2000/11/20
霊留・ひと
12・11・20
島根県出雲地方では、女性が妊娠した事を「霊が とどまっしゃった」と表現する。
出雲地方には、日本語の元に成った言葉が澤山残っていますが、是も其の一つなのです。
日本語の「ヒト」とは、出雲の此の言葉から、始まっていると考えられます。
日本語の、「ひと」に漢字を当てたのが「人」であり、「人間」であるのです。
「人」という漢字は、人の歩く姿を横から見た形を表す象形文字です。
音読みでは、「人間」は「ジンカン」で、其れは「時間・ジカン」「空間・クウカン」と同様の使い方です。
「間」は、隙間と言う意味で、門の隙間から差し込む月の光を、意味する文字です。
「人間」「世間」の漢字の概念は、「人と人とのアイダ」つまり人間のコミュニケーションや、社会を指しているのでしょう。
中国では、この様に「姿形・すがたかたち」から「人」と言う字が作られましたが、出雲では「魂を 留・とどめる」と言う意味で、目に見えない様子を捉えて、「ひと」と言う言葉が作られたのです。
「神々の地」と云われる出雲の地は、「須佐之男尊・すさのおのみこと」や「奇稲田姫・くしいなだひめ」などの、古代に生きていた人達の御霊を祭る神社が、到る所に存在します。
古代人の生活では、現代社会の様に、金銭が物事の中心ではありませんでしたので、何事も、人の「心・おもい(意)」が、社会風習の中心であった筈です。
古代社会では、生きている人の魂と、目に見えない霊、古代の魂、先祖の霊魂との関係こそが、大事だったのです。
古代では、生きる事も、死ぬ事も、魂が主体であると考えられ、目に見える肉体は、その霊魂の依り代にすぎなかったのです。
だから、身体は「空だ・カラダ」で、器の意味を表しているのでしょう。
ですから、人間には、死と言うものは無く、魂しいは永遠に転生するものだと考えられていました。
この考え方は、インドやエジプトにおいても、同様であります。
現代社会の教育では、肉体の存在期間だけが人間の生であって、肉体が滅ぶと、人間の生は、終結すると言う考え方が、基本に成っています。
したがって、霊の世界は、迷信であるとされてしまったのです。
これは、釈迦(仏教)、イエス(キリスト教)、神武(神道)などの教えとは異なります。
霊の存在を、否定した教育は、戦後教育の中で始まりました。
其れは、生きている間だけが全てであり、肉体が死を迎えれば、全てが終わると言う考え方であります。
其の考え方は、生きている間に、何でも好きな事をやらなければ、死ねば全てが「御破算・ごあさん」に成ってしまうと云う、認識を生み出しました。
其の意識が、定着して行くに連れて、日本人の大事な財産であった、人間の感情を含む、自然全体との「和の心、調和の精神」が、消えていったのです
日本人の心は「大和・やまとこころ」で、山と和する心です。
山には岩があり、木が繁り、清水が沸き出します。其の、清水が流れ出している、岩と木の有る場所を聖地とし、「神々しい谷・クマクマしい谷」として敬ってきました。
其の文化は、沖縄や奄美大島等の南西諸島でも、「御嶽・うたき」として、護り伝え続けられて来ています。
そして、その聖地が、霊地と考えられて「社・やしろ」が建てられ、後に神社・仏閣が建てられたのです。
清き水の湧く地は、世界中で聖霊の集る場所と考えられ、人間の魂の故郷とされています。
それを、日本人は「和御霊・にぎみたまの地」と呼び、「魂がにぎやかに集うところ」として伝えて来たのです。
其の為の建物が、神社の「社・やしろ」です。
「知」の字は「矢+口」の組み合わせで、矢を神に返して祈り、神意を知る様を表しています。
そして、神に知らされた事を「曰く」の曰を下に付けて、他人に伝えるとしてあるのです。
其れが、智慧の「智」の漢字の意味です。だから、智慧を授かる場所が「やしろ」なのです。
「社・やしろ」とは、「霊の集る場所」と言う意味で、人・ひとは、其処に自己を祓い清めて参集し、「社」に集った霊魂から、智慧を授かるのです。
現代社会の教育とは、其処のところが根本的に違います。
一族が集り、先祖の霊を敬う事で、子孫までの安泰を願うのが、日本の「神惟の道・かんながらのみち」の価値観です。
その伝統の現れが、「御陰様で」と「頂きます」と言う言葉なのです。
子供達には、全ての存在に拠って自分達が生かされ、存在して居るのだとの理を、其の感謝の言葉に拠って、教えて行かなければならないのです。
そう言う認識を、子供達の心に育てなければ、「生きている間に 何でもしてしまえ」との、刹那的な考え方に、支配されてしまう事に成るのです。
今や、地球環境は悪化の一途をたどり、ゴミは捨て放題、言葉は荒れ放題、飲食は食べ放題で、病気放題に成っています。
其れに、政治も、経済も、自己本位のやり放題です。
此のままでは、安らかに生きる事の出来る未来は、無い事に成ります。
2600年前、インドの釈迦は、此の事を予言していました。
釈迦牟尼佛は、人間の性質は、行き過ぎると、良い特長を欠点にしてしまう事を、知っていたのです。
イエスキリストも、ノストラダムスも、其の事を心配した言葉を遺しています。
日本の、神道の大祓の祝詞は、利己心を捨てる処から、始める事を謳っています。
智慧を授かる為に、矢を祭壇に供えると言う事は、自分の行動の為の道具を手放して、自分の意識を無にすると言うことです。
其処から、純粋意識が立ち上がるのです。
その為にこそ、神社は山の中に存在するのです。
其の、純粋意識に成る為の「儀式・セレモニー」が、岩の有る山に行き、手足と口を、聖地の手前に有る川の清水で洗い清め、木々の枝の下を潜る(露地を歩く)事です。
其れが、日本の伝統である神道の作法であり、茶道・剣道・書道・柔道などの「道・ドウ」の本(メソッド)に成ったのです。
