで、木材としては役に立たないので残され、生き続けている杉の木も有る。
屋久島は、数百年で随分と景色が変化したのだろう。
安房、磯辺、田代、楠川、宮之浦の砂浜は、島内にコンクリートの施設が増えるのと並行して、消えていった。
「文明」と言う名の、人間社会の活動が拡大されると共に、自然は、其の姿が壊され続けて来たのである。
私も37歳迄は、其の延長線上の真只中に在った。
其れが、37歳の時に出会った無庵師匠に、「自適さんは これ程 自然を破壊していて よく神様の怒りに触れて 殺されなかったね」と云われ、数ヶ月で環境に悪い事は一切止めてしまった。
何を止めたかと言うと
・木を 伐る事
・山を崩し 谷を埋めたりする事
・農薬や 環境に悪い洗剤等を 使う事
・ 酒や 煙草を吸って 体を痛める事
・化粧品店を 止める事
・魚釣りで撒き餌をして 海の藻を枯らす事
其れ等の事を全部止めて、唯自然の中に身を置いて、身体と意識の浄化に取り組んだのである。
其れは、修行を始めたと言うよりは、一切の行為を止めて、自分の行為を全くの「0・ゼロ」の状態にしたと、説明した方が良いだろう。
其れは、昔の言葉で言えば「禊ぎ祓い」と言えるのだろう。
私は、其の禊を丸三ヶ月間続けて、精霊に満たされ、山中に導かれて行った。
荒野での修行が11月迄続いて、11月半ばには屋久島を出て、日本一周の旅が始まったのである。
其れから、17年以上が過ぎ去って、自分と、山岳の関係が何だったのか、思い出の中で探っている。
私が、3月5日からマクロビオティックの生活を始めて、11月迄8ヶ月間掛かった事を、一日で行なってしまおうと言うのが、岳参りの行事ではないだろうか。
旧約聖書の元になった人物「モーゼ」も、岩山に40日間参籠して神と出会い、人々に伝えた事は「せめて 7日間に1日だけでも 仕事等の一切の行為を休んで 神と共に在りなさい」との理・ことである。
其のモーゼの言葉に従って「安息日」が定められ、一週間に1日の休日が決められて、現在も日曜日として、其の事が続けられているのである。
日本では、日曜日の習慣が導入される前から、春と秋の彼岸が定められ、中日には、一切の仕事をしてはならないと決められていた。
年二回の彼岸とは、冬季の正月行事と、夏季のお盆との中間に位置している。
合計、年四回の行事は、仕事を休んで、自分の先祖の霊を供養したり、自然の働の内に在る「神佛」とのコミュニケーションを、図ったりする事が、目的とされていたのであろう。
其の事の本来の意味は、三次元の現象界に住む我々人間は、1日だけでも日常生活から離れて、非日常の世界に意識をセットする事ではないだろうか。
インドの釈迦牟尼仏は、其の事の必要性を、改めて人々に説いたのではないだろうか。
其れは、人間の生活の為に、動物を殺したり木を切ったり、川を汚したりする事から、意識を転じさせようとする為であろう。
現在では、一週間に1日休む事が決められたその日まで、ゴルフをしたり酒を飲んだりして騒いでいる。
私はもう、休みを18年間続けて来た。
神の世界に触れて、9月4日で6666日目が過ぎて、未だ、休みは続いている。
私は、其の休息を18年続けて来た事になる。
其の間に、新しい知識が、又頭一杯に詰め込まれてしまった。
再び、禊をしなければならないのかも知れないが、今度は、18年前までの其れとは、全く違っている。
全てを休んだ事から、全てを始める事に、転じるのかも知れない。
今度は、木を伐ったり、川や海を汚したり、動物を殺したりする事ではなく、其れと反対の事である。
木を植え、川を美しくし、自然の生物の復活を図る。
其れが、是からの、私の残りの人生なのかと想う。
子供の頃より、自然の中で暮らして来た私の脳裏には、50年前の、屋久島の情景が残っている。
其れを復活するには、日本列島には有り難い事に、未だ、それだけの力が残っていると想われる。
幸い、此の日本は、世界に誇れる自然環境に恵まれている。
此の日本の自然の中で、其れが成功しなければ、他の国の何処で、成功させられようか。
日本の中でも、特に屋久島は、其の事の最適地と言う事が出来よう。
私が、其の事に取り組むのは、神の至上命令の様な気がする。
