1999/3/28
置き忘れた時
11・3・28
漸く、私の内側に聴こえる、何者かの声で「おおあたり」との言葉が、告げられて来た。
此の事に、至る為に、私の52年間の人生が、有ったとも言える瞬間である。
今朝、謎解きをしていて、其の答えが「天分我在」との四文字に至るとの声があった。
其れは、此処一ヶ月「しあわせ・しがらみ・しかたがない」の「し」の漢字を探していて、今朝も夜明けから、「四・睪・(四+方+向)」などの意味を、組み合わせていた。
そして、「辶+四」の次に、自分の生きる方向・方法としての、進み行く道を考えて居て、自分の漢字の「自らを 刀で左右に切り分けて 見る」の意味から、「天分我在」へと、至ったのである。
その天分我在に辿り着くまで、「未だ甘い」との声がしていたのである。
其れが、此の天分我在の言葉で「大当たり」と成った。
是までは、「自分とは何なのか」「何処から来て 何処え行くのか」との、人生への疑問があった。
そして、「仏(悟・さとる。解脱)」とは、宇宙そのモノの働き、ダルマ・道へ至った状態で、宇宙の働きと、自分の働きが一体と成り、差が無くなること。
つまり、差を取った状態で、日本で言う「禊ぎ祓い」が済んだ状態の事であると理解していたが、今朝は「自の分け」から、「天の分け」へと意識が向き、意識の矢の方向が変化した事になる。
其れは、「自」とは、「天」其のモノであり、宇宙の根源的な働き、其のモノであると言う事になる。
私の、神戸でのセミナー10回シリーズの、3回目「新しい意識の矢立」の2月の予定が、4月18日まで伸び伸びに成っているのだが、ようやく意識の矢立てを、向ける方向が定まり、根本に当たる実感が湧いて来た。
セミナーの4回目が「本当の確認」であるから、意識の矢を、何処に向けて行けば良いのかが見えて来たのである。
今朝、「天分我在」と出て、直ぐに時計を見た。
そして、時計の針を見て居て、直ぐに自分の腕の脈を計ると、脈診は72回で、次に呼吸数を数えると16回である。
其れを、ゆっくりにすると12回になり、意識して未だ息を長くすると、8回にまで落ちた。
そして、12回のところで、安定した呼吸が出来る様に成った。
12の、6倍が72である。
其れは、心臓の心拍数の六分の一が、肺の呼吸数である事になる。
此の、心臓の心拍数と、肺呼吸の数・リズムで、日曜日の安息感を得る事が出来た。
今朝の表題が、謎「天分我在」ではなく、「置き忘れられた時」かと言うと、其れも、安息の状態の中から浮かんで来た言葉である。
つまり、安息の「時間・とき」こそが、絶対的な世界であり、「イザなう」「イザなぎ・凪」「イザなみ・波」の、「なぎ・凪」で「風が止まった状態」を意味するのだと考えられる。
心電図の、縦の波型は「イザナミ・波」で、相対的な空間の拡がりを現し、中心に定まった「点」から、記される線・時間の流れは「イザナギ・凪」で、絶対的な宇宙時間を現すと考えて良いと意う。
立ての波は、パルスの波形で空間の拡がりを現しており、人間の心臓は生を得る為に、「トトトー・トトトー」一分間に72回の脈を打つ。
そして、血液を体内に送って、酸素を運んでいる・運ばれる「酸素・炭酸ガス・空気」の循環は、肺が受け持っており、其のエネルギー源は、胃に飲食物を入れる事で動いている。
「肺臓」の動きが止まると、五分程で死に近く成り、胃に行く「水」を止めると七日程で死が近くなり、水は飲んでいても、胃に入れる「食べ物」を止めると、最高72日間程で死が遣ってくる。
是からすると、神(彼の世)に一番近いのは「肺」であり、次が水で、次に胃である。
肺の役目は、「酸素」を取り込んで脳に送り、電気の発電をし、脳の情報整理のエネルギー源となっている。
酸素が止まると、脳が停電と成り生命現象が止まり、死体と成った躰は、ただの物体でしかなくなるのである。
「神・シン・かみ」とは、「示(祭壇)+申(電気)」の組み合わせであるから、躰の「神経」を電線としているのだが、電気が流れないと、全ての機能が停止して、形態だけが残り屍(しかばね)と化す。
私が「置き忘れた時」と謂うのは、「伊邪那岐・いざなぎ」と言う、時間性を忘れて、「伊邪那美・いざなみ」と言う空間性・相対的世界だけに、人間の行動が傾いて居て、エネルギーの消費だけに、方向が向いて居ると言う理・ことを、謂い表わそうとしての事である。
