達磨さんが笑った
2008/9/16
「隠居と涅槃」
菩提達磨
隠居と涅槃
20・9・16
どうやら、9月15日の意味が解けて来た。
其れは、敬老の日に合わせて、私に涅槃の意味を知らせて来たらしい。
隠居と、涅槃を、辞典で調べると次の様に載っている。
「隠居」官職・家業などから離れて、静かに暮らすこと。また、その人。
「涅槃」吹き消すことの意 仏語。
煩悩(ぼんのう)の火を消して、知慧(ちえ)の完成した悟りの境地。一切の悩みや束縛から脱した、円満・安楽の境地。仏教で理想とする、仏の悟りを得た境地。
ここ数日のメッセージで、建物の二階で休む神霊や、山中の建物が現れたが、其れ等は、神霊の休み場所であり、涅槃の場であるのではないだろうかと考える。
其れは、此の三次元的に言えば、隠居している人間の姿でも、あると言えるだろう。
私は、20歳の誕生日の日までは、島内の隠居小屋を訪ね、お爺さんやお婆さんの「昔話」を聞くのが好きであった。
其の事を考えると、私も縁側で日向ぼっこをしながら、訪ねて来る若者に、自分の旅の思い出を語る時期に、達したとの事であろうか。
昨日は、何の気なしに知り合いのHPを見て居て、「内観」の文字の所をクリックすると、今月屋久島に引っ越して来た「お坊さん」が居る事が判かり、是から薬草園内に建設される道場の、指導者に成って貰えるのではないかと考え、昨夜開かれた、今月の大山祇神研究会に参加して貰った。
すると、其のお坊さんは、16年前22歳の時に、私の阿蘇の自宅に訪ねて来て、一晩泊めて貰った事があると云うのである。
其のお坊さんは、現在38歳で、誕生日が6月3日であるとの事。
そして、名前は「霊基・れいき」で、生まれる前に、お母さんの夢に、其の文字が現れて、付けられた名であるとの事である。
「霊基」とは、訓読みでは「みたまのもと」である。
其れに6月3日の日付は、私が此の世界に24年前に入った前日であり、私が倭姫命の御霊であると告げられた、「井上佳子」と初めて高知で出合った日でもある。
だから、何かと因縁めいた事が、昨日起きたのである。
其の、他人のHPを見たりしたのは、昨日の女神のメッセージで、「貴方は何もしなくても 全てはあたしの手の内・・・」と有って、私の気分が、直ぐに文章を打つ気に成らなかったからである。
何故、昨日、其のHPを見て視る気に成ったのか、自分でも良く分からないし、其のHPに澤山有る項目の中から、「内観」の文字を選んで、クリックしたのかも良く分からない。
其の原因を私なりに考えると、私の自我意識は無に成って居り、観自在菩薩の状態に成っているとの事ではないだろうか。
其れは、私の肉体は礒邉自適と名付けられている物であっても、其の肉体に棲む意識は「観音菩薩」だと言う事に成るのではないだろうか。
其れは、礒邉自適と言う人間の自我意識は、既に存在しないと言うことに成る。其れは、釈迦仏教で云うところの「ブッダ・佛陀・覚者・成仏」の状態と、言えるのではないだろうか。
昨日、其のお坊さん「船江霊基(ふなえれいき)」に、「何故 釈迦牟尼佛は 対象物を置いては成らないと謂っているのに、禅宗では 座禅堂に文殊菩薩を置いて拝んでいるのか。」と質問すると、智慧の意味だからであるとの事であった。
其の、私の疑問が影響したのか、今朝のメッセージは、其れに関するものの様である。
今朝のメッセージの映像は、先ず、私の車が故障したので、携帯電話を掛けて応援を頼むと、知り合いの人が、車で向かえに来てくれた。
其の人は、私が助手席に乗ると、周囲の状態を良く確認しないまま、車を回転させようとしたので、車が薮の中に飛び込んでしまい、身動き出来なく成ってしまったのである。
其の映像の意味は、智慧の無い者の車に乗ると、身動き出来なく成ってしまうとの事であろう。
其れは、是から、現実的に未来社会を組み立てるに於いて、智慧の無い者を使うと、動けなく成る事を意味している。
次の映像は、中に手紙が入っている封筒が現れた。
