自適随筆
私の思考だけで書いた文集
1997/6/19
「神の時を槅として」
神の存在
神の時を槅として
9・6・19
1997年6月18日未明に、「うらむ」の言葉に続いて「くびき」との言葉が、告げられて来た。
朝起きて、漢語林で「うらむ」を調べると、漢字が10文字有る。
そして「くびき」を調べると、くびきは「槅・軛」と2文字有った。
「うらむ」の中に「怏」が有り、央の音符の央は、「首かせをかけられた人の象形」で、「槅」の字義である「牛の首のみにかける横木」と、共通の意味が有る理・ことが判明した。
「怏・オウ・ヨウ」【解字】形声。「忄(心)+央」音符の央は、首かせをかけられた人の象形。首かせをかけられた人の真理状態、うらむ・たのしまないの意味を表す。
【字義】うらむ。満足しない。不平に思う。おもしろくないと思う。
「央・オウ」【解字】象形。首かせをかけられた人の象形。人の首が首かせの中央にあるところから、真ん中を表したものであろう。
【字義】(いち)@なかば。㋐まんなか。中心。「中央」㋑中途。㋒たけなわ。真っ最中。Aひさしい。(久)遠い。Bつきる(尽)また、やむ(巳)Cひろい。
(二)@あきらかなさま。声のやわらぐさま。
「槅・カク・キャク」【解字】形声。「木+鬲」【字義】@くびき。大きなくるまの轅(なかえ)の先につけて、牛の首のみにかける横木。Aさね。果実の核。
漢語林
何故、今朝「うらむ」「くびき」の言葉が告げられて来たのか。
霊界人からのメッセージなのか、私の躰の中の、虫の知らせ(60兆個の細胞が感知したのか)なのかはハッキリしないが、私が、神佛の世界に対して、14年間想っている感情が、現れて来ているのである。
私は、37歳の時に、突然起きて来た人生の波乱で、可愛い三人の子供達と、元気があって殊更欠点の無い妻、世間の人達に「幸福な家庭」と云われていた、日々の生活は失われてしまったのである。
そして、安房川での禊ぎ祓いの儀式の後、4311人にもなる霊界人に、自分の身体を奪われ、全てを捨てて旅に出発した。
14年間の、精神的重圧感(それだけではないが)辛い時の、神仏への「怏・オウ・うらみ」、自分で何も選べない不自由さ。逆に、何でもして良い、行き先が明白ではないと言う、明日が見えない毎日の連続。
14年間で、様々な人々に遭わされ、其処を立ち去る。
其の繰り返しが、続いて来た。
数十名の人達に関わる事に拠って、其の人数分の課題に取り組んで来た。
そして、其の他人の人生が、私の体験の一つとなり、思考の数を増やして来たのである。
14年間で、私は何を得たのか。
其れは、自分の37歳迄の人生の有り様の、認識と分析であり、屋久島で37年間育まれた私の魂しいと、人々との触れ合いで生じる、言葉の記憶である。
私には、現在・いま何も無い。
有るのは、「全体との結びつき」と言う感覚である。
其の意味では、私が一番満ち足りていると謂えるだろう。
「満ちたら 欠ける」と言う諺がある。
其の言葉の心象風景は、月の満ち欠けに拠るものだが、其れが人生の在り方の説明となっている。
人間は、欠けているからこそ、何かを求めるのである。
今の時代は、先行きが見えないからこそ、其れを知ろうと求めて、人々が這い回っているのだ。
何時の時代も、人々は満たされ様と動き廻っているのだ。
平和で、豊な生活が有り、幸福な家庭と親しい友人達、悩みが無ければ、其の人は何も求めない。
其の時には、宗教や神仏の事は考えないで済む。
其れ等の事を考え、求め始めるのは、其の平和・安定が崩れるか、其の予感がする時である。
私は、自分自身の「精神・こころ」が、組み上がって来た経過を考える。
私は、17歳の秋に父親を突然失って、其の安定が崩れ去った。
其の時点で、私は自分の遊び場を無くして、家族の生活を看ると言う責任が襲って来た。
誰かの庇護の下で、遊び暮らすと言う日々が、終わったのである。
人間が、心から寛げるのは、自分が居る場が何者かの手に拠って、護られていなければ成らない。
自分が、其の場を護る側の立場の者と成れば、其の寛ぎは失われてしまう事に成るのである。
