2001/10/20
長生き
13・10・20
「長生き」とは、長い寿命の事だが、漢字だと長寿と言う事になる。
日本語の「ながいき」は、長く呼吸をしている意味だろう。
気短な事は「短気」と言い、ゆっくり待つ事を「気長に待つ」と言う。
長生きをする人は、気長な人であり、短気でいつもイライラしている人は、ストレスが溜まって長生き出来ない。
短気な人とは、どちらかと言うと、無駄が多く、エネルギーを有効に使えない人の意味になるだろう。俗に言う「短気は損気」である。
悟った人と言うのは、呼吸は緩やかで、他人や自然に対しても優しく接する。だから、レベルの高い宗教では、何かの行為をするのではなく、静かに瞑想などをして呼吸を整え、心臓の動きも緩やかにするのだ。
そうすると、精神が落ち着き、思考も深まり、知恵も豊に成って来る。
問題が発生し、相談事が出来た時、短気な人の処よりは、緩やかな人の方に出掛けるのは、理に適っている事になる。
聞いた話だと、大きな象と、小さな鼠は、一生の内に心臓が鼓動する回数は同じ程度だそうである。
鼠の方が、何倍も早く心臓が鼓動するので、寿命が短いそうだ。
それからすると、人間も穏やかに生きて、長い息を続け、心臓の動きもゆっくりと鼓動する様に、努力した方が良いだろう。
インドの釈迦や、中国の老子も、その様な「息の仕方(いきかた)」をした人ではないだろうか。
私の体験では、悟りとは、宇宙意識に接触する事だと考えられる。
其れには、地球の電離層を意識の波動・周波数が抜け出て、他の星々とチャンネルが合わなければならない。
長波や、短波は、電離層で跳ね返ってくるが、超短波は電離層を抜けて、宇宙に飛び出す。
だから、宇宙意識とチャンネルして悟るには、極短波のマイクロ波を出せる状態に、自分を持ち込まなければならない。
其れには、イライラして落ち着かない状態では、不可能である。
其れに、太陽光線が当っている昼間は、電波が電離層を抜け難いので、夜間の方が電離層を抜け易いのである。
だから、弘法大師空海が、室戸岬で金星と通じたのも、夜明け前の出来事である。
此の、三次元の物事の現象に執われて、波動がイライラ、チリチリしていては、とても電離層から抜け出る事は出来ないのだ。
此の地上の、一切の現象から解放されて、身も心も自由になり、緩やかにして、呼吸を整え、長い息をしながら、意識が宇宙へ向けて、放たれて行かなければならないのだ。
瞑想とは、あらゆる物事から自由に成り、解放される事である。
其れを、仏教では「ニルヴァーナ・解脱」と言う。
解脱とは、あらゆる柵・シガラミから抜け出て、自由になる・ほどけるの意味である。
地球の物質は、全て磯気を持っている。
磯気は、強く、大きく成ると、重力の働きとなる。
其の、物質の磯気の振動周波数に縛られている間は、宇宙へ旅立つ事が出来ないのだ。
だから、仏教でも執着を捨てると言い、イエス-キリストも「神と 財とに 一度に両方仕える事は 出来ない。」と、謂っている。
地球での、一切の管理から放れ、管理する事からも、管理される事からも、自由に成った時、心は緩やかに成り、呼吸は楽に成って長く成る。
そして、意識は解放され、振動は緩やかになり、極微細な波動と成って、無限の宇宙へと飛び出して行くのである。
其処には、時間も空間の壁も無く、自由な自我、ホトケ、仏陀と成れるのだ。其れが佛・ブッダの意味であり、「死んだら佛様に成る」と言うのは間違いである。
この現象世界で、生存している間に悟ってこそ「佛(ぶつ)、ほとけた者」なのである。
死んだら、只の霊であり、悪くすれば、執着心のまま幽霊に成りかねない。
悟って、霊界に帰る事を「大往生」と言うのである。
この世で長生きする事は、あの世でも成功する事なのである。
