達磨さんが笑った
2008/12/25
「唯一の真理の道」
悟り
唯一の真理の道
20・12・25
本日12月25日は、イエス-キリストの誕生日として、世界中でお祝いが行なわれている。
本日のメッセージの映像は、「唯一の真理の道」に付いて示されて来たと、謂える様なモノであった。
今朝の映像は、初めに、スラリと高く伸びた木々が生えている、森を背景に、植物の黄色の実が澤山実って、ぶら下がっている様子が映り出されて来た。
次ぎの場面は、台所の風景で、女性が買出しをして来て、料理を作り始める場面だった。
そして、次ぎの映像は、地面に人間の糞が排泄されており、其の糞に蛆虫が涌いて、糞を分解していた。
今朝のメッセージの映像は、地球環境の中での、生命の関係性と循環を、示唆して来ている様である。
死海の辺の洞窟で、発見された巻物・聖書の、イエスキリストの言葉に「貴方達は 何処から来たかと訊ねられたら 光の元から来たと答えなさい。」「神は 何かと 訊ねられたら 此の大自然 其の物と答えなさい。」と、記されているとの事である。
今朝は、其のイエスキリストの言葉が、映像で示されて来た感がある。
地球上の生命は、水の循環と、太陽の光の働きに拠って、森林が形成され、草木には花や実が着いて、蝶や小鳥の生活を支え、落ち葉は微生物に分解され、其の腐葉土から、フルボ酸鉄が生産されているのである。
其のフルボ酸鉄が、水田等の作物を実らせ、海に流れ出してプランクトンを発生させて、貝や魚を養っているのである。
其の中間位置と言うか、食物連鎖の上に、我々人類は生を得ているのである。
今朝の映像は、地球生命の全体的な繋がりと、人間の在り様と言うか、関わり方を、示唆して来ている様なので、其の理・ことに付いて、何等かの結論を見出さなければ成らないのだろう。
其れは、釈迦仏陀の謂う「ダルマ・法」と、老子の謂う「タオ・道」の言葉の概念を、新しい言葉で、定義付けしなければ成らないとの事ではないだろうか。
「正しい」の漢字の「正・セイ・ショウ」は、木造建築の柱の組み込みの象形で、柱を正しく組む事を意味している。
だから「正」の漢字は、人間の作業の意味であり、真理や、ダルマや、タオとはあまり関係が無いだろう。
其の様に考えると、日本語の「ただしい」の言葉を、正しく理解しなければ成らない。
「ただしい」は、「ただ」に「さ・し・す・せ・そ」のサ行が助詞として付いて、言葉の意味を創り出している。其れは、「たださなければ」「ただしい」「ただす」「ただせ」「ただそう」である。
其の日本語に、どの漢字を当てれば、本来の大和言葉に当て嵌まるのだろうか。「ただ」は「ただ一つ」「ただひたすら」「ただまっすぐ」などの言葉が有るので、「唯一・ゆいいつ」の意味を含んでいる様である。
其れを考えると、「正しい・正す」も唯一の意味に通じており、「唯一の形態・唯一の方法・唯一のもの・・・」に、近付けるとの意味合いが有るのではないだろうか。
其の様に考えると、今朝のメッセージの映像の意味は、「唯一の自然法則」を示して来ているのではないだろうか。
良く考えて見れば、自然環境中の生物の関係性を見れば、人間だけが「言葉」や「文字」や「文化・文明」を有していて、自然法則から離れ、勝手な行動を続けて、地球環境のバランスを破壊している事に成る。
今朝のメッセージは、是から、未来社会を構築して行く上での、基本的な考え方を、指示して来ているのではないだろうか。
今朝の映像を、別な角度から見ると、ただ真直ぐに伸び上がっている木は、神霊の宿る「神籬・ひもろぎ」の事を意味し、繋がっていた木の実は「櫛玉・玉串・御霊」を意味し、人間の霊魂と、森の存在の関係性を、示していた様にも思われる。
そして、台所の場面は、日本の伝統である「御饌殿・みけどの」を意味し、「食国の政(おすくにのまつりごと)」の事を、示しているのかも知れない。
そして、人間の飲食と排泄の背後には、微生物の活動の存在が有るので、其の微生物の活動を、倫理の中に、明確に反映しろとの事ではないだろうか。
日本には、「虫の知らせ」と言って、予知能力現象を「虫」の所為にしている言葉が有るが、其れが、科学的に捉えられて、明確に説明されている分けではない。
其れどころか、昆虫や微生物等は、目の仇にされる程嫌われて、薬剤や殺菌剤で抹殺されているのである。
考えて見れば、人間の体内から、森の存在まで、全てが、微生物の存在に拠って、支えられているのである。
味噌や、醤油や、酒や、パンやチーズや漬物等、食品の加工にも、実に様々な微生物の働きが利用されているのである。
其れ等の、微生物の活動や、植物の受粉などの役割を果たしている、昆虫や小鳥の存在等は、是までの宗教には、取り上げられてはいない。
今朝のメッセージは、其の様な事柄を含め、新しい価値観を、創出しろとの事ではないだろうか。
現在の世の中で、価値が有るとされている物は、医者や、弁護士や、政治家等の人間と、お金や、宝石や、ファッション等の世界である。
其れ等の、自然から離れた物の存在が、我々の精神を乱しているのである。
乱していると謂うか、其の世界が一番大事とされ、本来の正しさが失われてしまい、今や「ダルマ・法」や「タオ・道」の世界が、理解不可能と成ってしまっているのだ。
