達磨さんが笑った
2015/6/11
「唯一・ただ」
菩提達磨
唯一・ただ
27・6・11
今朝のメッセージの映像は、私が何処かの知り合いの家に、短期間世話に成って居るらしき場面が映し出されて来て、私が其の家の敷地の裏木戸を開けて、外に出ると、頭を剃って中国の仙人の様な着流しの服を着た、50歳代の男性が一人、私が出て来るのを待って居た。
私が、「何か御用ですか」と訊ねると、其の男性が「あそこに 車を停めているのは 貴方ですか」と訊ねるので、私が「そうです」と応えると、誰かの苦情が届いているとの事である。
私が、「貴方は お寺の住職さんですか」と訊ねると、「そうです」との事であり、私はお寺の敷地の何処かに、勝手に自分の車を停めている事が判った。
私は、其の車の所に向かう事にし、お寺の様な建物の中に入って、本堂の様な広間の、仏壇の台座の上に座っている、65歳位の男性に挨拶をした。
其の男性が、私の方に向き直ったので、私が自分の事を話し始めると、其の人が無言ではあるが、頷きながら、私の話しを聞いてくれるので、私は調子に乗って色々旅の話しを始めた。
其の話しでは、永平寺の出来事などが含まれていた。
すると、其の男性は、時々細面の大きな顔の両目を、白目にして、驚きや感銘の様子を表すのである。
そうしていると、其の男性の声なのかどうかは判らない声で、「日蓮はどうして禅天魔と言うのか」との声が聞こえて来た。
私は、其の質問に対して、私は身を乗り出して、日蓮宗の檀家である故「矢追日聖氏」の話を始めた。
すると、額が硬い物に当たったので、何だろうと思い前の方に手を遣ると、私と其の男性の間には、透明なガラスの壁が有る事が判った。
其れで私は、其の男性と同じ世界には居ない事が判り、向い合っている男性は、四次元世界に居る存在である事が判った。
どうやら私は、寺院の仏像に向かって、対話をして居た事になり、其の両目を白黒にする男性は、インドから中国に遣って来た「達磨禅師」の様である。
私が、自分は向こう側の世界の人物と、話して居たのかと思い、目線を下に向けると、其の場面は消えて、話題が、矢追日聖氏の処で消えた事を考えていると、以前に山口県萩市で「正傳 矢追日聖」と告げられて来た「正傳」との言葉が気に成って来た。
そして「正傳・ショウデン」が、日本語では「ただしく つたえる」なので、「ただしい」との日本語の意味が気に成って来て、「ただしい」は、「悲しい・嬉しい・楽しい」や「魂・たましい」などの言葉と同じく、「しい」を外すと、「ただ」である事が判って来た。
すると、其の「ただ」の言葉の意味するところが判らない。
「ただ」には「直・唯・只・徒」の漢字が有り、他には「無料・ただ」の意味もある。
今朝のメッセージの映像に登場した、両目を白目にする男性の存在は、私が曹洞宗の「永平寺」の事に触れ、「日蓮はどうして 禅天悪と言うのか」との言葉が告げられて来た事を考えると、禅宗の祖である「菩提達磨・ボーディダルマ」の存在である事は間違い無いであろう。
其の達磨禅師は、以前1987年の8月1日に私のビジョンに現れて、「お前にしか判らない静と動」との言葉を告げて来た。二度目は19年ぶりの2006年5月7日に喉仏が見える程の
大笑いの顔
で現れたので、私は其の日2006年5月7日に、「
達磨さんが笑った
」とのブログを、開設している。
其れから9年が経過している。
達磨禅師の逸話で有名なのは、インド国から中国の少林寺に遣って来て、弟子と成る「慧可」が訪ねて来るまで、
9年間
壁に向かって座って居たと言う話しである。
其れを考えると、大笑いで登場してから、私の話を真剣に聞くと言うか、私が話を出来るまで、9年掛かった事になる。
驚いた事に、今朝の文章の題を「唯一・ただ」として、此処まで打って来て、今「ただしい 助詞」で検索すると、何と、其の「達磨さんが笑った」とのブログの「唯一の真理の道」との文章が、検索に掛かって来た。
2008/12/25・・本日12月25日は、イエス-キリストの誕生日として、世界中でお祝いが行なわれている。
本日のメッセージの映像は、「唯一の真理の道」に付いて示されて来たと、謂える様なモノであった。・・
今朝の映像は、地球生命の全体的な繋がりと、人間の在り様と言うか、関わり方を、示唆して来ている様なので、其の理・ことに付いて、何等かの結論を見出さなければ成らないのだろう。
其れは、釈迦仏陀の謂う「ダルマ・法」と、老子の謂う「タオ・道」の言葉の概念を、新しい言葉で、定義付けしなければ成らないとの事ではないだろうか。