現在の、テレビ番組のニュースとは掛け離れた処に、長生きの秘訣は有るのだ。だからこそ、仙人や聖人は、テレビや新聞の無い場所に住んでいるのだ。
聖人は、世俗から離れていても、人間社会の事はお見通しである。
何故ならば、宇宙意識で観ていれば、簡単な事だからである。
その理を、物語にしたのが「孫悟空」の物語中に出てくる観音様の存在である。
現代では、インドまで経本を探しに行かなくても、図書館に行けば、経本は無料で借りる事が出来る。
長生きしようと思えば、簡単な時代と言えよう。
アメリカと、イスラムの戦いに一喜一憂している様では、この話は無駄話であるけれども、気付いて見れば、簡単な理・ことである。
平成13年10月20日
礒邉自適
2001/10/20
喉元過ぎれば熱さ忘れる
13・10・20
熱い食物を食べて、喉を火傷しそうでも、喉元を過ぎれば、苦しさも忘れてしまう。
其の、「喉元過ぎれば 熱さ忘れる」との言葉の意味が、昨夜、寝る前にやって来た。
其れは、私の世界救済の旅も、喉元を過ぎたと言う事だろうか。
喉元は過ぎ去っても、胃の方がどうなのかは、私には分からない。
秋になれば、夏の暑かった苦しさは忘れてしまい、厳冬に成れば、夏の暑ささえ懐かしくなる。
春に成れば、冬の寒さを忘れて夏を迎える。
一年の間に、人間の心は、根無し草の様に移ろい行くものである。
私の、苦しかった16年半の旅も、季節の中の移ろいの様に、自然の大きな循環の営みの内に、消え去ったかの様だ。
16年半の間に生じた事を、話せと言われても語り尽くせないくらい、物語は有るはずなのだが、今では、どうでも良いと思う様に成ってしまった。
人には、それぞれの旅の仕方が有る。
私の旅の有り様を、他の人に話しても余計な情報であり、邪魔にこそ成れ、プラスにはならないだろう。
インドの釈迦牟尼佛も、弥勒の質問の「何時 何処で どの様にして 悟ったか」に対して、釈迦は答える事を拒否している。
中国の老子も、弟子を一人も採らず、訓える事をしてはいない。
日本の「神惟らの道」も、他人に、自分のやり方を訓えてはいけない世界である。
悟りの道は険しく長い。
しかし、その修行の道は、他人の答えを盗んで真似しても、成功するものではないのである。
悟った人が、他人に認められる時は、その本人はもう、喉元を過ぎて、熱さを忘れている。当人は、夏の盛りを過ぎて、深い秋を迎えているのだ。
その人には、夏の暑さは、過去の思い出であり、もう本人には興味は無いのである。
静かな心には、熱い炎は無く、静かな湖面だけが、想いの中に浮かんでいる。
静かな、水の中に住む人に、熱い世界を尋ねても、無駄な事であると言わなければならないだろう。
戦後56年、日本は戦争の悲劇を忘れて、アメリカに引き込まれて、又危ない橋を渡ろうとしている。
日本は、50数年前に、国土は焼土と化し、何百万人の死傷者を出したばかりである。正に、喉元過ぎれば熱さ忘れるである。
アメリカは建国225年、自国が攻撃されたのは初めてである。
いまアメリカは、熱い物を喉に入れられたばかりである。
日本は、そのアメリカに追従して良いものか、よく考えてみなければならない。
現在の世には、釈迦も老子も存在はしない。
存在したとしても、其の人物に耳を貸す者が居ない。
世界は、行き着く処まで突進んで、行き詰まらなければ、聖者の声に耳を傾けないだろう。
人類は、いつまで、この繰り返しを続けるのであろうか。
私の旅は、終わって 惟 静かに其れを見つめるだけだ。
13年10月20日
礒邉自適
2001/10/19
鏡の法則
13・10・19
日本の神社には、何故か鏡が供えられている。
そして、エジプトの女神「イシス」の頭にも鏡が着いている。
私には、神の世界に何故、鏡が存在するのか、ようやく理由が解って来た。
