2001/8/30
考察
13・8・30
「考察」とは、物事を明らかにする為に、良く調べて考えることの意味ですが、調べる側の立場が問題です。
考察する人の物差しが間違っていれば、その調べた事も間違ってしまいます。
現代の世の中では、この考察をしている人の立場や能力が、問題なのです。
情報が正しいのか、間違っているのか、考察者を選ぶ人の、考察力が問題なのです。
考察の「考・コウ」は、老人の意味で、「老人の考え・年とっているが 人生体験が抱負で 知恵が有る」の意味ですから、人生体験が豊かな人がつまびらかにする、明らかにするの意味です。
「察・サツ」の文字は、家の中で神をまつり、神の心をはっきりさせるの意味ですから、神の心をはっきりさせるのは、知恵有る老人の意味なのです。
だからと言って、無意味に人生を送り、歳を重ねても体験が少なく、何の洞察力の無い者は、考察者としての資格は有りません。
特に現代では、学校の教育だけ済ませて、社会の中核の位置に座っている人が多いので、考察力が有るとは言えません。
昔は、男も、女も、其々の立場で生きる体験を積んでいたので、社会全体の考察力は、高い位置に有りました。
処が現代では、民間レベルのテレビ番組で、三面記事的内容が休みなく放送され、人間の洞察力は地に落ちてしまいました。
政治の世界は、特にその弊害が大きく、正しき道を歩いている者は、票が集まらずに落選し、国民として、実に恥かしいレベルの人が、政治の世界を動かしています。
今や、日本社会全体のレベルが落ちて、何を見て良いのか、全く分からない時代となりました。
古代の社会の様に、其々が、独自に自然の中で生活していた時は、良かったのですが、数名の人の指示で、国全体が動かされる様な現代社会では、人の上に立つ者の考察力が、一番の問題であります。
私達が、いま一番気を付けて見なければならない事は、社会を良く導く人は果たして誰なのか、正しく物事を見詰め、神の御心を知る事が出来るのは、誰なのかを、良く見極める事です。
情報社会に成れば、社会の中心に在る人の、一言一句が非常に大事です。
選ぶ人も、選ばれる人も、自分が、何をどう言う風に見ているのかの自覚が、大事です。
「考察」の意味を、今一度、肝に命じなければならない時を、迎えたと言えるでしょう。
平成13年8月30日
礒邉自適
2001/8/30
新しい地球
13・8・30
地球が「ガイア(Gaia)」と呼ばれだして、10数年経ったと思われる。
ガイアとは、ギリシャ神話で大地の女神の意味らしい。
アメリカ‐インディアンの人達も、大地の神を母として崇めている。
大地とか、地球に、神としての意識が存在すると信じる人達が、どのくらい世界には居るのだろうか。
世界中を見回すと、地球とか大地とかの対象よりも、山岳を信仰する民族の方が多いだろう。
山岳も、地球の一部だから、あまり差が無いかも知れないが、人間の意識が、具体的に成れば成る程、祈りの対象は段々と小さくなり、最後は、胸に下げるペンダントにまで小さく成ってしまう。
一番大きな対象は、宇宙の外側の無極という、何も存在しない、果てしない闇の世界である。その名前は「玄」である。
玄から、ペンダント迄、実に様々な祈りの対象・意識の的が存在する。
現代社会の中で、一番力の有る対象は「マネー・お金」である。
現在の世の中は、お金の為なら、地球を破壊してもかまわないと言う人々が、大多数の様な気がする。
此の、お金の為なら地球を壊しても良い。
自分の体が、病気に成ってもかまわない。
家庭が壊れるのも仕方が無いとして、人間が生きている社会を、古い社会として考えれば、「新しい社会」とは、其の反対側に有ると考えると、簡単に区別できる。
反対の社会とは、地球を大事にし、自分を大切にし、家庭の安定と安らぎを、大事に考える人達の世の中と成る。
天や、神様は、そんな人間社会を望んでいる。
