達磨さんが笑った
2009/7/18
「神が笑った 」
ユーモア
神が笑った
21・7・18
私は25年前、此の世界に入って、全てがジョークである事が解かって笑い出したら、師が真面目な顔をして「自適さん 笑うな。いま 自適さんが笑ってしまえば 其の笑いの波動が拡がってしまい 其のトキの為に いま修行している人達の修行が 止まってしまう。」と云ったのである。私は、其の師の言葉を理解したので、笑う事を止めて来たのである。しかし、今朝は、神様の方が、笑って居る顔が現れて来た。
其の神様は男性神であり、顔は右側から左方を向いて居る左の顔で、其の顔は光輝いていて、何とも言えない良い笑顔であった。其れは、「全てが上手く行っている。完成した。完璧である。もう未来は大丈夫。人間は許された。真実が明らかに成った。真実が定着した。トキが完成した。過去の柵が取れた。」等、良い事を、全て上げて行かなければ成らない様な状態の表情である。
其れは、神の言葉が一切無いからこそ、私が勝手に意味付けの言葉が選べる世界である。
其れに今朝は、私の意識・こころの状態がいつもと違うので、女神のメッセージである「パートナーズ」を開いて見たが、其処でも何も言葉も出てこず、意識にも何も浮かばないのである。其れは、私の思考が停止しているのではなく、宇宙全体の森羅万象を探っても何も無い状態で、別の言葉を使えば「ノープログラム」と言える様な状態である。
今朝の私の意識の状態は、昨日の状態とは正反対の状況であり、全ての課題は、昨日の思考・悩みで全部解決して無く成ったかの様である。其れも、今朝現れた男性神の笑顔を、見せられた所為なのかも知れない。其れは、1984年11月21日に伊勢で現れて、「過去に8回失敗して 今回が最後のチャンスである」と告げて来た男性神の表情とは違うし、昨年の7月23日に現れた錬金術師の様子とも違っている。
「伊勢の神」
http://green.ap.teacup.com/20060818/934.html
「錬金術師」
http://green.ap.teacup.com/20060818/826.html
今朝は何故、初めて「神様・かみのさま」が、右側から左を向いて、笑顔で現れたかを考えると、四次元世界・絶対界に向けて、三次元世界・相対界から成功の歓びが成された・送られたとの事ではないだろうか。其の様に考えると、昨日のメッセージで三次元に降りて、其の空間から、様々な神の働きに繋がった事の意味も解けてくる。
其れは、古事記の名の意味からすると、「天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・真っ白の光輝く太陽」の位置に到達した意識が、真っ直ぐに17番目の「伊弉冉命・いざなみのみこと」の世界まで、エレベーターの様に降りた事に成るのではないだろうか。
私が今朝のメッセージで考えた事は、消防署の建物の中に有る鉄の丸い柱の存在である。其の丸い柱は、消防士がサイレンが鳴って緊急で飛び出す時に、手で掴まって滑り降りる物である。しかし、其れは下り専用であって、其の柱はツルツルで滑り易くしてある物だから、下から上に登る時は使えない物である。上の階に上がる時は、階段を登って行かなければ成らないのである。
其れは、神社のシステムと同じ様なモノなのではないだろうか。神社の、最上段の社に祭られている「天御中主神」に到るには、16番目の「伊弉冉命」の立場から、8段の螺旋を「左右・陰陽・雌雄」に回りながら「8(段)×2(左右)=16」を上って行かなければ成らないのである。其の螺旋階段の構造こそが、エジプトのギザのピラミッドの中に有る螺旋トンネルの意味であり、日本の大山祇神の綱・大蛇の7回半のトグロなのである。
そして、其の左右の神の働きが柱に巻き付いているのが、ヘルメスの杖の構造なのである。何故「ヘルメスの杖」が、人間の精神構造の象徴だとされているのかは、「天御中主神・宇宙心・鳥」の意識に辿り着く為には、8段の螺旋階段を登る必要があり、1番頂上に達して羽が付けば、「ククルカン・括る神」に成る事が出来るからであろう。
