2001/7/26
目出度い 二
13・7・26
「目出度い」は、目が出た事を喜ぶ事だから、何かの目が出なければならない。
日本では、選挙に出馬して当選した時に、ダルマの置物に、目を書き入れる事が為されている。
それも、目が開く事で、世に出る意味と成っているのだろう。
日本の伝統として、長い間伝わっているのが「天皇家」の存在である。
其の天皇家の祖先として、天照大神が祭られているが、「天照大神」は「月読命」と共に、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」の目から、生まれ出た事になっている。
「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」が、小門の阿波岐原で禊ぎをした時に、右目から天照大神が、左目から月読の命が生まれ、鼻から須佐之男の命が生まれたとされている。
両目から、其々に神が生まれているのだ。これも、目から出た事に成り、目出度い事の一つではないだろうか。
此の、日本の神話からすると、目の働きは、太陽と月の二つの働きに分けられている事に成る。
「天照大神」は、太陽の神だから、昼の世界を治める働きで、目に見える世界であり、生物を育てる役目を表している。
「月読の命」は、夜の国を治めるとなっており、目に見えない働きを意味しているので、それは、海の潮の満ち引きや、女性の生理など、宇宙のリズムの理・ことを言っている様だ。
生物を育てる力や、宇宙のリズムの働きまでも、人間側に管理が任されているのは、何故なのだろうか。
もちろん、普通の人間に、その様な力が、当てがわれる事は無いだろう。
神の代理として、その力を当てがわれた「人(霊宿)」が、遣わされて来るのだ。その者が、「ラー」や「ルシフェル」の目として、「天照坐皇大御神御魂 ・あまてらしますすめおおみかみのみたま」の大役を、熟す・こなすのであろう。
エジプトの神「ラー」は、すんなり受け取り易いけれども、ルシフェルの方はカトリックの教えでは悪魔とされている。
しかし、私の知る処では、光の天使が、人類社会を管理する為に、地上に降りた姿だと解釈している。
文献には、日本の「天照大神」の別の名が「「撞賢木巖之御魂天疎向津毘賣命(つきさかきいづのみたまあまさかるむかつひのみこと)」と書かれている。
是を、私なりに捉えると、「調盛気稜威の御魂天降る向津日目の命」となり「宇宙の 中心的調和を熟知している働きの御魂は 天から降って 地上に坐して 太陽に向かって 宇宙の意志を受け取る 尊き者」と成り、ルシフェルの説明にも成る。
神の「御光座・おみくら」と言う事だろう。
「月さかき」とは、左目の働きで「月読み命」に当たり、「向津日目(霊目・ひめ)」とは、天照大神(おおひるめのむち)の働きの事で、二つの働きは本来イ「伊邪那岐命」の働きに内在する、一つの働きを元とするものであろう。
人間の思考は、分類して行く方が理解し易いので、宇宙の仕組みを、神々の名にして、細分化されて来たものと想われる。
我々は、本来一つであったものが、細分化された存在なので、その一部の処に、思考が縛られてしまっているのだ。
其れ等の事から解放されるには、一切の理屈を捨ててしまって、宇宙の始まりに意識を向けて、本来一つであった処の、光の中心の目に、焦点を合わすべきではないだろうか。
そうすれば、自ずと、自分たちは宇宙の中心に繋がっており、その中心の意識の目に、行き当たるものと想われる。
私は、私なりの旅の仕方で、宇宙の始まりへの旅をしてきた。
其れは、神社の奥の宮に祭られている、鏡の中を通り抜ける事を意味していた。
神社に、伝えられている「八咫の鏡」は、太陽の事を意味している。
太陽には、八咫烏(やたからす)が住んでいて、人間とのコミュニケーションの対象とされている。
その八咫烏が、神社の鳥居の上で貴方を待っているのだ。
そして、鳥居の横には、旅人に問い掛けをする、スフィンクスの「高麗獅子」が、旅人の心を見透かしている。
でも、心配は要らない、神社には御手洗が準備されている。
全ての、欲望・執着を御手洗の禊ぎにて、取り外しさえすれば、何時でも八咫烏には面会が出来るのだ。
八咫烏に会いさえすれば、人は皆「霊宿・ひと」に成り、神の目に接触できるのである。
只、神のお役に立てるかどうかは、その先の事だから、此処では述べない事にしておこう。
平成13年7月26日
礒邉自適
2001/7/24
目出度い
13・7・24
今日は、ホームページで紹介されている伊勢神宮の資料を見ていて、伊勢の奥宮と云われている、磯部町に在る「伊雑宮(いざわぐう・イソベさん)」の説明に、田植神事の事が載っており、最後の所に、お田植歌の歌詞が紹介されていた。
その歌詞の一番に「目出度(めでた)目出度」の後 「神田を植えて 躍り込むぞえ 宮様へ」が有る。その歌詞を読んでいて、私はその音霊で「めでた」とは、「天照坐皇大御神御魂 ・あまてらしますすめおおみかみのみたま」の中の「すめ大神のみたま」の「すめ」が、出る事だと感じたのである。
「すめ」とは、「澄み切った眼」の意味で「素目」と書いても良いだろう。
澄み切った眼とは、汚れの無い純真な眼の事で、曇りの無い、素晴らしい青空のイメージと、捉えて良いだろう。
「すめ」を持った人とは、禊ぎ払いが出来ており、邪心が一つも無い意識の人の事である。
邪心が無いとは、物欲や権力欲などの執着心が一つも無い理・ことで、仏教で言う精進が良くできている人の精神状態を言う。