「正しい」の漢字の「正・セイ・ショウ」は、木造建築の柱の組み込みの象形で、柱を正しく組む事を意味している。だから「正」の漢字は、人間の作業の意味であり、真理や、ダルマや、タオとはあまり関係が無いだろう。
其の様に考えると、日本語の「ただしい」の言葉を、正しく理解しなければ成らない。
「ただしい」は、「ただ」に「さ・し・す・せ・そ」のサ行が助詞として付いて、言葉の意味を創り出している。其れは、「たださなければ」「ただしい」「ただす」「ただせ」「ただそう」である。
其の日本語に、どの漢字を当てれば、本来の大和言葉に当て嵌まるのだろうか。「ただ」は「ただ一つ」「ただひたすら」「ただまっすぐ」などの言葉が有るので、「唯一・ゆいいつ」の意味を含んでいる様である。
其れを考えると、「正しい・正す」も唯一の意味に通じており、「唯一の形態・唯一の方法・唯一のもの・・・」に、近付けるとの意味合いが有るのではないだろうか。
其の様に考えると、今朝のメッセージの映像の意味は、「唯一の自然法則」を示して来ているのではないだろうか。
良く考えて見れば、自然環境中の生物の関係性を見れば、人間だけが「言葉」や「文字」や「文化・文明」を有していて、自然法則から離れ、勝手な行動を続けて、地球環境のバランスを破壊している事に成る。・・・
「唯一の真理の道」
http://moon.ap.teacup.com/20060507/37.html
此の文章の内容からする、確かに、今朝の映像に登場した人物は、其の「菩提達磨・ボーディダルマ」であり、私が何故、1985年7月2日に日本一周の旅が終り、其の日、偶々宿泊した京都府網野町の「木津館」の御主人に、3日の朝曹洞宗の龍献寺の「安井桂造禅師」を紹介されて、新しい人脈に繋がり始める事に成ったのかも、理由が解って来た。
2003/4/23「7月2日」
http://star.ap.teacup.com/170606/202.html
2009/5/11「徳を積む」
http://green.ap.teacup.com/20060818/1139.html
其れに、本日6月11日の日付は、私が2006年3月19日に神から、「6月11日に紀(トキ)の祭りを行え」と告げられて来たので、
第一回の紀(トキ)の祭り
を屋久島の「大山祇神・おおやまづみかみ」の祠で行って、九年目の記念日でもある。
其の事を考えると、今朝の「菩提達磨・ボーディダルマ」の登場は、禅宗の事だけではなく、大山祇神の神霊も関係している事に成るのであろう。
其れに、曹洞宗の永平寺を開山した「道元禅師」の守護神は「白山菊理姫」であり、永平寺の奥の院は白山である。
其の、白山権現である「白山菊理姫」の本体は白龍であり、その白龍は私が此の神の世界に入った時に、私の肉体に巻き付いて来て、地球を私の左手の掌に乗せて、「
地球の管理を任す
」と示して来た。
其れを考えると、「大山祇神」と「白山権現菊理姫」は、深い関係があると言う事になる。
2012/9/15・・私には、「紀(トキ)の祭り」を行えとのメッセージが、2006年3月19日に、届いている。
2006年3月19日「6月11日(旧暦5月16日)に紀(トキ)の祭りを行え」とのメッセージが届いて、其れが「大山祇神・おおやまつみかみ」からの知らせである事が判った。其れから、私は「大山祇神」の研究を始めている。そして、「大山祇神」は「大山の巳かみ」であり、世界中で信仰対象に成っている、7回半トグロを巻く、事象を司る大蛇である理・ことが解った。・・・
「賢しらが消えるトキ」
http://green.ap.teacup.com/20060818/2439.html
今朝は、ガラス越で「菩提達磨・ボーディダルマ」の御霊と対面し、「正しい」との言葉が課題・テーマと成った。
其れに、「日蓮は どうして 禅天魔と言うのか」との言葉と言うか、質問が投げかけられて来たのは、其の日蓮の言葉が正しくない事を、示唆しているのではないだろうか。
日蓮上人は、「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と謂って、他の宗教は全て邪宗だと決め付けているので、現在まで創価学会は、其の言葉を材料にして他宗を非難して来た。
其の事が、「菩提達磨・ボーディダルマ」にとっては、疑問なのであろう。
此処まで、打って来ると、どうやら今朝のメッセージは、やはり「正傳」の言葉に付いて深く突き詰めて行かなければ成らない様である。
