1997/7/10
センターイズム・中心主義
9・7・10
今朝の霊夢に、直ぐに燃え付く火と、古い深緑色の布表紙の本が、数冊映し出されて来て、其の本の意味を考えて居ると、「センターイズム」との言葉が出て来て、其のセンターとは「宇宙の記憶・情報」である理・ことが解かった。
センターとは、人間にとっては「胸・心・こころ」の呼び名であり、社会にあっては組織の建物や、事務所の事を意味している。
では、宇宙の中心は、どの様に考えられているのだろうか。
旧約聖書には、「エホバ・ヤハウェ」と呼ばれている名の神が、其れに当たるのだろう。
イエスキリストは「天の父」と呼び、キリスト教の信者は「主・しゅ」と呼ぶ。
仏教では、「ブッダ」とは、宇宙の「法・ダルマ」を悟った人・法に目覚めた覚者と言っているから、中心と言うモノを考えれば、「宇宙の意思」と言えるだろうか。
では、日本に「中心」と言う考えが有るのだろうか。
「天御中主神」とは、中国の「天帝」から来た物で、北極星を中心として回る「銀河の回転運動」を認識して、考えられた思想感から来ている。
日本列島に、一番最初から住み着いた人々には、中心と言う考えが有ったのだろうか。
古神道の「惟神道・かんながらのみち」と呼ばれる世界は、自分の、身と心を絶えず禊ぎ祓って、其の穢れの無い身心の儘に、生活すると言う概念で成り立っている。
日本列島には、各地にはアイヌの言葉が残っている。
其れは、全国にアイヌと同じ人種が、暮らしていた証拠である。
中国の古い文書には、日本人の事を「毛人・えみし・蝦夷」と書いてある。
毛深い人間とは、北海道・エゾ(蝦夷)に住んで居るアイヌ民族と、沖縄に住んでいる原住民の事の様であり、本州にも至る所に、其の同じ血筋を継いでいる人達が澤山居る。
アイヌの言葉が、残っているので知られているのが四万十川である。
四国の半分を占める、山々の谷を抜けて、中村市で太平洋に流れ出している、其の川の名は「シマント川」で、其のシマントの言葉は、アイヌ語であり「清い水の流れ」の意味であるらしい。
島根県の、「出雲大社・杵築大社」の在る島根半島の日本海側には「十六島」と書いて「うっぷるい」と呼ぶ村が存在する。
其の「うっぷるい」の意味は、アイヌ語で「我が水の道」と言う意味である。
また「うっぷるい」を、其の侭日本語にすると「宇振るい」とも取れるので、日本語の、「千早振る」との言葉との関連性が考えられる。
日本の神社の、「社・やしろ」の屋根に飛び出している「千木・ちぎ」と言う物が有るが、其れは、神のエネルギーを受け取る、アンテナの意味が有るのだろう。
アイヌの生活を想い起こして見ると、アイヌとは「大和人」が付けた呼び名である。
其れは、「コロンブス」がアメリカ大陸を、インド大陸と勘違いして、アメリカ大陸の先住民を、インドの人「インディアン」と呼んでいるのと同じ事である。
私は、日本列島の先住民を「大和古人」と呼びたいと意う。
私は、礒邉・磯部と言う姓だが、磯部族は海渡族の流れであり、鹿児島湾の谷山地区に磯部町が有り、伊勢湾の伊勢神宮が有る志摩市にも、磯部族が住み着いた磯部町が有る。
天皇家の「十六菊花紋」は、比叡山の開基である「最長・伝教大師」の家の家紋であり、後醍醐天皇の息子が「足利尊氏」と戦う時に、御旗として借りた物であるとの事である。
最澄の生まれは、琵琶湖の西岸に在る坂本村で、最長の先祖は淀川を遡って、葦の生える琵琶湖の岸辺に住み着いた「シュメール人」の子孫であるらしい。
現在の天皇家は、神武天皇が南九州より奈良に向かい、「長髄彦・ながすねひこ」の一族の婿養子に成って始まっており、途中何回も、中国大陸や朝鮮半島からの、権力志向者を受け入れて、継いで来た物である。
天皇家の行事は、大半が、中国の道教の仕来りを受け継いでいる物である。
道教と言っても、キリスト教と同じで、老子の道徳経の訓えを実行していると言う意味ではない。
イエスや老子の謂っている理・ことは、大和古人の生活感の中にこそ、見出せる事である。
大和古人の儀式は、聖なる場所を選んで、其の地の木の葉や苔など、全てを除去する事さえ禁じている。
其の儀式は、川の手前で手足を洗い、口を漱いで、思いや邪念を捨て去り、其の聖なる場に入り、座って自分の内(中心)なるモノを見詰める・身を凝らす事にある。
其れを、日本人は「お籠り」と言って、古から続けて日本の習慣として来た。
其の伝統は、神社に残ってはいるが、其の本来の作法は、中味の所で失われてしまっているのである。
昔しながらの暖簾は、どうにか、今でも護り傳えられてはいるが、昔ながらの味を失った、生菓子の餡(あん)と似ている。
何故、その様に成ったのであろうか。其れは、一人一人の生活から、其の真実の味が無く成り、神社と天皇家にだけに、其れを押し付けた事にある。
又、権力者の政策として、天皇家だけが其の資格が有るかの様に、人心を誘導して行った処にも原因がある。
では、現在大和古人が其の様に生活して居るかと言うと、生活の中心にテレビが有り、テレビから無差別に飛び出して来る情報に意識を振り回され、我が水の道を歩いている人は、無きに等しい。
皮肉にも、私が、其れらしく人間を視たのは、NHKのテレビ番組で、アマゾンの奥地に住む「マチゲンガ族」一家の暮らしを取材した物の中である。
其の一家の生活には、他に中心が在るのではなく、森で生活する事自体が、中心そのモノである。
別の言葉で言えば、自然の和・輪・環・の中で、其の儘に暮らすと言う事である。
其の自然の生活システムが、不安定に成った時こそ、人間の意識に神仏が求められ、宗教家を生み出してしまうのである。
私達は、もう一度、宗教家を必要としない社会を、取り戻す時代を、迎えているのではないだろうか。
其れは、どの様に取り組んで行けば良いのかと言うと、自分のセンターを開くと言う事である。
毎日の生活に追われて、閉ざされてしまった人間の心の中心に、其の本来のセンターが存在するのである。
其の、本来のセンターを開く手段・方法としては、人間、其々の個性や特徴があるので、一概には言えないが、共通の事柄を挙げれば、次の様な事が有る。
一 電圧を高める。
生命は、微弱な生体電気で動いている。脳が活動を続けるのも、電気信号だし、躰を動かす為の筋肉の働きも電気信号である。
だから、電気が全て無くなった状態が、死と呼ばれる状態である。
二 血を洗う。
人間の身体は、60兆個もの細胞の集まりであると言われており、其の細胞は血液に拠って作られる。
だから、綺麗な体は、綺麗な血液を元にして作られる細胞で、出来上がって行くのである。
三 知識(情報の整理)
旧約聖書の始めに有る様に、悪い知識を受け入れると、神の園を追放されると、傳え続けられて来ている。
釈迦仏教では、八正道の訓えが有り、正しい知識、正しく視る事が、其の中に有る。
其れ等の、古代から傳えられて来ている「智慧・倫・みち」を実行すれば、自己ずから、其の「宇宙の記憶(センターイズム・中心主義)」が、明確に成って来るのである。
平成9年7月月10日
礒邉自適
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