自適随筆
私の思考だけで書いた文集
2001/1/31
「こころは物に拠って育つ」
故郷
こころは物に拠って育つ
13・1・31
人間が、若し肉体を持っていなかったとしたら、どうして「こころ(意)」を育てられようか。
肉体が有っても、大自然と言う、意識の向かう対象物が無ければ、どうしてこころを育てられようか。
人間に、若し、対象物を知る手段としての「五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)」がなければ、どうしてこころを育てられようか。
五感が有っても、対象と成る物(食物、音を発する物、自然の色など)がなければ、どうしてこころを育てられようか。
こうして見ると、自然と言う物質の世界が、安定して存在するからこそ、人間のこころ(意)が育つのだと理解出来る。
人間は、大自然の中で、650万年と言う途方もない時間を掛けて、特異な進化を遂げて来たのである。
そして、言葉を生み出し、大脳を発達させて来た。
今や、人間の大脳は、科学を発達させて、自然には存在しない様々な形や、色や、匂いを創り出している。
たとえ自然の中で暮らしていても、其処にテレビが一台有れば、都会の喧噪が容易く持ち込まれるのだ。
100年前の生活とは、全く違ってしまっている。
人のこころは、物に拠って育つと考えれば、今の子供達は、テレビやゲームで育っている理・ことに成る。
彼等のこころは、嘗ての様に、自然の中で、木や布などで手作りされた、玩具によって育つのではなく、テレビやゲームによって育てられているのだ。
今や、数百万年間、人間が接触して来た環境は、意識して求めなければ、得られなく成って来ているのである。
自然と人間との間に、様々な異物が入り込んでいるのである。
自然界には、有り得ない化学物質や、騒音や、空気汚染などで、昔の世界を体験出来ないのである。
もう日本には、自然その儘のこころを、宿している者は、誰も居なく成っているのかもしれない。
たとえ居たとしても、その人が、そうだと認める力を、誰も、持っていないのかもしれないのである。
平成13年1月31日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
2001/1/28
「一心同体」
精神に付いて
一心同体
13・1・28
「一心同体」とは、2人以上の人間が、心を1つにして力を合わせることです。
小は夫婦・家族から、大は国家に至るまで、心を合わせて打開しなければならない局面で、この言葉を使います。
辞典言泉では、「一心同体」とは「仏教では 宇宙万有の本体、真如。六波羅密の中の禅定のこと」と 紹介されています。
現代の社会状況は、混迷の最中に有り、真に心を1つにして国の将来を考え、皆で協力して、改革に取り組まなければならない時期に来ているのです。心を、1つにして協力すると言う事は、大きな船を出発させる事に似ていると想います。
穏やかな水路を行く小さな船なら、長い竿か櫓が1本有れば、たった1人でも間に合いますが、外洋に出て、明かり1つない夜間や、激しい嵐を越えて行かなければならない大きな客船になると、それ相当の乗組員が必要です。
船長をはじめ、大事なポジションには、その道のプロが当たらなければなりません。操舵士・機関士・レーダー係・無線係・調理員・医者・甲板員、其れに乗客の快適な旅をサポートする客室係や、各種インストラクター、さらに楽団まで乗り込まねばなりません。
これ等のうち一人でも欠けていると、船の航行や、快適な船上生活に影響が出ます。また、船の航行以前に、造船に係わる人達や、オーナーとなる人、港湾関係者、気象調査員など、考えれば膨大な広がりを持っています。これ等の、澤山の人の知恵と力が集結して、始めて航海が出来るのです。
現代は、情報化時代ですから、一隻の船が航海に成功すれば、後の船はどんどんそれに続きます。最初の船の航海が、全ての船の道標と成るのです。その意味で、最初の船の乗組員は、厳しく力量を問われる事になります。最初の乗組員には、一心同体の心が必要なのです。仏教でいう「宇宙万有の本体、真如」の心を、知らねばなりません。
この世界は、神の意志の現れであり、宇宙は「毘廬遮那仏(大日如来)」の本体です。その宇宙の本意を知るには、禅定の魂が必要であり、その魂を持つ者が船長と成って、船を導いて行かなければなりません。どんな危機が起きても、動揺する事無く、目的地に安全に入港しなければならないのです。
21世紀を創る船の船長は、人類全体の未来の舵取り役と言えるでしょう。