其の理に気付き、人々を導く事を始めたのが、釈迦牟尼仏であり、イエスキリストである。
だから、新しい地球とは、仏陀やキリストが増える事が、一番大事な事である。
現在の世の中は、寺院に行っても仏陀は実在しないし、教会に行ってもキリストは実在しない。
寺院では、釈迦が禁止した偶像崇拝をしているし、教会に行ってもイエスが禁止した、「集団で祈ってはいけない」「人前で祈ってはいけない」「同じ言葉を繰り返してはいけない」「建物には神(天の父)は住まない」と訓えた事に、違反している。
これ等の事も、いいかげんに卒業しなければ成らないのだ。
釈迦や、イエスの望んだ世界が、新しい世界である。
現代社会の有り様は、イエスの生きた2000年前や、釈迦の生きた2600年前の時代とは、文明文化は格段の差がある。
今や情報は、時間差が無い程のスピードで、世界中を飛び交い、情報の内容も宇宙の真理に近付いて来た。
釈迦やイエスの説明したかった事が、確かな言葉や、数字、理論、映像なので、具体的に示される様に成って来たのである。
2600年の「無明(真理の無い)」の世界から、自覚の世界・光明遍照(びるしゃな)の世へと移るのである。
現代社会には、あらゆる情報が満ち溢れている。
中には、必要の無い情報も沢山有るが、真理は無限に解かれている。
後は、情報の交通整理をすれば良いのだ。
数日前、NHKのテレビ番組で、コンピューター社会の事を取り上げていた。その中に、アメリカの地球外生命を調べている人には、世界中から300万人の人達がパソコンを使って、ボランティアをしているとの事。
その事からも分かる様に、世界中の人間が「宇宙の真理(人間は何の為に存在するか)」の、大きなテーマに取り組む事は、容易である事が示されている。
人間は、何の為に存在するのか、これは大きなテーマだが、一番身近なテーマでもある。
私達が、本当の幸福を得ようとすれば、このテーマを解するしか、他に解決法はないのである。
その事が、全て明らかにされるのが21世紀の世である。
問題解決は、身近に有るのだ。
後は、其の事に一歩近付く事だけである。
その為の活動機関を「みどりの会」として、数百万のマイトレイヤー(有情の菩薩)の参加を望んでいる。
「弥勒菩薩・マイトレイヤー」とは、「有情」の意味である。
有情の菩薩が現れる世とは、どんな世の中なのだろうか。
其れは、世界中の人々が、真実の情報を持ち寄り、智慧の世界を完成する事である。各人が持っている一個のソフトコンピューターが、世界の情報を動かせる世の中と成って来た。
一個の、中心的コンピューターが決定すれば、後は 100匹目の猿現象である。
みどりの会のネットワークは、参加者全員が動きの中心に成れるのだ。
過去の、ピラミッド型社会は終り、全てが友達の横繋がりの、結び着きの世の中となる。
その有情の菩薩達の、第一回の集いが2001年9月2日に岡山で開かれる。
事務局は、望んだ者が、自分の住所で出来るのだ。
それは、ヒマラヤの頂上でさえ、パソコン一台有れば出来る事なのだ。
ようやく、神は、地球上に支配者の居ない世界を創造しようとしている。
其れ等を管理出来るのは、唯一の神・宇宙意識だけである。
いまと言う時代は、その神の目(意)が証らかにされる時節を、迎えたと言えよう。
もう、ペンダントも数珠も必要ないし、神社の鏡もお役目が済んでいる。
自分の意識が、自分の目を使って、自分の内の神が見える様に成ったのだ。
毎日の写真や、ビデオカメラに写る自分は、神の変化の姿である。
是からは、皆が、自分の内の、コスミックダンスを見詰める時代へと、進んで行くだろう。その、自分の生命のダンスの舞台が、この地球なのだ。
誰でも、自分の舞う舞台は、花で飾り着けをするだろう。
まさか、ゴミで自分のダンスの舞台を飾る人は居ないだろう。
人生の舞台、それがこの宇宙船地球号なのだ。
世界は、命が花開く時節を迎えている。