(道は、英語ではmethod・メソッド)
本来、この世に有るモノは、全て意味が有って存在しています。
必要の無いモノは、存在し得ないのです。
そして、全て、存在するモノは「大日如来の法身、真理」の現れだと考えるのが密教の教えであり、「ビルシャナ仏」や「阿弥陀仏」は、その別の呼び名なのです。
ナザレのイエスキリストは、其の理を、身を持って体験したので、「このパンは私の肉だ、このワインは 私の血だ。」と説明したのです。
これが、「大般若波羅密・だいはんにやはらみつ(偉大な仏の智慧)」の意味です。
そして、日本に数千年来伝えられている訓えが、「天津日(霊)継ぎの 素目羅尊・すめらのみこと」で、其の者が、道の実践者なのです。
其の「スメラミコト」の、最も重要な儀式が大嘗祭です。
その儀式が、仏教では師から弟子への儀式となり、聖書にあるパブテスマのヨハネが、イエスキリストに授けた儀式にも成ったのです。
神霊や、霊魂の、活動の中心に位置し、其処に心が留まるものが「転輪聖王(てんりんじょうおう)、チャクラヴァルティン」です。
其の理を示す為に、天皇家の十六弁の菊花紋と、神社の本殿への16段の階段が存在しています。
出雲地方には、その伝統の全てが、数千年に亘って保存されています。
其れは、国造りの主である「大国主命」が、渡来系の「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)」に、権力の座を明け渡す事で、権力の汚濁にまみれる事から、逃れられたからです。
其の、大国主の譲る心、偉大な心構えが、出雲の風習や伝統と成り、現在まで、言葉が伝えられて来た事の原動力と、成ったのでしょう。
大国主命は、権力の座を譲る条件として、自分の魂しいを、永久に祀ることを「天の穂日・饒速日命・にぎはやひのみこと」に約束させました。
ですから、現在でも饒速日命を祀る北島様よりも、大国主命を祀る出雲大社の方が、比べ物に成らないほど大きく立派なのです。
其の伝統が、「霊が留まった」と言う言葉を、伝え続ける力と成っているのです。
出雲に有る地名の「十六島・うっぷるい」と、出雲大社の元宮である「神魂神社(祭神 天の穂日命)」の奥の社に続く十六段の階段が、其の理を、是からも無言のうちに語り続けて行くでしょう。
平成12年11月20日
礒邉自適
2000/11/16
ふるべゆらゆら
2・11・16
日本には、「たまゆら」と言う言葉が有り、其れは、玉が微かに触れ合う様子を言い表している。
祝詞にも、「ふるべゆらゆら」と唱える箇所が有る。
此の言葉を、私の体験から、説明してみたいと思う。
世界中で、何千年も前から、複数の物が揺れて、触れ合う様が、絵や土器や建物などに遺されている。
日本にも、縄文土器にS字型の渦巻きとして遺されている。
エジプト文化よりも古い、マルタ島の遺跡の石にも、この渦巻きが刻まれて遺されている。
1万年ほど前、農耕の始まる前から、此のS字型の渦巻きは、世界人類の共通のマークとなっており、人間の暮らしの中で一番身近に在り、重要な位置を占めていたのである。
其の、S字型の渦巻きに付いては、私が自分の考えで、調べ様と意って主体的に関わって来たものではない。
私が、まだ屋久島に居る時、禊ぎをして瞑想に入ったら、其の渦巻きが瞼に見え始め、宇宙の誕生の時点から、この渦巻きが有ったのだと、知らされたのである。
その時から、其の形が、目に留まる様に成ったのである。
私が、瞑想で得た其のイメージは、次の様なモノだった。
日本語では、「此の世」に対する「彼の世」を「黄泉の国・よみのくに」と言うが、その謂われの通り、宇宙の暗闇の中に、水素原子の気が、泉の様に沸き始め、其れが黄色く色着き始めた。
其れが、宇宙誕生の始まりである。
其の、黄色の氣は、次第に濃度を増して行き、或る段階で、質量のバランスを失い、ゆがみ(ゆらぎ)が起きて、渦を巻き始めるのである。
其の、渦の始まりは小さいが、次第に周囲を巻き込む様にして回り、台風の渦巻きの様に、中心を持った大きな渦と成る。
其の渦巻きは、周囲に反流を起こすので、回りには逆回転の渦が発生する。
其の渦の一個一個は、やがて、中心が竜巻の様に窪んでいき、朝顔の花の様な漏斗の形を成して、次第に細く成って行く。
其の、細く成って密度を増した中心は、これ以上、細く成れない限界(特異点)に達すると、粒子(氣)から光に転じて、渦の中心から上昇し、外へ飛び出して来るのである。
其れが、最初の光のエネルギー放出であり、「ホワイトホール」と呼ばれている現象である。
そして、其の渦巻きから無限に出て来る光・エネルギーは、互いにぶつかり合って、爆発現象を起こして行くのである。
其れが、いわゆる「ビッグバン現象」と云われている、現象なのである。
現代の科学者は、1センチの30乗分の1の、小さなモノから「ハレーション(爆発・ビックバン)」を起こしたと言って居るが、私の観たイメージでは、其の小さなものが一個ではなく、暗黒空間全体に無限に湧き出し、揺らぎが起きてから始まる場面である。
仏教では、「この世は 風のごとく ゆらぎから始まった」と伝えられている。現実に、海上で風のごとく起きた空気の流れは、段々と強く成り、渦を形成して台風と成る。
其の現象と同じ様に、暗黒の宇宙の中で、粒子の集まりが渦を形成する場を、「黄泉の国」と言い、風のごとくゆらいで起きたと、伝えて来たのである。
そして、その記憶は、私達の遺伝子の中に、二重螺旋として埋め込まれたのである。
地球上の生物は、この螺旋の働きなくしては、成長出来ない様に成っている。
精子の尻尾の動きがそうだし、受精した卵子は、その後2・4・8・16・32と言う具合に分裂を繰り返して行く。
其の、分裂の増加の仕方は、宇宙誕生の時の渦の増え方と同じである。