今度の、船出の船のオーナーは、神であり、船長以下乗組員一同は、皆「一心同体」を理解しなければならないのです。
出航の銅鑼は、まもなく鳴ります。
平成13年1月28日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
2001/1/26
「然・しかり」
言葉・文字に付いて
然(しかり)
13・1・26
「しかり」と言う言葉を、漢語林で調べてみると「兪・爾・然」と三文字ある。
「兪・ユ」は、丸木船が川を進む形で、すすむ、ますますという意味がある。
「爾・ヨ」は、美しく輝く花の象形で、美しく盛んな花という意味を表し、借りて二人称に用いるとある。
私が、気になっているのは「自然」と言う字に使われる「然・ゼン」の意味である。
漢語林では、「犬の肉を 火で焼く 意味」と有る。
「犬+肉+火」の組み合わせで、生贄として犬の肉を火で焼くの意味から、一般に燃やすの意味を表す。借りてしかり、而してなどの意味を表すと言うのである。
此れでは、「燃やす」と言う文字の説明にはなるが、「自然」という使い方は説明できない。
私達は「自然」と言う言葉から、森林や川や海、また空や山、生物達の生きた姿を思い描く。
殊に、屋久島の力強い自然の中で育った私は、なおさら漢語林の説明では納得できない。
そして、数日考えて居てハッと気付いた。
「然」に使われている「月」は「肉づき」ではなく、夜空に浮かぶお月様の「月」なのである。
そうすると「犬」は狼で、火の燃える様な赤い満月の夜、山頂で狼が月に向かって遠吠えしている姿が、思い浮かぶ。
こうなると、しっかりと「自然」が捉えられ、「しかり、しかり」の意味が納得できる。
「然」の金文は、「雷の稲光+然」という複雑な形である。
右側は「狼+月+火」で、左側は「共+雷+火」から成り立ち、「共」は「散」に使われている、あまねく散らすの「共」で、「田」は「雷」に使われている「田」ではないか。
そうすると、「共+田+火」がイナビカリで散じる火を示している事になり、是もしっかりと自然の情景が見えてくる。
「狼+月+火」が、天気の良いときの情景を表し、「共+田+火」が荒天の日の情景を表しているのだ。
どちらも、夜の情景であるが、これは、昼間より夜の方が、自然に対する畏怖の念を強く感じていた為だろう。
夜間に発生する、雷の光と音は、非常な驚きなのである。
また、狼(大神)は、人間にとっては森中の大きな恐怖であり、暗い闇の中で聞く狼の遠吠えには、さぞかし不安を募らせたことだろう。
嘗て、「地震・雷・火事・親父」と、怖いものを並べたものだが、現在では、親父は権威を失墜してしまい、怖い物の中には入っていないだろう。
昔は、地震の揺れは建物も大きくないし、森の中の草木がしっかりと根を張った所なら怖くなかったであろう。
むしろ、狼の方が恐ろしかっただろう。
雷は、森の中でも死亡に繋がる事も有るし、火災を起こす事も有る怖いモノ・現象である。
其の様に考えると「燃やす」の字に使われているのは、左側の雷の意味かもしれない。
何れにしても、漢語林の説明で見る限り、「犬の肉を火で焼く」では、文字の成り立ちに係わる、自然の情景が伝わって来ない。
他にも、古代の人の心の「イメージ・心象」が、伝えられていない漢字が有るかもしれない。
平成13年1月26日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
2001/1/24
「無宗教の宗教」
私の考え
無宗教の宗教
13・1・24
無宗教の宗教とは、変な表現だが、他に良い表現が無い。
と言うのは、私は、特別な宗教を信じていないからである。
だが、私は、宗教を信じていないからと謂って、神仏の存在を、信じていない分けではない。
私は、人の何倍も、神仏の存在を感じている。
私は、通常の人間には、考えられない出来事を、幾度も体験しているので、神仏の存在は100%信じているのだ。
しかし、現在の宗教と成ると、此れと言って、信仰する物は見当たらないのである。
現在の、世の中の人々が、神仏だと信じている、目に見えない霊界の人々(霊魂)が、次々に、私の下に現れては、色々様々な物事を、頼むのである。
現在の世の中の人々が、神仏だと信じているのは、過去の世に生きた人間達であって、その過去の人間達もまた、神仏を信じていたと言う事を考えると、私は、現在の宗教には、信仰に向かわせるだけの、必然性を感じないのである。