だが、其の封筒は、糊付けはされているのだが、未だ宛名書きも、差出人の住所や名前も書かれてはいないし、切手も貼られてはいなかった。
其の意味は、神の計画の内容は、既に決められているのだが、其の内容を発進する人も、受け取る側の人間も、決められていないので、情報を流せないと言う事を、意味しているのではないだろうか。
其の情報こそ「弥勒菩薩・マイトレイヤー・有情」の情報であり、文殊菩薩の智慧を意味しているのではないだろうか。
次の映像は、ファンベルトが切れて「ファン・風車」が回転しなく成ったエンジンが現れた。
空冷エンジンは、冷却装置であるファンが回らなければ、焼き付いてしまい、動かなく成る。
其れは、パソコン機器も同じであり、ファンが回転して、扇風機の役割を果たしているので、高熱発火を防いでいるのである。
其の意味は、現在の人間社会の経済システムの動きが激し過ぎて、オーバーヒートしてしまうとの事ではないだろうか。
其れは、エンジンが緩やかな回転をしている時は良いが、激しく回転している時に、ベルトが切れてしまえば、急に全体の回転が止まってしまい、動かなく成る理・ことを、示唆しているのであろう。
昨日は、其の一つの現れとして、現実にアメリカの大手証券会社である「リーマンブラザーズ証券」が倒産してしまった。
其の様な事は、是からも、次々に色んな面で、起こって来るのではないだろうか。
日本でも、また食糧品流通関係に於いて、米の流通でインチキが行なわれており、其の米を購入して、酒や焼酎を造っていた会社が、大変な目に遭っている。
ジョセリーノが預言していた、9月13日の巨大地震は起きなかったので、一安心だが、他の面で、段々と危機は迫って来ているのである。
今朝は、其の他に横書きで「メッセージ」「漢字」「グリン」「ホテル」の文字が、縦に四行並んで出て来た。
そして、其の四項目が、大事である事が示された。
・「メッセージ」とは、是からも、神の大事なメッセージは、続くとの事ではないだろうか。
・「漢字」とは、是から未来社会を構築するに当って、漢字文字が一番重要に成る理・ことを意味し、正しい漢字を創出して、世界の文化水準を高めろとの事ではないだろうか。
・「グリン」とは「緑・みどり」の意味であるから、地球環境を意味しており、地球の緑を回復しなければ、人類だけではなく、地球生命全体が、危機に陥る事を意味しているのであろう。
・「ホテル」とは、宿泊施設を意味しているのではないだろうか。
其れは、何等かの危機が起きた時に、都会から避難する人々が、多数発生するので、出来るだけ、田舎に宿泊施設を準備しなさいとの事なのかもしれない。
今朝は、其の事に関係が有るのかどうかは分からないが、茨城の森山さんから電話が有り、今朝のメッセージの内容を知らせて来た。
其れは、山の上に白い装いをした天照神が立っており、「いいかげんに・・・」と告げて来たらしい。
其れは、「早くしなければ待ちきれない」との意味合いを、含んでいたらしい。
何か、急いで始めなければ、人間にとって、都合の悪い事が起きるのであろう。
其れは、イエス-キリストの謂う「其のトキ」が、近付いている事を意味しているのではないだろうか。
昨日からの様子で、私が感じる事は、何か大きな動きが始まるので、私は動きを止めて、現実世界から身を引き「隠居・蟄居」をして、涅槃体制に入れとの事ではないだろうか。
其れは、釈迦牟尼佛の最晩年の生き方であり、卑弥呼の社籠りの姿とも似ている。
其れは、人間世界の生活に直接目を向け、関わる事を止めて、神界からのメッセージに全面的に意識を向ける事である。
老子の言葉には「吾れに 三宝有り」と有る。
其の一は「足るを知る」。二は「慈悲の心。三は「あえて人の先に立たず」である。
隠居するとは、其の三の宝である「あえて人の前に立たず」の世界ではないだろうか。
其の意味は、全体を視る役割の者は、一番先頭に立つと、何も見えなく成るので、前に立ってはいけないとの意味であろう。
昔と違い、現代社会はどんな田舎にでも、情報は即時に届く様に成っている。囲碁の世界で、「傍目八目・おかめはちもく」との諺が有る。
