2001/6/28
神惟らの道は 他力でも自力でもない
13・6・28
彿教の考え方で、「南無阿弥陀仏」信仰は「他力本願」で、真言宗は「自力本願」だと一般的には言われているが、日本の古神道は「神惟ら」で、神の計画に添った生き方をする事である。
だから、日本の「神惟ら」の生き方は、他力とか自力とかの相対的価値判断ではない。
他力とか、自力とかに分けようとする考え方自体を、しない事が神道の捉え方である。
その為に、「禊ぎ祓い」と言う儀式を行って、自我意識を払拭するのだ。
自我意識を払拭すると言っても、普通の人には理解できないと想うが、3歳とか5歳くらいの子供には、自我意識が無いと言えるかもしれないので、其の様な子供の意識に成ると言う事である。
幼子の、食欲とか、親に甘える事は、本能であって、本人が考えての行動ではない。
其れは、猿などの生き物達と、同じレベルなのである。
人間の自我意識を、端的に言葉にすれば、「金銭感覚」とか「権力」とかの、人間社会における人為的な戦略や、方法論を考える事であろう。
其れは、人間社会で生きて行くには仕方のない事で、其れ自体は、別に悪い事ではない。
ただ言える事は、「人間社会は飽くまでも 人間だけの社会」であって、天地間の全生物に対しては、良い事とは言えないし、神の想いに添っているとも言えないのである。
寧ろ、その逆であって、人間社会が拡大されれば、自然環境は悪化するので、良い事とは言えない。
人間が、自力で頑張れば頑張る程、自然の状況は悪くなる一方である。
そうだからと言って、すべて他力と考えて、釈迦の様に、全ての人々が社会活動から外れてしまえば、社会機能は停止してしまい、人間は現代社会では生きていけなくなる。
其れは、イエス・キリストの様に生きても同じである。
問題は、人間社会と自然現象との不調和に、原因がある。
其の不調和を正す事が、聖職者の役割と言えよう。
現代社会の問題は、その聖職者が、神社や寺院の経営に、頭を悩ませている事だ。
その主な原因は、建物の維持管理と、其処に働く従業員の生活保持にある。
宗教システム自体が、人間社会に於ける会社事業と、同じ次元に陥ってしまっているのである。
其れは、他力とか、自力とかの話ではないし、最早「神惟らの道」とは程遠いものとなっている。
神惟らの道を進む者は、神社などに就職する事は出来ないし、釈迦の教えを実行する者も、寺院を建てたり、運営に携わったりする事は、出来ない筈である。
他力も、自力も、仏の道に通じる為の方法論であって、人間の暮らしに対しての考え方ではないようだ。
何れにしても、正しい神道や、沸教は、人間社会の仕組みの中においては、所詮、実行できない次元なのである。
其れは、大自然の中に身を置いてこそ、初めて体験できるものなのである。
平成13年6月28日
礒邉自適
2001/6/10
おがたまの木
13・6・10
日本の数多くの神社で、御神木として使用されている木は「榊木・さかき」だが、古い神社では「おがたま・小賀玉・招霊」の木が「御神木」として境内に植えられている。
小賀玉の木は、別名「臼の木・うすのき」とも呼ばれ、昔はこの木で餅を搗く臼を作っていたらしい。
出雲の「熊野大社」では、古くから、餅を神に供える行事が、毎年10月15日に続けられている。
出雲大社は、元々は「杵築大社・きつきたいしゃ」と呼ばれ、毎年、出雲大社で臼と杵で餅を搗き、熊野大社に10月15日にお供えに行くのである。
其の行事(亀太夫神事)が「受餅・うけもち」の儀式で、其の為に、食物の神の事を「保食(うけもち)の神」と呼ぶように成っている。
だから、何10年間に一回かは、臼を新しく取り替えなければならないので、その為に、境内に小賀玉の木が植えられたのかもしれない。
神社で儀式の舞の時に、御巫が持つ鈴の形は、小賀玉の木の実の形から出来たものとも云われている。
昔は、小賀玉の木は、神事には欠かす事が出来ない木であったのだろう。
現在では、石で出来た臼や、電気餅搗機で餅を搗く様になったので、小賀玉の木が植えられる事が無くなった。
小賀玉の木は、ヒビ割れがしなかったのであろう。
おがたまの木は、何か、他に使い道を捜さなければ、この世から消えてしまうかも知れない木である。
オガタマノキ(黄心樹・招霊木 学名:Michelia compressa)は、モクレン科オガタマノキ属の常緑高木。日本に自生するモクレン科では唯一の常緑樹である。別名オガタマ、トキワコブシ。
特徴
葉は倒卵状楕円形でやや肉厚の革質、表面には強い光沢がある。2 - 4月にかけて芳香の強い直径3cmの花冠が帯黄白色で基部がやや紅紫色を帯びた花を、枝の先端近くの葉腋につける。通常樹高は10 - 15mの高木であるが、樹齢数百年を閲した木には20m以上に達するものも少なくない。また、ミカドアゲハの食樹としても知られている。
