2000/10/9
血迷う
12・10・9
日本語には、「血迷う」「血迷って」等との言葉が有るが、「血迷(ケツメイ)」との漢字の単語は、辞典には載っていない。
中国の単語に無いと言う事は、日本語・やまとことばの「ちまよう」に「血・ケッ」と「迷・メイ」を使用したものと思われる。
「血・ケッ」を使う言葉は、他に「血が騒ぐ」「血の気が多い」「血が通う」「血が上る」「血の巡り」「血が滲む」「血を分ける」とか有るが、中国語には其の様な塾語が無い。
漢字では「血液」「血族」「血書」「血液」など、血その侭を意味した言葉が有る。漢字の「血」字の成り立ちは、「神への 生け賛の血を 皿に盛った形」で、皿に盛った血を表している。
では、日本では何故、動詞のような意味で使われているのか。
私なりに考えて見ると、日本の伝統文化の象徴である天皇家で、最も重要とされているのが「御餉殿・みけどの」と呼ばれる台所であり、一番大事な「新嘗祭・になめさい」「大嘗祭・だいじょうさい」の儀式にも現れている様に、「食国(おすくに)の祭り事」と謂って、食物が一番大事にされている。
出雲の、熊野大社の神「神祖熊の大神櫛御氣の命・かむろぎ くまのおおかみ くしみけぬの みこと」」の名に表されている様に、「神の祖は 熊(神・カム)の大神、櫛(クシは通すの意味で 通じる)御氣(食物)の命で、神と通じる御事(おんこと)」を、意味している。
だから、日本では1200年間も、天武天皇の命令により、明治時代に西洋文化を取り入れるまで、公の職にある者は、血の濁れる獣〔毛物〕の肉は、食べてはいけない事になっていたのである。
身体を巡る血液は、細胞と成り骨を作る元であるから、血が濁ると細胞が正しく再生されなくなる。
特に脳細胞は、体の全細胞の司令塔なので、濁った血が脳に巡るとコントロールが効かなく成り、暴れたり発狂したりする。
その理・ことを、昔から「血迷った」と表現したのであろう。
現代社会の少年達の行動が、正にそれを表している。
計画的な犯罪ではなく、自分が起した行動の意味さえ、把握されていないのである。
其れを、現代風の言葉で言えば、「血液が酸化した状態」と言う事なのではないだろうか。
人間の肉體(にくたい)は、DNA・遺伝子に拠って、生命の38億年の歴史を記録・宿している。
その細胞の中の遺伝子が、再構成され続けて、与えられている120年の寿命生き続けるには、血迷いがあってはならないのである。
「血が通う」とは、精神が通じ合うと言う事だ。
相手の痛みが、自分の痛みの様に感じられるのが、人間であり霊宿(ひと)である。
仏教の精進(しょうじん)も、正しい食物を「薬」と考えて食し、精神を清く正しく保って、生活する意味である。
日本の神道でも、「禊ぎ祓い」と言って、人間が積んで来たケガレを祓い、神(天地)と通じる事を願うのが、其の儀式の意味となっている。
日本の諺に有る、「目から 鼻へ抜ける」との言葉は、其の血液の清い人が、天地から、智恵を高速で授かる状態を、謂う言葉である。
其れが、出来ている人を「聖人・ひじり」と呼び、血の酸化した人を「血の廻りの悪い人」と呼んでいるのである。
そう呼ばれない為にも、日々の食べ物や水に、充分注意するべきであろう。
平成12年10月9日
礒邉自適
2000/10/3
攴(攵)・ぼくにょう
12・10・3
棒を手に持って、ポンと物を叩く様から、成立したのが「ぼく・攴」」の漢字である。
「攴」は、「ト+手(木の枝+右手)」で、木の枝を右手に持った象形文字である。
「攴・ぼくにょう」を、部首に持つ文字は、辞典には45字程有る。
其れ等の文字は、同じ「攴」を使っているのだが、文字に拠って右手にも持った「枝・棒・竿」の長さが、皆異なるのである。