私し自身が、最終的に「神仏」と呼べるものは、イエスキリストが「天の父」と呼び、釈迦牟尼仏が「ダルマ・法」と呼び、老子が「タオ・道」と呼んだモノ・対象である。
現在、神社や寺院に祭祀されているのは、過去に、人間として、此の世に生きて生活していた人達である。
天満宮に祀られている「菅原道真」や、東京の「平将門」、奈良の「聖徳太子」、四国宇和島の和霊神社の家老「山家清兵衛(やんべせえべえ)などは、死んでから祟りが有った人達を、鎮魂する為の神社なのである。
一方、「大国主命」や「少彦名命」「須佐之男尊」等は、国造りで実績を上げており、その功績を偲ぶ為に、神社が建てられている。
私は、神社や寺に行ったとき、周囲の人達に合わせて「合掌」をしたりするが、一人で行った時は、手も合わせないし、頭も下げない。
何故なら、其処に祭祀されているのが、本当に正しい霊であれば、実に丁寧に、私に「お出掛け頂いて ありがとう」と、お礼を云われるからである。
正しい霊は、私が、神の御用を果たしている事を、百も承知しているのである。私は、彼らの願いを聞いているのであって、礒邉自適の個人的な願いは、一切した事が無いのである。
何故、私が、其の様な態度であるかと言うと、私の父親や、無庵師匠が、何物にも願う事なく、また、私の母や、私が信頼している人達が、宗教に、熱心ではなかった事があげられる。
私は小さい頃から、神社や寺に、お願いに行った事は一度も無かった。
私の父親は、「自適 何をしても 上から見られているよ」と云うだけで、神仏の話をする事は、一度も無かった。
其れに、私の父親は、何かに向かって祷る姿を、私に、一度も見せた事は無かった。
私の父親は、目に見えない、何か大きな力の存在を、知っていたのだろう。
私は、父親以上に、尊敬できる人を見た事が無い。
何故かと言うと、他の人々は、自分の為に生きて居るが、私の父親は、他人の事の為が「第一」だったからである。
只一人、父親の知らない理・ことを、教えて下さったのが、私を捜し出して、此の神の世界に送り込んだ、「無庵師匠」の存在である。
また、女性としても、最高の理想は、私の母親である。
自分の母親を基準にすると、たいていの女性は「マイナス点」が付いてしまう。ただ母親は、既に80歳の年齢なので、若さという点においては、マイナスではある。
しかし、私自身も、何れは、安らかな生活が共に出来る、女性に巡り会えると信じている。
何故なら、神仏が理想とする世界は、陰陽の調和である以上、神仏の仕事を手伝っている私が、陰陽の調和である伴侶を得て、人間としての平和な暮らしに戻らなければ、神の計画も水の泡に成るだろう。
其れは、私自身が、皆が認める様な、平和な世界に戻らなければ、誰も、此の世界に入ろうとはしないと想うからである。
平成13年1月24日 (旧暦13年1月1日)
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
2001/1/23
「二人の母親」
故郷
二人の母親
13・1・23
以前、私には三人の父親が在ると書いたが、私には母親も二人在ると謂える。
一人は生みの親で、名前は「礒邉芳子(旧姓加藤、血筋は遠藤)」である。
母は大正9年6月4日生まれで、東京の代々木で子供時代を過ごしたと聞いている。
その後、名古屋市に有る「金城女子専門学校(現:金城学園大学)」を卒業し、三菱銀行に勤務する。
父親と北京で結婚して、戦後屋久島に渡り、農業をしながら、長男の私を頭に五人の子供を育て、現在80歳で私の弟と共に、屋久島に住んでいる。
父親は49歳で亡くなったので、其の時、母親は43歳であり、其れから37年間、私たち子供の為に生きて来たことになる。
母親は、字書きが上手な事で、村の人に知られており、母子家庭相談員として10年程屋久町(屋久島の南半分)の母子家庭を廻っていた。
其の母は、物静かな女性で、子守歌くらいは歌ったのかもしれないが、私は母の歌を聴いた覚えがなく、父と同じように芸能(歌・踊り)と言うモノ・世界に係わっている姿は、一度も見た事が無い。
父親は、口笛一つも吹けない音楽音痴で、私の記憶に残っている、両親の歌に関するものと言えば、次の様な場面である。
父親は当時、村の役職を幾つも兼務していた。
屋久島の安房区から、松峰区を独立させたのは私の父であり、其れ等に関する様々な書類を、父が作成する為に、書類の清書をするのは何時も母親であった。