中国の唐草模様は、宇宙の誕生の記憶が基になって、作り出された物であろう。人は、自分の発生の記憶を、葡萄の蔓などを視覚に捉える事で、思い出して来たのだろう。
現代社会では、科学が発達し、電波望遠鏡で宇宙の中身は泡構造になっており、銀河の成長は、その泡の接点に群れている理・ことが解って来た。
西洋の科学が、ようやく東洋の精神のレベルに追いつき、宇宙の中の、空間の成長を視覚化できる様に成って来たのである。
俳優の「東京ボンタ」の広げる風呂敷は、実は宇宙を包むものであり、日本の「大国主命(大黒様)」や、西洋の「サンタクロース」の持つ大きな袋は、人間の幸福を包み込んで運ぶ入れ物なのである。
日本人は、その幸福を包み運ぶ入れ物を「おふくろさん」と呼んで、母親の呼び名とし、自分が生を受けた母親のお腹を「ハラ」と言って、高天原に通じるものとしているのである。
マルタ島の、女神像は、大きな腹と尻を備えており、大地の神としてS字型の渦巻きとは、切り離せない物になっている。
私達は、母の胸の谷間で、ゆらゆら揺れながら育って来た。
現代のストレス社会は、其の母の胸の中で、ゆらゆら揺れながら安心していた時代を、追い求め続けているのではないだろうか。
仕事に追われ、電車やバスの中で、揺れに身を任せて、しばしの眠りをとって居るのでは、あまりにも情けない。
是から、やって来る21世紀は「水瓶座・アクエリアス」の女性の時代である。其れは、「霊響・たまゆら」の揺らぎの中へ、返るべき時代である。
不安を持っている子供達と、年間3万人にも上る自殺者と言うのが、20世紀の象徴的兆候を示している。
翁(おきな)の智恵と、嫗(おうな)の暖かいぬくもりは、「奇稲田姫・くしいなだひめ」の両親である「手ナヅチ・足ナヅチ」として、出雲の温泉神社に祭られている。
大国主の袋に出会い、ジジババの神社に詣でるのも、ストレス社会から救われる為の、一つの手段ではないだろうか。
そして、「ふるべゆらゆら」と、神々の郷を歩くのも、良いのではないだろうか。
神有月16日。(11月は、全国の神が出雲へ集まる為に、神無月と称されるが、神々の集う出雲では、神有月である)
平成12年11月16日
礒邉自適
2000/11/16
意識の基点
12・11・16
人間は、自分を認識する時に、物体や現象として形に成った物を捉えないと、認識できない仕組みに成っている。
その認識方法として、様々な手段が有るが、代表的なものが、自分の立場を意識する事と、心(意)を向ける対象を、確定する事である。
幼児の間は、立場も無く、意識の対象は母親だけなので、自分と言う認識は未だ出来ていない。
一般的に言うと、自己確立が出来ている者を「オトナ」と言う。
しかし、現代社会では、自己確立ができないまま成長して、年齢だけを重ね、精神的には未熟な大人が澤山居る。
其の様な者は、「オトナ」と呼ぶには値しない。
漢字では、未熟なものを「小人」と呼び、「大人」とは別けて呼んでいた。
「オトナ」とは、古くは「オテナ」であり、さらに「オテナ」は「オキナ(翁)」からきている。
「翁・おきな」とは、精神的にも、肉体的にも、完成した人間を示す言葉である。
だから、翁が「オトナ」と、言葉は変化しても、同じ様に精神的にも、肉体的にも、完成された人間と言う意味が有るのだ。
自己確立の出来た大人に成ると、信仰の対象として、すがりつく御本尊を必要としないので、一見すると、無宗教の様な人間に見える。
しかし、本当に神仏を理解した人は、宇宙の本体、真理を体験しているので、其の儘、自然体に「神惟、三昧、サマディ、悠々自適」に生活しており、立場や対象物を必要としないのである。
普通の人は、そう言う状態に到るまでの段階として、仏像や神具を必要とするのである。
自分で、一番大事な物体を、心向ける対象として奉る事で、自分の「心・おもい(意)」を対象物に縛り付け、精神の安定を図るのである。
現在のおおかたの宗教は、この様な状況にある。
一方、縋りつく対象が変わり、紙幣、預金通帳、株券などが、心を向ける対象物となれば、経済活動にのみに心を縛り付ける事になる。
其の様な人達は、金の為にだけ、神仏に祈願している事に成るである。
これでは、神仏もたまったものではないだろう。
その人達は、金を失うと、心の支えを失うので、そう成った時には、神仏を逆恨みする事に成る。
この逆恨みは、心を向ける対象を、間違っている事が根本にある。
また、人間社会の地位や立場にしがみ付いている人も、社会に変動があれば、一瞬にして、其の立場は消えてしまう様なものだから、人間が創り上げた物・対象にしがみ付いているのは、間違っている理・ことに成るのだ。
では、どうしたら良いのか。
仏像を安置している寺院や、神を祭るっている神社の、信者と言う立場をとるのも一つの手ではあるが、形有る物は、永遠に存在するわけではないし、その維持の為に、心を悩ませる結果となり、あまり良い方法ではない。
其処で、インドの釈迦牟尼佛の教えに目を向けて見ると、釈迦は、物を心の対象とするのではなく、大自然の働きを信じ、自分がその一部である理・ことを、認識しなさいと教えている。
其れは、この世に実在する、此の自分の肉体こそ、天地自然の働きの現れであるから、自分の肉体をよく保ちなさいと謂う理・ことである。
其れが、精進するという事である。
釈迦と同じ理を、老子も、イエスキリストも謂っている。
つまり、天地自然の内に立つ、自分の心が何を想っているかという、自分の其の心にこそ、意識を向けなさいと言う理・ことなのだ。
子供の時は、母親と食物の事。成長したら異性の事。親になったら子供の事。老いに至ったら、死の事が心を捉える。
是は、天地自然の営みの遠大な循環作用だ。
