2001/12/20
我に三宝有り
13・12・20
仏教に「三宝」との言葉が有り、それは「仏・法・僧」で、「ブッダ・釈迦」と、「その教え・経」と、それを学ぶ「僧」が、三つの宝だと言うのである。
私は、どうも、それを聞いて釈然としない気持ちが有る。
日本の神社で、使用するお供えの台も三方(三宝)と呼んで、前方と左右に穴が開いており、神様側だけに一ヶ所穴が開いていない。
これは、穴の開いていない方が、神の世界、四次元を表し、穴の開いている方が、三次元世界を表しているのだろうと思われる。
三次元を簡単に言えば、縦、横、高さで認識する世界と言えよう。
三宝の言葉は、中国の言葉であるので、釈迦の教えの中には「三宝」の言葉は無いだろう。
釈迦自身が、「自分と 自分の教えが 宝だ」とは、謂っていないであろうと想われる。
仏教の経典が漢字なのは、仏教が中国を経由して、日本に伝わって来たからである。
日本に伝わった、仏教経典の中身は、中国の老子の教えが、明らかに混入している。
釈迦も、老子も、紀元前600年程前の人で、同時代の聖者である。
「玄奘(三蔵法師)」がインドに渡り、中国に経典を持ち帰ったのは西暦645年唐の時代である。
鳩摩羅汁にしても、西暦400年に、長安で佛典を訳しているのだから1000年もの間、中国には、老子や孔子の教えが存在していた事になるので、100%釈迦の教えに変わる事は、考えられない。
実際、仏教に使用されている「和光垂迹、和光同塵」は、老子の道徳経に出て来る「和光同塵」から来ていると思われる。
釈迦の教えの中に、和光の概念が有るか、無いかは私には分からないので、あくまで私の推測でしかないのだが、間違いではないだろう。
私が気にしている事は、「三宝」の言葉なので、話を元に戻すと、老子の道徳経の中にも三宝の言葉が出て来る。
67章「我れに三宝有り」
「我有三宝 持而保之 一曰慈 二曰倹 三曰不敢為天下先」
(我に三宝有り、持して之を保に、一に曰わく慈、二に曰わく倹、三に曰わく敢えて天下の先たらず)の、文章である。
訳
第一は、「人をいつくしむ」心である。
第二は、「物事を控えめにする」態度である。
第三は、行動において「人の先に立たない」ことである。
人をいつくしむからこそ、勇気が生まれる。控え目だからこそ、窮まることがない。人の先に立たぬからこそ、人を指導することができる。
中国の思想 老子・烈士 徳間書店 奥平卓訳
一の「慈・ジ」は、仏教の慈悲の心や、イエス・キリストの愛の教えと同じものだろう。
二の「倹・ケン」は、足りるを知るで、現状の不足を唱えないで、満足する事を意味し、仏教の教えとも同じである。
そして、三は、お釈迦さんやイエスキリストの教えの中には、出てこない様に思える。
其れは、釈迦は、行動する事を止める理を教えているし、イエスは「教えを広めなさい」と、行動を起こす事を、弟子達に云ったとされているからである。
老子の場合は、一と二で、精神的な事を主に言っているが、三は、人を指導する立場に在る者の、心構えを謂っている。
「人の前に決して立つな」ではなく「あえて立つな」とは、「自分から 進んで立つな」の意味であって、世の中に必要とされ、他に立つ者が無ければ、其れはそれで、仕方が無いとの理・ことではないだろうか。
とかく人間、特に男性は、人の前・さきに立ちたがるものである。
其れは、子供の時の「お山の大将」の気分が、抜けきれないからであり、其れは男性が、雄の本能を持っているのだから仕方の無い事なのだ。
現在の、アメリカ国の様子・在り方を見ていると、その典型を見ている様である。
アメリカ国には、カトリック教の信者が多いと聞いているけれど、イエスキリストの教えが、全然守られていない。
其れに、中国や、インドも、老子や釈迦の教えを実行しているとは想われない。
是からの日本国の役割は、人間が幸福になる為の宝は何なのか、その理・ことを、世界に示す事であり、また其の時節を、迎えていると私は想う。
其れには、老子の「三宝」の訓えが、適切ではないかと意う日々である。
平成13年12月20日
礒邉自適
2001/12/18
ほどいて行く
13・12・18
長い年月を掛けて 積み上げられて来た 記憶の海。
其れは 人々に因って 積み上げられた 文化と言う名のカルマである。
霊界は 其のカルマ・業に因って 築き上げられた 虚構の渦巻く姿だ。
私のやっている事は 過去に生きた人々の 悩みの糸を ほどく事にある。
平成13年12月18日夜
昨夜の、NHKの番組ドラマ「悪意」を見ていて、上記の言葉が浮かんで来た。
人間の、徳も、罪も、社会に因って築かれていくものである。
「罪」は、「積み上げられる」の積・ツミそのものであるし、「徳」も、陰徳を積むとの言い方がある。