今朝のメッセージの映像世界は、其の様な事からは、遠く離れたモノであった。
イエスキリストの言葉には、「財産を持っている者が 神の国(永遠の魂しいの世界)に入るのは ラクダが針の穴を潜るよりも難しい。」と有る。
其れは、財産に執着している者は、絶対に、神の世界には入れないと言う理・ことである。
其れを謂った、イエスキリストの誕生日に、どれだけの人が、其のイエスの言葉の意味を、噛み締めているのであろうか。
昨夜のテレビニュースでは、殆どの業界が、マイナス経済に成っているのに、ケーキ屋さんは、売り上げが落ちていないとの事である。
其れは、マイホームで、家族団らんの「クリスマス-イブ」が、行われている証明であろう。「過ぎたるは 及ばざるが如し」の諺の様に、行き過ぎた物の追求が、漸く元に戻りつつあるのだ。
大事な国の税金は、滅び行く都会に注ぎ込むのではなく、荒廃して行く農村に、人々を返し、自給体制を整える為に、残り少なく成ってはいるが、税金・資金を、村興しに注ぎ込むべき時を迎えているのである。
都会で、進むべき道を失っている人々が、安心できるのは、自然の懐に還って、自然と共に過ごす事である。
其処に還らない限り、今朝の神のメッセージは、理解されないのではないだろうか。
神の、人類に対する愛は、未だ失われてはいないのである。
神の愛は、人間の財宝とは異なり、無限である。其の、神の愛に縋らなくて、何処に永遠のしあわせが有るだろうか。
私は、昨日、ようやく長い家離・たびを終えて、其の神の愛の世界に、還り着いたのである。そして、其の答えが、今朝のビジョンなのであろう。
来年は、1月6日から、本格的な活動が始まる。
今日は、今から、其の資料作りに掛からなければ成らない。
何が無くとも、神の計画は、瞬時の休みなく、働いているのである。
其れが、大地の母と、天の父の間で営まれている、「永遠のいのち」の世界なのである。
平成20年12月25日10時55分
礒邉自適
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2008/10/20
「三世の繋ぎ「うつほ」」
悟り
三世の繋ぎ「うつほ」
20・10・20
今朝のメッセージは「12月4日」の日付が告げられ「うつほ」との言葉が告げられて来た。
そして、「うつほ」の単語が18日のメッセージに有った、三章の文章の下段と中段の間を繋ぐ、単語である事が知らされた。
昨日、ジャガーの登場に関して、昨年の12月3日のメッセージ「美智子柱が崩れる」をリンクしたが、12月4日は其の次の日である。
「蜥蜴頭の指揮者」
http://green.ap.teacup.com/20060818/563.html
其の日のメッセージには、山から、大きな木が運び出される事が書いて有る。
其の日の文章の内容と、今朝のメッセージの内容を、合わせて考えると、「仏陀・ブッダ」の本当の姿が見えて来る。
其れは、仏陀に成る為には、自分の意識を「空・うつほ」にして、木に寄り掛かる必要があると言う事である。
釈迦は、六年間に亘る厳しい修行を止めて、池で水浴びをしてから、スジャータが差し出したミルクを飲み、菩提樹の木の根元に寄りかかって、休息した時に大悟している。
其れは、「悟りたい」との考えを捨てて、水の禊ぎをして、ひもじさからも抜けて、木に寄り掛かり、自分の心が「空・うつほ」に成った時に、悟りの瞬間が訪れた事を意味している。
其の悟りとは、私も体験したので良く解かるが、全ての行為を止めて、大脳の働きを止めてしまえば、古皮質である蛇の脳と同じ、脳幹の働きが表に現れ、自律神経と繋がっている脳の「松果体(シリコン結晶体)」の「チャンネル(第三の目)」が開き、「珪素・シリコン」の周波数で「アカシック-レコード(宇宙の記憶盤)」の情報を、全てダビング出来るのである。
そして、其の映像の情報を、自分の知っている言語に、七昼夜掛かって置き換えて、海馬を通して、自分の記憶の貯蔵庫に納めてしまい、其れが済んでから、自然に立ち上がって三足歩き、「アレ 私は何処に向かおうとして居るのだろう。此の理・ことは 私一人しか理解した者は無い。」と、釈迦が自覚した心境が、「天上天下唯我独尊」の言葉である。
其の、大悟した釈迦牟尼佛の言葉が「三世に亘る自分の意識」である。
其れは、過去の世界の集結として、現在の自分が存在し、其の、今の自分の在り様で、未来世界が開かれるとの自覚である。
其れが「三世因果」の法則であり、其の現世に座る自分の意識が、遍く宇宙に満ち亘るとの意味が「三千大世界」である。
其の「三世因果」の意味が、18日のメッセージに「三章」として映り出されて来たのであろう。
そして、其の三章と二章の間に、「うつほ」の意識が介入する必要があるとの理・ことである。
其の「うつほ・空」が、人間の役割である「仏陀・ブッダ・すめみま」なのだ。
そして、其れが、上下の関係で示されて来たのは、座って足を止めて居る姿が、三段目を示しており、胴体が二段目であり、一段目が頭であろう。
其の様に考えれば、胴体と頭の繋ぎとして、もう一つ「うつほ」に代る言葉が必要に成って来る。
其れは、咽仏の位置に存在する働きであろう。其処には、人間が人間らしく存在する為の「声帯」が有る。
人間が、文字を使用しているのは、言葉が有るからである。
