坊主の本は鼠の餌
18・6・24
今朝のメッセージは、文字と言葉の大事さに付いてが、テーマの様である。
始めの映像は、私が、厚い紙か、皮の様な物に書かれた文字を、金束子・かねたわしの様な物を使い、水を掛けながら、次々に擦って消していた。
すると其処に、70歳位の歌仙風の男性が遣って来て、私に「貴方は 其処に書かれている 文字の意味が 解っているのか。」と、問うた。
私が、「読んでいない」と応えると、其の男性が、文字の意味を説き始めた。
すると、其の文字の意味する内容が、有名な人達の、傑作ばかりである事が判明した。
私は、其の人物に訊きながら、自分が消してしまった文字の跡を辿り、筆で墨を着け始めた。
其の作業を続けていると、全部が復元出来ない間に、其の男性は「食事の時間に成ったので 帰る。」と云って、其の場から立ち去って行った。
私は、其処に一人残され、回りの景色を見ると、サツマイモの畑の真ん中である。
目の前には、サツマイモの蔓が繁り、畑の畝土の中では、もう芋が大きく成り、土を押し割って、顔を出そうとしている。
其の芋が、顔を出す場面の映像の処で、私が、墨を着けていた言葉が、「此処の寺の坊主の本は 鼠の餌」だとの事が理解されて来た。
其の映像の意味は、薩摩芋が土の中に埋もれている時は、野鼠の被害が無いが、地面に顔を出すと、鼠の餌と成ってしまうとの理・ことの様である。
其の事が、寺の坊主の本と、何等かの関係が有るらしい。
どうやら、現在の寺に在る書物は、釈迦仏陀の言葉の力は、既に消え失せ、鼠の巣造りの材料にしか、成らないとの意味を含んでいる様である。
其れとは違い、私が復元しようとしている言葉の意味は、宇宙の森羅万象の「唯今・ただいま」の現象が、詩に詠み込まれた物であり、其の言葉に拠って、事象が安定をしている理・ことが、知らされて来ている。
人間の言葉は、人間だけの物ではなく、正しき真言に拠るところの言葉は、宇宙に意味を与え、此の森羅万象の事象の変化に、影響を与えているのである。
私は、其の、古代の人達が積み上げて来た叡智の言葉を、総てコソギ落としてしまおうとしていたのである。
人間の言葉とは、人間だけの物ではなく、宇宙の進化の流れと共に、進化して来た物であり、物凄く大事な物であったのだ。
其の大事な言葉は、文章と言うよりは、和歌に似た様なものである。
本当に、森羅万象の在り様を読み込んだ詩は、其のまま、宇宙の安定と進化を齎す事に成るのだ。
だからこそ、日本の天皇陛下の役割は、和歌を詠む事にあるのだ。
しかし、今朝の霊夢に現れた歌仙は、天皇とかの身分のある者ではなく、高貴な御仁の様なのだが、自由な身の上の様であった。
其の様な御仁が、存在して、言葉(人の魂)を繋いで来たからこそ、人類の存続が護られて来たのである。
しかし、現在の多くの寺の実状は、森羅万象を自分の目で観て、詩を詠むのではなく、過去の人達の言葉が、文章として残されている書物を、読んでいるだけである。
だから、寺にある本は、只の鼠の餌にしか成らないと、知らせて来たのだろう。
今朝は其の後、更に映像が映されて来た。
今日も、昨日に続き、マイクロバス一台分の女性達が登場して、其の女性が乗り込んだバスを、私が運転して、何処かに向かう事に成った。
昨日の女性群は、妊娠可能な人達であったが、今朝の女性群は、子供が居る母親のグループで、私はその人達の、子育ての勉強に、付き合わされているのである。
其のバスを、私が運転して、着いた所は、何処かの大学の構内であった。
私は大学に着くと、其の大学の図書館に向かい、本が澤山並んでいる本棚から、世界中の、正しい暮らしが行われている参考文件を選んで、講義をする教授に渡していた。
其の大学教授は、私が渡した本の名前を、図書室の借受け伝票に書き込んで、女性達が待つ教室に向かった。
私は、其処で、自分の役割が済んでホッとした処で、今朝の映像は終わった。
昨日のメッセージは、妊娠可能な女性の食物の件と、法律の整備に付いてだったが、今朝は、子育て中の女性達の生活様式に付いての用件で、其の講義内容も、私が選定しなければ成らない様子が示されて来た。
そして、一番大事な理・ことは、女性は、子供を産み育てる事に使命があるが、男性の究極の仕事は、宇宙を安定させる程のエネルギーを有した言葉を、残す事にあると言うことである。
其れが、本当の言葉の世界なのだ。
女性は子供を残し、男性は、言葉を残すのが役割なのである。
其処の処を、シッカリと認識出来れば、自ずから、男女の役割の違いが見えて来る。
男性が、お寺で、本ばかり読んで居ては、鼠の行動と、余り変わりが無いのである。
畑に行って、作物の生き様を見れば、自然の存在の意味が理解でき、人間はどう生きたら良いかの、答えが見付かるのである。もう、今までの様な坊主の生き方は、流行らないのである。
現代の世の中は、インチキ坊主や、偽神官や偽神父が多いので、男の子の目標が定まらず、まともに育つ事が出来ないのだ。
母親の子育ての責任は、子供達が、物心が付くまでである。
その後の、生き方の在り様は、男性側の責任と成るのだ。
其処の処の自覚がなければ、人類の未来は、決して明るいものとは成らないのである。
神社の祝詞や、お寺の経典、其れに教会での聖書の説明など、唱えられる言葉は、昔の偉人が残した言葉である。
其の言葉も、時代が進めば、時代に合う物と、合わない物が出て来るのは、当然の事である。
男が、自分の立場を自覚し、正しい言葉を確立しなければ、女性の苦労も報われないのである。
今朝のメッセージは、其の理・ことを、私に告げて来たのだろう。
是から、私が向かう方向は、どうやら、教育の立て直しにある様である。
平成18年6月24日
礒邉自適