其れが、漢字の「正・セイ・ショウ」が、日本語の意味に合わないのであれば、他の文字を考えなければ成らない。
他の漢字の「直・唯・只・徒」が、当て嵌まるのであろうか。
2013/11/8・・私は、其の事務所の応接間に通され、社長が顔を出すまで、机の上に置いて有る書類に目を遣った。
すると、其の書類の中には「正」の漢字が、上下に二文字重なっている文字が有って、下の正の文字は、屋根の部分が潰れて傾いていた。
「正・セイ・ショウ」の漢字は、【解字】「囗+止」の組み合わせで、「囗」は、国や村の象形。「止」は、あしの象形。他の国へ向かって、まっすぐ進撃するの意味で、征の原字。転じて、まっすぐ・ただしいの意味を表す。篆文は、「一+止」。
【字義】[一]@ただしい。㋐まちがっていない。うそではない。まっすぐである。⇔邪。「公正」「中正」㋑きちんとしている。整っている。㋒まんなか。中央。Aただす。ただしくする。まっすぐにする。㋐直す。改める。「校正」㋑定める。㋒問いただす。取り調べる。㋓心や行いをきちんとする。整える。
Bあらかじめする。予期する。前もってはかる。Cまつりごと。政治。Dかしら。おさ。主君。また、村長。E長男。嫡子。また、正妻。F北斗七星の第一星の差す方向。G同じ官位の上位。また、主となる方のもの。⇔従・副。Hまさに。まさしく。ちょうど。たしかに。「正午」I本すじのもの。主なもの。表向きのもの。「正妻」「正攻法」
[二] @正月。年の初め。A鳥の名。Bまと。弓の的の中央。C税。=征。
[国]@まさ。㋐たしか。確実。㋑正目(まさめ)の略。「桐正」㋒そっくり。Aかみ。しょう。大宝令によって定められた役所の長官。 漢語林
「日高幸一」
http://green.ap.teacup.com/20060818/2864.html
2014/8/10・・本日8月10日は、旧暦7月15日で本来のお盆の日であり、其の元は、神道の「夏禊の日」が昨日の旧暦7月14日であったからである。
今朝のメッセージの映像は、其の夏禊ぎに関係が有るのか、日本語の「たましい」の言葉が何を意味するのか、明確にされて来た。
今朝のメッセージは、昨日が夏禊の日であり、水に関する事や「冲(氷+中)」の漢字が告げられて事と関係があり、私の意識の中に、氷の瞳が納まる映像が、映し出されて来た。
今朝のメッセージの映像は、前妻「名越美代子」の姉である「屋久美」さんが登場して、「私の家に来て良いか」と言うので、私は良いと頷いた。
そして、私が一人で家に居ると、何かの箱らしき物が届けられたので、其の箱の中を覗いて見ると、青い氷の様な色彩を放つ、真ん丸の物体が入っている。
私が、其の球体に見とれて居ると、其の丸い球体に巻き付いていた、翡翠色の球が数珠の様に付いている紐が、七つ程に切れて床に落ちた。
すると、其の氷の丸い球は、水晶の髑髏の右目に眼球として収まり、私の頭と鏡で向かい合った状態に成ってから、私の頭脳と合体してしまった。
すると、私の意識は、其の氷の白い球の中に納まってしまい、其れが日本語の「たましい」と呼ばれるモノである事が、理解されて来たのである。
私は、是まで、「たましい」を「魂しい」とか「球しい」と、漢字を使って表現して来た。其れは、悲しい・苦しい・嬉しい・楽しい・と精神状態を表現する言葉には「しい」の送り仮名が使用されているのに、「たましい」だけが「魂」で「しい」の送り仮名が付いていないからである。
「魂」の漢字だけで、「たましい」と読むのであれば、他の言葉も「悲・苦・嬉・楽」と、漢字一字にしなければ変しい事になる。・・・
「たましい」
http://green.ap.teacup.com/20060818/3158.html
此の文章には「・・其の氷の丸い球は、水晶の髑髏の右目に眼球として収まり、私の頭と 鏡で向かい合った状態に成ってから、私の頭脳と合体してしまった。
すると、私の意識は、其の氷の白い球の中に納まってしまい、其れが日本語の「たましい」と呼ばれるモノである事が、理解されて来たのである。・・」と書いてある。
其の、髑髏の眼球の中に収まった水晶は、今朝の映像に現れた「菩提達磨・ボーディダルマ」が、自分の両目を白目にした事と関係が、「鏡で向かい合った状態に成った。」と記してあるので、今朝の映像で、私がガラスの壁を通して、其の顔と向い合わせに成って居た事と、同じ状況・場面である。
其れを考えると、日本の神社に鏡が設置されている事と通じており、私は今朝、鏡を通して、四次元の「菩提達磨・ボーディダルマ」と向き合って居たか、自分自身の中に潜む「達磨・ダルマ・法」と、向き合って居たのかも知れない。