代わりに、寛いで居る人々を眺めて、喜ぶ体験をする事は出来るが、其の喜びを体験する事が、「愛の行為」として名付けられている。
小さくは、家庭での親の立場としてであり、全体としては、神仏の立場である。
其の、安らかな場を存続させ、維持する為には、親や、神仏は、其れなりの働きを必要とする。
私の人生は、与えられては取り去られ、与えられては奪い去られると言う事の、連続である。
其れが、父親の死後三年周期で遣って来た。
其れに、子育てに付いても、三回遣らされている。
其れは、一回目は父親が残した幼い4人弟妹、一度目の結婚で生まれた三人の子供、二度目の結婚で生まれた4人の子供である。
此れからは、何を与えられ、消化して行かなければ成らないのであろうか。
昨日は、細川護煕さんが、新進党を離脱されてテレビ番組に出演していた。
私に4月頃、「6月17日」との日付が示されて来ていて、6月15日には「大掃除だと」出て来ていたが、是まで何回か、細川護煕さんの行動の前触れが、私には示されて来ている。
細川さんが、事象・時象の流れのポイント役を果たしている様である。
また、今年の4月7日(釈迦の生誕前夜)に、「5月1日・2日。フレッシュ」と示されて来ていたが、イギリス国の選挙が1日に行われ、2日新しい首相に「トニー・ブレア」に決まった。
年齢が、44歳だそうで「若さ・フレッシュ」の記録だそうである。
私に与えられている、役目の一つに、此の「時をよむ」と言う事が有り、「受け取ったモノ・情報」を、受け取る側の人達に渡す事を、しなければ成らないようだ。
其の為に、自分の為の時間と言うモノが無い。
一日24時間・365日、自由で・不自由の中に、居なければ成らないのである。
私が、現在自由であるのは、京都「どれみ村」の代表である「天波博文氏」が、私の居る場と生活を、満たしてくれているからである。
明治維新は、此の京都で始まった。
其れも、京都に住んで居る人達ではなく、全国から、京都に集まって来た人達に拠ってである。
宇宙には、絡繰・からくりが有り、其の働きは、仕掛け人形の様に、時代に仕掛けられた人達に拠って、演じられる。
其の事は、歴史の中に、何回もパターン化されて生じている。
宇宙の動きには、何時の時代にも、パターンが繰り返されると言う。
嘗て体験を積んだ人々が、今回も京都に集まって来るのだろうか。
私は、其の「時・とき」を読んでいる「日知り・日読み・聖(ひしり)」の役目であり、其れは「調読みの命・つきよみのみこと」の働きであると、想われる。
聖とは、「耳+口+王」の組み合わせで、「首を伸ばした人が 耳を澄ませて 神の言葉を受け取る」との意味である。
「聖・セイ」【解字】「耳+口+王(壬)」の組み合わせ。口はいのりのことばの意味。音符の「王・壬・テイ」はせのびした人の象形。耳をそばだてて神意に耳を傾け、よくきくことのできる人の意味を表す。
【字義】@ひじり。㋐知徳にすぐれ道理に明るい人。㋑一芸一道の奥義をきわめた人。「詩聖」Aさとい。かしこい。知徳にすぐれている。B天子の尊称。また、天子に関する事物の上にそえる語。「聖恩」 漢語林
其の仕組みが、京都の「どれみ村」の役場には、現存しているのです。
其れは、私と言うのではなく、其の場が生じていると言う事です。
「ときは 定かではない
起きる分だけ 起きる」
19日14時30分
「暗闇の聲を聴く 玄の響きを」
6月17日
平成9年6月19日
礒邉自適
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1997/6/10
「「風 麦東 陶・ふうれんとう」」
文化
「風 麦東 陶・ふうれんとう」
9・6・10
本日6月10日は、千葉県成田市台方の麻賀多神社の境内に有る、「天之日津久神社」で岡本天明に「日月神示(天津日嗣神示)」が下されて来た日である。
今朝は、其の「天津日嗣神示」に関係が有るのか、「風 麦東 陶」の事が示されて来た。
「風 麥東 陶・ふうれんとう」とは、私の霊夢に映って来た、神のメッセージである。
其れは、平成6年(1994)3月21日の夜中「弘法大師空海の1159目の命日(22日未明)で、場所は「熊本県阿蘇郡蘇陽町長崎」の自宅であった。
