2002/6/2
大本教と天理教は何故成功したか
14・6・2
大本教からは、世界救世教、生長の家、オイスカ、天行教、白光真宏会など、他にも幾つか分派している。
そして、天理教からも、モラロジーの「広池千丸郎」他が生じている。
「大本教」や、「天理教」が大きく成れたのは、中心の働きが女性だったからではないだろうか。
女性が中心であれば、男性の反発性や闘争心が起こらない。その点、男性が中心であれば、男性同士は「陽・プラス+プラス・陽」なので、どうしても反発が起きてしまう。
大本教の「出口ナオ」と、天理教の「中山ミキ」は女性なので、周りには男性が集まり易かったのであろう。
創価学会が大きく成ったのは、三代目の池田大作氏が、女性達を上手に動かして、会員を集めたからであろう。
創価学会が分派しないのは、大本教や天理教と違って、大きな人物が、幹部の中に参加していないからではないだろうか。
地球上の獣は、殆んどが、力の有る雄は群れから離れて、一人立して行く事で存続を保っている。
其の点から言えば、大本教は人材が集まった所と言えよう。
聖徳太子は17条の憲法を創り、第1条に「和をもって尊し」と謂っているそうだが、其れは何故かと言うと、「和」を保つ事が、一番難しいからであろう。
人間社会は、和が保たれていれば、後は、何とか上手く運んで行くものである。聖徳太子は、女性が中心である方が上手く行くので、女性の天皇を表に立てて、政治を行ったものと想える。
其れ迄の、社会システムの「帝・スメラミコト・天皇・大王」は、男性でなければならなかったのに、聖徳太子が其の掟を破ってまで、女帝を擁立したのには、それなりの考えが有っての事だろう。
女性の王が良いのか、男性の王が良いのかを、考えて見れば、平和な国では女性が中心であり、戦争が絶えない国は、男性が中心で動いている様に想われる。日本でも平安時代は、女性が文化の中心になっていた様な時も有ったらしく、男性が女性の家に通っていたらしい。
話しは余談だが、NHKのテレビ番組で、アフリカのチンパンジーの生態を調べた放送が有った。
コンゴ川の、右岸と左岸に住むチンパンジーが、肉食をするか、しないかで、生態が異なると言うのである。
肉食をする方は、父系社会で闘争があり、肉食をしない側の「ボノボ・ピグミーチンパンジー」は母系社会で、雄は雌に甘えて、静かに暮らしていると言うのである。
「ボノボ」http://www.shc.usp.ac.jp/kuroda/reconsider.html
其の例からすると、人間社会の父系社会も、肉食文化の影響かと想われて来る。
草しか生えない蒙古の文化は肉食だが、ジンギス・ハーンの行動を見ると、男性の業丸出しの様に想えて来る。
現代社会の流れを見ると、環境保全と生活習慣の事を、真剣に考えなければならない時に来ているのは、万民が認める処である。
インドとパキスタン、アラブとイスラエル、北朝鮮問題を見ても、全て男性性の業が原因である。
女性を、中心とした生活文化を、組み立てなければならない時代に、至っていると想われる。
ジャンヌ・ダルク的、女性ではなくて、「アクエリアス(水瓶座)」に相応しい女性を中心にして、新しくて、しかも伝統に基づいた文化を、築く必要に迫られている。
其の新しき流れを起こす為に、今回、屋久島の矢筈岬に於いて、6月9日に儀式を行う。
其れから、何が始まるか、神のみぞ知るである。
平成14年6月2日
礒邉自適
2002/6/1
瞑想は全体との合体を観じる事
14・6・1
「瞑想・めいそう」との言葉は、知らぬ者が、居ない程に、有名な言葉と成って来た。
だが、瞑想が何の為に有るのか、本当の意味を知る者は少ないだろう。
瞑想の世界には、座禅で有名なインド人の「達磨禅師」が在るが、達磨さんは中国の少林寺で、九年間、壁に向かって座禅を続け、悟りを得たと云われている。
だが、其れは間違いで、達磨はインドに住んでいる時に、既に悟っており、自分の弟子を求めて、南インドから中国に渡って来て、九年間、弟子が現れるのをジーッと待っていたのである。
何故、インドから中国まではるばる来たかと言うと、瞑想に成功して悟ると、宇宙全体の事が感じられる様に成るからである。
大悟した「菩提達磨・ボーディダルマ」は、自分の悟りを伝える事が出来る者が、インドには居なくて、中国に居る事が観じられたのだ。
だから、中国まで遣って来て、九年間、壁に座って弟子が現れるのを待ったのである。
そして、「慧可・えか」が現れて弟子に成った事で、達磨の面壁九年は終ったのである。
では、何故、インドに住む人間が、中国に「法・ダルマ」を授ける相手が存在する事が、感じられたのだろうか。
「弘法大師空海」が中国に渡った時も、師の「恵果」は、空海が入唐した事を、会わないうちから知っていたと言う。
其れ等の不思議な事は、他にも多々伝えられているが、此処では述べない事にして、テーマである瞑想に話を戻そう。
達磨や、恵果に、共通する事は、瞑想を人生の最大事として、生活をしている事である。
瞑想の意義を、簡単に一口で言うなら、「日常のわざあい・業合いを止めて、宇宙の情報システムに身を任す」ことである。
人間は、生活する為に、衣食住の心配をしたり、家族や社会の営みの付き合いをしたりと、忙しいので、天の働きや、神霊界の事に、構っている余裕が無い。
だから、皆の代表として、誰かが、天の働きを知る事や、神霊界の言う事を、聴いてやったりしなければならないのである。
古代社会では、「スメラの命」や「シャーマン」等が、その役目として、明確に機能していたのである。
天照大神は、正確に言えば「天照坐皇御神・あまてらします すめおおみかみ」で、瞑想の為の「すめ」の意味が含まれている。
「すめ」とは、仏陀の覚醒した第三の目や、エジプトの「ラー・太陽の神官の目(意識)」の事を意味している。
谷口雅春が始めた「生長の家」は、瞑想の事を「神想感」と呼んで、天の働きを「実相」の世界として捉えている。
人間の目には、見えない世界こそ、目に見える世界を動かしている、真実の力だと言うのである。
其の、見えないチカラを、見ようとするのが瞑想なのだ。
真実の世界が見えてしまえば、此の現実世界で生活する事も、無駄なエネルギーを使わないで済む事になる。
瞑想とは、頭で考える事ではなく、頭で考える事を止めてする事であるので、先ず、瞑想を実行する事から、始めなければならない。全体が、自分として感じられるかどうかは、其れからである。 観自在菩薩。
『追記:わざ−わい〔災い、禍〕 「わざ」は神のしわざの意。「わい」はさきわい(幸)などの「わい」と同じ。悪い結果をもたらす神のしわざの意。
(辞典言泉より)』
平成14年6月1日
礒邉自適
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