佛の台座である蓮華は、もう直ぐ、その花弁を全開にする。
2001年8月30日
礒邉自適
2001/8/30
木霊・きたま
13・8・30
私は、世界自然遺産に登録された、縄文杉で有名な「屋久島」で産れ育ちました。
屋久島は、屋久杉で有名ですが、その屋久杉を伐る様に成ったのは、屋久島の安房に生れた「泊如竹」と言う人が、屋久杉を切って産業とする事を、島民に勧めたからだと云われています。
泊如竹は、1570年安房の生れで、1630年に帰郷したとありますので、「1630年・寛永7年」以後に、屋久杉の伐採は始まったものと想われます。
屋久島の島民は、其れまでは、屋久杉は神の宿る木として、恐れて伐る事はしなかったらしいのです。
泊如竹は、5歳の時に屋久島を出て、偉い人に成って屋久島に帰って来て、島の人達の信奉を得ました。
出身地である安房には、山の谷川から、村落まで水路を引いて、村民の生活を便利にしたので「如竹堀」と言う名の堀の後が、現在でも残っています。
また泊如竹は、島民の貧しさを見て、屋久杉を切って、本土に送る事を考えました。
島民に、其の事を云うと、島民は「屋久杉を切ると 神様の罰を受ける」と云って、恐れて伐る事をしません。
如竹は、其処で一計を案じ、島民に云いました。
「では 斧を木に立て掛けて 一晩置きなさい。そして朝見に行って 斧が倒れていなければ 神が切っても良いとの応えだから。」と教えました。
その通りに島民がすると、斧は倒れていなかったそうです。
それから、屋久杉が切られて、本土が運ばれる様に成ったという事です。
其れだと、屋久杉が伐られる様に成って、370年程だと言う事に成ります。其れまで、屋久杉は神の住む木だったのです。
現在でも、神社に生えている大きな杉の木は「御神木・神籬」とされていますが、昔は神社の木だけではなく、山の木は、神の化身であり、森は、神の住む地だったのでしょう。
神社で唱える祝詞にも、「国津神・くにつかみは 高き山 低き山の 草木のカゲに住む。」と有りますので、山は神の棲む地とされていたのです。
私は、昭和22年(1947)1月29日に、屋久島安房の一番山手の矢本岳の麓で生れました。
だから、小さい時から、山に親しんで育ったと言えます。その所為か、木の傍に居ると気が落ち着くし、元気にも成る。
私が、今朝の文章の題を「木霊」としたのは、「木」は「気」の魂を持っていると、感じて居るからです。
そう感じる様に成ったのは、不思議な事に、私の夢に出て来た木が、現実に存在している事を発見したからです。
1997年8月23日と、9月11日に、京都に住んで居た私の夢に、大きな木が写って来ました。
其の立木は、二本とも、変った木の姿なので、手帳にスケッチを書いておきました。
そうしたら、 二ヶ月後の10月16日に広島市で開催したセミナーに島根県出雲の安部忠宏氏が参加し、其の縁で11月1日に京都から出雲の安部氏宅に引っ越す事に成り、6日に案内された安部宅の近く(雲南市下佐世)の「佐世神社」の境内に生えている木が、8月23日に京都で夢に出て来た木なのである。
そして、数日後、今度は安部氏が産れ育った、横田町の産土神の「伊賀多気神社」に行くと、何と9月11日に夢に出て来た木が、境内に生えているではないか。
どちらも、私は初めてお参りした神社なので、私は、初めて目にする木なのである。
一度も見た事の無い木が、夢に現れるのは、どうしてだろうか、不思議な事である。
不思議なので、両方の神社の謂われを調べると、両方の神社の祭神が「父子」である事が判明した。
佐世神社の木は、父神の「須佐之男尊」が植えた木で、現在の大きな幹は六代目の幹であり、伊賀多気神社の祭神は息子神で、「須佐之男尊」と「稲田姫」との間に生まれた子供で、次男の「五十猛(いそたける)の命」であり、この親子は、全国に木を植えて回った伝説の神なのである。