ある時、松峰区全体で祝い事の宴会があり、興がのって最高潮に盛り上がった時、村人達に両親が皆に抱きかかえられて、祭り場の中央に引き出され「何か 余興をやれ」と、ヤンヤの声援を受けたのだが、両親は、何もしないまま自分の座に引き返した。
私としては、その場で、両親が歌でも歌って恥をかくより、何もしないで引き上げた事でほっとした気持ちと、少し残念な気持ちとの両方で、複雑な気持ちを味わった事がある。
其の様な両親の下で育った私が、現在、何故、人前で平気で歌ったり、踊ったり出来るかと云えば、其れはもう一人の母の存在があるからである。
其の、もう一人の母親とは、安房区に住む「岩山マチさん」と言う方である。岩山マチさんは、安房区でも由緒ある旧家「日高家」の血筋に連なり、マチさんのお兄さんは、長年に亘って町議会議長を務められていた「日高純生氏」である。
私の父親が亡くなった時、家族は、母と17歳の私を頭に五人弟妹で、末の妹は5歳という幼さだった。
43歳で未亡人と成った母親は、東京育ちであり、屋久島には頼るべき親類もなく、「奥さん」と呼ばれる人が少なかった時代に、「主任さんの奥さん」と呼ばれて、17年間暮らしていたのである。
其の東京育ちの「奥さん」が、夫を失い、五人も子供を抱えて、頼る当ても無く暮らしている状況を見かねて、陰になり日向になりして、係わって下さったのが、岩山マチさんだったのである。
マチさんは、身体は小柄だけれど「手八丁口八丁」で、「何でも御座れ」の人間であり、私の家の農作業にも、友達を何人も連れて来て、私たち一家を支えて下さった。
そんなマチさんだから、歌も踊りも達者で、安房区の人気者だったのである。私は、其の岩山マチさんに、農村社会の付き合い方や、他人を喜ばせ、楽しませる秘訣を習ったのだ。
物静かでインテリの母と、小柄だけれど陽気で積極的であり、何時も一番先を歩くマチさんとの、相反する二人の女性に、私は、人間の両極を教えられた事に成るのである。
東京育ちで、都会の教育を受けた自分の母親、そして、南の島で自然と共に元気に生きて来たもう一人の母、どちらが欠けていても、現在・いまの私の人格は在り得なかっただろう。
人間社会も、陰陽両面で組み上がっている。
どちらかが重要視され、一方に傾いた時、社会構造は崩れるだろう。
私は、確かな、両極の母親に恵まれた事に感謝し、神のはかり知れない愛を感じている。
現代社会の在り様は、父親の姿も、母親の姿もぼやけて来ている。
私には、三人の父親像と、二人の母親像を、後世の人達に、伝えていかなければならない責任が有るようだ。
平成13年1月23日(旧暦12年12月29日)
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
2001/1/23
「自分と自然」
言葉・文字に付いて
自分と自然
13・1・23
「自分」との単語は、「自ら分かる」と書き、「自然」は「自ら 然りと 実感する」と書く。
「分」とは、「刀で 両方に切り分ける」という意味があり、自分の“内側”を見つめて、自分の本分を理解する事である。
「自然」とは、自分が“外側”の世界である自然環境を、五感に拠って確かめ、「然り 然り」と実感する事である。
私達が存在する此の世界は、「絶対世界」と「相対世界」と言う名で、分けて考える事が出来る。
「相対」の「相」の漢字は、「木+目」の組み合わせで、木を目で見る様に、自然を見て対象を認識すると言う意味である。
其れは、人間の認識の方向が外を向いている。
「科学」とは、「科」が「禾+斗(ます)」の組み合わせで、禾・米を計るの意味から、「はかる学問」と言う意味で、相対的世界の最たるものである。
現在では、遠大な宇宙の仕組みから、細微な人体の深部まで、外向きの目で捉えられている。
また、微細な菌類から人間まで、同じ起源を持つ遺伝子を有している理が、顕かに成ったのも、この外向きの目に拠ってである。
「絶対」とは、相対とは反対に、目を閉じて、外の世界を見る事を絶つ・絶する、と言う意味である。
自分が係わっている、金銭や、財産や、家族や、仕事などを、気にすることを止め、ひたすら自分の心の中を見つめる、内向きの目線である。
目に見えない世界とは、心や、魂や、霊や、神仏などを意味している。
其の、目に見えないモノを見る為に、瞑想や、座禅などの方法がある。
自分の心とは、一体何なのか。
魂とは、何であり、死んだらどうなるのか。
自分は、何をする為に生まれて来たのか。
そう言う疑問が、人間の成長にとって、一番重要な疑問なのである。
相対的な世界では、人間が死んだら、焼かれて骨が土に埋められる。