私は、1984(s59)年6月4日(旧暦5月5日)に、屋久島の安房川で禊ぎを行って4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」が起こった。
其れは、天皇家の伝統で行われている「大嘗祭・だいじょうさい・おおにえのまつり」の儀式と、同類のものである。
天皇家で行われている「大嘗祭」は、奈良県天理市に在る「石上(いそのかみ)神宮」に古代から伝わる、物部家の儀式が元に成っている。
石上神宮は「「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊・あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと」の子孫である、物部一族の先祖霊を祭る神社である。
其の、大嘗祭や新嘗祭の儀式の内容は、禊ぎを済ませて、先祖の神々・霊魂と、其の年に収穫された、新しい米を共食し、神霊の力を自分の物とするものである。
私の名字の「礒邉」も、「磯部・石部」と同じルーツなのだろう。
伊勢神宮の伊勢も、「出雲の神の子 出雲建子の命、又の名は 伊勢都彦命、又の名は櫛玉命なり。此の神昔石もて城を造りて…」と、文献に載っている。
島根県大田市に在る物部神社は、物部初代の「宇摩志遅命・うましまじのみこと」の神墓が有り、石の塚が建てられ、立石の周囲には、石が敷き詰められている。
昔の言い伝えでは、鏡の始まりは、岩鏡だとされている。
その岩は、花崗岩だとされており、霊界を写し出す鏡は、石英や雲母の入った岩が、使用されていた様である。
岩鏡は、後に、青銅が使用される様に成り、それが現在まで続いている。
では、鏡が何を意味しているかと言うと、この現代の世の中に住む、現実的な人間の心身と、肉体を有さない神霊の世界との中間に、鏡は存在し、互いの意識の疎通を図る為である。
人間にとって、神の世界は、肉の目には見えないものだ。
だから、見えない世界を見る為の、方法や道具が必要である。
その為に、用意された道具の一つが「かがみ・鏡・監」の存在である。
鏡を見ても、自分の顔が映るだけである。
それなのに、何故、必要かと言うと、霊界が見えた時に、その映像を理解し、自分との関係性を捉える為に、意識作用として、鏡はなくては成らない物なのである。
人間は、鏡に映る物が、自分であると認識出来るが、他の動物には、其れが出来ない。
人間も、鏡の存在が無ければ、宇宙の働きが、自分に係わりが有るとは、想えなかったのではないだろうか。
「神は 水鏡で来た」との言葉が有る様に、自分が向かう方向に、自分に関係した物が、有るとの認識がなければ、神が自分の対象として、存在する事が理解できないだろう。
私の体験では、「神霊の思頼」は、4311体の霊界人の姿の映像として、目の前に現れて来た。
しかし、目の前に写っている映像は、実は、自分の魂の後に、守護として憑いている物である。
だから、神社でお祓いを受ける時は、頭を下げて、頭の後ろを、祓って貰うのである。
自分の前に、沢山の神霊が向き合って居たのでは、前に進む事が出来ない。
霊にしても、後ろ向きでは、物事が見えないだろう。
霊魂は、人間の後ろに憑いて、人間と同じ方向を見て、人間の行動を、操る事が出来るのだ。
では何故、目の前に映像が写るのかと言うと、人間の視覚神経に、後頭部(ボンノクボ)からアクセスして、映像信号を送り込んで来るからである。
人間の目の働きは、光を眼球に取り込んで、電気信号として脳に送り込む。
それが、反対・逆の仕組みで動くので、人間には、映像が目の前に映っているかの様に、見えるのである。
だから、目の前に映る現象・映像は、実は、天上からのアクセスなのである。神の世界は、眼の裏側からやって来るのだ。