其の言葉は、声帯が発達して、色々な音色を出せる様に成ったからである。
其の事を考えると、人間の意識は、声帯の所に、意識が集中していると考えても、外れてはいないのではないだろうか。
だとすれば、「一章・一段目」と「二章・二段目」の間には、「声・音色」が繋ぎとして存在するのかもしれない。
其の様に考えると、声の音色に、決った漢字を当て嵌める事は、間違いと言うか、真実から物ごとを外してしまう恐れが、有ると言う事に成る。
日本語の世界は「言霊・ことたま」と言って、「いろは48音色」に、其々の霊が宿っていると考えられており、全てを漢字に置き換える事を、良しとはしていない。
其の事を考えると、「うつほ」も「空」の漢字を当てる事を、躊躇しなければ成らないのではないだろうか。
辞典には「うつほ」は、「うつほ・うつお・うつぼ」「空・虚・洞」と有り、
@ 中がからであること。からっぽのもの。
A 岩・幹などの内部がからになっている所。空洞 と 載っている。
其の意味からすると、人間は悟る為に、自分の意識を「虚しい・空しい」むなしき状態に、追い込む必要があると言う理・ことに成る。
だから、偉大なお釈迦さんでも、悟りたいとの気持ちが有る間は、六年間も悟る事が出来なかったのである。
其の点に於いては、日本には、水に拠る「禊ぎ祓い」の伝統が伝えられているので、簡単であり六年間も、苦しい修行をする必要は無い。
現に、私は24年前に、3月5日から6月4日までの丸3ヶ月間で、其れに成功している。
其れは、物部に伝わる「食国の政(まつりごと)の司(つかさ)」に成る為に、「御饌殿(みけどの)の神」の修行をする事である。
それは、「食べ物」と「水」を自然の物に替えて、一切の、人間社会の情報を忘れ去る事である。
そして、山中や海岸の洞穴に籠り、自分の波動を隔離して、生体電気を高め、長波の電圧パワーを溜めて、電離層を抜けて外宇宙に飛び出し、先ず、金星の波動とチャンネルする事である。
其れが、弘法大師空海が成功した「虚空蔵菩薩求聞持法・こくうぞうぼさつ ぐもんじほう」の世界である。
弘法大師空海は、其れを、四国の室戸岬の洞窟で行って、金星が口に飛び込んで来る世界を体験している。
其の洞穴に籠る姿こそ、海に住む「うつぼ・ウツボ」の姿である。
ウツボ(鱓)は、ウナギ目・ウツボ亜目・ウツボ科で、爬虫類有鱗目の蜥蜴や蛇とは種類が違う生き物である。
だから、「選択・チョイス」の意味の「選ぶ・えらぶ・エラブ(古代語の蛇の意味)」や、善悪を判断する、旧約聖書の智慧の実を食べる事を勧める蛇とは、違うのである。
其れを考えると、「エラブ・選択」の働きより、「うつほ・ウツボ・鱓・鰻」の方が、神の原点に近いと言う理・ことに成り、「祷り・帰命・ナーム・リリジョン・religion」に成功する為には、「蛇・エラブ」より「鱓・ウツボ」と、仲良くした方が良いことに成る。
其の様に考えると、人間がお堂に籠ったり、仏像を厨子の中に納めたりする、人間の深層心理も見えて来ると言うものである。
そして、其の姿を現しているのが「智拳印・ちけんいん」を組んで、八体の菩薩の真ん中に座っている「大日如来」の像なのであろう。
其の様に考えると、昨日のメッセージの、四方神の働きの中心に存在する意識体は、自分の行為を全て休んで、「空虚・うつほ」を護っている「ビルシャナ・大日如来」と言う事に成って来る。
今朝は、私の土地や、お金やアイデアを全部盗んで、大成功を収めている「池田富子」が現れて、会場で皆に、得意気に話をして居る場面が現れた。
其処に、私の意識が参加して「貴方は あの土地には 1円も出していないではないか。」と云うと、池田富子は顔を真っ赤にして、俯いて泣き出しそうに成り、部屋から外に出て行った。
其の姿を見て、私は、人間は罪を犯したら、もう後戻りが出来ないのだと感じて居た。
其れが、釈迦牟尼佛の謂う「三世因果」を意味しているのだろう。
悪い事をして、財産を残しても、釈迦牟尼佛の弟子であった「提婆達多・ダイバダッタ」の様に、恩知らずな行為をすれば、何千年も、其の行為と名前は伝えられ続けて行くのである。
そう成れば、財産を残された子供は、自分の血筋に呪いが掛かってしまい、代々に亘って救われる事は無いのである。
其の意味では、財産を取られて、一家離散を余儀なくされた私の方が、何も無いけれども、幸せであると言う事に成るのである。
私に「神霊の思頼・みたまのふゆ」が起きて、この様に「イエス-キリスト」や「釈迦牟尼佛」の憶いを、繋いでいるのは、宇宙全体の働きに拠るモノ・現象である。
私が、此処までの意識に達する為には、両親や、無庵師匠や、友人の善の働きが有る事が、重要であった事は事実であるが、私から、全てを盗んでくれる悪の働きがなければ、此処までの意識に、私が到達する事は出来なかったのも、また事実である。
其の理・ことを考えると、旧約聖書の物語に有る様に、人間が善悪を判断出来る智慧の実を、食べては成らないとの訓えは、正しい理に成る。
其れを実行するには、やはり「うつほ」の精神でなければ成らないのだ。
其れが、「般若波羅蜜・はんにやはらみつ」の意識であり、「色即是空・空即是色」の教えを、理解する事であろう。