其れは、側で観ている者の方が、全体が良く見えるとの意味である。
だからこそ、昔は、聖者とか仙人は、人里離れた山に住んで居て、其処に皇帝等が、訓えを請いに通っていたのである。
現代社会には、お金儲けに長けた御仁は多いが、本物の聖者や仙人の存在の噂は余り聞かない。
其れに、神社や寺院が、お金儲けの片棒を担いでいる有様である。
私に隠居を迫って来ているのは、私に、其の役割に本腰を入れろとの事なのであろうか。
其の動きとして、昨日38歳のお坊さんと、再会させられたのではないだろうか。
38歳は、私が此の世界に入った年齢でもある。
私は、其の時には懐石料理や精進料理の意味も解からないし、お経や聖書等の勉強をした事もなかった。
だが、昨日再会した船江霊基氏は、38歳で、其れ等の事を既にマスターしているのである。
其の事実を見せられれば、私が涅槃体制に入っても、何等問題は無さそうである。
私が二度目に結婚した、倭姫命の生まれ変りである「井上佳子」のビジョンには、既に1986年12月31日に、私が涅槃体制に入っている姿が映像で映されているし、別の岡山の伊丹由香さんにも、2002年12月7日に同じ様な内容の映像が、映し出されている。
12月31日は、新年元旦の前の日である。
其れに、12月7日はお釈迦さんが成仏する前の日である。
其れ等の事柄からも、愈々、全てが本番を迎えるのではないだろうか。
其れが、岡本天明氏に告げられた天津日継神事の「神一厘の仕組みが 日本から始まる」との事ではないだろうか。
14年12月25日「自分の見る夢では 自分の姿が見えない」
http://moon.ap.teacup.com/20061108/222.html
平成20年9月16日
礒邉自適
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2008/9/15
「大山祇神研究会」
菩提達磨
大山祇神研究会
「自適の今日」
http://wave.ap.teacup.com/894019/877.html
本日は 旧暦の8月16日で 定例の「大山祇神研究会」が大山邦博宅で開かれた。
「自適の今日」
http://wave.ap.teacup.com/894019/877.html
驚いた事に、今朝 HPの検索で 9月に屋久島に定住する事に成った、禅宗の「お坊さん」が引っ掛かり、電話を掛けて今日の勉強会に誘ったら、16年前に、22歳で私の阿蘇の自宅に訪ねて来て、一泊した、広島のお坊さんである事が解かった。
屋久島 観‐行研修所
http://yakushima.kiroku.org/
今朝、女神のメッセージで、「全てはあたしの手の内」と、孫悟空物語の観音様の話の様な事が有ったが、正に其の現象が現れた。
女神の言葉「貴方が何もしなくても」
http://moon.ap.teacup.com/20060103/208.html
今日は、アメリカ国の証券会社「リーマンブラザーズ証券」が倒産したし、私の裁判の書類も、夕方全部返って来た。
是で 私は、全くの空に成ったので、9月15日は意って居たよりも、大きな意味が有る日と成った。
明日から 瞑想に入れるかもしれない。
平成20年9月15日
礒邉自適
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2008/9/11
「御霊屋の意味」
菩提達磨
御霊屋の意味
20・9・11
本日9月11日は、私の次女の31歳の誕生日であるが、アメリカの9・11のテロ事件から、7年目の日でもある。
今朝のメッセージは、其の事とは関係無いと思うが、人間の生の意味と、死の意味が示されて来た様な気がする。
今朝は、先ず、地面に築かれた基壇の上に在った小さな「社・やしろ」が壊されて、片付けられる場面が現れた。
社が取り除かれた土の基壇は、其処に、何が在ったかを知らない人が見たら、其処に以前に何が有り、誰が祭られていたのか、名前も判らなく成る事が示された。其の基壇と社は、神式の御陵(すめみまの命の瑞の御舎仕奉る)の意味であろう。