人間は、映画館に入って、前面の垂れ幕に映る映像を見ているが、神の情報は、人間の目から飛び出して、前の幕に、映し出されると思って良いだろう。
その事の説明とか、証の為に、鏡の役割が有るのだ。
占いの一つとして「水晶占い」が有るが、其れも、水晶に映像が写し出されているのではなく、脳が受け取った情報が、あたかも水晶に写し出されたかの様に、錯覚されているのである。
それだからと言って、水晶が無くてもそれが出来るかと言うと、水晶を使って見ている人は、水晶玉が無ければそれが出来ないであろう。
鏡は、水晶玉と同じ理屈なのである。
鏡は、あくまでも、自分に関係の有る事が、目の前に現れて見えると言う、訓練と認識の為に、用意されている物である。
私に、「神霊の思頼・みたまのふゆ」が起きた時に、現れた神霊の数は4311体であった。
そして、その霊団の一番前列の右端に、20年前、私が17歳の時に、49歳で亡くなった父親の姿が在った。
その父親が、私に向かって「お前に苦労をさせたのは お前の精神を鍛える為だったのだ。もう大丈夫だから この人達に体を貸せ。だけど 仕事と想うな 遊びだ 遊びだと想っておけ。」と、云うのである。
何しろ、私にとって其れは、初めての体験なので、驚きは有ったけれど、自分の父親が言う事なので、恐怖心は起きなかった。
恐怖心よりは、父親との20年振りの再会なので、懐かしさが先に立ったからであろう。
私の父親が、何故、一番前の右側に居たのかを考えてみると、私の父親だからと言うのもあるが、私の父親の生き様が、霊界でも認められたからではないだろうか。
私の父親は、生前、他人の世話ばかりしていて、体を壊し、早死にしてしまったのである。
其れで、私は、父親の役割を早くからする事に成り、多くの体験を積む事と成った。
精神的に、強く成れたのには、その事も要因の一つである。
イエス・キリストの言葉に「神の 右に座する者が 現れた時」と言うのがある。
古代社会でも、大政大臣の左側に座す左大臣の方が、右大臣よりも上座に位置している。
左に位置する者が、この世界でも、神の世界でも、上位にある様だ。
人間の体でも、右手は、行動的で攻撃的であり、左手は、受け身的で、補佐の言葉で判る様に、支える立場と考えられている。
此方側で、神の働きを支えた者は、彼の世に行った時は、クルリと反対側に回って、人間界の方を向く事に成る。
其れが、鏡の働きの意味する処だろう。
此方側で、人間的に成功していなくても、神の世界に帰れば、成功者と成れるのである。
心身の禊ぎ払いをし、精進を積み重ねる時、自分の全身全魂が、神の鏡の役目を果たす事になり、神の祐(たすけ)の言葉を、受け取れる者と成れるのだろう。
予言者とは、鏡の法則の達人の意味なのかも知れない。
平成13年10月19日
礒邉自適
2001/10/17
救世主(其の四)
13・10・17
日本語の「すくう」の言葉の意味は、前回も述べた様に「手を 下に差し入れて 掬う」の意味で、溺れている人、困窮している人を助ける事が、その行動にある。今度は、「助ける」とはどう言う意味なのか考えて見た。
「たすける」の、本語に当てる漢字は、漢語林では22字も有るが、「助」の漢字の字義を見ると、音読みは「ジョ」で字の成り立ちは「力+且」で「且(ヨシ)」は、積み重ねるの意味で、力を上に重ねてたすけるの意味とある。
たすけるの「ける」は、動詞で、「上げる」などと同じであるから「たす」だけが、物(現象)を表現する言葉である。「たす」は足す、加えるの意味で不足をおぎなう「supply・サプライ」の意味だと字典には載っている。
助けるとは、何かの不足が生じて居る人に対して、力を重ね、積み上げて足してあげる事の意味らしい。これは、仏教で使う「布施・ふせ」の意味と通じるものがある。