其れは、誰も疑いようの無い事実である。
同様に、現在の科学認識では、自然界の循環や、天体の運行まで正確に解明されている。
しかし、心や魂と言った、内向きの目で見る絶対の世界については、段々と譯・わけが分からなくなり、人々は迷いを深くしている。
其の、人類の迷いを解く為に、今一番必要とされているのが「救い」である。
「救い」とは、其の「求+杖・求める杖」の文字の通り、「教えの杖」である。
今こそ、「教えの杖」を持つ人を捜し出し、その扉を叩くトキなのである。
自分の分けを知る為にも、絶対界に通じる役目の「ヒシリ(聖)」を求めなければならない。
山猿には、「相対」と「絶対」の二元論は無い。
然り 然り の毎日だけである。
平成13年1月23日( 旧暦12年12月29日)
屋久島の猿人間 礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
2001/1/21
「森を学ぶ子供達の世界」
文化
森を学ぶ子供達の世界
13・1・21
私達人類は、永い永いトキを掛けて、森林の中で育って来ました。
森は、水を蓄え、大地と海を豊かにし、生き物達を育んでくれました。
そして人間は、文化文明を築き、都会を作り出しました。
其れは、人間の進化であり、力であります。
しかし、此処に来て、都会で生まれ育つ子供達は、自然とは離れ、もはや森の中の子供達とは言えません。
其の様な子供達が、大人に成っても、自然と生き物達の関係性は、理解できません。
其の、自然の生命の営みの関係性を、理解していない大人達が、考え出す人類の未来など、地球で生まれた生物の、生活する場所であるとは云えないでしょう。
IT社会が進めば進む程、その乖離は大きくなります。
自然は、人間が管理するものではなく、生物を育てる母体である理・ことを認識しなければなりません。
其の為に、一番大事な事は教育です。
子供達が、学習する真っ当な環境と、教育が出来る人達・教師の準備が必要です。
新しい時代には、新しい教育が必要です。IT革命による未来は、自然教育と両輪で進めて行ないと、大変な事に成ります。
私達の未来は、野山や、川や、海で、遊ぶ子供達のイメージが、何人の人の頭に存在しているかに、掛っているのです。
平成13年1月21日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
2001/1/21
「森と水」
環境に付いて
森と水
13・1・21
「森」と、「水」の存在は、切り離して考える事は出来ません。
「水」は、水蒸気として海面や大地から上昇し、やがて雨となって降ってくる。雨は、森林や草原に降ると、大地に沁み込んで、ゆっくりと川や地下水へと流れ出し、海へ下っていく。
其の循環が、環境や生命にとって、非常に大事なのである。
森林に降った雨は、根や苔や腐葉土などによって蓄えられ、その中の一部は、植物に拠って吸い上げられ、蒸散作用に拠って、葉から水蒸気と成って上空へ向かうが、その他は大地の下方へと流れて行く。
森が豊かだと、此の流れはゆっくりとしており、川の水量は安定して、長期間に亘り豊かに流れ続ける。
一方、耕された畑や、コンクリートに覆われた都会に降った雨は、短期間で川に急激に流れ込み、激流と成って流域に災害を起こし、また雨が止むと、短期間で、川は元の水量の少ない状態に戻る。
昨今、世界中で洪水が多発しているニュースを聞くが、大きな被害と成っているのは、森林が失われた事が、其の最大の原因の一つである。
森林から、流れ出る水は、自然の濾過装置が働き、清く澄んでおり、水の中には、岩から溶け出したミネラルや鉄分などが含まれ、植物の養分となり、プランクトンを育て、河川や海の生き物を豊かに育てる。
日本の、水田での稲作は、その良い例である。
エジプトのナイル川では、上流に、大きなダムが出来て洪水は無く成ったが、其れまで、洪水に拠って上流から運ばれていた肥沃な土が、運ばれなくなり、現在では化学肥料を使わなければ、作物は採れなく成っているそうである。
日本の水田は、毎年続けて、同じ作物である稲を栽培しても、連作障害が出ない様に、ミネラルや養分が豊富なのである。
日本は、数千年に亘り、稲を栽培しながら、共同作業を行う事で「村」と言うシステムを維持して来たのである。
其れは、理想的なボランティア社会だったのだ。
日本は、其の、米を中心とした文化から、金を、中心とした文化に移り変わり、世の中は一見豊かに成った様に思われるが、昔の様に、村全体でお祭りを楽しんだり、子供達が自然の野山で駆け回ったり、小川で魚を捕らえて遊んだりする事が、出来なくなってしまった。