私の実家は、横に川が流れ、大きな杉の木が一本立っている。
私は、其の木に拠って、一つの方向性を掴む事が出来たのである。
自分の心を支えてくれる一本の大樹、その存在は、揺れ動く人間の心にとって、一番必要なものである。
私の思い出の中には、多くの大樹が生き続けている。
残り少なくなった大樹を守り、神霊の存在を信じ、新しき人々の暮らしを創造して行く。
其れ等の事が、是からの私の生きる方向性である。
屋久島の大自然に感謝して、この項を終りたい。
14年9月14日
礒邉自適

2002/9/10
帰島感想(3)
14・9・10
昨日は9月9日で、一応「重陽の節句」とされている。
本来は、旧暦の9月9日に行う行事で、観菊の宴が催されていた。
「9」は、陽数の極とされて「9」が重なる此の日が、大事にされたのである。
私は昨日、全国100名山の登山をしている、屋久島楠川生れの冒険家である「平田和文氏」が、「日高屋久町長」に長野県「安曇町長」からのメッセージを手渡すとの事で、写真とビデオ撮影の為に、屋久町役場を訪ねた。
前回、役場に出向いたのは、18年以上前である。
役場の建物の中に入って行くと、40〜50歳代の人達が、皆ビックリした表情をしていた。
40歳代でも、前半の人達は、私の事を知らない。
私が、青年団活動や農業で活躍していたのは、丁度30年前である。
其の頃、役場に居た人であれば、48歳以上と言う事になる。
其の頃の人達が、現在課長等に成り、責任ある地位に就いている。
其の人達が、皆、懐かしそうに声を掛けてくれた。
私を見ると、私の父親や母親の事を、思う方も居る。
私の両親は、両方とも行政に深く関っていたので、私にも、役場の人達が好意的なのが伝わって来た。
現在は、私の弟が、松峰区の区長をしているが、其の松峰区は、父親が安房区より独立させたものである。
其れで、親子二代で区長職に就いた事になる。
私の弟が、行政に関っている事も、役場の人達の頭には有っただろう。
私の両親の徳と、弟の信用が、私を気持ち良く受け入れてくれた条件に、成っている事は間違いない。
これ等の事が、故郷だからこそ体験出来るのだろう。
私が、町外の人間で、平田氏に同行しても、其の温かい雰囲気は生れなかったと思われる。
今日は、故郷とは有り難いものだと実感出来た。
帰りに、何ヶ所か、屋久島の風景を撮影して自宅に帰ると、隣家からは「里芋」の煮物が届き、裏の家からは「秋刀魚」の焼いたのが差し入れされた。
私は、其れ等のおかずで、島の焼酎「三岳」を飲みながら、今日一日の事を思い出して、涙が出そうな程嬉しかった。
都会にも、何ヶ所かに数年住んだが、是らの気持ちに成った事は無い。
何所に住んでも、親切にされて有り難かったのだが、昨日の私の気持ちは、故郷でなければ、感じられない感情であろう。
7月2日より、屋久島に再び暮らし始めて、自然との一体感は、直ぐに取り戻した。
しかし、人間界との一体感は、昨日出来上がった様である。
其れは、私自身だけでなく、霊界や、天の仕組みが、極まったからなのかも知れないし、9月9日が陽の極まった日で「重陽の日」と云うのは、本当に意味が有るのかも知れない。
公の機関である役場と、私の個人的な隣家とのコミュニケーションは、その両方が「9」と「9」を、象徴しているのではないだろうか。
よく「公私混同」と言うが、役場で食物を貰う事は無いし、個人が、他の町の町長からのメッセージを受け取る事も無い。
昨日は、公に対する私と、個人的な付き合いの私が、両方とも、満足出来た日と、受け取って良いだろう。
陽が重なる「重陽の日」と云われる昨日、何かの大きな区切りが働いた事は、間違いないだろう。
神の働きは、新暦、旧暦を問わず、数字の方を優先して、物事を決めている様である。
平成14年9月10日
礒邉自適
2002/9/10
聖と俗
14・9・10
私が、18年間の修行で、理解した理・ことが幾つか有るが、一番大事な理・ことは、「聖」と「俗」の区別をどう考えるかについてである。
漢字の「聖・セイ」は、「耳を澄まして 神の言葉を受け取る人が 首を傾けている人」の姿から、出来ている象形文字である。