辞典には、「すくいぬし(救主)」の所に、1・助け人「hel-perヘルパー」、救世主「thesavi0rザ・セイヴィア」とも載っている。
私は、これ等の言葉から考えて見ると、体験豊かな先達が、後から神に近付く者達に対して、手助けをする姿が見えて来る。自分が、積んで来た体験からの知恵を、後から登る者に対しての、踏み台として与えて遣るのである。
私達の、文化や文明も、過去の人達の業績の上に成り立っている。科学や、技術の世界もそうであるが、釈迦や老子やイエス達が見極めた宇宙の真理の情報も、私達が道を極める為の踏み台と成っているのである。
私達は、過去の人達が努力をして、「且・ヨシ)を積み上げてくれた御陰様で、能力が向上しているのである。現代社会に生きる我々も、次の時代の為に、何等かの業績を足さなければならないだろう。老子や、釈迦仏陀や、イエスキリストの業績の上に、何を足せるか、私達の努力は今からが勝負である。
「たすける」の漢字は、介・右・左・丞・佐・佑・助・扶・侑・相・祐・将・將・幇・弼・援・資・輔・賛・翼・贊・眦と、漢語林に載っている。
私が辞典を見て、誰も理解出来ないのではと、想えるのが「眦・ヒ・まなじり・たすける」の漢字である。
「毘」は、毘沙門天や毘廬遮那仏に使用されている文字だが、文字の成り立ちは、「田+比」田は通気口の象形。音符の比は頻に通じ、しわをよせるの意味。しわのある通気口の形をした人体の「へそ」の意味を表す。また比に通じたすけるの意味を表すと載っている。
これだけでは、どうして臍が通気口で、人を助けるのか理解出来ないだろう。処が、私には、この事が良く理解出来るのである。私は、屋久島で修業をして悟ったら、臍が通気口と成り、全地球のエネルギー体の情報が出入りする様に成ったのである。俗に言う処の、丹田が開いたのである。
ですから、初対面の人に出会うと、その人の先祖代々の「カルマ(先祖の因縁)」が、全て、私の臍を通して丹田に吸い込まれるのである。だから、私は、初対面でカルマの強い人に会うと、丹田が膨張して痛むので、直ぐ焼酎の温割を飲んで、腹を温め散らす様にしている。
特に、カルマ・業が強い人に会うと、一週間程それが続いたりする事が有る。古代の人々は、その事が理解されていたので「毘」の文字を創ったのであろう。
現代の人々は、他人に会ったり、他人様の家を訪れる時に、自分の心身の禊をしてから出発する人は少ない。全どの人が、自分が他人のカルマを吸って助ける事をしていないので、自分が他人にカルマを押し着けている事が分からないのだろう。
天皇が、民に会う時に、御簾の中に居て、直接に気が通じる事を避けているのも、この理が理由なのであろうと想われる。
「資」のたすけるは、金品で助ける事で、「祐」は神の助けであり「扶」は男手の助である。
「相」のたすけるは、物事をくわしく見るの意味で、宰相に使用されている。宰相とは、君主を助け、政治を統べる官。大臣の事である。国の事情を能く、詳しく見る事で、君主を助けるのである。現代の世の中は、「相」をしっかりと出来る人が居なく成って来ている。
全体的に、現代人は自分の利己心を満足さす事に精一杯で、他人を助ける事や、社会を救う余裕が無い様で残念である。
人間は、此の世に産れて来た時、お母さんと繋がっていた「へそ」は、臍(セイ)の漢字を使用している。斉は、ととのうの意味だが、日本では「ものいみ」の意味に使っている。斉(セイ)から斎(サイ)と変化し、斎王や斎宮に使用される。
人間は、もっと自分の「へそ」を大事にし、禊をして、世の助人と成らなければならないのではないだろうか。
平成13年10月17日
礒邉自適
2001/10/13
車社会の弊害
13・10・13