一番、長い棒であっただろうと想われる文字が、悠々の「攸・ゆう」である。金文では、攸は「人+川+攵」で、「人間が、船で川を棹・竿さして 渡っている」様子が目に浮かぶ。
其の、棹が右手に持つ棒であり、その長さは2丈から3丈(1丈、3.3m)以上は有るだろう。
次に、長い棒を持つのは「教」の文字である。
教の文字は「仙人や 聖人が、建物の中に居る子供達と 交わる。」と言う意味で、仙人や聖人が持つ杖の長さは約2mくらいで、杖を持って立つと、その人の頭より更に、頭一つ分くらい頭上に出る長さである。
三番目に、長い棒を持つのが「放」の文字である。
「放」は、物を左右に分けたり、人を指揮する棒の長さで80mくらいであろうか。
其の他、更に短い棒で、形状が様々な棒に成ると、「攷・攻・改・敕・敃・敲・散・敦・整・敗・敧」等が有る。
「攷・コウ」は、曲がりくねりつつ 奥まで突き詰めて 考えること。
「攻」の文字は(深く突っ込んで学ぶ。加工する。)の意味で、物を加工するための棒であるから、30mくらいの擂り粉木の様な物であろう。
おそらくは、樫などの、硬くて丈夫な木で出来ているだろうと想われる。
同じく、硬い棒を持っているのが「改・イ」で、中古、正月抑の日に邪気払いのため内裏へ奉った棒である、「卯杖(うずえ)・卯槌(うずち)」を意味している。
「敕・チョク(勅の異体字)」の棒は、選り分けて(束)引き締める為の棒であり、「敃・ミン」の棒は、人をむち打って働かせるための棒である。
「敲・コウ」は、硬い物でコツコツたたくという意味なので、非常に短い棒であろう。
「散・サン」の棒は、干した作物などを、良く乾かすために広げ散らすための棒である。
「敦・キョウ」は、厚手の土器で、羊の肉を長時間煮るという意味なので、ナベの中の肉を混ぜる、菜箸のような棒の事であろう。
「整・セイ」は、正しく束を整えるという意味で、この場合の棒は、棒の先に板を付けたような道具で、刈り取った藁(わら)やイ草の根元を、板で打って揃えるという意味になる。
「敗・ハイ」は、右手に持った棒と、ニ枚貝が割れる様に象り、敗れるの意味である。富と権力の象徴の杖が、手から放れる様子が文字に成っている。
「吾攵・ギョ」は、楽器の名であり「吾(ごっごっと交差すること)+攴」との成り立ちから分かるように、木片に着けられたいくつものギザギザを、棒で擦って音を出す楽器ある。
この楽器は、演奏の終わる時に終丁を知らせる為に音を出す事に用いられた。
「吾攵」は、箸の長さの揃っていない状態を表している。 (漢語林から)
此の様に、文字が成り立ってきた時代の甲骨文字や金文を見ると、棒の長さや形状がはっきりしてくるのである。
同じ「支(攵)」が使用されている文字でも、その成り立ちに関わりのある棒は、様々な長さと形であったのだ。
その後「支(攵)」は「手(右手、有る、行う)」という意味から、しだいに「行動する。為す。」という動詞を表す記号として使われるようになる。
「改・故・敉・救・敖・敬・敞・敝・敵・斁・斂」に使われている「支(攵)」は、右手で握る棒というより、これらの文字が動詞であることを、表しているのである。
右手に、持つ棒という視点で「支(攵)」を見てきたが、現在最も必要とされているのは、仙人や聖者の持つ棒である。
現代社会は、子供達を「教える」と云う事が、机の前で、紙に書かれた文字や図表を見ているだけでは、成り立たなくなって来ているのは明らかである。
だから、自然の中で、体験的に「教える」仙人や、聖人こそが待たれているのである。
其れに、他にも、右手に杖を持つ「君」や「伊」などの、「世を治める」意味の漢字が有る。
平成12年10月3日
礒邉自適
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