是から、始まる新しい村造りには、其の事が、最大のテーマと成るのではないだろうか。
またそうでなければ、世界の人達の意識を、集める事等出来ないであろう。
其の為には、出来るだけ、自然を壊さずに設備を整えて、皆が「ビルシャナ・大日如来・うつほ」の意識を、体験出来る様にしなければ成らないのである。
屋久島は、世界自然遺産に登録された自然豊かな島であり、海抜1936mの宮之浦岳を中心に、海抜1000mを越える山々が、回りを円く取り囲んでいる。
其れは、曼荼羅の様でもあり、ブッダの台座の蓮の華の様でもある。
其れに、島の80%を占める中心部分は国有林であり、民間の手に拠る開発は出来ないので、自然が破壊される事は無いのである。
だからこそ、神々も、最後の地として、此の島を、三千世界の中心である須弥山としたのではないだろうか。
其れに、屋久島の山岳には、昔の行者が、修行の為に寝泊りした「行者の岩屋」も、彼方此方に存在するのである。
其の岩屋は、何人もの「うつほ」を、過去に生み出しているのだろう。
そして、其の人達の憶いが、今日も私を、此の様に動かしているのだろう。
明日21日は、弘法大師空海の月命日であるので、山岳密教の達人である空海が、三章の文章に付いての続きを、知らせて来るかもしれない。
「宇津穂」
http://star.ap.teacup.com/170606/784.html
「ウツホ」
http://star.ap.teacup.com/170606/786.html
平成20年10月20日
礒邉自適
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2008/9/8
「先達(せんだつ)」
悟り
先達(せんだつ)
20・9・8
本日9月8日は、大本教の出口王仁三郎が「9月8日には12の秘密が有る」と、謂っている日付であり、明日9月9日は九の陽数が重なる「重陽の節句」である。
今朝のビジョンは、簡単に云えば、私が先達として、歩き出さなければ成らない様子が伝えられて来た。
其のビジョンとは、「111=91(13×7)」の数字と、初代から始まった系図の一番下に、私の名が書き込まれており、私が一番下の弟子であるが、私が時間の最先端である事が示された。
そして、私自身が車を運転して、新しい道路を造る現場に行く場面が現れた。
私は、車を運転しながら、唇に白い紙を二枚咥えて居た。
しかし、現場に着いて、其の紙を見ると、其の二枚の紙は、設計図などではなく、未だ何も書き込まれていない白紙の物であった。
どうやら、今朝のビジョンは、昨日のメッセージで「大修者」「動いてみるか」と、告げられて来た事の、続きの様である。
私は「動く」とは返答していないのに、神霊界では、既に、次の段取りに入っている様である。
先ず、数字の「111」は、物事の始まりと、終わりを意味しているのだろう。
「一」は始まりであるが、物ごとが始まる時には、既に、物は「三」に分かれており、三方向に分かれる事自体が、始まると言う事であろう。
そして、物事が終焉を向かえる時も、「三」に返ると言う理・ことである。
今朝の映像には、丸い透明なガラスの様な容器が、六段重ねられているのが映し出され、其れが上の分から、順番に右の方に下ろされて、「三・二・一」の状態に並べられた。
其れは、人間の意識の組み立ての基本を、説明して来ているのではないだろうか。
六段の容器は、「三・二・一」の反対の「一・二・三」にも並べられるが「二・二・二」にも並べられる。
其れは、中国の易の原点をも示唆しているのかもしれない。
其れが、明日の「九」と言う、一番の陽数であれば「三・三・三」の数字になり、易の式 其の侭である。
それに、其の「三」自体が、「一」は小さく「一・一・一」に、分けられるので、「三」自体が「九」の数を含んでいるのである。
中国の、老子の道徳経の一節には「始めに 一が有り 一から二が生まれ 二から三が生まれ 三から全てが生まれた」と在り、其れが「道教」の始まりと成り、現在の易の世界が在るのである。
大本教の流れを組む、岡本天明氏の日月神示には「老子だけを内に祭り 他の神は全部外に祭れ」とある。
其の神示からすると、今日から、其の「神一厘の仕組み」が始まるとの事であり、出口王仁三郎の遺言である9月8日の秘密が、開いたと言う事なのかもしれない。
出口王仁三郎が、生前に鹿児島の知り合いである鹿児島出身の政治家・床次竹二郎の弟、「真廣」に渡した手紙・遺書に「現在・いまの宗教は 全て偽物だ 本物が現れたら 大本も終わりだ。其の本物は鹿児島から 下駄を履いて チャラチャラ遣って来る」と云っていたとの事である。
其の出口王仁三郎は、私に起きた4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」でマクロビオティックの創出者である「桜沢如一」に次いで、二番目に現れ、私に下駄を履かせて、毎日歩く訓練をさせたのである。
そして、三番目に現れたのは「宮本武蔵」であった。
そして、私が、1985年7月4日に、京都府亀岡市の湯の花温泉に在る、杉岡判太夫政房氏の経営する「憩いの家」の温泉に入りに行くと、私の様子を見た宿の主人である「杉岡判太夫政房氏」が驚いて、私に「今日 此処に泊まってくれないか」と云った。