其の様な、循環を起こす宇宙の働きを、釈迦は「ダルマ・法」と謂い、老子は「タオ・道」と謂い、イエスは「永遠のいのち」と謂ったのである。
我々は、心・意識を向ける対象を、此の大自然の変わらぬ営みに、置くべきなのである。
特に日本は、四季の移り変わりが素晴らしい国である。
だからこそ、世界に類を見ない和歌の世界が、日本に生まれたのである。
日本の和歌の世界こそ、自然を前にして立つ自分の立場を明確にし、意識の対象を、自然に向かわせてくれるモノである。
その結果として、心象風景を言葉として、表現できるのである。
その、自然を見る自分の目線こそが、日本の伝統なのである。
其の目線こそ、「意識の基点」と名付けて、良いのではないだろうか。
日本には、弘法大師空海作と伝えられる「いろは歌」が有る。
其の「色は匂へど 散りぬるを 我か世 誰そ常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見し 酔ひもせす」は、日本語で使用する、いろは47文字を一字ずつ使って、七五調の歌を作っている。
そして、この歌が「イロハ・‥・」との、順序を表記するのにも使われる。
この様な例は、世界にも例が無いのではないだろうか。
日本で、記録されている最も古い和歌は、須佐之男尊作と云われる「夜久毛立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る 其の八重垣を」と言う歌である。
これは、島根県雲南市須賀に在る「須賀神社」に記録されている。
この須賀神社の建つ地は、須佐之男尊がこの地に立って「スガスガしい地なので ここに新居を構えて住もう」と言った事に因り、名付けられたという。
また、「素戔鳴尊」と「櫛稲田姫」が横田町から、此の地に来る前に、素戔鳴尊が舞いを舞ってから、地面に木の枝を刺した場所があり、其処は「サセ(佐世)」と名付けられている。
其の、佐世には「佐世神社」が有り、其の佐世神社の境内には、須佐之男尊が挿した木の枝が、根付いたと云われる木が有り、現在その木は五代目である。
近くには、熊谷という地区があるが、これも「クマクマしき谷」から成り立っている地名であろう。「クマ」とは古代、神の事であったのだ。
出雲には、言葉の源となった云われが、各地に存在する
現代でも、「木内彗星」の様に、新しい物が発見されると、発見者の名前を冠することが行われている。
電話機の発明者である「ベル」、ディーゼル機関の発明者である「ディーゼル」など、枚挙にいとまがない。
私たち人間は、物に名前を与える事で、共通の認識を確かめながら、言葉を増やし続け、大脳を発達させて来たのである。
その言葉の成り立ちには、自然との関係が切り離せない。
日本は、自然が豊かで、五感の発達には、最適の国である。
人間の体には、数十種類のミネラルが必要だと言われているが、日本の国土にはミネラルを含む様々な鉱石が、量は少ないながらも、鉱石の博物館の様に多種存在している。
この自然豊かな国土で、今一度意識の基点について、考え直して見る必要があるだろう。
人間の脳だけが、「見ること」で「見られる側(対象)」との「関係(むすび)」を、認識できるのだ。
そして、その認識が、言葉を生むのである。
その理が、神社の阿件の狛犬と、鳥居に渡された注連縄に示されている。
正月に、注連縄をくぐるだけでなく、自分が何を見ながら、どの言葉を使用しているのかを確認し、子供達の目の前に「サキハエタマウ」姿を見せる、大人と成らなければならないのだ。
平成12年11月16日
礒邉自適
2000/11/15
期待
12・11・15
現在、子供達の登校拒否が増え続けており、昨年は、その数が13万人に達した。
そして、自殺者が交通事故による死亡者の三倍となり、年間3万人を越えたそうである。
其れは、どちらも重大な社会問題であるのだが、解決策はどちらも見付かっていない。
其れは、どちらもストレスが原因に成って、起きている現象であると考えられる。
そして、ストレスの原因は、周囲の過大な期待に、押し潰されている事であると想われる。
例えば、子供の時から、本人の能力以上の責任を、絶えず押し付けられる事に因り、自分の立場を確認できないまま成長し、自己確認が出来ないまま流される様にして大人になる。
すると、いざ何か起きたとき、自分の中に頼れる判断力がないので、行き詰まってしまい、逃げ場として死を選んでしまうのである。
本来、「期待」と言う言葉は、ある時期を区切って「待つ」と言う意味なのであって、自分の望みを、他人に向かって、押し付ける事ではないのである。
「期待する」と言うのは、「貴方が 出来る様に成るまで待ちますよ。期間はこのくらいありますよ。」と云って、その期間、温かく見守ることを意味している。
其れが、子育ての基本でなければならない。
能力以上の事を押し付けて、出来なければ叱ると言う事ではないのである。
むしろ、本人の能力を見抜けない方が、叱られるべきであろう。
その点、動物は、自然の中で子供の成長に合わせて「育む」と言う事を、上手く行っている。
そして、一人前に成長したら、人間とは逆に、一人立をする様に、巣から追い出してしまう。
現代の、人間社会の様子を見ていると、生物の世界では、人間の方が、子供の成長を、最も害しているようだ。
大人に成るには、其れなりの階段を上らなければ成らない様に、遺伝子の情報が設計されている。
其の、成長のプロセスの何処かで、手抜きすると、其れが後には、取り返しのつかない事態を引き起こす。
人間は、もう一度、自分の生物としての仕組みを見直し、成長の節目を確認し、その節目の段階を、順序よく通過できる様に、システムを組み直さなければならない。
自然の生物は、全て、自然のシステムの中で、その段階を踏んで営みを続けている。