一方「俗・ゾク」は、「人+谷」の組み合わせで「谷に住む人」の意味である。「俗」とは、一口に言うと、経済が成り立っている地域に住んで、それに関って生活する人を意味している。
「俗」の漢字が考え出された頃は、経済事は船に拠る交通に頼っていたので、河口が経済の中心と成り、従って人口も河口に増えて行った。
人口が増えると、商売が色々と始まり、飲屋や色街も出来てくる。だから、其処に生活する人達を、「俗な人」「俗人」と呼ぶ様になったのである。
一方「聖」は「聖者」と使う様に、「俗人」と反対側に位置する人を、呼ぶ時に使う言葉である。
「聖」とは、「静かな所に住んで 神の言葉を受け取る人」の事だから、普通には山の中に住むので、「山の人」「仙人」の単語が有るように、「経済活動から 一番遠い所に住む人」を表している。
だから、聖者・ひじりの住む所は、人里離れた山の中である。
昔は、聖なる仕事に関わる施設である神社や寺院は、全て、山中に存在したのである。
其れが、人口が増えて、神社や寺の周囲にも人家が立ち並んでしまい、現在では神社も寺も、街の中に位置する所が多くなった。
其れに従い、神社や寺院も、商売や、身の安全、学力向上など、人間の勝手・都合を頼む所に成り下がってしまっている。
つまり、神社も寺院も、俗界に落ちてしまって、聖地ではなくなってしまっている事になる。
寺は、仏教関係の建物、神社は神様を祭る所と区別されて来ているが、江戸時代までは、あまり区別が無かった様である。
仏教も、神道も、原点は「聖・ひじり」が修行をする場所だから、清らかな水が流れている、静かな場所が選ばれて聖地とされていた。
此の理・ことは、神道や仏教が、日本列島に導入される前の、縄文時代やアイヌの人達の文化にも共通の事である。
つまり聖地とは、日々の暮らしから脱出し、日常の「わずらい」から、切り離れる事が出来る場所の事を、意味している。
其れも、神社や寺の人に頼むのではなく、自分自身が、聖と成るべき修行の場、体験の場なのである。
だから、お金を払って経を読んで貰ったり、祝詞を上げて貰ったりしただけで済む事ではないのである。
逆に言えば、テントでも担いで、一人で山中に出掛け、清い水の流れる所で、一週間でも生活する方が、聖に近づく事になる。
昔は、現代の様な神社の建物は無く、「お籠り所」と言って、雨露を凌ぐだけの建物が、最低限度の処で有っただけである。
人間は、獣と異なり、雨に当ると身体が冷えるので、神の言葉など受け取る余裕が無くなるからである。
私は18年前、その事を数ヶ月間、屋久島の山や川や海で実行したのである。
私は、17歳まで父親が健在だったので、安房の矢本岳の麓の聖地らしき場所で育ち、27歳からは安房の一番の繁華街である安房川の辺りに、生活する様になった。
そして、36歳の時、無庵師匠に出会い、俗界から身を洗ったのである。
17歳から、27歳の10年間は、農業中心の生活だったので、中間の位置に在った事になる。
27歳で結婚して、化粧品店や宝石店、マージャン屋、不動産屋を始めたので、37歳迄は、俗界の真只中に在ったと言えるだろう。
其れが、37歳から、それ迄とは全く違う世界に、歩き出す事になったのである。
私の人生は、7歳から学校へ出勤しなければならなくなり、17歳で父親が亡くなり一家の主と成り、27歳で結婚して自分の家族を持ち、37歳で家族も仕事も捨てて、聖なる道へと歩き出したのである。
振り返って見ると、ちょうど10年を節目として、人生が変化している事になる。
37歳の後は、47歳の時には特別変わった事は無く、後一年半で57歳を迎えるが、もう大きな変化は無く、此のまま年を取っていくのだろう。
子供を育てている「聖者」とか「仙人」の話は、聞いた事が無いので、子育てをする間は、俗界に身を置かなければならない様だ。
その点「佛」とは、「人+弗(ハッキリと見えない沸騰する蒸気)の組み合わせ(ブッダのブツの音訳)」であり、「聖」でも無く「俗」でもない。
「ホトケ・解脱者」とは「真実に目覚めた人」で、「覚者」の意味だから、山とか谷とかの場所の区別無く、生活が出来る事になる。