今や、人間の生活が、森や水から遠く成りつつある。
遠く成っていく分、身体も本来の健康を失っている。
森と、水の豊かな自然を取り戻す事が、本来の、豊かな生活を取り戻す事なのである。
人間が、老いた時の理想の姿は、良い老人ホームに入居する事にあるのではなく、自然豊かな土地で、子供達や孫達と共に、在る事ではないだろうか。
平成13年1月21日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
2001/1/19
「薬」
言葉・文字に付いて
薬
13・1・19
「薬・ヤク」は「草+楽」という組み合わせで、楽にするのは草であり、「草で 病を治し 楽の声を聞く」と言う意味である。
「楽・らく」の漢字は「木+実」の組み合わせであり、どんぐりの実を着けた「椚・くぬぎ」の枝の形である。
「薬」形成 「艸+楽」の組み合わせ。音符の楽は、了・料・療などに通じ、おさめる の意味。病気をおわらせる草、くすりの意味を表す。
【字義】@くすり。㋐病気や傷をなおすききめのあるものの総称。「医薬」㋑科学的効果を生じさせるために作った物・「火薬」「農薬」㋒身体を害するもの。どく。「毒薬」Aいやす。くすりを用いて病気や傷をなおす。Bかこい。(囲)。囲いをめぐらし出入りを禁じた所。C芍薬の敬称。
漢語林
楽の漢字は、其の椚に似た楽器である鈴の象形で、楽器を鳴らして楽しむという意味である。
人間は、病気の時は、静かにして居たいので、楽器を鳴らして騒ぐ事は出来ないし、周囲の人に騒がれるのも苦痛である。
だから「楽」という字は、病気の時の、反対の状況を表現したものなのだろう。
病気に成った人が、元気を取り戻すには、様々な薬効の有る草を利用するのが、世界各地に共通した伝承である。
現代医学の始まりも、最初は草の薬効の成分を分析し、その成分を自然から抽出したり、合成したりする事から始まっている。
私達が、知らなければならないのは、人間の身体のどの部分に対して、どの草が薬効を現したか、どの様な意味を持つ草なのかと、言う事なのである。
古代の人は、自分に其の草がどの様に効いたかを、自分で感じる能力が有ったのだろう。
たとえば、茶は中国から日本に持ち込まれ、座禅の眠気覚ましに利用されたのだが、これは茶に含まれるカフェインが、眠気覚ましの効果を発揮したからなのだ。
後世、近代科学の力によって、ビタミンCなどの成分が認められたのである。
日本の生活文化の中には、この様な植物の薬効がたくさん伝えられている。
さらには、食物にも薬効があり、薬草の本には、殆どの食物が、薬草としてリストアップされてもいる。
また、薬効の有る物は、飲食を通して摂るだけでなく、風呂の湯の中に入れて、入浴し、皮膚からの吸収に拠って摂る物も有る。
風邪を引かないという「柚湯・ゆずゆ」あせもに効く「桃葉湯・菖蒲湯」などである。
現代では、其れ等の草の代わりに、化学薬品の入浴剤が多く使われ、人間と植物との関係が絶たれてしまった。
大人が、この文化を忘れてしまうと言う事は、次の世代に伝わらないと言う事であり、子供達が大人になる頃には、「昔の風習」と言う事になってしまう。
私が、いま一番気に掛けている事は、何千年にも亘って、人間が築き上げて来た、植物と人間の関係を、身体で感じる文化が失われて行く事である。
その文化が失われてしまえば、人間はもう、何を食べれば良いのか、何を食べ過ぎると悪いのかの、判断が出来なくなってしまう。
食物の、良し悪しの判断が、味覚や、口当たりの価値判断だけになってしまうのだ。
其れは、人間が、自然界の動物以下の能力に落ちると言う事で、此れから若い夫婦に、子供が出来ない割合が、高く成ることが考えられる。
食欲は、生物にとって一番大事な行為・本能であるが、その良し悪しを判断する事を疎かにすれば、五感の感覚が退化して、行動が不注意になり、人生そのものが巧く運ばなくなる。
生物として、一番大事な、その食べ物の良し悪しを、判断する感覚を、養う教育を起こさなければ、日本の未来社会は、決して明るいものにはならない。
安定の時代は、惰性でしばらくは続くが、いざ何か起きて、其々が自分で判断をしなければならなく成った時、一人一人の状況判断が一番大事になる。
その時に、身体の全細胞が正しい選択を導き出す様に、日頃の感覚器官の訓練が大事なのである。
其れは、夫々の人達が、自分で体験してマスターするしかない。