人間だけが、人工的な都会の中で、脳が生み出すバーチャル世界を「想像力」と言う名前を付けて、正しさの基準としているのである。
今や、其の都会の基準を、自然の残っている田舎にまで、押し付けてしまったのだ。
テレビを観る事ができる環境に住めば、幼児の時から、番組を作る都会人のバーチャル(虚構)に因って、その成長を妨げられてしまうのである。
今一度、人間の視覚の大切さを訴え、五感の仕組みを、見直すべき時代に来ているのだ。
インドの釈迦が説いたのは、この成長過程の方程式なのである。
正しい、五感の成長を遂げた者だけが、「第六感・シックスセンス」を認識できるのである。
仏(宇宙意識)は、我々人間に対して、この段階を与えて、新たな成長を促しているのである。
天が、我々に与えている成長の促進を、老子は「嗇に他なし」と謂い、釈迦は「仏の慈悲」と謂い、イエスは「神(父)の愛」と、説いたのである。
期待とは、正に「天・神・仏」の仕業・技であり、其の天に仕える我々も、天の働きの現れである「子供達」の成長に対して、時期を見守りながら、待つと言う事を実行しなければならない。
其れが理解できた者には、もう「暴力」と言う言葉は必要なく、「慈悲」と言う言葉が理解されるのだ。
付記:「期」の漢字は「其+月」の組み合わせで、音を表す「其」は整然と区切るという意味であり、「月」は削り取られて減って行くと言う意味である。合わせて、区切られた時間という意味となる。 漢語林より
平成12年11月15日
礒邉自適
2000/11/15
阿吽(あうん)
12・11・15
「阿吽の呼吸」と言う言葉が有る。
此れは、二人で何かをする時に、相互の微妙な調子・気持ちがピッタリ一致する事を、言う言葉である。
辞書によると「阿・ア」は開口音で、「吽・ウン」は閉口音。密教では「阿」は発生、「吽」は集結を表す。と 載っている。
日本の神社に行くと、鳥居の横に一対の狛犬の像が置かれている。
是も、口が開いている方が「阿」で、閉じている方が「吽」である。
狛犬は、高麗から伝えられたものらしい。
インドから伝えられた「阿吽」と言う形と、高麗から伝えられた狛犬の存在、更に日本語の平仮名も「あ」で始まり「ん」で終わる。
此れ等の事を考えると、世界共通の思考が源流に有るようだ。
エジプト文化では、ピラミッドの横に獅子が造られて置かれている。
そして、羽根の生えた獅子である「スフィンクス」が、人間に謎賭けをする神として伝えられている。
日本の神社の狛犬と、エジプトのスフィンクスが、同じ思考の源流から来ているならば、神社とは、言葉の謎解きゲームの場であると、考えても良いのではないのだろうか。
神社には「祝詞」が有り、寺院には「経典」が有り、西洋の教会にも「聖書」が有る。
チベットから、中国を通過して、日本に伝わった密教の真言宗とは、「真の言葉・マントラ」其のモノの事である。
是等の事を考え合わせると、言葉こそ、神や仏の入り口の、門番と言う事に成る。
旧約聖書にも、「始めに言葉ありき 言葉は神なりき」と有るように、言葉こそ、宗教と言う文化の始まりであると、言えるのではないだろうか。
日本では、言葉は「コトのは」であり、事を起こすものであるから、言葉には魂しいが宿っていると考えられていた。
だから、其れを「言霊・ことだま」と呼んだのである。
言葉を、魂しいと考え、神仏に影響を与えるものであると考えると、神道も仏教もあまり違いが無いと言うことになる。
そして、言葉を表す文字が、お札や、経典・聖書と姿を変え、文字自体も神仏の表現方法と成って行った。
現代社会に生きる我々は、其の文字や言葉を、経済活動だけの為に使い始めている。
精神世界に使用されるべき宗教書が、人や金や物を動かす為の、道具と成ってしまっているのだ。
現代の人々の頭は、文字による知識や教義で、一杯に成ってしまった。
今や、神社とは、頭の中に有る知識を祓う場所ではなく、様々な欲望を詰め込む為の場へと逆転してしまった。
現代社会は、理屈を言う人だけが増え、「阿吽の呼吸」が実現出来る場や人間は、少なく成って来ている。
神は、こう成る事を知っていて、其れを気付かす為に、「阿吽」の像を伝えさせたのであろうか。
平成12年11月15日
礒邉自適
2000/11/2
十字架のイエスは四番目
12・11・2
イエスキリストの教えは、「建物には 神は住まない。偶像を祈りの対象としてはならない。」と言う理・ことであって、十字架に架けられた自分の像に対して、祈れとは教えていない。
イエスが云い続けたのは、神(天の父)と人間の関係性だけである。
「宗教」に当たる英語は「religion・リリジョン」であるが、これは、「再び 神と結ばれる。」と言う意味である。
したがって、英語で言う処の宗教とは、神と結ばれる為の関係性を、学ぶ事にある。
仏教の教えでも、「この世界は 見るモノと 見られるモノとの関係性で 成り立っている。」と言っている。
見るものが見者であり、見られるものが、森羅万象の事物であれば、見る人間と、見られる対象との関係性(むすび)で、此の世界が成り立っていると言う理になる。
現在、IT化が叫ばれているが、一方で、バーチャル化された世界での、子供達の成長が心配されている。
何故かと言うと、見る者と、見られる物とが、仮想空間での仮想の出来事となれば、その関係性までもが、仮想のモノ・現象に成ってしまうからである。
仮想の体験が、一体、どの様に子供達を育てるのだろうか。
子供達が、テレビの画面に映し出された映像を、現実の事として記憶すると、その仮想の世界を、現実の世界に当て嵌めようとする事に成る。
「他人を 殺してみたかった。」と言う、少年による凶悪事件は、仮想世界が現実になった一例なのである。
人間の脳が成長する為には、視覚で捉えたものを、現実の出来事として、体験する事が必要なのだ。