仏教式の墓は、石のブロック等で周囲を囲み、中に土を入れて高くし、其の一段高く成った場所に、名前を彫った花崗岩・御影石の墓石を立てて、亡く成った人の霊魂の供養をする。
だから、墓が護られ続けていれば、誰の墓であるかは、誰でも分かる。
漢字の「社・シャ」の意味は「示+土」の組み合わせで、「土を固めて基壇を造り、其の上に霊魂を斎祈する」の意味であり、「其の為に多くの人間が集まって、協力して基壇を造る作業をする」意味から、社は「集まる」の意味を持ち、「神社」神が集まる所、「会社」人間が会い集まる所、「社会」多くの人々が集まっている所、に使われているのである。
だから、漢字の意味からすると、人間社会が形成され始めたのは、亡く成った人の埋葬作業からなのかもしれない。
私の父親が、44年前に亡く成った時には、先祖代々の墓が屋久島には無いので、墓地の空いている場所を掘って、其処に遺骨を埋めて土を盛った所に、戒名を書いた墓標を立て、其の墓標が風雨に晒されない様に、1mくらいの御霊屋を建てた。
其れは、屋久島の一般的な埋葬の仕方である。
しかし、現在では、火葬場も出来ているし、お墓も近代化されているので、殆んど遺骨は骨壷に入れて、お墓の台の内に納められる。
今朝、何故、メッセージの映像に、御陵の社が出て来たかを考えると、昨日のメッセージの続きに成っている様である。
昨日の映像では、私の意識は、色彩豊に、様々な植物の葉が回りを取り囲んでいる中に、気持ち良く在った。
そして其処が、生命の帰命・ナームの場所であり、また生命誕生の揺り籠でもある理が示された。
そして、その場の意味を探ると、木の枠で組まれた家の形が、瞬時映された。其れは、今朝のビジョンで壊された、社に繋がる物なのであろう。
其の様に考えると、人間の意識の輪廻や成長には、或る場の設定が必要であると言う事に成る。
其れは、お墓の墓石や、仏壇の位牌や、神式の御陵であったりするのだ。其の延長線上に、諏訪大社の御柱や、伊勢神宮の遷宮の場所の地面に、塚が埋められるのではないだろうか。
其れは、カナダ国の先住民の文化である、様々な顔が刻まれるトーテンポールとも、意味合いが通じるのではないだろうか。
トーテンポールは、風化して自然に還って行く事が、大事なのだそうである。其れは、亡く成った人の霊魂が、自然にスムーズに還って行く事を、願っての物である。
其れは、仏教の「帰命・ナ−ム」と同じ価値観であり、日本語の本来の「いのり・祷り・還り」の感覚とも通じているのであろう。
そして、其れが、熊本県阿蘇に有る「日の宮弊立神宮」の名の「幣立て」とも、関係が有るのではないだろうか。
幣立神社の名の謂われは、神武天皇の三男である日子八井命が「日の宮幣立神宮」の祭神と成っており、其の長男である「天彦命・天城彦」が祀られている。
幣立神宮の「幣立」の意味は、阿蘇一宮の祭神「健磐龍命・たけいわたつのみこと(神武の孫)」が、日の宮に来て、御幣を立て、天神に祈りを捧げた事が、其の名の元と成っているのである。
其れを考えると、御幣を立てる事こそが、霊魂を降臨させる為の原点の行為なのではないだろうか。
そうであれば、神主や坊主を頼まなくても、誰でも、気軽で簡単に霊魂の供養は出来る筈である。
何故、其れが、民間の風習から消えてしまったかと言うと、神主や坊主が金儲けに成らないからではないだろうか。
其れ等の事も、昨日私が辿り着いた世界から見れば、何の為に、其れ等の事が行われ始めたのかの、原因も良く理解出来る。
そして、其の事に気付いたのが、ネパールに生まれた「釈迦牟尼佛」であり、南インドのセイロン島が在る州に生まれた「達磨禅師」なのであろう。
何故、昨日姿を現わした釈迦牟尼佛は、伝説通りに菩提樹の下に座っていないで、バナナの木の葉陰に座って居たのであろうか。
其れは、静かに瞑想生活を続けて居れば、何のストレスも無いので、バナナの実が熟すのを待って居て、一日に其れを数本食べるだけで、生きて行ける理・ことを示していたのかもしれない。