黄泉に還った「伊邪那美命・いざなみのみこと」の躰(空間)からは、様々な物が生じていて、其の姿は悍(おぞま)しく混沌としており、其の姿を覗き視た「「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」は怖く成って逃げ出し、追い駆けて来る「鬼」に「葡萄の房(空間の卵)」や「桃(祓いの球)」を投げ付ける。
追い付いたイザナミは、イザナギに対して、「毎日1000人の殺す」と告げる。
其れに対して、イザナギは「それならば 私は 毎日1500の産屋を建てよう」と、応えている。
此処で、破壊の世界よりも、創造の世界の方が強く成り、宇宙・世界は拡大されて行く事に成っている。
「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」の小戸のあわぎ原での禊ぎで「天照大神・あまてらすおおかみ(昼の世界)」「月讀尊・つきよみのみこと(夜の世界)」「須佐之男尊・すさのおのみこと(海原・生命・苆)」の「三貴神(世界)」が生まれたとの物語・伝説が有る。
此の伝説を考えると、イザナミとは、肉体から様々な物を生み出すが、一変すると、今度はモノを殺す方向へと向かう。
此れは、インドの「シバ神」の存在と似ている。
宇宙が何故、創造され続けられているのか、其れは、破壊が存在し、又其れ以上の創造が行われているので、其のバランスに拠って、此の世界は存続していられると言う事に成る。
此れは、イザナギと言う安定した「時間・とき」が、全てを生み出す「源・みなもと」であると言う事に成る。
其れならば、私達宇宙の化身である人間が、ナギ・凪の時間性に目覚めなければ、此の宇宙は絶対的な力・エネルギーを失って、其の形態を維持できないと考えるのである。
此の宇宙を安定させ、未来世界を維持するには、私達が「色の世界・相対界」のエネルギーの無駄な消費を止め、「絶対時間」である神のエネルギーの創造に手を貸さなければ成らない。
其の為にも、モーゼの謂う「安息日」、東洋で言う「休息・やすみ・矢済み・安心立命」を、心掛けなければ成らないのである。
其れを、「祷り・祈願」と言っているのである。
私が今朝、何んで「大当たり」で自分の腕の脈を計り始めたのか。
どうして、其の様な行動を起したのか。
そして「大当たり」と云った男の声は何者か。
其れが、此の文章を書いて居て、辞典を調べる事で判った。
「時・ジ・とき」の漢字の【字義】を調べて見て、時は「日+寺」の組み合わせで、「寺」は「止+寸」の組み合わせであり、其の「寸」の漢字は「、」が左手の親指の象形であり、「十」は右手の象形で、「右手の脈を 左手の親指で計る」との意味から来ているのである。
是で、今朝私が起した行動が、合点が行くのである。
人間の存在の原点は、自分の脈を計り見ると言う処から、始まっている様である。
其処に、他の動物とは違う人間の意識行動がある。
其の人間の行動が、やがて人間の意識は他の物体を通して、様々な認識をする様になり、其の行動は天空に輝く空の星にまで、意識の手を伸ばして行き始めたのであろう。
其処に、「手法」の言葉があり、日本語の「あの手・この手」の語源が思い起こされて来る。
出雲の「櫛稲田姫・くしいなだひめ」の両親が、「足なづち・手なづち」であるので、私が出雲に住み始める事に成ったのも、此の神の縁であろうかと、思われて来る。
そして、今朝「大当たり」と告げて来た男の声の主は誰であろうか。
若しかしたら、其の男性こそ櫛稲田姫を娶った「須佐之男尊・すさのおのみこと」であり、熊野神社の祭神である「神祖熊野大神櫛御氣の命・かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと」なのであろうか。
平成11年3月28日 夕
出雲まなびの家にて
礒邉自適
1999/3/14
手に取る様に分る
11・3・14
私は、人類が、類人猿の時代を経ていなければ、現在の様な相対的作業は、起きていないだろうと、考える。
人間の手が、恐竜の様に小さく、鳥の様に羽根に成っていたのでは、手に物を持って弄くり回す事が出来ないから、大脳が発達しなかったであろうと考えられる。
「作・つくる」と言う漢字は、人類だけに通用する言葉である。