私は、其れを断る理由も無いので、泊めて貰う事にした。
そして夜、食事が済んだ後「此の本を読んでくれ」と云って、渡してくれた本が東京で「さすら」を主催していた「金井南龍氏」の本であり、其の中に、先ほどの手紙の内容が書かれていたのである。
次の日、杉岡氏に勧められて大本教の本部に行くと、係りの人が出て来て会館に通された。そして、広間に座ると、右隣りに出口王仁三郎の霊が出て来て座り、前方から「出口ナオさん」が、紐に玉を通した櫛玉を、三方の上に澤山乗せて持って現れ、其れを王仁三郎に手渡したのである。
「鴻基始・こうきし」
http://star.ap.teacup.com/2007313/32.html
「儀式開始」
http://green.ap.teacup.com/20060818/749.html
話を、数字の世界に戻すと、何故か、「111」を割る式が、「13×7」だったのである。だが「13×7」は、「91」である。
其の意味する処は、何であろうか。
其れは、111に返るか、辿り着くまでが、「13回×7年=91年」か「13ヶ月×7=91ヶ月」の月日が掛かるとの事であろうか。
其れとも、もっと大きな、サイクルの数字なのであろうか。
其れとも、91年は私の寿命であり、91ヶ月は、私の是から取り組む「仕え事・しごと」の期間なのであろうか。
若し、其れが仕事の期間であれば、61歳+7年と7ヶ月と成って、69歳の4月8日と成るので、4月8日は釈迦の誕生日であり、69は「タオ・道」のマークである。
そうすると、私の「111」の完成は、69歳の4月8日となる。
そして「91歳−69歳=22歳」で、私の隠居生活は、22年間あると言う事に成る。
今朝は、其の件に関してか、初代から現在まで続く、代々の系図が現れた。
その系図は、左上が一代で、下方に順番に横書きで2・3・4と、代々の名前が書かれており、其の列は横に四段有って、私の意識の存在は一番右側の下の最後の所にあった。
私は、昭和62年2月26日に、京都の亀岡市に在る「田中真海老師」の大雲山西光禅寺で在家得度式を行い、「真悠護法居士」の戒名を受けている。
其の事に関係するのであれば、私は「釈迦牟尼佛」の弟子として、81代目の弟子である事に成る。
其れか、霊界の天皇霊に関係があるのなら、平成元年1月7日の夜中、私の心臓に飛び込んで来た「昭和天皇」の124代が関係ある事に成る。
其れは、神武天皇が初代であるから、それより前の「天照大神 →「忍穂耳尊・おしほみみのみこと」→「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」→山幸彦 →「鵜草葺不合命・うがやふきあえずのみこ」の五代を足して、129代にしなければならない。
更に、其の上には、天神七代・【陰陽×七代=14。「伊邪那美命・いざなみのみこと」から「国常立命」】プラス 造化三神(高御産巣日神から天御中主)計17神が、存在する。
今朝、其の代々の系図が現れた意味は、「時間・トキ」の概念を意味しているのであろう。
系図では、「釈迦牟尼佛」や「天照大神」が一代・初代であり、彼等が名簿では一番上に位置しているが、其れは、過ぎ去った過去の世界の人であるので、彼等が生きていた世界は、既に消えてしまって無いのである。
在るのは、我々が生きている、今日の「いま・現在」だけである。
其れを考えると、今の瞬間・トキを生きる我々が、最先端に位置するので、一番と言う事に成るのである。
だからこそ、私に「神霊の思頼・みたまのふゆ」が起きて、過去世を生きた4311体もの霊魂が、憑依して来たのである。
其の、過去世を生きた霊魂は、私の身体に憑依して、行動を共にして来たので、全ての事を理解して、昔の意識ではなく成っているのである。
そして、人類の未来社会を構築して、自分達も、新しい此の三次元世界に、生まれ変わりたいのである。
其の為には、自分達が生きて行く為に、未来社会を良い物にしなければ成らないのである。
しかし、彼等は、私と違って、此の世には肉体を持たないので、自らは手も足も出せないのである。
其れに、私以外には、彼等の意志を受け継ぐ者が居無いのである。
だからこそ、私に、ぼつぼつ動き出す事を、要求して来ているのではないだろうか。
其れは、未だ、道無き所に、新しき道を造る事である。
其れも、設計図も無く、道の行く手も決っていない世界である。
そして、其の道は、此の三次元の物の世界と、精神世界の両方の道である。
今朝は、其の他にも、動物のビーバーが現れ、数匹の子供を一人前に成るまで連れて歩き、育てて居る場面が映し出されて来た。
其の映像の意味は、全ての生き物は、命懸けで子供を一人前に成る迄、育て上げなければ成らない理・ことを示しているのだろう。
そして更に、沼から最初に陸に上がる、毛の薄いオットセイみたいな動物が一頭現れて、此方を見ていた。
その映像の意味は、人間の先祖が、葦の生える沼から誕生した理・ことを意味しており、釈迦牟尼佛や、神武天皇等から始まる系図は、ほんの短い間のモノであり、生命の存在は、永遠の時を重ねて来ており、その繋がりは、ビーバーの親の様に、一生懸命子育てを続けて来たからこそ、現在・いまが在るとの事ではないだろうか。