其れに、昨日驚いた事は、私に菩提達磨が現れたのは、昨日で三度目なのだが、2年前に現れた時にも、昨日と同じく、木の葉に付いてのビジョンが、現れていたのである。
何故、達磨さんと木の葉が関係深いのだろうか。其の理由は、自然と、人間の意識のコミユニケーションに、植物の葉が一番関係が有るからではないだろうか。
「言葉」も「言うのは葉」と書くし、昔は「品々」の事を「種種・くさぐさ・草草」と言っている。其れに、日本の祝詞の中にも、「・・・言問いし磐根樹立ち草の垣葉も語止めて・・・」との文言が有る。
菩提達磨現れし日。1回目1987年8月1日。2回目2006年5月7日。
3回目2008年9月10日
「人間の仕種を身に付ける」
http://moon.ap.teacup.com/20060507/6.html
「達磨さんが笑った」
http://moon.ap.teacup.com/20060507/30.html
達磨さんは、釈迦牟尼佛の10大弟子である「摩訶迦葉尊者」の「血脈・けちみゃく」であり、理論派の「舎利弗」とは違い、座禅専門の流れの人である。だから、手足の無いダルマ人形にされ、政治家の当選祝いや、商売に利用されているが、其れは、とんでもない罰当りな行為であると言えるだろう。
今朝は、次に、誰だか判らない男性と二人で海に行くと、黒鯛やグレの様な魚が澤山いて、手掴みでも掴まえられるので、私は海に浸かって、其れ等の魚を捕まえて、陸に居る男性に渡していた。
其れから場面が変わり、今度は、大きな河から、数人で網を岸に引き上げると、200Kg程の量の、色とりどりの鯉が澤山捕れたのである。
其れは、決して現実の事ではないので、何かの意味を、伝えて来ているのだと思われる。其の場面から、連想出来る事は、イエスキリストが漁師に網を打たせて、澤山の魚が捕れた場面である。
今朝のメッセージが、イエスキリストに関係が有るのなら、是から共に行動する者達には、イエスの御霊が働いて、奇跡的に恩恵を与えるとの事ではないだろうか。
其れから、又場面が変わり、今度は、安房区の区長さんが現れて、区長事務所の二階が空いているので、活動の拠点に使って良いと云うので、数人で事務所に行き、二階への階段を上がる処で、其の映像が終った。
其れは、是からの活動に、一般の人達が参加できる、公の活動拠点が必要である事を、示して来ているのではないだろうか。
今朝の最後の映像は、私の知り合いである「石垣雅設氏」が現れた。
石垣雅設氏は、新泉社と野草社の代表で、私は1985年7月26日(マヤ暦元旦)に出会っているので、既に23年の付き合いである。
其の映像は、石垣雅設氏が生活している新しい村を訪ねると、建物が有る庭に、幹が三本立てに成っている、大きな馬鹿木(捕まると直ぐに枝が折れる木だからそう呼ばれている・葉は天狗の団扇の形)が、植わっていた。
其の木を良く見ると、三本の真ん中に有る幹の上が、U字型に二又に別れているのである。其れは、左右が丁度同じ大きさで、同じ格好なのである。
石垣雅設氏は、其の形が面白いので、運んで来て庭に植えたのだと謂う。
私の意識は、其の二又の幹を眺めていて、其の二又の幹は、私と、石垣雅設氏の姿を現しており、其れが、お互いの「役割・命・みこと」に関係が有るのだと感じて居た。
石垣雅設氏は、是までにも、何回か私の夢に現れて来ている。
「魂魄」
http://green.ap.teacup.com/20060818/2.html
今朝のメッセージは、昨日、私が帰るべき処まで還る事に成功して、真実の答えを掴んだので、是から私を、新しい旅に出発させる為に、準備が整いつつある事を示して来ているのであろうか。
そうであれば、今朝のメッセージに、是からの活動に関する、ヒントが隠されている筈である。
其れは先ず、バカ木の幹が根元から三本に分かれており、其の中心の幹が途中から二又に分かれていた事に、意味が有るだろう。