分布と近縁種
日本列島の本州の関東中南部以西と四国の海岸部、九州の低地、南西諸島に分布し、原名変種は日本固有。八重山にはタイワンオガタマ(var. formosana Kanehira)があり、この種は台湾、フィリピンにも分布する。ただし、別種とする判断もある。
日本では中国原産のカラタネオガタマ(別名、トウオガタマ M. figo (Lour.) Sprengel)が栽培されることが多く、オガタマノキよりも出合う機会が増えている。
文化
和名は神道思想の「招霊」(おぎたま)から転化したもの。和歌、俳句の季語にも用いられる。黄心樹の字は本来誤用である。
日本神話においては天照大神の天岩戸隠れにおいて天岩戸の前で舞った天鈿女命が手にしていたとする説がある。榊の自生しない地域を中心に神前に供える玉串として古くから代用されたり、神木とされて神社の神域などに植栽されている例がみられる。
常陸宮正仁親王のお印であり、宮崎県高千穂町などが町のシンボルとしている。
蹴鞠やサッカーの神様として有名な京都市上京区の白峯神宮には樹齢800年のものがあり、京都市天然記念物に指定されている。
ウィキペディアフリー百科辞典
平成13年6月10日
礒邉自適
2001/6/3
6月3日
13・6・3
6月3日は、何かの節目に当たるらしい。
長崎県の雲仙岳の噴火で、30名の犠牲者が出たり、中国の天安門集会の弾圧で数多くの人々が殺されたりと、人間に関する事が起きているが、私にとっては、亡く成った妻「井上佳子(倭姫命の御魂)」との出会いの日でもあり、別に悪い日と言うわけでもない。
今朝の霊夢には、様々な事が映し出されて来た。
旧約聖書には、預言者が「自分はこの様な啓示を受けた。」と、数多く載っているので、私は、自分の行為が、同じ様な事だと思っているのだが、特に自信が有る分けではない。
何故かと言うと、啓示が有って、影響を受け、行動が変化すると、啓示とは違う結果に成ったりするからである。
今朝の霊夢には、30項目程の文字が書かれた文書が映って来て、其の項目を意識すると、映像が現れて来た。
其の一部を説明すると、白い綱が何本か、丸い形に曲げられており、神社の鳥居に掛けられている、注連縄の役目の様な意味合いを持っていると感じた。
次に現れた映像は、赤い火が燃えており、黒い煙が立ち昇っていた。
其れから、白っぽい茶色の大きなパンや、薬草茶、其れに、昔ながらの沢庵などが出て来てから、「供養院」との文字が映し出されて来た。
其れ等の映像が、何を意味しているのか、定かではない。
30項目の全様は掴めないのだが、映像の現れ方を考えると、神社の意味と、火の力、食べ物や薬草の意味などが示され、「供養院」との言葉が告げられて来ている。
其れは、神の社である人体を宮とする為に、人を集め、食を正し、精神を清めて、神の働きを助ける為の軍団を、用意せよとの事ではないだろうか。
他に、建物が現れ、案内をする人物が、「何10軒か建っているが コンクリートの建物で 窓も小さく風が通らないし 電気を澤山使用するので 此れでは駄目だ。」と言っていた。
新しき施設は、自然素材を使用して、風通りも良く、電気の消費も少なく、自然が豊かな場所でなければ成らないらしい。
レストランに行くと、テーブルの上のパンや料理は、昔風で良いのだけれども、其処に居る人物が無精髭を生やしており、奥さんと子供は、都会に逃げ出していて、奥さんが「何時でも 離婚して良い」と言っていると、寂しげに語っていた。
これ等の映像は、何を意味しているのだろうか。
食べ物は正しくても、女性が喜ばない生活では、男性の幸福も無いと言う事であろうか。
神の望む地上世界とは、人間が鳥や森の生き物の様に、雌雄が仲良く、楽しく、輝いて暮らす事に、あると言う事だろうか。
神が、「人間と 聖霊や先祖霊が共に支え合って生活し 魂しいが養える郷を 建設しなさい。」と、傳えて来ている様に想われてくる。
6月3日とは、吉と凶が、擦れ違う日なのであろうか。
其れならば、吉を掴まえて、離さない様にしなければ成らない。
其の為には、あらゆる手段を、講じなければ成らないだろう。
新しい郷の建設と、I・Tの情報ネットの確立。そして仲間を増やす為の、祭りの全国展開など、様々な方法が考えられる。
神の望を叶える為であれば、天も、全てのエネルギーを注ぎ込んでくれるものと、想われる。
平成13年6月3日
あべ未来研究所
礒邉自適
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