そして、頂上に達した者の意識は、身体を脱ぎ捨てられるので、意識は中央の柱を使って真っ直ぐに下に滑り降りる事が出来るのである。
そして、其の意識が、地上で四方・八方・16方・360度に意識を御陵威できるのが、ブッダでありスメラノミコトなのである。其のブッダの意識には、丸い渦巻きは残っているが、高い柱は必要ないのである。何故なら、其の柱は自分の身体に備わっている背骨が役割を果たしているからである。其れは、縦の柱・時間が消えて、全てが平面に成っていると言う事である。其の、時間が消えた平面の渦巻きこそが、アカシックレコードなのである。
だからこそ、大悟した釈迦牟尼佛の言葉には、「三世(過去・現在・未来)に私が在り 衆生一切吾が子」と有るのだろう。其れは、「私は目覚めたので、過去の情報は全て自分の意識の中に有る。其れを土台として、自分・朕が未来を創造する・縁を結ぶ事ができる」と言う理・ことである。だから、目覚めたブッダには、過去は単なる情報・記憶であって、時間とは存在しない理・ことに成るのだ。其れは、情報を集める為に、歩き回る必要が無いと言う事でもある。
其の意味で考えると、私は進学をする気が無かったので、小・中学校の授業以外では机に向かっていない。だから漢字が書けないし、社会の歴史も全く記憶に納められていないのである。其れに、海外旅行に出掛けていないので、国境が判らないし、アメリカやイギリスやフランス等が、実際に有るのかも定かではないのである。其れ等の私の認識は、本やテレビなどの映像で見ただけのモノだから、単なる知識でしかないのである。其れは、私が毎日夢で見ている世界と同じモノなのである。私には、現実世界でも、夢の中でも、パスポートが必要ないのである。
だから、私には国境も無いし、歴史的時間も存在しないのである。其れは、時空の「空」は有っても「時」が無いと言う事でもある。其れが、私の意識の自由さの要因なのであろう。其の自由とは、全てからの束縛が無いと言う「フリーダムfreedom・自由」であり、手錠が掛かっていないと言う意味の「幸・さち・しあわせ」の状態である。そして、ブッダに成った人間には、権利を意味する「リバティ liberty・自由」は必要ないのである。
今朝は、明け方に、「あべこべ」との言葉が告げられて来た。其の「あべこべ」の意味は、神様の世界があべこべに成っているとの事なのか、男女の関係があべこべとの意味なのか良く判らない。辞典で調べると、「あべこべ」の語源は「彼方此方」で、
「あべこべ」[名・形動]位置・順序・方向などが通常の状態とは反対であること。また、そのさま。さかさま。逆。「―な(の)意見」「手順が―だ」 と 載っている。
「彼方此方」の字面からすると、「彼岸(ひがん)」と「此岸(しがん)」が逆であるとの意味にも考えられる。其の意味にすると、此の世と、彼の世の価値観が逆様であり、此の世こそが天国であるとの受け取り方も出来る。人間は、此の三次元に肉体が有るからこそ、生きる為に四苦八苦するのである。しかし、肉体を離れてしまえば、其れは無に成る。だが、肉体がなければ、美味しい物を食べたり、恋をしてセックスを味わう事も出来ないし、雪スキーや海のダイビング等、地球の自然を楽しむ事が出来ないのである。
其れに、仏教には「煩悩即菩提」との言葉も有る。
「煩悩即菩提」・・この色(しき、物質的)の世界は空であるが、それ自体がすべて真如の表れである。したがって悟りを妨げる煩悩も真如の一面から現れたものである。したがって煩悩を離れて菩提は得られない。また逆に菩提なくして煩悩から離れることなはい。これが煩悩即菩提であるとする。・・─引用終了─
其の理で考えると、今朝笑顔で左に向かって笑って居た「神の様」は、全ての「煩悩(三次元世界の現象)」を、菩提に替えてしまった働きだったのかも知れない。だとすれば、其の意識体が私に定着した事に成り、4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」が完成したとの事ではないのだろうか。だから「女神の言葉」を開いても、何も意識に生じないのであろう。