和歌山が、「木の国」と呼ばれる様に成ったのも、この父子の業績に因るものらしい。
私の夢に、二本の神社の木が現れたのは、この父子神のメッセージに、神社の木が使われたからだろう。
神社に、樹木が植えられ「神籬(ひもろぎ)」とされるのは、立木に霊が住み着く事が知られているからである。
2700年も昔に、生きて居た人達の霊魂が、木を通して、現代の人間にその存在を知らせ、何かのメッセージを伝えようとしているのだ。
私達人間の肉体年齢は、長く生きても120年だけれど、霊魂と成ってからは永遠のものらしい。
それは、木と言う長生きの生物を、依代・よりしろとして、存在するからなのであろう。
何故、此の私を選んで、父子神が現れたのか。
それは、私が、樹齢7000年と云われる屋久杉の生える屋久島で産れ、山岳で遊んで居たから、チャンネルを持っているからかも知れない。
木が古い程、神霊が古いのであれば、屋久島には、古代の霊が住んでいる事に成る。私の肉体は、その古い霊に使用されているのだろう。
何れにしても、時代を超え、地域を超えて、木を通じての、木霊の活躍は、現実のものと成って来ている様だ。
屋久杉を伐る事を、島民に勧めた「泊如竹翁」は、いま霊界で、どんな心境であろうか。
13年8月30日
礒邉自適
2001/8/29
トビラを開けるのに薬を使ってはいけない
13・8・29
今迄の自分を省・かえりみて、他人との違いを考えてみる。
私と、同じ様な理を謂っている人は、澤山在るだろう。
其の中には、本で読んで知り得た事を言っている人もいるし、何かの薬物を使用して、非日常の世界を覗き見て言っている人も居るだろう。
だが、私は、何等かの薬物も使用した事は無く、本で読んだ知識に影響されて修行をした分けでもない。
私は、屋久島の自然の中で育ち、屋久島で日常行なわれている、農林漁業の仕事に携わって生活して来たのである。
私は、第一次産業の中で育って来たので、極普通の生活様式の中で育った事に成る。だから、私の精神構造は、田舎の百性の意識が土台に成っている。
都会生れの人達の、知識を土台とする意識とは、根本的な処に違いが有るのだ。
東京生れであっても、50年程前、都心以外で産れ育った農家の人だったら、私とあまり違わないのかも知れないが、私の育った屋久島は、周囲130kmの島が、海抜2000mの高さに盛り上がっているので、景色や、吹いている風等は、随分異なるだろう。
私の頭には、それほど知識は詰まっていない。
テレビが着いたのも、18歳に成ろうかという時期なので、文化的にもさほど都会の文化には汚染されていないと想われる。
インドの釈迦は、王様の息子だったので、優秀な先生が何人も付いて教育を受けている。
だから、頭が空に成る迄、六年もの歳月が掛かっているが、悟った後は、その教育が土台に有るので、イエスよりは言葉も多いし、理論も整っている。
私の場合は、自分が体験を先に済ませて、その体験のあり様を、他人に説明する為に、後に知識を必要とし、釈迦牟尼仏や、老子や、イエスキリストの言葉を研究し始めたのである。
私の悟りの体験は、1983年3月18日に屋久島で無庵師匠に見出されて、翌1984年の3月5日から修行に入り、丸三ヶ月後の6月4日(旧暦5月5日)に自宅前の安房川にて、師の手に拠って「バプテスマ・禊ぎ祓い」を受け、大譲祭の儀式が行われ「神霊の思頼(みたまのふゆ)」が起きたのである。
3月5日から修行に入り、6月4日は丁度三ヵ月間である。
釈迦が、6年掛かった事を、中身はどうであれ、三ヵ月で通過した事に成った。
私は、釈迦と体験は同じでも、言葉や理論が未熟なので、学歴が高い人達には幼稚と受け取られるであろう。
体験した世界は、言葉に表現出来なければ、他の人へは情報は広がらない。
その分、私の中には、他人に伝えられない理が沢山残っている。