今朝のメッセージは、生物的な私の「血・DNA・遺伝子」の代々の繋がりと、釈迦牟尼佛からの精神的な価値観の繋がりと、神武天皇からの国体である政(まつりごと)の繋がりの、三系統の認識を、私に迫って来たのかもしれない。
其の様に考えると、最初に出て来た「111」の数字は、その三本の系図を、源に還って考えろとの事ではないだろうか。
先ず、其処のところを明白にしないと、DNAの繋がりである、姓名以外の二つの道の設計が、出来ないと言う事なのかもしれない。
しかし、其の三つの系統の流れを、理論的に組み上げれば、未来創造の基本的な枠組みは、自から見えて来るのではないだろうか。
其の様に考えれば、今朝のメッセージは、是から、私が取り組むべき道標を示して来ていると考えられる。
其れは、やはり、神霊界が存在し、私にヒントを与え続けていると言う事である。其れが、日本の伝統である「惟神の道」と言う事ではないだろうか。
そして、其の道の最先端に「先達・せんだつ(先に達した者)」として立っているのが、此の私と言う事なのであろう。
其れは、以前の私ではなく、老子の謂う、天が「嗇・しょく」として育て上げた「大修者」と言う事なのではないだろうか。
平成20年9月8日
礒邉自適
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2007/7/4
「二度目の自己の死」
悟り
二度目の自己の死
19・7・4
朝の映像は、私に二度目の「自我の死」が近付いている事を、予感させるものであった。
其れは、私の思考の中に、幾つかの表題が残っているだけで、其のテーマの中身を開こうとしても、もう中身が全て消えてしまっているのである。
何度、其の作業を繰り返しても、文字が現れないので、私の思考から、全ての価値判断が消えた事を、意味しているのではないだろうか。
其れは、23年前の夏、私が安房川の上流の山中で、孤独な修行を続けた時に、頭から言葉が消え、「自分」とか「我・われ」とかの、自己認識の単語も消え去り、自己意識が消滅した時期があった。
其の後、4311体の霊魂が、私の肉体を、代わる代わる順番に使用し始めたので、其れから23年間の私の思考は、私の物ではないのである。
今朝の映像は、其の4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」が終わりに近付いているので、私が脱魂状態の腑抜けに成り、再び、私の自我が死を迎える事が、予感されて来たものではないだろうか。
23年前、自我が消えた時には、私は立っている事さえ出来なかったので、杖を手にし、其の杖で大周天を掛ける事で、自己の存在をようやく支えていたのである。
そんな状態の私の身体に、4311体の霊魂が侵入して、夫々が己の「カルマ・業」の解決を果たそうと始めたので、私は今日まで、其の霊魂のカルマ・業で歩く事が出来たのである。
しかし、其の4311体の「神霊の思頼」が、全て解消すれば、再び私の自我・意欲が消滅し、私は自我の死を迎える事になる。
だが、私は既に、12日には屋久島を出る事にしてあるし、FMラジオにも出演する約束をしてあるので、動かない分けにはいかない。
是も、神の計略なのであろう。
次の予定を、私の自我意識に組んでいなければ、私は再び、真の瞑想状態・サマーディに落ち込んでしまうだろう。
だから、二度目の死を迎える直前に、私の意識を、次の舞台へと組み込んでしまっているのだ。
其れは、「無」と「有」の世界の、狭間の遣り取り(模様替え)である。
完全に、「有」である此の三次元世界から、縁を断ち切ってしまえば、私の働きは、此の世界(現れ世)では役に立たない事に成ってしまうのだ。
其れが、仏教で言う処の「小乗」の世界であろう。
私は、此の世界に、23年間付き合って来て、少々疲れても来ているし、厭気が差していて、此の世界に興味が失せ、面倒くさくも成って来ている。
だから、一度、無の世界に陥ってしまえば、空の世界に沈み込んで、「サマーディ・三昧」から、帰れないかも知れないのである。
其れを防ぐ為に、「原さん」達を屋久島に遣し、次への「レール・カササギ橋」を掛けたのではないだろうか。
其のカササギ橋を、掛けていなければ、次なる世界へと、私が足を踏み込まないからであろう。
しかし、今朝の映像に示されていた事は、一切の概念を、白紙状態から組み上げなければ成らない雰囲気であった。
其れは、無と有の概念から、再び、全てを組み上げて行かなければ成らないのである。
其れは、旧約聖書や、インドのヴァガバット・ギータや、日本の神話等のデータを、全て消去して、新しい概念を、0から組み上げなければならない理・ことを意味している。
其れは、過去世に生きた、4311体の霊魂にも出来ない作業である。
そんな作業が、果たして私に出来るのであろうか。
其れは、釈迦や、老子や、空海や、一休禅師の意識を踏み石にして、次の世界を構築する事である。
いま思い出したのだが、今朝のメッセージには、「利休」の名が現れて来たので、此処で「千利休」の名も上げて措こう。
今朝、何故、利休の名が特別に出て来たのだろうか。
私の師は、千利休が好みで、自分の長男にも「利休」の名を付けていた。
若しかしたら、無庵師匠が自分の存在を私に知らせる為に、暗に利休の名を出して来たのかも知れない。