此の日の未明、私の霊夢に、広大で奥深く、人間が行けそうにない、森林地帯が映し出されて来た。私の意識は、遥か上空を飛んでいる鳥の様な位置から、其の地球の山岳地帯の景色を、見ているのである。
そして、其の山岳地帯の景色の一部に、白い四角な枠が嵌められ、其の枠の中が大きく拡大されて来た。
其れは、まるで宇宙船から山岳地帯の撮影している様なアングルである。
其の、大きく拡大されて映し出されて来た一画は、大きな花崗岩が点在している一つの峰である。
其の、峰の南斜面の、傾斜が緩やかな所の中心に、何百年も風雪に耐えて来た、一本の大木が有る。
其の大木の、一番下の枝が、南へ張り出し、其の枝の下に大きな丸い花崗岩が有る。其の花崗岩の上には、白い衣を頭から羽織った「達磨禅師」の様な姿の人が、一人座って居る。
私は、其の人の顔を確かめ様と、屈みこんで覗き込もうとすると、其の人物が視界から消えてしまい、代わりに「風 麥東 陶」の文字が、目の前に現れて来た。
其の文字の意味を、私の意識が理解しようとすると、其の文字の映像は消えてしまった。
「風・フウ」と「陶・トウ」は、私も知っている漢字だが、真中の字は、篇の部分が知らない文字である。
読み方は「ふうれんとう」である理・ことが解ったので、私は再び眠りに入った。
朝起きて、取り敢えず日記には、「風 麥東 陶」と書いて、其の意味を調べて見た。
*「風・フウ」と言う字には、多くの意味が有るが、私が調べた範囲では「ならわし・しきたり・風俗・慣習」と言う意味が、最も多い。英語にすれば「マナー」と言う意味である。
*「レン・錬・練・煉」は「きたえる・なれる・ねりあげる」と言う意味で、英語では「トレーニング」と言う意味である。
*「陶・トウ」は、薫陶の陶で、「教え導く・訓練する」と言う意味が有り、英語にすれば是も「トレーニング」との意味に成る。
これ等を纏めると、「風 麥東 陶・ふうれんとう」とは、「マナーをトレーニングする」と言う意味が出てくる。
私は、「風 麥東 陶」と言うのは、私に与えられた神のメッセージであり、21世紀に向けての、人類に与えられた大きな課題・テーマであると解釈した。
其れから、3年後の平成9年(1997)3月14日、私は熊本県の芦北に有る「めしやトリガー」と言う名のレストランの二階に宿泊して居た。
朝起きて、何気なく辞典を捲って居て、「麦」の字の古語が「麥」が有る事を見付けた。
「風 麥東 陶・ふうれんとう」のレンは「練」だったのである。
漢字の「麥東・レン」はパンを作る為に、小麦粉を練って醗酵、熟成させる事だったのだ。
丸3年掛かって、ようやく「風 麥東 陶・ふうれんとう」の三文字が揃った事に成る。
「風 麥東 陶・ふうれんとう」は「風習・慣習・風俗などの 生活の仕方を 練り鍛えて 教え導く」と言う意味である理・ことが、はっきりして来た。
私達の、是からの行動に掲げる旗印しは、「風 麥東 陶・ふうれんとう」と言うテーマである。其の為に、霊界人も全力を上げて、協力をし、計画を推進して行くだろう。
神の「言葉(口)」を書いた旗を立てることが、「司」と言う漢字の成り立ちだから、「風 麥東 陶」は、神の計画を司ると言う理・ことに成る。
余談だが、「錬・練・煉・麥東」は、どれも「ねる」と言う意味だが、「錬」は鍛冶屋。「練」は織物屋。「煉」は餡屋。「麥東」はパン屋・ウドン屋で使用する文字である事に成る。
漢字の「陶・トウ」は、「阝+匋」の組み合わせで、阝は階段の象形。音符の匋は、やきものを焼くの意味。階段のあるかま場で、やきものを焼くの意味を表す。
【字義】@すえ。せともの。やきもの。陶器。Aせとものを作る。Bせとものを作るように事を行う。㋐変化をさせる。㋑教え導く。教化する。㋒やしなう。(養)Cよろこぶ。また、のびる(暢)Dかたくな。がんこ。Eうるえる。(憂)Fものの形容。
京都「どれみ村」にて
平成9年6月10日
礒邉自適
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