悟り・目覚めの旅は、其々が全部異なるので、他人の遣り方を学習・真似しない方が良いのだが、誰にも禊ぎ祓いは必要である。
釈迦牟尼佛や、イエスキリストも、日本の「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」も、水浴を済ませた処から、その世界が始まっている。
釈迦やイエスも、薬物を使用して、その世界に入って行けたわけではない。
水が、清めであり薬なのだ。
薬物を使用して、薬の力で見る世界は、悟りの世界と同じ現象を見るらしいが、それは、脳が見るだけの世界であり、個人の一人相撲で終り、宇宙の現れである、大自然の仕組の情報とは、直接の接触は起きない。
だから、その人の行動と、天の働き・道・ダルマ・の繋がりは起きないのだ。
「むすび・religion(リリジョン)」は起きないのである。
薬(ヘロインや大麻)を使用している人達は、その薬物自体に依存を起し、精神的完全な自立が出来なく成る。
悟りの条件は、本人の自立と自由にある。
人間社会から、完全に自立して、自由となり、意識の解放が起きた時に、ソレは起きるのである。
だから、薬に心が執われている間は、ソレは起きないのである。
大麻の、使用自由を唱えている人達が居るが、大麻草の利用は自由と成ったにしても、薬として使用する事は、自由でない方が良いだろう。
只でさえ、青少年の喫煙が増えて問題に成っている時代である。
人間の肺は、本来、酸素を取り入れる器官であり、二酸化炭素を取り入れる器官ではない。
だから、大麻等を喫煙する事は、根本の道に外れる行動なのである。
人間が、本当の幸福を得るには、真理に目覚める事しか無いのである。
その理を知って貰うのが、私の役目であり、天が、私を育て、此の世に送り出した目的でもある。
私は真理の証しとして、屋久島から人間社会に出されたのである。
「毘慮舎那仏」とは、「光輝く」と言う梵語「ビローチャナ」の当て字であり、光明遍照の仏の意味で、宇宙の真理其のモノを身体としている仏、密教では大日如来と訳す。とある。 (仏教いわく辞典)
私の肉体を、此処まで使って来た霊団の「神霊の思頼」は、何時完成を迎えるのか、私には分からないが、唯 云える事は、私が薬に依存していれば、霊魂達は希望を失って、天の偉大な事業は、失敗に終っていただろうと言う事だ。
今日迄、私を支えて下さった人達の為にも、薬物使用は全体に良くないと言って措こう。
其れが、神物に対する、エチケットではないだろうか。
平成13年8月29日
礒邉自適
2001/8/25
確かに私は在った
13・8・25
私に、「時・とき」を与え、開眼させたのは、私を捜し出した無庵師匠であるけれども、師が私を開けたのではなく、「トキ・時節」が私を運んでいるのである。其の同じ「トキ・時節(事象)」が、無庵師匠をも、私の所に運んで来たのである。
私が、小さい時から夢を見て、夢だと思っていた事は、本当は、現実の前触れであり、夢は予知夢だったのである。
小さい時から視ていた夢が、私の潜在意識に残って、私の行動に影響を与えて来ていたのだ。
潜在意識から来る夢は、其の人に疑似体験として記憶され、実際の行動を、疑似体験の方向へ運んでしまう。
人間は、初めての場よりは、一度体験した方向の方が安心できるので、不安なトキは、疑似体験のある場の方へ、身を置こうとするのである。
いま、私の人生を振り返って見てみると、過去に視た夢が、現実化して来ている事が理解できる。
では、何故、夢が現実化するのか。
其れは、私の夢が、私の欲望から出る夢ではなく、潜在意識から生じていた夢だからである。
潜在意識は、宇宙の永遠の時を、その内に含んでいるので、人間は宇宙の仕組みの内に存在している事になる。
だから、潜在意識から来る夢は、宇宙の時空の成長と繋がっているのだ。
宇宙の、成長の芽が、私の夢の中に現れていたのである。
其の芽に、名を付けたのが、日本の神の名である「産し 葦かび ひこじの神」の名前だろう。