「佛」とは、此の現実世界に肉体を持って生きている間に、宇宙の真理に覚醒した人の事であり、其の事を「彼岸に渡る」と云うのだから、生きている間に俗界から聖の世界に、移る事に成功した者の事を言っている。
其の理・ことから考えると、死んだ人は「佛」に成るのではなく、只の霊に成るだけで、佛に成った・成仏したとは、言わないのである。
普通の人は、俗人のまま彼の世に行くのであって、「聖」にも「佛」にも成れないのである。
其処のところの区別が曖昧なので、現在の人々は、迷いから脱出できないのである。
「成佛・じょうぶつ」を目指して、修行をするべき人達が、成佛に成功しない間に、家族を持ったり、商売らしき事を行ったりしたのでは、「お釈迦さん」も天国で泣いている事だろう。
其の点、「神社」はお祓いをしているだけで、修行をしなければ成らないとの事が、強く打ち出されていないので、気楽と言うか、無責任と言うか、いい加減な所である。
一番、神道らしき修行をした人は、有名な「役の行者」であろうが、現在の修験道・しゅげんどうの世界も、「聖」と言えるかどうか、怪しいものである。
では、「聖」が現在存在しないかと言うと、そうでもない。
18年間の旅で、其れらしき人には出会っている。
唯、現在の世の中は、その様な者の存在に、気付かない様である。
「聖」で、生き様としても、世間がそんな人は認めないし、それを許さない現代社会である。
「聖」にも、住民税の取立てが遣って来るし、何処の山からでも、無断で薪や住居の材料を伐って来る事も、出来ない。
食料を作るには、畑を購入しなければならないし、土地や建物等を持つと、固定資産税も払わなければならないし、何時死んでも良いのに、国民年金の請求まで遣って来る。
とかく、聖者にとっては、住み難い世の中なのである。
聖者に、似た様な生活をしようと考えれば、神社か寺に住み込まなければならないが、其れらの施設に世話になると、日常の雑務に追われて、「聖」どころではなくなり、「俗」に近く成って行かざるをえない。
したがって、現在の聖者らしき人々は、「俗」と「聖」の境目に生活をしている事になるので、普通の人達には、其の見極めが難しいのである。
此処まで、「聖」「俗」「佛」と説明して来たが、もう一つ「君子」の世界が有る。「聖人、君子」と並べて使用されるが、「君子」とは何者であろうか。
「君・クン」の字儀は、神事をつかさどる族長の意味で、政治的な権力者の意味を持ち、官民の一番上に在する。
戦後、教育が進み、「聖」も「俗」も「佛」も「君子」も、ただ単に辞書に載っている、言葉でしかなくなって来ている。
人間の意識は、区別が出来なくなった時、判断力が低下する。
人間が、善悪の判断をする事は、旧約聖書で神に禁じられているが、「聖」と「俗」の区別ぐらいは最低でも教えないと、社会は住み良いものとは成らない。
旧約聖書の「善悪を 人間が決めてはならない」との教であっても、後のイエスは「金に仕える事と 神に仕える事を 同時に行う事は 誰も出来ない」と謂っている。
此れは、善悪の価値ではなく、意識の使い方を言っているのである。
金の勘定と、神の為に働く事は、正反対の処にある。
其れが、現在の神社や寺院では、金勘定が人目に付く処に、ワザワザ張り出されて、人目に曝されている。
此れでは、目暗の人民は、神も、佛も、金次第だと想い、真理を悟る事はどだい無理である。
せめて「聖」と「俗」の区別だけでも、なんとか認識出来ないものだろうか。
平成14年9月10日
礒邉自適
「物・佛 ブツ・ほとけ」【解字】形声。篆文は「人+弗」。彷彿(ほうふつ)という熟語で、それらしくありながら、はっきり見えないさまを表す擬態語として用いる。また、梵語の音訳の省略体として、ほとけの意味に用いる。常用漢字の仏は、宋・元のころから用いられている俗字による。
【字儀】(一)@ほのか。かすか。「坊仏」Aもとる。さからう。=払。Bねじる。C大きい。さかん(壮)。D仏語。ほとけ。梵語Buddhaの音訳字。仏陀・浮屠とも音訳する。㋐本義は、覚者、すなわち道を悟った人。㋑釈迦をいう。㋒仏教。㋓仏の形像。仏像。㋔慈悲深い人。㋕フラン・フランスの貨幣の単位。仏郎。(二)たすける。補佐する。=弼(ヒツ)。(三)けしきばむ。顔色をかえる。また、おこる。国語@ほとけ。㋐死去した人。㋑柔和な人。人がらがよい人。国名。仏蘭西の略。