私の師は、既に五年前の11月7日に彼の世に還っているので、私の一番身近に存在するのかも知れない。
何故なら、私の事を一番能く知っているのが無庵師匠だからである。若しかしたら、是から始まる第三ステージの総監督が、私の師なのかも知れない。
若しそうであれば、是からの私の行動は楽である。
何故なら、師の性格や、師が考えていた事は、私が一番理解しているからである。
其れは、無庵師匠が想っていた価値観が、是から創造するべき未来社会に対する、参考に成る部分が多々有るからである。
此処まで書き進めていたら、今朝の映像が、頭に再生されて来た。
其れは、二人の男性が長い一本の道を、組んず解れつしながら、左後方から、右前方に向かって進んで行く場面だった。
其の映像の意味を、私は、此の世はライバルが存在しないと、意識が成長しない理・ことを意味しているのかと考えていたが、どうやら、此の世と、彼の世の霊魂の交わりの事を、意味しているのかも知れない。
そうであれば、其れは、此の世のライバルの戦いではなく、彼の世の師と、此の世の弟子との、「ムスビ(ヨーガ)」を意味しているのかも知れないのである。其れが、仏教で言う処の「一大事因縁」の意味ではないだろうか。
今朝は、其の映像の前に、動物の睾丸・玉が出て来て、其れが太陽活動の中心に在るエネルギーと、直結している映像が映されて来たのである。
其れは、生き物の生殖機能が、「大日如来・マハーヴァイローチャナ(宇宙の真理の本体の意味)」と直結しており、其の働きこそが、金剛世界である理・ことを示すものである。
其れは、生物の生殖機能・システムこそが、純粋な世界である理を伝えて来ている。
其れが、大日如来が説いたとされている「理趣経」の教えであり、中国の「道・タオ」の中心的価値観の世界でもあるのだ。
そうであれば、今朝のメッセージは、大日如来から示されて来たものと言えるだろう。
【理趣経】真言宗の常用経典。大日如来が「金剛薩捶・こんごうさった」の為に、般若理趣の自性清浄なることを説いたもの。般若理趣経。理趣(事のわけ。物の道理。) 広辞苑から。
理趣経は、弘法大師空海が中国に渡り手に入れて来たものだが、伝教大師最澄が其の理趣経を読みたいと、空海に申し出ている。
処が空海は、最澄の意識レベルでは誤訳する恐れがあるとして、其の申し出を断っている。
其れ等の様子からすると、今朝のメッセージは、密教の極秘に迫って来ている事に成るのではないだろうか。
そうであれば、是から私が踏み込んで行く世界は、「大日如来・マハーヴァイローチャナ(宇宙の真理の本体)」である事に成る。
其れは、「阿弥陀・アミターバ・アミターユス(人間には はかり知れない 光と壽の世界の意味)」を、紐解いて行くことである。
私自身には、其れが出来る自信は無いが、此処まで、何も知らなかった私が導かれて来た世界である。
是から先も、私の知らない処で、其の道は準備されているのであろう。
そして、其の道を歩くのにも同行二人で、誰かが伴っているのだ。
其の、眼に見えない相手が、空海なのか、無庵師匠なのかは判らないが、私は、其のともがらの為に、一緒に、新しき道へと歩き出さなければならないのであろう。
学校や、社会で、受けるテスト・試験は、全て過去のデータに拠るものである。しかし、是から私が試される世界は、過去のデータが通用しない世界である。
しないと言うより、其れが有ると、邪魔に成る世界なのだ。
自我意識ではない、自己意識を持って、自分の中に、純粋な大日如来の認識を興し、其れを言霊・マントラに変えて、意識として、織り込んで行かなければ成らないのである。
其れは、過去世を生きた、聖霊の智慧でも及ばない世界である。
其れが、果たして、私に出来るのだろうか。
其の事に付いて、調べる図書館も無いのである。
誰も、頼りに成る者がいない世界に、踏み出して行かなければ成らないのだ。
此の不安な気持ちだけは、釈迦や老子やイエスも体験済みである。
そして、此の不安な立場を表現してあるのが、老子の「大人物」の概念であり、漢字の「疑」の象形の意味である。
歩き出さなければ成らないのだが、其の世界は、白く凍りつく大氷原の真ん中である。
何処に向かうかの一本の道さえなく、自分の足跡も残らない其の世界は、真の孤独の世界である。
其の、誰も居なくて、草花の一輪の色も無い世界で、其の者がどちらに向き、どんな息を吐くのかで、其の世界に意味が生じて来るのである。
其処に生じるのは、無音の中に響く、自分の呼吸音だけである。
そして、其処に立ち尽くす事が出来なく成り、其の者の呼吸音が聞こえなく成った時、その者の身体は、凍てつく氷と一体と成っているのである。
人間、真から孤独に成った時は、言葉を交わす相手もいないので、言葉を忘れ、言葉を忘れてしまえば、「自分」との言葉も消滅する。
「自分・われ」と言う言葉が消えてしまえば、最早、自分の存在を見出す事すら出来ない。
其処に存在するのは、言葉を持たない、物質としての物体だけである。
だから、太陽がない水の世界は、魂が無いと言えるだろう。
だからこそ、熱を持って生きている人間の意識に、ビルシャナの存在が浮かび上がって来るのである。
そして、其の「大日如来・マハーヴァイローチャナ」は、「阿・あ」と言う言葉の始まりとして、認識されるのである。
