いづの目
13・4・16
「御稜威・みいつ」には、「いづの目」が関係ある。
「いづの目」とは、神の意識が、現世である現象界を見ている事を、人間が認識する為に考え出した、絵と言葉である。
エジプトでは「ラーの目」、日本では「いづの目」、ユダヤでは「ルシフェルの目」、ベトナムでは「一つ目の神」として伝えられてきた。
アメリカの1ドル札には、「ピラミッドの目」「石工(メーソン)の目」として描かれている。
日本の神話では、「天照大神」は生みの親である「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」の右目から生まれ、「月読の神」は左目から生まれたとされている。
伊邪那岐は男神で、対する女神は「伊邪那美命・いざなみのみこと」である。
「ナギ・凪」は時間の事で、「ナミ・波」は空間の広がり・波動の事である。
「ナギ・凪」は、存在そのままで、時間を支えている本体である。
「ナギ」からは、三体の神が誕生する。
「天照大神」は太陽の目であり、「月読神」は惑星・地球神の目である。
人間は、この両方の目を、内蔵している理・ことになる。
目を開けて、光の情報で見るのが太陽の意識「天照大神」の世界で、目を閉じて全身で宇宙を感じるのが、「月読命」の世界(波動、リズム)である。
ユダヤの神「ルシフェル」は、月読の神の目であり、エジプトの「ラー」の神は天照大神の目である。
日本では、「太陽の神」は伊勢内宮の祭神であり、皇室の神となっている。
月読神は、山形県の月山や、福岡県の壱岐島の「月読神社」に祭られている。
「月読神・調読命」は、波動の神・はたらきであるので「磐座の神」であり、
奈良県の「三輪神社」や、大分県の「宇佐八幡」其れに、滋賀県野洲町の「三上神社」の神は、岩山がご神体である。
その山の名は「巻向山・三室山」と呼ばれ、岩山から波動が渦巻いて出ている事を表している。
京都の「太秦・うずまさ」は、「族長」と言う意味を持ち、ルシフェルの目を持つ者を表している。
つまり、「いづの目」が見える者・覚者を族長として、社会を組み立てると言う事である。
古代の族長とは、権力を持たず、神に仕える司祭である。
現代でいえば、総理大臣や、神社庁長官の相談にのる人である。
「いづの目」が開いて、宇宙が見えると言うことは、「第三の目」と呼ばれている「松果体」の珪素が、宇宙全体の珪素(シリコン)と同調して、宇宙に蓄えられた情報が読みとれると言う理・ことである。
さらに、其の人間が考え、脳でイメージする「こと・理・内容」が、宇宙全体の情報に影響を与え、人間の活動と宇宙(神)の働きが、同調すると考えられてきた。
其れを証明したのが、世界の宗教の基となった人達、モーゼ、イエスキリスト、釈迦などである。
日本の文化も、是まで、神社を中心とする祭りや御神輿などに拠って、其れ等の理・ことを伝えてきた。
新しい目覚めの目を持った人が、現れる時節を迎えている。
「いづの目」を持った、「御稜威・みいつ」の働きをする人の登場を、期待したい。
平成13年4月16日
礒邉自適
「伊豆能売(いづのめ)」神道系新宗教では伊都能売神と表記することもある。神名の「イヅ」は「厳」で、斎み清めることを意味する。神名に「メ」とついていることから女神とされることもあるが、神話には性別を決定するような記述はなく、男神と考えられることもある。
神産みにおいて伊邪那岐命が黄泉から帰って来た際、黄泉の穢れから禍津日神が生まれた。その禍津日神がもたらす禍(災厄)を直すために、直毘神二柱(神直毘神、大直毘神)と伊豆能売が生まれたとしている。
『延喜式神名帳』には伊豆能売を祀ったと思われる出雲国出雲郡の「神魂伊豆之賣神社」が記載されており、同社は伊努神社に合祀されたとされているが、同社の祭神に伊豆能売の名はない。『延喜式神名帳』以外にこの神社について記載した史料はなく、伊豆能売を祀る神社は現存しないことになる。
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