漢語林より
2002/9/4
慈悲は神の心に近づく階段
14・9・4
中国の老子の言葉に、「吾に三宝有り 一に慈悲の心・・二に足るを知る・・」と、有ります。
イエスキリストの言葉の「愛」の意味も、同じ慈悲の心を伝えたものでしょう。
「慈悲」の漢字の意味は、【慈】が「心+茲」で、「茲(シ)」は「増えるの意味。子をふやし育てる心。いつくしみ。愛の意味を表す。」
【悲】は「心+非」で、「非(ヒ)」は「左右にわかれるの意味。心がひきちぎられ、いたみかなしむの意味をあらわす。」と 載っています。 漢語林
此の、漢字の意味からすると、「慈悲」は「悲しみがふえて行く」と言う事になります。
何時の時代に、誰が、この単語を創り出したのでしょうか。
私には、この言葉を組み合わせた人は、本当に、愛の心に付いて、取り組んだ方のように想います。
何故なら、愛の行為は、言葉ではなく、行為そのものですから、行っても 行っても切りがありません。
そして、そのわりに報いは少ないのです。
イエス-キリストは磔で死に、釈迦は行き倒れで死に、老子は行方知れずのままです。
彼等は、自分の事を考えず、他人の事や地球の事を考え続け、一生を終えたのです。その心が、天の意志と共通なのです。
自然の動物を見ていると、親は、子供が一人前に成る迄は、命を掛けて守ります。
しかし、一人前に成った途端、今度は置き去りにしたり、角で突いたり、噛み付いたりして、自立を促します。
其処に、生物の別れがあります。
其の、自然の働きは、人間にも内蔵されています。
全てを懸けて、子供を育てるその行為は、天の働きと同じです。
そして、天には、自分の子供だけと言う、私心は有りません。
天・宇宙にとっては、生きとし生けるもの、全てが子供です。
其処のところが、人間心とは違います。
人間は、自分の子供の事だけを考えがちですし、現在では、其の子供を育てると言う、動物本来の本能までも無くして、自分の子供に、保険を掛けて殺す母親まで出て来ました。
これでは、天が人間を育てている意味が無くなります。
天(宇宙の意志)は、それこそ悲しんでいるのではないでしょうか。
慈悲にて、人類を救おうと取り組み始めると、此の問題に突き当たります。
釈迦牟尼仏やイエスキリストも、この大問題に一生を掛けて取り組みました。
其の様な、お手本が有るにもかかわらず、人間社会には戦争が無くなりません。
慈悲心を実行しようとすると、直ぐに、此の問題(戦争の意味)に突き当たります。
まるで、慈悲心を育てる為に、天が戦争と言うものを、人類に与えているのかとさえ思いたくなります。
私も、37歳から18年間、実際に、此の問題に取り組んで来ました。
そして、何が出来たか、何も出来ていません。
出来たものを一つ挙げるなら、行っても 行っても成果が上がらないと言う、悲しみだけが強くなる現象を、体験できた事だけです。
最初の数年間は、意い通りに行かないので、何回も十二指腸潰瘍を起して、出血を起こして倒れました。
其れで、解った理・ことは、自分の力では、何も出来ないと言う事でした。
そう考えて、あきらめた時より、少しずつ、物事が解決し始めた様に思います。
他人を、救いたいとの考えも、自我意識の産物だった様です。
今になって解ったのは、「天が 私に 慈悲の心を与える為に 全ての環境を整えていた。」のだと言う事です。
私の人生に係わる人々が 皆、正義に生き、幸福であれば、私も此の様な道に踏み込む事は、無かったでしょう。
私は、37歳で最大の課題が与えられ、18年間心の旅を続けて来ました。
18年振りに屋久島で暮らして、丸2ヶ月が経過しました。
私の旅は、「慈悲」と言う言葉一つを、知る為の、長い旅であった様にも思います。
私は、自分の愛する妻や、可愛い子供達と別れ、孤独の旅が続きました。
正月や、クリスマスに、楽しくしている家族を見ると、自分の身の上の悲惨さを感じた事も有りました。
しかし、長い旅が終って、屋久島の自宅に帰り生活していると、自分の18年間の心の旅が、成長の段階としてイメージ化されて来ます。