其れは、人間が人間として成長する為に、必要不可欠な基本行動なのである。
赤ちゃんが、目で捉えたものを手に取り、口に入れるのは、この作業なのである。
動物は、全て、餌を取ると言う事が、生存の基本の処に有るので、視覚で捉えたものを体験すると言うことが、成長のプロセスに必ず有る。
其れは、人間も同様である。
小さい時から、自然の中で遊ぶ事より、テレビゲームで遊ぶ事を好み、其のプロセスを通過しないまま大きくなれば、当然、成長してから問題を起こす事に成る。
たとえ、問題を起こさなかったとしても、良い生活環境を創り出そうとする気運の高まりには、繋がらない。
良い生活環境とは、神社や寺院の、行事や儀式に伝え残されている。
例えば、正月の鏡餅は、とても深い意味を持っている。
見る者にとって、鏡餅は対象として見られる物であり、見る者(人間)と、見られるもの(餅)の関係性は、「自然条件に恵まれ、代々世代が譲られて行く」と言う様に、象徴されている。
主体は、1・見る者、そして2・対象があり、第3に関係性が重要であり、建物や十字架に架けられたイエス像の役割は、やっと4番目である。
それ故、イエスは、建物には「神は住まない」と謂ったのである。
其れは、「視る対象を 確かめろ」と言う教えなのだ。
自然と、人間の関係性を説いたイエス、そのイエスの姿を認識し、祈りの対象として、自分自身も、其処へ近付くように、努力をしなければ成らないのである。
イエスが謂いたかったのは、此の理なのであって、大きくて派手な建物に向かって、手を合わせる事ではないのである。
其の理を実践することが、イエスや釈迦の教えであり、精霊の協力も得られ、神も喜ぶ事なのである。
人間だけが、見るものと、見られるものとの関係性を、認識する事が出来、また、人に伝えることが出来るのである。
其れが、此処まで、文化・文明を築き上げて来た人間の、原動力なのである。
関係性を知るだけなら、小さな虫でさえ可能である。
花や、木の葉に似せて、擬態する虫は、自分を食べようとする相手の視覚を、自分の情報の中に取り込んで、自分の身体を創り上げている。
其れは、人間のする化粧などよりも、遥かに高度な技術である。
其の虫達と異なり、人間が出来る事は、この世界を認識し、情報として積み重ねて行く事である。
其の為には、バーチャルの世界ではなく、現実の世界を、神の理想とする世界へ、近づけて行かなくてはならない。
それが、神の夢の中に住む、我々の務めなのである。
そうしてこそ、父と、子と、精霊の、結び付きが再確認されるのである。
平成12年11月2日
礒邉自適
2000/11/2
物覚え
12・11・2
日本では、子供の成長の現し方として、「あの子は もの覚えが良い」と言う。この「もの覚え」の「もの」は品物の物だけではなく、物事の物も含んでおり、形態までもが、其の言葉に取り込まれている事を、言い表している。
人間の脳は、視覚で物を捉え、耳で、その品物の名を聞き、その物の価値と、自分との関係性を、組み立てて行くのである。
リンゴを目で見て、手に握り、他人に「リンゴ」との名を聞いて、姿と名を結び付け、食べ物である事を関連付け、自分が口にする事で、その味をもー体化させて行くのである。
そして、リンゴが木になる事を知り、今度はリンゴの木の存在を知り始める。
そして、自分のイメージの内に、リンゴの木と、実の関係性を認識し、リンゴの木の一生をも知って行くのである。
其れから、他人に、自分の林檎のイメージを言語化して、話し始める。
りんごの育て方や、収穫の方法、輸送の方法まで知って、他人に話し始めると「あの子は もの覚えが良い」との人の評価が、高まって来る事に成る。
一方、大人が、色々と手取り足取りして訓えても、覚えが悪いと「あの子は もの覚えが悪い」と、云われる様になる。
「もの覚え」が良いと、物事の判断が良くなり、物事の組み立てが出来る様になってくる。
此の、物事の判断と、組み立てが出来る様に、育てる事が、教育にとって一番大事なことである。
処が、現代社会の教育は、個人個人が、個別に、物事の組み立てが出来ない方向へと進んでいる。
全てがマニュアル化され、皆が「右にならへ」で、個人の創造力が育たなくなって来た。
現在の、政治や産業界を見ていても、21世紀へ向けての、新しい組み立てがなかなか起きて来ない。
其れは、今迄の、古い物事の整理が、上手く出来ていない所為なのかも知れない。
其の原因は、戦後50数年間の物事の組み立てに、欠陥が有ったのだ。
その欠陥さえ、人々は、容易に発見できないのだろうか。
21世紀は、目の前に迫って来た。
物ごとが見える人達が、協力して、物事の見極めが出来る若者を、育てなければならない時期なのではないだろうか。
現在・いまの学校教育では、先生が物事に暗いので、無理なのかもしれないから。
平成12年11月2日
礒邉自適
2000/11/1
ム(カルチャー)
12・11・1
「カルチャー(culture)」とは、教養や文化の意味の英語ですが、カルチ(cultivator)カルチ-ベーターの耕運機と同義語の様です。
カルチャーは「心を耕す」の意味で使われています。カルチャー・ショックとは、「異文化と 自文化の 大きな違いを体験して受ける 精神的な打撃」の意味ですので、自分の心を耕されたショックと言えるでしょう。
中国の漢字にも、同じ意味の言葉が有ります。其れは「治・ジ」の文字で、「収める。直す。治ろしめす。」などの意味に使っていますが、治は「川+台(ム+口)」の組み合せで、字義は「川の流れを おさめる」の意味で、「台」がおさめるの意味です。
「口」は言葉の意味ですが、「ム」は地面を耕す農具の鋤・スキの形で、「大地にスキを入れて 軟らかくする」の意味から 転じて 心がやわらぐこと。喜ぶ。の意味を表わす。と有ります。「治」とは 「河の水の流れを治め 人民の心を喜ばせ 安心させる。」の意味で、「台」は其の見張り台の意味の「臺・ダイ」の略字です。 漢語林より