空間の拡がりの中にある、歪みの中に、エネルギーが凝固して捩じ曲がり、葦の芽の様に曲がった芽が、現れて出てくる様に見えるのだ。
其の芽が、人間の意識の始まりなのだ。
その動きが、生命の誕生時に卵細胞から始まって、細胞分裂の途中、目が出来る時に生じてくる。
其の意識は、両方の目に起こるのではなく、両目の神経細胞の束の根本に現れるのだ。
其れが、第三の目と呼ばれている意識の核である。
其の核にまで、意識が溯ったときに、自分の永遠性と輪廻転生の循環に気づくのだ。
釈迦牟尼仏や、イエスキリスト等の聖者達は、其の次元まで時空を辿ったのだ。そして、自分は、永遠の昔から存在していた理・ことを理解したのである。
其れが、仏教で言う処の「解脱」であり、宗教の言葉の元「リリジョン・帰命」の状態である。
「宗教」の単語は、出来てから未だ130年しか経っていない。
其れまでは、日本の宗教の世界は「かんながらの道」と呼ばれ、「むすび・注連縄」の行事として伝えられてきた。
自分の内に、神と結ばれている「わたし」を実感するのが、山岳の森の中に有る清水の流れる場所で行われていた、禊ぎ祓いの儀式なのである。
その儀式が成功すれば、時間と空間が融合し、自分も、その中に確かに存在し、時間と空間の概念は消え去り、全ては自分であり、他の一切は消えている。
「事象・トキ」其のモノが自分であり、この宇宙は、己が成り立てた物である理が実感されるのである。
自分は、確かに、この世の初めから存在し、そして「永遠なのだ」と気付くのである。
其れは、仏陀と成った釈迦が「目覚めた」と謂い、イエスキリストが「永遠の命」と謂った世界である。
今や、新しい次元が動き出したのだ。
既に、新しい「アカシックレコード」の針は、新しい記憶を刻もうとしている。
平成13年8月25日
礒邉自適
2001/8/11
戦後最大の危機
13・8・11
参議院議員選挙は、自民党の勝利に終り、小泉内閣は指示されたかに見えるが、何等具体的な政策は示されてはいない。
小々予算を弄ったくらいでは、根本的な変革は起きない。
経済・経営に使われる「経」の漢字は、機織り機の象形で「縦糸と通す」の意味である。縦糸を通さない限り、新しい道筋は開かない。
都会中心で動いて来た、戦後の経済や教育は、地方の価値観やエネルギーを喪失させてしまった。
都市が発展し、地方経済を支えて来た是までの在り方が、都市が其の力を失い、地方まで巻き込んでの崩壊へと向かっている今日である。
山中に住む一庶人が、心痛を感じる迄に、政治や教育のレベルを下げてしまった。
国家の安定は、都会の変革の嵐を地方が吸収し、其の荒波をさざ波として、消してくれる事で保たれて来たのである。
今回の危機的状況は、其の地方が最早、地方独特の力を発揮できない処にある。
其の原因は、@地方の人材の都会への流失。
A山里から、富を産み出していたが、其のエネルギーが最早無い。
B若者の意識が、山野を愛し、地方の文化を継承し、共同体を維持する気持ちを失っている。
C農業協同組合の役割が、発足当時とは環境が変化した事で、本来の目的から外れてしまっている。
以上の様な原因が重なり、農家自身では変革が出来ない状態に陥っている。
国力を高める為には、地方の活力を高め、失われた人材を見出し、教育し、励ます事である。
其の為の国策が、実行されなければ成らない時が来ている。
現在の状況を救う方法として、一つの提案を行いたい。
経済の花形として、此処数年経済を支えて来たI・T産業が、今夏散り去ろうとしている。
此の、最後の手段であるI・Tの花が散ってしまえば、其のショックで日本経済、否、世界の経済までが失速し、日本発の世界恐慌さえ起きかねない様相を見せて来た。
此の危機を救い、地方に新しいエネルギーを注ぐ為に、次の事を実行して見ては如何なものであろうか。