其れは、物事が根本から三つに別れている理・ことを示しており、其の真中の一本の幹を、私と石垣雅設氏が分かち合って行動するとの事ではないだろうか。
其れは、石垣雅設氏が出版の仕事をして居るので、出版に関係が有るのかもしれない。そうであれば、私が本を作る事に関係するか、本の販売に、関係が有るとの事かもしれない。
此の映像は、正に「相対世界」の「相」の漢字の「木を目で見て認識する」の意味、其の侭の世界である。
一昨日のメッセージに有った事で、文章にしていない事がある。
其れは、「ギャー」と云う大きな悲鳴が聞こえてから、黒猫が現れて、招き猫の様に広い紙の上に座った。
其の紙には、カレンダーの様な物や、番付表の様な人名や、チラシの様な物が印刷されていた。其れは、此の三次元世界の経済事に関係が有り、其れを黒猫が管理している様なイメージであった。
「黒猫」と「悲鳴」は、西洋のカバラの秘儀に関係が有るのではないだろうか。黒魔術で、地下室で行われる儀式では、神呼び出しに成功すると、悲鳴と共に黒猫の霊が現れると聞いている。
其の黒猫の名は、「ミッド-ガルド-シュランゲー」とか言うらしい。しかし、日本では、黒猫は縁起を呼び込む幸運の象徴である。
其れに、昨年12月3日に猫科のジャガーが出て来た時には、やはり今朝と同じく木の柱も出て来ている。しかし、其の時は、柱が倒れる映像だったが、今朝の其れは新しく植えられた物であり、どんどん高く生長している、生きた木であった。
「美智子柱が倒れる」
http://moon.ap.teacup.com/20060403/478.html
昨日、神の家に帰り着いたのは、其の一昨日の黒猫の管理も、乗り超えての事だったのであろう。
其のイメージは、映画の「ネバー・エンディング・ストーリー・果てし無い物語」の場面と似ている。映画の主人公が、最後に試されるのは黒豹である。
其の試しに打ち勝って、新しい世界に到着出来るのである。
其の映画のシーンでは、主人公の少年が、新しい神の名を呼ばなければ、神が登場出来ないのである。
今朝のメッセージでは、神を祭る社が取り壊されて、其の存在と神の名も判らなく成ってしまった。
其の事から解かる事は、神の名が無いと、神も存在しないと言う事に成ってしまうと言う事である。
其れは、是から始める事も、人名や、物の名前がなければ、成り立たないと言う事も意味している。
だから一昨日の招き猫は、カレンダーの様な数字や、人名の番付表の様な物が書かれた、紙の上に座って居たのである。
其れは、物の名前がなければ、招き猫も経済を動かせないと言う事であり、私がネバー・エンディング・ストーリーの主人公の様に、新しい神の名を呼んだり、物ごとの名前や人選をしたりして、其の名を時間の壁に刻まなければ、未来は創造されない事を意味している。
今朝のメッセージは、昨日現れた釈迦牟尼佛や、達磨禅師の精神を柱として、自然のシステムを大事にしながら、新しい経済を起して行けとの事ではないだろうか。
其れに対して、イエスに「キリスト、メシア」としての力を与えていたサラスヴァティも、力を与えるとの事ではないだろうか。
其れは、イエス・キリストの様に、空間に向かって「パンよ増えろ」とか「網を打て」とか「此の者の身体から 外に出よ」と、此の私も、呼ばなければならないと言う事だろうか。
其れは、森の木の葉や、野の草々も、耳をそば立てて聴いている、言の葉の世界であろう。
其の様に考えると、私は自分自身を、是までとは違うステージに、持ち込んで行かなければ成らないことになる。
其れこそが、新しいミッションと成るのであろう。
今日は、途中で急に睡魔が襲って来たので、事務所のソファーで横に成って眠ると、自分だけが勝手に先に木に登ると、枝が折れて下に落ちてしまう映像が映されて来た。其れは、皆が揃う迄は、木に登るなとの事であろう。
其れは、諺にある「急いでは 事を仕損じる」との意味であろう。
新しい木が、大きく丈夫に生長するまでは、早まって、木に登るなと言う事なのだ。
未だ、今の木は、馬鹿木の侭で危ないと言う事だろう。