私は是まで、自分が神の世界・四次元世界に入った事を、神社の神鏡に例えて説明して来た。
2006/1/29・・此処から先、未来への事象の壁を抜ける事が、メビウスの輪の世界の意味であり、次元の向うに抜けないかぎり、答えは見付からないのだろうか。私は、個人的には、事象の鏡を向こう側に抜け出て、再び人々を迎える為に、此方側に引き返して来た。そして、向こう側のチャンネルを、こちら側に設置し情報を入力し続けて来た。・・
「4494」
http://star.ap.teacup.com/170606/743.html
2002/11/11・・其れ等の現象から、考えられるのは、この宇宙は二重構造に成っており、普通の日常の生活の裏側に、もう一つの世界が重なっていて、そちらの世界の方が力を持っており、私達が日常生活している此の世界は、鏡に映っている様な、仮の世界なのだと想われる。
鏡に向って、化粧をしている住人が、鏡の向こう側にも住んでいて、私達人間は、其の住人が化粧をした姿が、鏡に映っている存在なのだ。
鏡に向って、化粧をしている存在が、鏡に映る姿を失敗だと思って、鏡の前から立ち去れば、必然的に鏡に映っていた姿も消えてしまう。
例えが、不味い様だが、私達の存在は、ダークマターとダークエネルギーが映し出している仮の姿であり、宇宙・神が創り出している芸術作品なのであろう。・・
「中間子理論を超えるもの」
http://star.ap.teacup.com/170606/296.html
2007/10/29・・この様に、漢字の表記と、日本語の意味を見比べて行くと、漢字は相対的な世界であり、固定された物の姿を組み合わせる事で、意志を伝え様としている事が解る。つまり、固定された質量の部分を、認識システムとして使用している事に成り、時間的にも流れないものである。
一方、日本語の場合は、変化しながら移り行く様を表しており、固定された物の表現ではない。特に「悲しい」「苦しい」「楽しい」「うらめしい」「おとなしい」等と、日本語には名詞や動詞の後に「〜しい」を付して形容詞をつくっている。
「〜しい」とは「その様だ」との雰囲気を表すものなので、全部写真には撮れないもので、絶えず変化して行く様子を表している。こんな風に考えると、日本語は流動的な時間を言い表す言葉だと言える。
漢字が、日本に導入されて、約1500年程経つが、それまで漢語が無く、日本語だけで会話をしていた人々は、流れる自由な時間の中で生活していたのではないだろうか。・・・
「岩鏡」
http://green.ap.teacup.com/20060818/520.html
2003/5/23「後ろ向きに拡大する意識」
http://star.ap.teacup.com/170606/187.html
2003/7/22「固定された時間と流動的時間」
http://moon.ap.teacup.com/20061108/462.html
2006/8/16・・日本の古い言葉に、「神は 始めに 水鏡で来た」とある。
其れは、水瓶に水を一杯に張って、自分の顔を映しこみ、自我を認識する事である。
其れが、漢字の監察の「監・カン」の意味である。
監の文字は、「皿+臣+人」の組み合わせで、「鼎・かなえに水を張って 大きく眼を見開いて 人が覗き込む姿」の象形文字である。・・・
「本番」
http://star.ap.teacup.com/170606/1011.html
私が今朝、「菩提達磨・ボーディダルマ」と向き合って居たのは、三次元世界に身を置く私が、四次元世界に存在する霊魂と、対等に向き合って居た事に成り、其れは、私の意識と言うか立場が、唯一の場に、辿り着いた事に成るのではないだろうか。
其れは、他には、何も必要の無い、「魂しいと 魂しいの」対面である。
其れこそが、私の31年間の修行の結果であり、何も仏具を手にしていない「菩提達磨・ボーディダルマ」と、所有心が消えている私が、其処に存在した事になる。
其れを考えると、今回の神の計画・プログラムは、成功裏に完了・終了した事に成るのではないだろうか。
其処には、日蓮の様に、他を排斥しなければ成らない様な事は、何も無く、唯一の世界が「ただ」存在するだけである。
平成27年6月11日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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