この訓練を、指導できる人達の登場が待ち望まれる。
我々が、楽な暮らしをするには、社会の中に、ある程度の数の安定した力を発揮している人が、必要なのである。
物事を起こすには、芯と成る人材が必要だ。
芯という文字は、「草の心」と書く。植物の心がわかる人。そういう人達が、薬の文化を発達させたのだろう。
未来を担う子供達に、草の心が理解でき、花を愛で、音楽や踊りを楽しめる、元気を伝えて行こうではないか。
平成13年1月19日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
2001/1/17
「力を失った言葉」
言葉・文字に付いて
力を失った言葉
13・1・17
「言葉・ことば」とは、本来「事場・ことば」であり、誰かの言葉に起因して「事・こと」が起きる「場・ば」が生じると言う事である。
此れは、「ものを いう」と言う事である。
「もの」とは、物事の「物」で、事が起きるには、人間を始め様々な「物」が動く事を意味している。
「事・ジ」は、事件の「事」で、事件とは、事の起きた件数を表している。
三面記事の「事件簿」の事件は、典型的な言い方である。
ニュースとは、「新しい事件」と言う意味だから、テレビやラジオのニュースや、新聞の記事は、事件の事が主である。
新聞とは、新しい件を聞くと言う意味で、その初めは、瓦版に見る様に、事件が有った時にだけ、紙に刷られて売り出されたものである。
現在の、号外の様に、大きな事件が有った時だけの、物だったのである。
現在の新聞では、国の代表が、物の言い方を間違った時に、大きなニュースに成っている。
国の代表の言葉が、力を失った時、国民の意識は一つの方向へ向かなく成る。
其れは、真実の言葉ではないから、「信じて用いる」と言う意味の「信用」が、無く成っているのである。
四国には、「お遍路」と言う伝統が有り、其れは、四国の88カ所の真言宗の寺(札所)を、四国を一周しながら巡って行くものである。
札所を定めたのは、弘法大師空海だと伝えられている。
弘法大師が、広めたのは真言宗であり、「真言・しんごん」とは読んで字のごとく「真の言葉(インドのマントラ)」の事で、正しい心の持ち方をしている人の言葉は、「大日如来」の肉体であるこの現象世界、物の世界を、動かす力が有るという理である。
人間社会の、業から離れて、「大日如来(毘廬遮那仏)」と一体と成る為の旅が、お遍路であり、1400qもの道を、唯ひたすら歩く事で、自分の心を無にし、大日如来の心と一体と成る事を、願うのである。
そして、自分の自我と欲が消えた時、心が人間の心でなく、仏の心と、成ると言うのである。
其の、仏の心に成る事を「成仏・じょうぶつ」と言うのである。
「成仏」した人の、意識に浮かぶ憶いは、仏の心、仏の意志であるから、その人の言葉は、物事を起こし、人々を救うのである。
その人の言葉を、「真言・マントラ」と言うのである。
その成仏した人の言葉は、力を得た事場なのである。
そうした事が、現実に起きていれば、その人の言葉は、世の人に認められる日が来るだろう。
2600年ぶりの、「転輪聖王・チャクラヴァルティン」が現れる時節因縁は、ちょうどその節目を迎えている。
遍路の「遍・ヘン」の漢字は、「あまねく・広く」と言う意味であり、あまねく広がる路が「遍路」である。
広く歩き回れば、何処かに、その知らせが張り紙されているかもしれない。
「扁」は、戸に張られた書き物という意味で、扁額の「扁」である。
何処かに、「真言・マントラ」の張り紙が張られている、格子戸が有るのかもしれない。
平成13年1月17日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
詳細ページ
-
コメント(0)
|
トラックバック(0)
1
2
3
| 《前のページ |
次のページ》
/3
記事
画像
新着順
投稿順
カレンダー
2001年
January
Sun
Mon
Tue
Wed
Thu
Fri
Sat
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
カウンター
本日のアクセス
昨日のアクセス
総アクセス数
最近の記事
おもいを凝らす
奪う
惟神の世界
美世に
全ての事には原因が
記事カテゴリ
ノンジャンル (5)
健康に付いて (2)
歴史に付いて (12)
政治に付いて (12)
私の考え (19)
衣食住に付いて (8)
言葉・文字に付いて (61)
環境に付いて (11)