だが、植えられただけでも、有り難いと想わなければならない。感謝合掌
平成20年9月11日4時27分
死んだ妻の命日 4月27日
礒邉自適
投稿者: 礒邉自適
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2008/9/10
「神の家に帰り着く」
菩提達磨
神の家に帰り着く
20・9・10
本日の日付は、カトリック暦では2008年9月10日なので、数字が「8・9・10」と順番に並んだ事に成る。
其の数霊と、関係が有るのかどうかは判らないが、今朝私の意識は、初めて「神の家」に辿り着いて、座って居た。
其れは、私の意識が「帰命・ナム・アーメン」した事に成るのだろう。
「宗教」の本質とは、「宗教」の単語が「宗(おおもと)の教え」との意味であり、其れは明治維新で西洋文化を導入した時に、英語の宗教の単語である「リリジョン・religion」の意味の「再び神と結ばれる」を、日本の神の概念と同じであると考え、「宗(おおもと)の教え」と訳した物である。
其の根拠は、日本の「神(目に直接見えない働きの意味)」は、人間は、自分の罪穢れを禊ぎ祓いすれば、「神・かみ・カム」其のモノに、成れると考えられていたからである。
だから「再び 神と結ばれる」との概念は、日本のおおもとの教えと、同じであるとされたのである。
其れを、其の様に訳した、明治の学者が誰であるのかは判らないが、其の人物は、仏教の「帰命・ナム」の概念にも影響されていたのかもしれない。
若しかしたら、其れよりも更に深く、根本原理を知っていたのであろうか。
日本語の「いのり」には、漢字の「祈・キ」を使用しているが、祈の「示+斤」の組み合わせは、祭壇の前で足を折り曲げて、祈りをして居る人の姿を、横から見た映像の象形文字である。
しかし、以前は「祷り」と書いていた様である。
「祈祷・キトウ」の祷は、「示+壽」の組み合わせで、「壽・ジュ」は「長く連なる。ひさしい。」の意味であるから、「祷」は「神を祭る祭壇の前で 永遠の時間・トキを想い願う」との、意味合いである。
そして、日本語の「いのり」の「いの」は「帰る」の意味である。
現在でも、地方の方言では、家に帰る事を「ぼつぼつ家にイノ」と云うので、「いのる」の日本語は「帰る・還る」の意味であり、「祷る」仕種は、神仏の懐に帰る為の、精神的な儀式を意味しているのである。
其れは、ミレーの「晩鐘」に描かれている、夫婦の祷る姿に、イメージが重なるモノであり、神に対する感謝の意味合いも、含まれている。
本来の「祈祷」とは、商売繁盛や、合格祈願等の、欲望を煽るものではなく、自分や家族の罪穢れを祓い、病気などの悩みを祓い取る事、詰まり精神的な癒しを意味しているのである。
「癒・ユ」の漢字は「病+舟+刃物+心」の組み合わせで、「丸木舟の中を 刃物で削り取る様に、相手の病を削り取って 心を安らかにする」の意味である。
だから、宗教とは、相手の悩みや不安を取り除いて、安らかにして遣るべき世界であるから、戦争などを起して、平和を乱す事ではないのである。
其れ等は、現在の宗教とは反対の所にあり、「聖戦」とかの概念は、本来の宗教には在り得ないのである。
其の様に考えると、私が今朝、到達した映像の世界は、「宗教・リリジョン・religion」の究極の世界だったのであろう。
今朝の私のビジョンは、私の意識が、様々な色彩をした植物の葉に包まれた世界に在り、静かに座って、其の感触を楽しんで居た。
其の世界は、老子の謂う「恍なり惚なり 惚なり恍のなり」の、薄紅色と言うか、桃色の光の粒子の中に包まれ、自分が「光」か、光が「自分」かの、区別が着かない恍惚感に浸っている世界ではなく、其の光のエネルギーが、あらゆる植物の葉の形と成り、美しく光彩を放っている世界である。
だから、老子の謂う恍惚世界から一歩、物の世界に踏み込んでいると謂えるだろう。
私は、其の余りの美しさと、気持ち良さに、此処は何処だろうと想って、周囲を見渡すと、其処は、神の家の中である事が解かった。