「六根清浄・ろっこんしょうじょう」と言う言葉が、仏教用語に有りますが、其れは「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六つの感覚を、浄化する事の意味です。
此の六つの知覚器官は、色々な物事を認識する拠り所(根本)と成るので「六根」と言います。
神道では、此の六根を清浄する事を「禊ぎ祓い」と言います。
何故、其の事が必要かと言と、人間社会は欲望の渦中に在るので、社会の中で生活していると、知らず知らずの内に、その渦に巻き込まれて、自分の意識は物や金や愛欲の世界に、溺れてしまうからです。
その一番の対象が、テレビ番組のコマーシャルです。
テレビは、人間社会の欲望を、茶の間に送り込んで来ます。
人間が、我が家に静かに居ると、経済が動きません。
ですから、外に遊びに出たり、買物をする様に仕向ける戦略が、テレビのコマーシャルなのです。
中には、お寺や神社のコマーシャルも有りますので、宗教も、商売の世界に落ち入っている事が分かります。
それで、一番問題だと想えるのが、車社会です。
人間は、車が無い時代は歩いて旅をしていました。
四国八十八ヵ所巡りも、本来は歩いての旅です。
自分の住む、村や、町と、家庭、仕事から、自由の身と成って、自然の中を何10日も掛けて歩いて旅をする。
その事は、六根の清浄に繋がるものでした。
旅に出る事は、自分が自由に成る事であり、太陽や月、星と語り、鳥や花と戯れて、大自然と自分の絆を強くするものです。
その世界が、松尾芭蕉や種田山頭火などの俳人の世界です。
今、四国八十八ヵ所遍路が、静かなブームだと言われていますが、それは現代社会の歪みが、産み出した現象でしょう。
世の中が余りにも、物や金の経済中心に成った為に、疑問を持ったり、悩みを抱えた人々が救いを求めて、四国へやって来ております。
その中の何人が、真実に覚醒するかは分かりませんが、悪い現象ではないでしょう。
しかし、其れでは、根本的な解決方法には成らないと考えます。
と言うのは、現代の社会は、人間が部屋で静かにしている事は、正しいと認識されず、スポーツに出掛けたり、世界旅行に出向いて物見遊山をして、買物をしたりする事が良い事だと、国を上げて奨励しているからです。
国民も、その事に疑いを持ちません。
皆が、自分は将来が不安で、お金を使わなくても、他人が消費する事を願っております。其れは、何故なのでしょうか。
私は、それは、テレビの影響も多大ですが、車社会に成った事が、一番の原因ではないかと意います。
歩いて行くのであれば、人間は難儀なので、遠くに行こうとは想いません。
ですから、そうなれば、デパートやスーパーなどの大型店舗は、成り立たないでしょう。
都会では、電車やバスが有りますが、これも車の延長線上にあります。
レストランに出向くのも、交通が便利で、歩かないで済むからでしょう。
この様に、車世界が発達した為に、人々は、家や村から都会・まち出始めたのです。
それで、人間の意識はどうなったかと言うと、精神の根本の処が、静かに立たずむ事が、無く成ってしまったのです。
静かに、自分を見詰める事が無く成ったので、絶えず、自分を動かし続けて居なければ、心が落ち着かないのです。
乗り物に乗れば、座って自分が動かなくても、周囲が移り変って行きます。
歩く時は、周囲は動かなくても、動いているのは、自分自身です。
ですから、自分で歩く時は、自覚が出来ますが、乗り物に乗っている時は、自覚が自分直接のものとは成っていないのです。
つまり、現象に対して無自覚に落ち入るので、受動的で、無責任に成って行くのです。
其れで、無意識に、全ては他人の所為であり、社会の所為なのだと、想ってしまいます。
「自分の責任に於いて 社会が有るのだ」との、自覚が起きないのです。
車に乗って、出掛けて行き、レストランやデパートで金を払う事に因って、従業員が相手をしてくれて、頭を下げます。