@ I・Tブームで、大量に生産されたパソコン等を、農林水産業に無料で配布し、新しい生産体制及び流通体制を確立し、地方に新しい息吹を送り込む事である。
A 今回の政府の予算は、削減予算であり新規予算は組めないが、幸いウルグアイランド(ガット)の予算が、一兆円残っていると聞くので、其れを充てる。
利点。
・参加する各戸を明確に登録する事で、新しい全国ネットワークが出来上がる。
・新しい技術や情報が交換され、進歩が早まる。
・環境を重視した取り組みが促進される。
・I・T 産業を一時的にも救済する事で、株価を支え次の枠組みへと進める。
等の事が考えられるが、最大の課題は、国策と言えども、民間が動かなければ、新しい社会構造の発足までには至らない。
民間に、強力な推進機能を確立する事が、重要である。
企画・運営・推進・機能は、別紙に示す事にする。
平成13年8月11日
天地根元の霊処
礒邉自適
2001/8/7
悟りとは光りの速度を超える事
13・8・7
悟りとは、釈迦牟尼仏より始まった感が有りますが、其れは、古代から有る価値観です。
日本では、「禊ぎ祓い」をすれば「悟れる・神とむすばれる」として、古代より其の理は伝わって来ました。
「悟り」の事を一口に説明すれば、「光の速度を越えて 時間と空間(物質の存在)から 自由になる」理です。
人間は、光に拠って、視覚で「もの・現象」を見て、名前や、形態を認識し、情報を組み込んで成長します。
「三歳(みつご)の脳(たましい) 百歳まで」との諺が有る様に、三歳の時に記憶した情報は、脳のイメージの基盤に成って、死ぬ迄、残像すると言う理・ことを、其の諺は言い表しています。
是を、反対に捉えると、人間は三歳頃より、脳の情報が染みと成り、死ぬ迄、其の記憶が取れないと言う理・ことになります。
だから、人間は、光で見える世界の次元の情報に、拘束されてしまっていると言う事になります。
仏教では、瞑想をして悟る方法が有りますが、其れは光の世界、目で見える世界から、離れる為の方法の一つです。
有名な般若心経に「色即是空」と有りますが、それは光で目に見える色(物)の世界が、本当は無いのだとの教えです。
其れは、本来は「何も無い」のだと言う価値観を持つ事で、光に拘束されている意識・世界から、切り離れる方法なのです。
光の世界から、離れる事に成功すると、それを「解脱」した、「悟った」と言います。
悟った人を、「仏陀・ブッダ」と呼び、その事を仏に成った、成仏したと言います。
「成仏・じょうぶつ」とは、死んだ人を言うのではなく、生きている内に、光の速度を超えて、宇宙の真理(ビルシャナ)に到達し、宇宙の真実に気付いた人の事を言うのです。
執着を離れる、捨てるとは、光の速度の世界を離れる理・ことです。
光の速度を超えて自由に成ると、自分の意識は、光が生まれ、活動する世界を、客観的に見る事が出来る様になります。
其の事を「観音力」と言い、其れが出来ている人を「観音菩薩・観自在菩薩」と言います。
悟った人は、目に見える此の世界の現象に、振り回される事が無くなりますので、静寂な境地に至ります。それを「菩提・ぼだい」と言います。
「菩提達磨・ボーディダルマ」とは、悟った達磨さん、静かに座っている達磨さんの姿を言います。
宇宙には、目で見える世界よりも、大きな情報の世界が存在します。
その情報のことを、釈迦は「縁・えん」と謂っています。
日本の神社では、その情報の結び付きを「注連縄」として表現して、「神むすび」と言っています。
「阿弥陀仏」のアミダは「アミターバ(無量光仏)・アミターユス(無量寿仏)」で「人間には 計りしれない光・壽」と言う意味です。
此の宇宙には、光より速い情報の世界があるのです。
光は、前に進むだけで、後戻りは出来ません。
ですから、過去へは、光の速度では行けない理・ことになります。
光の速度を超えると、情報の記憶の世界は自由ですので、過去にも行くことが出来ます。