もしかしたら、今朝の男性の笑顔は、大地の母である「ガイヤ」のお腹で臨月を迎え、お腹を食い破って外の出て来た、男性の働きを意味しているのではないのであろうか。もし、其のイメージが当っていれば、今朝現れ出た神の顔・意識体が「霊宿・ひと」として、再び人類の輪廻に関わって来る御魂・神霊を意味しているのかも知れない。其の様に考えると、私は2600年前の釈迦牟尼佛に代り、未来世界に生まれ落ちるマイトレイヤの意識を、育て上げた事に成るのではないだろうか。
其れは、未来が繋がった理・ことを意味し、日本の伝統である天津日嗣の世界を守った事にも成るのである。
「龍落子・たつのおとしご」は、お腹の大きな方が雄である。其れは、雌が、雄のお腹の袋の中に、産卵をするからである。其れを考えると、人間の世界も肉体は雌・女性の方が生み出しても、精神の方は雄・男性が育てていると言う理・ことに、成るのではないだろうか。
其れは、宇宙神・女神が送り込んで来た子供を、男性が地球で腹芸(肝っ玉)で育て上げると言う理・ことに成る。
今朝のメッセージの映像は、私にも初めてのモノなので、明確に理解する事が出来ない。しかし、今朝現れた男性の笑顔は、観音様の様な慈悲心を表現している物ではなく、男性の霊魂・たましいの完成を意味している様なモノである。其れは、人間世界で芸術に現されている男性の顔の表情ではない。芸術に取り組む者は、大体に置いて悩める者達であり、歓びに満ちて幸せに生活している者ではない。
あの有名な「レオナルド-ダ-ヴィンチ」さえ、女神の微笑みは描くのには成功していても、自分の自画像は悩める者の顔であるし、ロダンの「考える人」の像は、地獄の入り口の門番である。
其の様に考えると、今朝の男性の様な顔を見たのは私が初めてなのかも知れない。其れを考えると、今朝現れた笑顔の神霊は、2500年間衆生を救おうと悪戦苦闘して居た釈迦が、ようやく其の役割が完成して、四次元の方に移り住む事に成ったことを意味するのかも知れない。其の様に考えると、私が始めに列挙した、「全てが上手く行っている。完成した。完璧である。もう未来は大丈夫。人間は許された。真実が明らかに成った。真実が定着した。トキが完成した。過去の柵が取れた。」等の言葉のフレーズは、釈迦の気持ちに合っている事に成る。
釈迦牟尼佛は、「衆生一切が救われて 彼岸・天国に渡る事が出来たら 最後に自分が其の扉を閉めて中に入る」と謂ったとの事である。其の釈迦の言葉を考えると、正に今朝の顔は2500年間の想いが晴れた、釈迦の顔に相応しい物で在ったと謂えるだろう。其の様に考えると、老子を始め、イエスキリストや一休宗純禅師等も、今朝の男性の顔に便乗しており、私に25年前に起きた、4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」が、完成したと謂えるモノ・現象なのかも知れないのである。
屋久島は、46年振りに起きる皆既日食の為に、島中が騒がしく成って来ている。ニュースでは、トカラ列島に無断入島者が増えつつ有り、水の心配が成されているとの事である。其の点、屋久島は水の島なので問題はない。幸いな事に、橋が掛かっていない島なので、レンタカーや乗り込み車は、3000台以上には増えないと言う事である。
7月22日に、最大に膨れ上がった人間のカルマが、どの様な萎み方をするのか、其の有り様を見るのもまた一興である。
今朝の笑顔の男性とは、別の私も、未だ自我として存在を続けて行くのだろう。其れが、26年前の私とは、全然違う自分であっても・・・・。
平成21年7月18日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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