其れらのイメージを、纏めようとすると、神社の、神様を祭る奥の社に通じる階段や、16方の菊花紋等の事が、意味を持って現れて来ます。
出雲には、国宝の「神魂神社・かもすじんじゃ」が在り、拝殿から神の社への階段は16段有ります。
そして、一番上の神の段まで入れると17段です。
菊の御紋も16方ですが、中心の丸を入れると17の数になります。
私が、18年の旅で理解した事は、古代の人達も、人間の意識の問題に取り組み、其れなりの答えを、出していたのだという事です。
人間は子供の時より、色々な事を学びます。
寒さ暑さも学びますが、上下左右を、先ず親に習います。
此れは、合わせて四方向です。
季節も春夏秋冬と、四つに分けて認識させられます。
其れから、八方とか八幡とかの認識を与えられ、12と言う月齢や、時間を教えられます。
普通の日常の数字は、是くらいだったのでしょうが、もう一段進むには、新たに4を加えて16方にしてあります。
此の「4」が、目に見えない世界の事です。
「4×3(12)」までは、普通の世界にしてあり、4×4は16として特別な認識を必要としました。
其の理・ことを、伝えようとしているのが、神社の16段の階段であり、菊花紋の16方です。
神(天の意志)と同一化する為には、16の方向の意味を悟り、16の段階を上って行かなければなりません。
もっと言うならば、一段階に16の事を学ばなければならないのであれば、「16×16=256」で、256の認識が必要と言う事に成ります。
この様に、事柄を広げると、普通の人達には負担になりますし、又日常の生活には必要ありません。
ですから12の方位くらいにして、12支の干支(働きを動物に例えて)にしたり、季節も12に分けたりしてあります。
詳しくは、12×6で72節もある。
自然の働きと一体化して、天の働きを自分の働きとしようと考えれば、自然の仕組みを知らなければなりません。
それが、真理を求める心です。
真理を求める心が、あらゆる宗教の本と成ったのです。
宇宙の真理、其れこそが慈悲の本体です。
其の、宇宙の本体である真理に到達する為に、天への階段がイメージ化されて来ました。
漢字の 「段」 の左の偏は、「岩に登る為に付けられた 手すりの意味」から、神に近づく為の階段を意味しています。
西洋の宗教画にも、人物の後ろに、階段や悌が描かれてあります。
この事は、世界共通の事柄なのでしょう。
私が、18年の旅で掴んだ答えは、光は真直ぐに進むが、粒子は螺旋でないと動けないと言う理・ことです。
光は、真直ぐに進みますが、エネルギーを失うと、粒子に還ります。
そして粒子は、螺旋状に渦巻いて収縮し、これ以上縮めない所(特異点)で、再び光に転換して、外に飛び出します。
この働きが、永遠に宇宙で繰り返されているのです。
地球上の生物は、太陽のエネルギーを利用する植物の存在に拠り、物質化して組み上がりますが、物質は、全て粒子に因って出来ていますので、螺旋運動にて出来上がります。
人間の指紋や、頭のツムジを見れば、それが判りますし、米粒もその様に出来ています。
この宇宙の螺旋運動の、一方向を切り取ったのが階段です。
ですから、階段を元に戻すと、螺旋である事に成ります。
此の時間性と空間性を、物として現したのが神社の階段です。
ですから、階段は側面図という事になり、菊花紋は、前後からの平面図か、正面図という事になります。
だから、日本の天皇家は「平面図」を使い、神社は「側面図」を使っている事になります。
神主も天皇も、国民の幸福の為に、天に仕える事を意味しています。
日本語には、「愛」とか「慈悲」と言う言葉は無いと想いますが、「しろしめす」との言葉が有ります。
「しろしめす」とは「治しめす」とも書きますが、国民を幸福にする為に、あらゆる方法を考えて、言葉にする事を意味しています。
神主や天皇は、16段の階段を昇り、神と一体化する事が役目です。
ですから、慈悲の人であるべきなのです。
其の理が、二千数百年に渡り、日本に伝えられて来たのです。
「阿弥陀仏」のアミダとは、「人智では はかり知れない 光であり 壽」だとの意味だそうです。