悟りに付いて (11)
霊界に付いて (23)
神の存在 (68)
精神に付いて (67)
意識とは (63)
生命に付いて (46)
生活 (29)
文化 (122)
故郷 (26)
技術 (0)
過去ログ
2019年6月 (1)
2017年10月 (3)
2017年9月 (1)
2017年8月 (2)
2017年7月 (1)
2017年6月 (1)
2017年1月 (1)
2016年12月 (1)
2016年10月 (1)
2016年9月 (1)
2016年7月 (2)
2016年6月 (1)
2015年11月 (3)
2015年6月 (2)
2015年4月 (2)
2014年8月 (1)
2014年7月 (1)
2014年1月 (2)
2013年11月 (1)
2013年10月 (1)
2013年6月 (1)
2013年4月 (1)
2013年2月 (3)
2012年7月 (1)
2012年3月 (1)
2012年2月 (1)
2010年11月 (1)
2010年5月 (2)
2010年2月 (1)
2009年9月 (1)
2009年7月 (1)
2009年6月 (1)
2009年1月 (2)
2008年12月 (1)
2008年11月 (1)
2008年10月 (1)
2008年9月 (1)
2008年7月 (2)
2008年6月 (1)
2007年12月 (1)
2007年9月 (4)
2007年8月 (4)
2007年7月 (5)
2007年6月 (3)
2007年5月 (4)
2007年3月 (2)
2006年10月 (3)
2006年9月 (2)
2006年8月 (1)
2006年7月 (3)
2006年6月 (2)
2006年4月 (2)
2006年3月 (4)
2006年2月 (2)
2006年1月 (3)
2005年11月 (1)
2005年10月 (4)
2005年9月 (1)
2005年8月 (4)
2005年7月 (2)
2005年6月 (3)
2005年5月 (15)
2005年4月 (12)
2005年3月 (4)
2005年2月 (6)
2005年1月 (6)
2004年12月 (9)
2004年11月 (7)
2004年9月 (1)
2004年8月 (12)
2004年7月 (9)
2004年6月 (7)
2004年3月 (1)
2004年2月 (1)
2004年1月 (1)
2003年12月 (2)
2003年11月 (7)
2003年10月 (3)
2003年9月 (4)
2003年8月 (10)
2003年7月 (10)
2003年6月 (7)
2003年5月 (14)
2003年4月 (5)
2003年3月 (9)
2003年2月 (7)
2003年1月 (18)
2002年12月 (12)
2002年11月 (10)
2002年10月 (2)
2002年9月 (6)
2002年8月 (9)
2002年7月 (5)
2002年6月 (2)
2002年5月 (3)
2002年4月 (5)
2002年3月 (8)
2002年2月 (11)
2002年1月 (6)
2001年12月 (2)
2001年11月 (2)
2001年10月 (6)
2001年9月 (7)
2001年8月 (11)
2001年7月 (3)
2001年6月 (3)
2001年5月 (9)
2001年4月 (15)
2001年3月 (28)
2001年2月 (21)
2001年1月 (21)
2000年12月 (6)
2000年11月 (10)
2000年10月 (2)
2000年9月 (4)
2000年8月 (12)
2000年7月 (4)
2000年6月 (7)
2000年5月 (9)
2000年4月 (3)
2000年2月 (1)
1999年11月 (1)
1999年3月 (2)
1998年12月 (1)
1997年7月 (2)
1997年6月 (2)
1997年1月 (1)
1995年9月 (1)
1995年8月 (1)
1995年7月 (1)
1995年5月 (1)
1994年7月 (1)
1993年10月 (1)
1993年9月 (2)
1992年2月 (1)
1985年9月 (1)
最近のコメント
リンク集
君の御稜威
みいつ(総合HP)
約束を護る
前の神のメッセージ
私のポエム
→
リンク集のページへ
検索
このブログを検索
QRコード
このブログを
ブログサービス
Powered by
teacup.ブログ “AutoPage”