その相手の態度で、自分の存在を感じ、優越心を満足させる事が出来ます。
景気が悪く成り、その事が意う様に出来なく成ると、人々は不安を覚えます。その現象が、現在の世の中の有り様です。
車が増え、道路が整備される事で、日本列島の山村は過疎に成りました。
過疎に成り、若者が居なく成ると、子供も産れなく成りますので、学校も廃校に成り、商店が成り立たなく成り、増々不便に成ります。
其の悪循環に落ち入り、其の為に、村が立ち行かなく成るのです。
日本の家庭は、大多数の家に仏壇が有りますが、仏壇は、仏教の教えに因るもので、仏教とは、インドに産れた釈迦牟尼佛の教えの事です。
釈迦の教えの中に、法華経が有り、その経典の内容に十二因縁の教えが有ります。
其れは、六根を12の因縁に順序立てて説明をしてあります。
6段階で六根が汚れ、それを清浄するには、逆に6段階で六根を捨て去るのです。六根の汚れる原因は、行く事で認識作用が起きて、眼・耳・鼻・舌・身・意・が働くからだと言うのです。
ですから、仏教の禅宗では、行く事を止めて座禅を行います。
座禅をして、六根の記憶を忘れ去るのです。
「法華経の12因縁起」http://wave.ap.teacup.com/20060106/332.html
釈迦牟尼仏は、自分と弟子の生活は、布施を受ける事で、成り立たせておりました。六根を清め、悟るには、自分自身で生活の方法を立てると、六根を止める分けには行きません。
その為に、悟りを求める者には出家する事を勧めました。
家を出て、精神の旅をさせるのですが、其れは、物見遊山の旅ではありません。物を見ない、六根を動かさない旅なのです。
其の事が、寺院や神社の経営者には、実行出来ないのです。
車に乗って動き回る文化・文明が、心に与える影響を、今一度、考えて見る必要性を感じるこの頃です。
平成13年10月13日
礒邉自適
2001/10/1
人の成せる業(わざ)
13・10・
今日は、全ての事を終えて、耕し終った畑を見て居る様な、姿の私を感じている。
福岡の知り合いより、宮沢賢治に関する本や、CD・季刊誌等が郵便で届いて、其のCDの音楽を聴いて居ると、想いは深く落ちて、何処かに行ってしまいそうである。
其の心を止め様として、ペンを手にすると、「人の成せる業」との言葉が出て来た。
今は、私には、何の実力と言う様なものも無く、勿論、金も家族も無い、殉教者の様な気持ちに成って来ている。
是も、宮沢賢治の持つ雰囲気の所為だろう。
私は、宮沢賢治はあまり好きではない。
何故なら、賢治の事を思うと、自分との区別が、無く成ってしまいそうだからである。
よく見掛ける賢治の写真の姿が、余りにも寂しく、悲しくて、私は其の世界に、引き込まれそうに成るからである。
野に立つ、黒いオーバーコート姿は、毎夜 夢に出て来そうである。
私が、百姓の所為もあるだろうが、18年間の旅が、すっかり人を想う癖を、強めてしまったからである。
いまは、私の住む谷間は、夕暮れが迫っている。
是で、隣家で山羊でも「メ〜 」と啼こうものなら、其れはもう一遍に、寂しさは完成するだろう。
これ等の世界も、人間が勝手に創り出す世界であろう。
自然の生物には、其れ等の感情は無いと思われる。
只 生きる為に、日々を過ごしている物と、言葉を創り出して、其の内で身悶える人間との差は、何であろうか。
此の心の在り様は 過去に生きた人々の、霊的な積み重ねなのだろうか。
宮沢賢治が長生きをしたら、悲しみの無い世界が、出来たのであろうか。
人間が どれだけの事が出来るのか、私には 是から其れが 確かめられるのであろうか。
平成13年10月頃の夕暮れ時
礒邉自適
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