意識に曇りが無ければ、眼から欲望の光が消えてしまうのだ。
例を挙げるなら、アメリカ映画の「E・T」の目も、それに当たるかも知れない。
監督である「スピルバーグ」の話では「E・T」の目は、詩人C.サンドバーグの顔写真の目を切り取って、使ったとの事。
詩人の目とは、神の目に一番近いのかも知れない。
詩人には、人を救わなければ成らないとか、世の中を良くしなければ成らないとかの人為も無く、只 自然を見詰めるだけなので、作為も表れ出ないのだろう。
「すめ大神のみたま」とは、この現象世界を、何の偏見も無く見据える、宇宙的意識の魂を持つ者の呼び名であろう。
人間は、何等かの人為を持って、行動する動物である。
其の人間の行動も、静かに見据えている大いなる目の主、それが「天照坐皇大御神御魂」の役割なのだと考えられる。
だからこそ、坐るの文字が使われているのだろう。
インド生まれの釈迦牟尼佛も、坐って民衆を見つめている仏像として、伝わっている。
インドでは、「転輪聖王(チャクラヴァルティラージャン)」として、現象界に表れる王の存在が伝えられている。
旧約聖書の「エホバ。ヤハエ。」も「有る時から 在るもの」の意味で、其の目はあらゆる現象を見通している目を、持つと伝えられている。
アメリカ国発行のドル札にも、その目は印刷されていて、その目は、ルシフェルの目と呼ばれ、エジプトではラーの目として伝わっている。
日本では、「何処に 行っても 御てんとう様と 米の飯はついて回る」と言う言葉が有る様に、太陽の光を通じて、現象世界であるこの世は、誰にも、平等に恩恵が与えられているのだとの考え方がある。
只、普通の人々は、日常の生活に追われていて、その神の目の働きには気付かずに、日々を過ごしているのだ。
それらの民衆に代わって、神の意識を受け取り、現象世界を見守り続けるのが「天照坐皇大御神御魂」の役割で、其れを継いでいるとされているのが、皇室の役割である。
その理を、表す言葉が「御稜威・みいつ」で、「坐皇大神・スメミマ」から発せられる波動として伝えられている。
御稜威を発する「スメミマ(大神の御神体)」の儀式が、宮中で秋に行われる新嘗祭であり、その元は奈良の石上神宮の祭りで、物部家に伝わる秘密の儀式である。
新嘗祭は、其の年に収穫された新しい米(みあえ)を食べて、神の意識を受け取る事が、儀式の意味である。
その祭りが、正しく行われた時、その王の意識は、宇宙意識(神の目)と成り、この現象世界を平和なものとする事が出来るのである。
「目出度い」とは、其の神の目が生まれ出る事を、古代から喜ぶ意味を、表す言葉なのであろう。
いま世界は、その目が現れ出る事を、大望しているのだ。
その事を、「メシア」とか「弥勒菩薩」とかの現れとして、考えているのだろう。
平成13年7月24日
礒邉自適
2001/7/21
グリーンクラブ
13・7・21
神が、人間に与えた最後のチャンス。
宇宙は、永遠に果てしない闇である。
空間とは、其の闇の中に現れた、有の世界の呼び名である理・ことは、良識の有る者なら誰でも知る処である。
我々地球人類が住む、此の地球と言う名の惑星は、其の宇宙空間の中に、粉粒の様に存在する小さな物にしかすぎない。
しかし、其の小さな星の上に、60億もの人間が住み、其れを生かし続けている、大自然の仕組みが有る。
其の仕組みは、全ての星に有る訳ではない。
現在、人類が確認出来る範囲には、一つも無いのである。其れだけ、此の地球は奇跡的な存在物なのである。
古代から、人類は其の事に気付いており、神に感謝を続けて来た。
其れが、現代社会では大多数の人々に忘れられ、大自然の仕組みは、破壊され続けているのである。
人間の體は、大自然が、永い時間を掛けて創り込んで来た物である。
其の人間の肉体に、魂しいが住む様に、地球にも、宇宙にも、魂しいは存在する。
其の魂しいの中で、一番大きな存在が、全体を管理する「神」と呼ばれているものである。
其れは、丁度、私達の肉体を管理し、働かしめている、自立神経の様なものであり、私達人間の意識が眠っていても、其れは、一秒の休みもなく働き続けている。
其の、宇宙で一番大きな働きが、人間社会に一つの魂しいを送り込んで来た。
其れが、グリーン-クラブのシルエットの「jiteki」だ。「Ji・ジィ」と言う名は、中国の老子の本名が「耳・ジ」であり、イエス-キリストの別名もジーザスである。
「ジィ」と言う音魂は、静かにして動かないの「ジィー」である。
日本人は、静かにして動かない時のサインは、口に指を当て「ジィー」と云う仕種をする。
其れは、身動きしてはいけない意味であり、勿論、言葉を出してもいけない時のものである。
「シィ」を強めた「ジィ」は、年老いた老人の呼び名でもある。
だから、「ジィ」と呼ばれる人物は、ジィーとして居て、行為の無い人物の事である。
だから、動かない人物は、捜しようが無い。
だから、其の者に会いたければ、会いたい者自身が、歩き出さなければならないのだ。
神の働きを、治ろしめる為には、其の旅人の為に、光の情報を、灯台として発信しなければならないだろう。
其の為には、グリーンクラブの事務局を立ち上げなければ成らない。
其れは、参加も、退会も自由であり、IT社会の中での最大の遊びの空間でもある。
2001年7月21日
グリーンクラブ発起人 礒邉自適
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