互いに、積み上がるものとの事だ。
どんな人も、徳だけ100%とはあり得ないし、どんな人も、罪だけと言う事はない。
私が、自分の人生を振り返ってみても、善悪半々ぐらいの処である。
寧ろ、前半戦は罪が多いので、後半戦は、其の罪滅ぼしと言っても、過言ではないだろう。
私は、屋久島で、海から、魚やイセエビを捕ったり、山から、木を伐り出したり、森林を伐採して畑にしたりと、屋久島で一番自然破壊をした張本人である。
自然破壊だけではなく、化粧品店を妻に経営させて、自分はマージャン屋を経営し、皮膚や体に悪い事ばかりしていた。
25歳迄まで営んでいた農業も、自然破壊の一端と言えるだろう。
その頃は、自然破壊や、体に悪い暮らしが、悪事だとは全然、思っていなかったのである。
其れよりも、山を崩して平地にする事や、食べ切れない程の魚を捕獲する事は、自慢の対象だったのである。
地球や、人体にとって言えば、私は立派な犯罪者だったのだ。
其の頃は、社会の状況が、一生懸命、自然林を切り倒し、杉の植林をする事は、表彰者だったのである。
昨夜は、教育テレビの番組で、杉の植林地の杉の木を伐って、広葉樹を植え、動物の移動する回廊を造る人達の放送も有った。
30年間で、世の中が変化し、善と悪が反対になってしまっている。
人間の意識とは、戦争に懲りて「平和」の言葉を生み出す様に、現象に立ち向かわなければ、認識が出来ないものらしい。
其れは、私ばかりではなく、他の人々も、そして古代の人々も、皆そうである様だ。
唯、言える事は、太古は、森林の木を伐り倒したにしても、人間の数が少なかったので、自然環境には影響が無かったであろうが、現代では、先進国が力を合わせて、森林を伐り尽くして行きつつある。
其れと同じ事が、経済や学問の世界でも、宗教の世界でも起きている。
少人数で、其々が違っている事を遣っている内は良かったが、それが、集団となり、国を挙げて行動を始めると、精神破壊、環境破壊と成って行くのだ。
現代の私達の行動には、昔の人達の考え出した価値観や手法が、土台と成っている。
イエスや、マホメットも、自分の教えが、人殺しの名目に成るとは思っていなかっただろうし、化学者のキュリー夫妻も、原子爆弾が日本で使われて、一遍に何10万人も死ぬなどとは、夢にも想わなかったであろう。
私に、頼ってきた神霊の数は、4311体であった。
其の、過去に生きた人達が、自分の罪をいま償おうとしている。
ノーベルだって、人殺しのアイデアに、自分の残したお金が使われる事には、反対である。
過去の人達は、自分がしている事は、世の為、人の為に、成ると想って努力をしていたのだ。
その想いが、現代の世の中で悪意に利用されれば、霊界の人達に、眠りが有るかどうか分からないが、夜も眠れないのではないだろうか。
私に起きた事は、神社の祝詞に有る「神霊の思頼(みたまのふゆ)」であった。
私が行っている事は、過去に生きた人達の思いや、頼み事を、聴いて助ける事にある。
一番大事な事は、彼らの想いを増幅する事ではなく、ツミケガレを解いてやる事である。
2600年前、インドの釈迦が行った様に、解脱をさせて佛(ほどけ)させる事なのである。
彼等にとって、大事なのは、真理へ向かって前進する為の、杖となるべき、この世に身を置く人間(霊留)ひとが、必要なのだ。
其の人間が、数が少ないので、私みたいな人間に、4311人もの霊魂が依り憑いて来るのである。
聖書の言葉に、「其の時には 全ての死人が墓から蘇ってくる。」と言うのがある。
私には、真理を求め、人々を救いたいとの残念霊が頼って来たが、食欲、性欲、権力欲に取り憑かれた霊に入り込まれた人達は、大変である。
自分の意識ではないのに、欲望の道へまっしぐらに引き込まれて行くのだ。
私の処にも、近頃 霊の出入りが激しい女性達が、九州や北海道など、各地から相談に訪れている。
現世に生きる私達が、力を合わせ、過去世に生きた霊魂の柵(しがらみ)を、ほどいてやらなければならないだろう。
私も、それを17年半続けてきた。
私は、是からも、真理へ向かって旅を続ける人達の、御杖と成り続けようと想っている。
その事が、アークの杖の秘密であり、エジプトのラーの隠れた意識の目、ユダヤの石工の万物を見通す目の、意味する処である。
真理に到達する者が現れれば、岩戸の目(意識)が出る事に成り、岩のロックは外される。
其れが、目が出るの意味である。
「籠目・カゴメの目」は、真理を求める人々の手で、もうすぐ、人々の知る処と成るであろう。
平成13年12月19日
礒邉自適
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