其のはかり知れない光のエネルギーと、寿命を備えた者が、西方の浄土に住んでいるとの考えが「真宗」の教えです。
西方に、仏が住んでいる事にしてしまうと、現実の日本には居ない事になり、死んだ後しか、阿弥陀仏には会えない事になります。
釈迦の説法の中には、そんな話が有る訳がありません。
ですから「日蓮聖人」が「真宗は無門」と言ったのです。
日本では、皆が禊ぎをすれば、神の働きと同一化出来るとの教えが有ります。
「生きて 此の現実世界に在る内に その理に 目覚めなさい」と謂ったのが、お釈迦さんです。
釈迦は、禊ぎの事を、八正道として身の処し方を教え、「12縁起」で意識のあり方を教えています。
お釈迦さんも、8と12を事柄の説明に使っています。
話は、取り止めがありませんが、私が謂いたい理・ことは、慈悲心を養おうと思えば、其れなりの努力をしなければならないとの理です。
釈迦も、イエスキリストも、老子も、其の理を、皆に理解させる為に努力を続けたのです。
世界には、名も無き人達が存在し、この役目を続けて来たのです。
それが、現在社会では少なくなった為に、お手本が身近に無い状態です。
若者の中から、大いなる慈悲心を持った人が、現れるのを待望します。
最後に、私の体験からの見解を申し上げるなら、悪と呼ばれる闇の世界は、物質である粒子を吸い込みます。
人間も、肉体は物質なので、この闇であるブラックホールに、吸い込まれて行きます。
だから、死と闇が連動されて恐いのです。
しかし、粒子は特異点に迄達すと、光に転換して、又飛び出して来るのです。
ですから、肉体を失わない内に、物質の境界を抜けて「光」に変化すれば、苦しみや恐れは無くなります。
此の「恐れ」から脱出した者が、心豊かな者なのです。
嘘を云ってまで、他人の財産を盗むのは、心の貧しい人なのです。
ですから、現在の世の中は、心の貧しい人達ばかりの、集団だと言う事が出来るでしょう。
やがて、失う物だからこそ、「失いたくない」との意識が働いて、物に執着をしているのです。
私は幸いにして、慈悲のある両親に育てられました。
そして、父親亡き後、自分の力で、この現実社会で戦って来ました。
37歳迄の数年間、人間のカルマ・業の深さに付き合わされて、大変苦しい思いを致しました。
今に成って考えれば、その時の場が、ブラックホールの闇の時代であり、37歳の時に、全ての執われから外れました。
そして、一気にブラックホールから、光に転換し、神の世界に突入したのです。其れから、あらゆる世界を体験させられました。
其れが、神の用意していた「十六島・ウップルイ・16の事柄」だったのです。
是からの世の中は、コンピューターに因る情報化社会です。
16×16=256方位ではなく、釈迦の云った84000の門が開かれるのかも知れません。
ようやく、神の理想の世界が、実現するのだと想います。
そうなれば、慈悲と言う言葉が、必要のない時代が来るかも知れません。
皆が、真理に覚醒した暁には、もう誰も、慈悲等との概念が有った事など、忘れてしまっているでしょう。
お釈迦さんの謂う、人間の想念が一切無くなった時、神の世界其のモノ・現象が、其処に永遠に存在していた理・ことが理解されるのです。
其れまでは、慈悲への階段の悌は、神は外さないで置いてくれているでしょう。
《追記》16×16=256を計算機で出そうとしたら、2002年9月4日までの日数計算との表示が出て来たので、私が神の世界に入った1984年6月4日を入力すると、6、666日と出て来た。
それで、私はビックリしてしまった。
今迄、日数計算が出来るなど知らなかったのに、無意識に電子手帳のキイを押してしまったらしい。
神の世界に入って、今日で6、666日経過した事が判明した。
無意識の世界は、とんでもない世界である。
そして文章を書き終わって、遅い朝食を摂りまどろんでいると「あじのさと」との言葉で目が覚めた。
「あじのさと」は「味の里」ではなく、「阿字のさと」との事で、「大日如来のさと」の意味である。
不思議な事は、まだまだ続いている。
平成14年9月4日
礒邉自適
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