どうやら、ようやく、今朝のメッセージの源に返り着いたようである。
私の意識には、「太陽」と「阿・あ」の言葉が再生したのだ。
是で、明日からも私は、杖無しでも歩けるかも知れない。
言葉を紡ぐ、パソコンを頼りに、「大乗」の世界に、踏み出して行かなければ成らないのだ。
アメリカ建国記念日
平成19年7月4日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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2007/6/24
「他人を許す事には勇気が要る」
悟り
他人を許す事には勇気が要る
19・6・24
今日は、人間にとって、1番の敵は自分の心の中に在る事に気が着いた。其れは昨日、此の世に存在する物は、全て神の意思に因って現れている物だと、改めて自覚出来たからこそ感じるものであろう。
此の世界が、神の恩恵で創造されているモノ・現象であれば、其の恩恵で創造されている自分に、敵など在る分けがないのである。自分に敵として感じるモノが在れば、其れは自分の心が神の心から離脱しているからである。
しかし、人間も他の生物と同じく、自分のDNAを残す為のプログラムがされているので、自分の存続に邪魔に成ると感じるモノが、敵と想われてしまうのはやむを得ないのである。
ただ其れだけのことの理由の為に、人間は争いや戦争を続けて来たのである。
今日は、自分の生に執着が無く成れば、全ての敵は消え去り、平穏が訪れる事に気付いた。其れは、23年前に半年間屋久島の山野に住んで修行した時に、既に感じて居た事なのだが、其れから世の中をどうにかしなければと言う執着が生まれ、其の感情が、長らく自分を縛っていたので其れを忘れてしまって居たのである。
其れが今回、昔の自分を思い出させる様な人に出会って、其の人の感情に触れる事で、思い出されて来たのであろう。
他人を許せなく成っている時は、自分の意識が小さく成ってしまっている時である。何故、自分の意識が小さく成るのか、其れは自分が自分の生に執着が生まれている時である。自分の生に執着が生まれれば、自分の生に必要とされるあらゆる条件を整え様と考えるのである。其の時に、自分の生に邪魔に成る存在が在れば、其れが自分の敵として認識されるのである。
だが能く考えて見れば、自分の生を邪魔する者は殆どいないのである。それが敵と見えるのは、自分が創り出している世界の邪魔に成っているからで、全体的には何も邪魔に成っている分けではない。むしろ、全体的に把握すれば、全ての物は自分の為に存在しているのだと理解されてくる。
此の様な理屈は、世間的な日常の生活をして居れば気が付かない事である。だから、イエスは、其の日常から切り離す為に「私に付いて来なさい。」と言い、釈迦は「出家をしなさい。」と云ったのである。
一度世間の風から離れてしまえば、如何に自分が小さき世界に暮らしており、神の恩恵から離れた意識で暮らして居るかが、理解されて来るのである。
しかし、財産や、家族や、社会的地位等が無い者は、改めて捨てる物が無いので、自由に成る事は容易いが、沢山のモノを抱えている者は、其れを全部捨て去るのには余程の勇気と覚悟が必要である。
其れに、出家をしないで、世間に暮らして居る者が、自分の敵である他人を赦す事は、余程の覚悟がなければ出来ない事である。
其の、他人を赦す行為を、イエスは愛と謂ったのであろう。
しかし、其のイエスでも、権力者に意義を唱えたのである。其れは、全ての存在を赦していた事には成らない。だから、イエスの教えも、戦いや戦争を生み出す原因と成っているのである。
真実の訓えなら、敵が生じないのだから、戦いが生まれる分けが無いのである。其れは、日蓮の教えにも言える事である。日蓮の行動は、釈迦の真意を汲んでいるものではないだろう。もし、其れが正しければ、今の状況には成っていないだろう。そして、私の人生も、こんなモノ・状況には成らなかったはずである。
今日は、日蓮や他の4311体の霊魂も、自分の敵は自分自身が、自らの中に創造したものであると、感じたからこそ、全てを赦す事には勇気が必要であるとの想いが、私の意識に生じて来たのではないだろうか。
其の様に考えれば、私の意識も4311体の神霊の思頼(みたまのふゆ)からようやく自由に成る日を、迎えた事に成るのかも知れない。
本当にそう成れば、私は脱魂状態に成り、腑抜けの様に成るかも分からないが、其れはそれで良い事と言えるだろう。
奈良市の「大倭あじさい邑」の代表矢追日聖氏は、「霊界の魂が全部成仏すれば、人間と神の意識が直結されるので、皆、神の意識に到達する事が出来る。」と謂っていた。其れは、人間が不成仏霊に憑り依かれているからこそ、平和が訪れ無い事を意味している。
其の解決策として、此の世に生を受けている勇気有る者から、自分の敵を赦す行動を起こさなければ成らないのではないだろうか。其れが、愛に満ちた世界を創造する最も近道なのではないだろうか。
平成19年6月24日
礒 邉 自 適
投稿者: 礒 邉 自 適
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