「行く」と言う言葉は正確ではありませんが、テレビのスイッチを入れると絵や音声が出てくるように、情報がやってくるのです。
電波は、何時もそこに存在しますが、受け取る側のスイッチが入らなければ、情報を受け取る事は出来ません。
テレビと違うのは、仏に成るための受信機は、チャンネルが自由なので、目盛りがありません。
フリーパスですので、数字を合わす事が出来ないのです。
だから、そう成る為には、自分のチャンネルを開放しなければならないのです。
悟った人は、拘りが無く成るので、チャンネルが必要ではなくなりますので、俗に言う「阿房・アホ」の顔になります。
仏になった人自体には、決まった概念がありませんから、部外者が何かの条件を付けようとしても「糠に釘」で、一向に埒・らちが明かない事になります。それを「悟った人は もう 誰も 条件付けが 出来ない」と、言い現します。
普通の人々の価値観は、光の速度の内側に在りますので、その知識では、光の速度の外側の人間は計れないのです。
光の中に居る人は、光が生れる様子を見る事は出来ません。
光の外側が、神の世界であり、私達の肉体が住む世界は、内側の光の世界です。
現在の宇宙は、誕生して138億年くらいです。
だから、私達の肉体は138億歳なのです。
そして、生命を持った有機体としては38億歳くらいと言われています。
其の有機体である微生物が、二酸化炭素を食べはじめて32億年程経っています。
そして、二酸化炭素を食べて、代わりに酸素を吐き出した為に、27億年前から空気中に酸素が増えて、空が青く晴れて来ました。
そして、炭酸同化作用をする植物が大発生して来たのです。
我々動物は、現在酸素を食べる体に成っていますが、植物はいまだに二酸化炭素を食べています。
人間の身体は、60%以上が水で出来ていますので、肉体は個体と言うより液体に近いのです。ですから、水が一番大事なのです。
水は、HH+0ですので、水素が2個と、酸素が1個の組み合わせです。
水素が、宇宙で一番古い物質です。水素が集まって、ヘリウムと成って爆発する前には、光は有りません。
「光」の文字は、漢字で「火+人」の組み合わせで、人の上に火が有ると言う意味の象形です。
光は中国での読みは「コウ・クァワ」です。
日本語では「光・ひかり」ですので、日本語の意味だと「霊借り」なのではないでしょうか。「宇宙の霊を借りる」の方が、分かり易いかもしれません。
一般的には、ひかりは「ピカリ」と光るので、ピカリから来ていると云われてもいますが、定かではないようです。
「人・ジン・ニン」は「ひと」の日本語に使用しますが、「ひと」は「霊留・ひとどまる」の意味です。
昔の人達は、自分の中に霊が宿っていて、日(光)を借りて生活(認識)をしているのだと、感じていたのではないでしょうか。
宇宙は、全域が暗闇です。
夜だけの世界は、何も見えませんので、認識が起きないのでしょう。
ですから、日・陽を借りて、「ある」のだと言う考えになったのではないでしょうか。
太陽がなければ、地球生命は総て活動が出来なくなり、全生命は地球から居なくなります。
人間は、光の段階をいくつ認識しているのでしょうか。
宇宙誕生(例:ビッグバン)の光、太陽(水素、ヘリウム活動)、電気、雷、蝋燭、蛍、様々な光が存在します。
光は、人間の目に見える世界の表現です。
宇宙には、人間の目には見えない波長の世界が、無限に存在します。
その無限の波長(波動)の世界に触れることが、悟りの世界です。
悟りの世界は、宇宙の無限の波長に、自分自身がタッチして、影響を与える事が出来る世界です。
その理を、人類が理解出来る様に成る事が、21世紀の世界でしょう。
私にも出来たのだから、新しく地球に生れて来ている未来人には、可能なはずなのです。
私の役目は、その先達として在ることでしょう。
平成13年8月7日
礒邉自適