「カルチャー」とは、良きカルチの伝承と言う事に成るでしょうか。
オカルトの「カルト(cult)」は、本来は良い意味だったのでしょうが、相手の人格を壊す狂信的な言動の人達が現れ、社会不安を起こした為に「心をやわらかくし 安心させる。」の意味から、外れたモノと想われます。
其れは、悪い方向への「耕し(カルチ)」と言えるでしょう。
現代の、「共産主義(レーニンの行動)」では、人民の行動を「虐・しいたげ」ており、「資本主義」では、金や物の力で、人民の精神を欲望へと駆り立てています。
本当の意味での、「治める政治」が出来ていないと謂えるでしょう。
日本語では、漢字の治は「治(し)ろしめす」との使い方がなされています。
「しろしめす」とは、「知ら示す」で「お知らせする」とのことでしょう。
其れは、宇宙の大自然の働きを、捉える事が役目である司祭が、「天津日継」の祝詞を唱える事で、伝えていた世界だったのですが、時代が下るにつれて「お知らせする ー おしえる ― 教」と、段々単純化されて、意味が薄らいで来たものと想われます。
現代の政治家には、此の理・ことわりが全然理解されません。
現在の政治家の頭中には、自分の選挙時の投票数の事しか、無いのではないかと感じてしまいます。
現代の政治の世界は、天皇は象徴的立場でしかなく、本来の天皇の役目であるスメラの働きを、行わせない様に、仕組みが出来上がっている事も問題でしょう。
もう一度、政(まつりごと)の中心に立つ者が、率先して、言葉の意味を正しく理解する事が、必要と成って来ているのではないでしょうか。
其れが、日本の伝統的文化の中心であったのですから・・・。
平成12年11月1日
礒邉自適
2000/11/1
女性と男性の違い
12・11・1
よく女性の方が、直感力は優れていると云われますが、私も、其れは確かに有ると考えます。
男性は、論理的な思考をとり勝ちなので、自分の価値観に合わなければ、受け入れ様とはしません。
女性には、其れが少なく、直感的な判断を下します。
例えば、男性が問題の解決の為に、右か左かを選ぶのに、迷って居る時、女性にどちらかを決めて貰うと、良く当る事が有ります。
処が、其の様な女性でも、自分の損得に関係が有る事とか、自分の子供に関する事とか、金銭や物の事に成ると、自分の利害関係が出て来ますので、自分に有利な方を選んでしまい、公の立場は採れなく成る様です。
世界の歴史を見ると、女性が権力に絡むと、必ずと言って良い程、弊害が現れています。
女性の本能は、子供を育てる事にあるので、権力ある立場を得ると、権力を自分の個人的な事として受け取り、物を管理する方向へ、意識が働くのでしょう。
そして、其れが、女性性の本質と成っているのでしょう。
ですから、女性は、子供や夫、家や宝石など、物質的な事に、意識が傾いて行きます。
女性は本質的に、遺伝子を残す為に雄を選ぶ直感的な能力が、何億年も続いて来ているので直感力が発達して来たのでしょう。
しかし、段々と、其の能力が発揮されない、社会情勢と成って来ております。
現代では、女性が相手を選ぶ基準が、相手の男性的能力と言うよりは、学歴、給与、背丈の三条件が、高ければ良いと言う様に、直感力とは関係無い、目に見える背景の、条件的判断をする様に成って来ていると聞きます。
「相対的」との言葉の意味は、「目に見える対象を 比べて 判断する」との意味です。
女性は、意識を組み立てる為に、根本的に、其の相対世界である処の、物を対象として、物事を判断する様に出来ており、男性の様に、難しい言葉や理論に拠って、物事を認識する事は苦手の様です。
女性の能力は、現象的価値観を、優先する生き方をしていると言えるでしょう。
一方、男性の方には仙人、聖者、牟尼(ムニ・インド語で聖者)など、現象的な物質世界から離れる事が、最高の生き方との、考え方の流れが在ります。
相対的な、目に見える世界を絶して、四次元世界と呼ぶ、肉眼では見る事の出来ない世界を、理解しようとする能力です。
其れが、本当の大人の目指す世界です。
漢字の「大学」の本当の意味は、此の学問の事です。
達人とか、至人とかは、此の域に達した人の呼び名です。
女性には、「達人」との呼び名は、あまり使われませんが、男の「翁(おきな)」に対して、「嫗(おうな)」との呼び名が有ります。
「嫗」とは「やさしく抱きしめ 温かい息をかける」の意味で、「愛情豊な女。生活達人の老女。」と言えるでしよう。
「おきな」と「おうな」は、訛って、現在の「おとな」と「おんな」の事です。
古代社会では、男性が狩に出掛け、女性が一家を守り支えていたので、此の考え方が現実的だったと考えます。
漢字の「嫁」と言う字が、其れを現していますが、現代社会は、昔の様には男女の区別が、はっきりとしなく成って来ています。
IT化が進めば、益々、自然環境と共生して生活するパターンから遠く成り、人間の脳がイメージする世界の、写しである社会構造が出来上がり、人間は自分の手足を実際に使って、体験する事が無く成ります。
「手足を使う」と言う言葉の意味の、「捉える」と言う現実世界が、遠のいて行くのです。
時代は、コンピュータの発達で、人間の手が、必要無い方向へと進んでおりますが、人間は手足を使わないと、能力が退化して行きます。
今一度、男性にしか出来ない事、女性でなければ出来ない事の、仕分けが、必要ではないでしょうか。
「仕分け」が出来なければ、「仕方(方法)」や、「仕組み」が判らずに、「仕合わせ・幸」も実感が出来ないでしよう。
宇宙は、陰陽の働きで動いています。
男女の仕組みは、其の陰陽の働きの現れです。