作の漢字は「人+乍」の組み合わせで、人が小枝を左手に持って、右手に刃物を持って削って居る様子の象形文字である。
手に持った物を、自分の意思に拠って変化させることが出来る。
其処から、人間の脳が飛躍的に進化して来たと考えられる。
其の事を考えると、「手に取る様に分る」と言う言葉が、手に取る様に解かるのである。
人間は、「あの手・この手を考える」とか、「あの手・この手を使う」とか謂う。
其れは、人間の魂しいの深い所に根差した、潜在意識が呼び起されて、言葉と成っていると考えられる。
私達は、永い時間の中で、動物を狩り、手に着いた血を洞窟の岩壁に塗り着けた時から、絵を描き始め、其れを文字にまで書き進めて来た。
焚火で焦げた、棒の先の炭の部分を、石で削って先を尖らせ、槍として使用を始めた。
其れ等の事が、相対的な認識作業の元と成って、科学・化学や、文明・文化を発展させて来たのである。
現在では、余りにも発展した相対世界に振り回されて、言葉も意味を失って、人間は心の落ち着く場を失ってしまった。
満足するとは、「足が満ちる」の意味で、反対の定義が「不足」で、不満を覚える事である。
足が満ちるとは、人間は歩く事で、本来の姿・自然の中に生活していた時代の本当の働き、自然に順応していた形態に還った時に感じる、気持ちの状態であろう。
人間は、金や財産が増えても、其れには際限が無い理・ことは、良く解かっている。
人間は、小川の有る林の道や、森の中を歩き、歩き疲れてベンチに座り、自分の動きを休めて、自然をゆっくりと親しく見詰めた時、其処に本当の充足が有る。
「足りる」とは、歩いた時に脳が感じる、過去の状況の再現に他ならない。
人間は、歩く事に拠って、體にカルシウムが生産される。
カルシウムが生産されると言う事は、其の前に電気の発生が有る。
手を振りながら、足を動かして行くと、生体電気が発電されるのである。
海の魚が、泳ぎ続けなければ死んでしまう様に、動物は動いてこその動物である。
植物の様に、太陽から直接エネルギーの充電が出来ないので、仕組みが違って来ているのである。
動物でも、鳥の様に羽根を太陽光線に当てて、太陽エネルギーを直接取り込むシステムを残している物も居る。
人間は、未だビタミンDは鳥の様に、皮膚で取り込んではいる。
其れも、オゾン層が破壊される事で、危なくは成って来ているが。
動物の脳は、抹消神経の集束である。
東洋人と、西洋人の考え方の差は、何処から生じたのであろうか。
私が考えるには、素足で生活する東洋人と、赤子の時から靴を履いて生活する西洋人とで、絶対的と相対的に分かれたモノと考えられる。
東洋は、素足で生活し、靴を履かない部屋の中でも素足である。
西洋は、ベッドの上以外は、何時も靴を履いている。
西洋人の脳は、両足の抹消神経が、働かなく成っているのではないかと考える。
詰まり、「足りる」と言う感覚・感情を失ってしまって、両手だけの動きをするので、前頭葉だけの認識作用に陥っているので、相対的弁証法に突き進んでしまったのではないかと、考えられるのである。
つまり、足の抹消神経の方が、手の抹消神経より先に発達した物であるから、精神を安定させる為には、手を使って知識を組み上げて来た、前頭葉の抹消神経を休ませる事が、必要なのである。
其れが「手を休める」の言霊であって、其の為に、仙人は杖を、茶人は手に扇子を持つ事で、手に安心感を与え、手が触手を伸ばさない様な手段を採っている。
禅宗では、「法海浄印」と言って、一番心が安定する方法だと言っている。
此処まで、述べてしまうと「手に取って分る」と言う世界も、休まなければ成らない。
モーゼの謂う「せめて 7日間に1日だけでも 休息して 神と共に在りなさい」とか、老子の謂う「自然無為」の世界である。
其れは、手と足の四束の触手の動きを止めて、神経を大自然の働きに任せて、永遠の記憶・いのちの海に、自分の脳を泳がせろと言う事になるのかも知れない。
出雲地方に傳えられている神話に、櫛稲田姫の両親である「手なずち・足なずち」の名が存在する。
「須佐之男尊・すさのおのみこと」が、根の国(島根)に辿り着いて出会った、人の名が、言霊の記憶の海を泳ぎ渡る「鍵・キー」なのではないだろうか。
平成11年3月14日
出雲学びの家
礒邉自適
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