本当の人間の幸福は、此の仕組みが完成(まっとう)された時に、感じられる現象(もの)です。
女の性と、男の性が、本来の根性(根源的な性分)が発揮され、バランス良く組み合わさった時、本当の「仕合わせ・幸」が完成されるのです。
私は、其のバランスを、自分の両親を観て養って来ました。
現代社会を見ていると、男女の差が無く成って来ております。
本来の、自然の約束事が、壊れ様としているのです。
人間社会は、誰かの仕種を真似る事で、維持されています。
手本と成る人々が、必要なのです。
昔は、其の手本として、翁と嫗を敬っていたのでしょう。
現代では、其の翁と嫗の姿が、成長過程の若者の目から、遠のいて来ています。
其れを考えると、未来社会が、薄っぺらなものに成るのではないかと心配です。
今一度、男性と女性の役割の違いを認識して、人間社会のバランスを図る必要が、有るのではないでしようか。
12年11月1日
礒邉自適
2000/11/1
しま・島・嶋
12・11・1
「シマ」との言音では、多くの人達が「島」か「嶋」の文字を思うのではないでしょうか。
「島」も「嶋」も同じ意味の文字で、山に鳥が止っている形です。
其れは、海原の無人島に岩山が有り、鳥が止っている事を意味しています。
だから「嶋・島」の漢字は、海を航海する旅人が持っていたイメージから、出来た文字でしょう。
「シマ」には「縞」の文字も有ります。
この「シマ」は、織物の糸の高低が、模様に成っている理・ことを現しています。
また「シマ」の漢字には、「洲」も有りますが、これは「川の中洲」の事で、「島」と同様の意味合いが含まれていて、物の有り様が「離れたもの」の意味も持っています。
其の、三つの漢字「嶋・縞・洲」に共通する事は、全体の中に生じている、別の物の形を言い表していることです。
ヤクザ者が使う「シマ(縄張り)」や、「生地・きじ」に浮き出している模様などです。
その意味で考えると、日本語の「しま」の発音では、昔は皆、同じ意味を持っていたと考えられます。
処で、島根県の島根半島には、島根の名の元になった「島根」という村が存在します。
そして、島根半島の島根の西側には「十六島」と書いて「ウップルイ」と呼ぶ地名も有ります。
「十六島」は、港のある村ですが、十六の島が有る訳ではありません。
「ウップルイ」を、今の現代語で表せば「宇振い」となります。
アイヌ語にも「ウップルイ」は有り、其の言葉の意味は、「我が水の道」だそうです。
日本語では「千早振る」との言葉も有りますので、「宇振い」は「宇宙・天からの 雨(う)を調整する。篩(ふるい)に掛ける。篩い分ける事」であると考えると、アイヌ語の水の道とも繋がりそうです。
其れに、「ふるい」には「奮い起こす。奮い立つ。」などや、「振い立つ。身振いする。」の意味も有りますので、神社で行う「振る魂(たま)」の儀式にも、関係が有るのではと考えます。
どちらとも言えませんが、どちらとも共通している意味は「振る事」ですので、「振動(ふる)」と言う動詞として使えます。
是だけでは、「十六島」の文字の意味はハッキリしませんので、「十六の島」をもう一度考えて見ると、島は「孤高」の意味が有りますので、「奮い立つ」と共通の意味を見出すことが出来ます。
そして、「区切られた間」を説明していますから「自立」とか「個性」の意味も見出す事が出来ます。
そうであれば、「十六の個性、区分、型」と考える事が出来ます。
「十六の形」となれば、天皇家の菊花紋が十六弁ですし、エジプトのプスセンネス1世(1070〜945 B・C)のミイラの足に履かされていた、葬送用のサンダルの踵・かかとの部分には、16弁の菊花模様が描かれています。
足に履くサンダルだと、「歩く事」ですから、道に通じますので、「十六方向の道筋」を示していると考える事も出来ます。
そうであれば、日本の天皇家の「十六菊花紋」の意味も、理解出来ます。
天皇家の菊の御紋は、元々は比叡山延暦寺の紋で、開山した「最澄(伝教大師)」の家の家紋だそうです。
天皇家が何故、其れを使用しているかと言うと、後醍醐天皇の皇子が弟の寺(延暦寺)に立て籠もった時に、幟旗のマークとして借りた事からが、始まりだと云われています。
最澄の先祖は、シルクロードから中国へ来た民族なのではないでしょうか。
十六弁の印しは、シュメール文化のマークでもあります。
シュメールは、インダス文明の末裔の文化ですし、エジプト文明より1000年も古い文明です。
プスセンネス一世の時代よりも数千年も古いので、エジプトの後期に、他国から持ち込まれた可能性は十分に有ります。
「スメル」とは「シュメール」の事で、「芦の生える地を 治める者(スメラのミコト)」の文化を齎らし「豊葦原瑞穂の国」の言葉も、同じ文化のものでしょう。
「十六島」も「我が水の道」との表現も、似た処がありますが、アイヌ語が先か、シュメール語が先んじるのかは、私には分かりません。
何万年の前に、東北地方に、柱を建てた住居跡が発見されたと聞けば、日本の文化が、西に広がった可能性も有りますので、私は決めかねます。
ただ、「島・嶋」の文字と概念は、海を渡って行く人々が居なければ、生れてはいません。
4000年前に創られた中国の漢字と、エジプトの太陽の船は、どこかで交流していたのではないでしょうか。
「十六島」は、聖徳太子も取り入れて、中心を和とし、周囲に十六方の島を法とし、17条の憲法を制定しています。
現代に生きる私達は、自分の周囲に、何を「十六」イメージすれば良いのでしょうか。
私は、自分なりに考えてみたいと意います。
「我が意識のマンダラ」として、そして自分の「身振い」として・・・。
平成12年11月1日
礒邉自適
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