其の家は、壁や屋根は無く、ただ家の形に、木の枠が組まれているだけであった。
私が、其の家の形をしている木の枠組みを見て、「神の家の中に座っている」と理解したら、其の木の枠組みは消えてしまい、元の美しい木の葉だけの世界に成った。
次の映像は、里の水辺に、美しいピンク系の装いをした女神が立っており、山の上を見ると、青い色を基調とした装いをしている「観音菩薩」が立っており、右横を見ると、実が着いているバナナの木を背景にして、男性のブッダが最高の表情をして座っていた。
此の映像の意味は、大地を司る神は「女神」であり、水が流れる里の管理は「サラスヴァティ(宗像三女神)」が行い、山岳は「観音様・菊理姫(奥津磐座・中津磐座・辺津磐座)」が管理しているとの事ではないだろうか。
そして、意識と謂うか、理論や「悟り(七光)」の世界は、仏陀やスメミマの「男神」が司っていると謂う事である。
其れを、数字的に表現すれば、女神が3で、男神が7で、3組合わすと「3・3・7」と成るので、三・三・七拍子のリズムと同じでもある。
次の映像は、何処かの演劇場で、女性歌手が舞台で歌を唄う場面であった。
会場には、男性客が大勢来て、観客席に座っている。そして、女性歌手が舞台に現れたのだが、司会者が上手く司会進行が出来ないので、歌手は歌い出せないで困って居た。
私は、首にカメラを提げて、写真を撮って居たのだが、其の状況を黙って見て居られなく成り、舞台の上に出て行って、様子を探った。
すると、司会者がメモっているのは、過去に流行った歌の資料だけで、女性歌手が歌おうとしている、新曲の題名も、其の歌のエピソードも、書いていないのである。
それで、司会進行が出来ないで、歌謡が始まらなかったのである。
其の意味は、女性歌手が弁財天を意味しており、弁財天は新しい歌詞を創作し、新しい曲を演奏したいのに、司会進行係の男性が、昔し流行った歌の情報しか知らないので、先に進めないとの意味であろう。
其の、昔し流行った歌・詩とは、2600年前の釈迦仏陀の「経典」や、2000年前のイエスキリストの「聖書」の事を、意味しているのではないだろうか。
イエスは、ヨルダン川の水で禊ぎをして精霊に満たされ、釈迦は、池で水浴びをしてから悟っている。
其れは、どちらも、水の神である「弁財天・サラスヴァティ」の力に拠って、弁舌の世界に、目覚めた事に成るのである。
だから、是から、新しい歌詞を歌う事に成る男性神も、水に拠る禊ぎを済ませた男性であると、言う事に成るのではないだろうか。
そして、今朝、最後に現れたビジョンは、60歳ぐらいの右目を大きく見開いている男性の右顔が現れ、私を、其の右目で視て、目線が合ってから、向こう側に消えて行った。
其の、目の表情から察せられる人物は、達磨禅師である。
と謂う事は、バナナの木を背景に座っていた男性は、釈迦仏陀で、達磨の意識は、其の釈迦仏陀の真実の姿を見たとの事を、私に知らせたのかもしれない。
であれば、今朝、私が帰り着いて居た神の家に、私を案内したのは「猿田彦神」ではなく、達磨禅師であった事に成る。其れは、昨日書いた、釈迦の弟子が81代目にして、カルマが解かれたとの事が、当っていたのではないだろうか。
「達磨さんが笑った」
http://star.ap.teacup.com/170606/887.html
「人間の仕種を身に付ける」
http://moon.ap.teacup.com/20060507/6.html
考えて見れば、私の全国の旅が1985年の7月2日に丹後半島の網野町で終わり、3日の朝、宿の木津館の主人に案内されて、着いた所が禅宗の「龍献寺」だった。其の、龍献寺の住職である「安井桂造氏」の紹介で、新しい人脈に繋がり始めたのである。
其れまで、全国の旅の案内をしたのが猿田彦神であったので、7月2日を持って、私の案内役は猿田彦神から達磨禅師へと、バトンタッチが行われた事になる。
其れは7月2日で、肉体的な旅から、精神的な旅に、切り替わった事を意味している。
私の旅を、其れまで支えていたのが「猿田彦神」である事を知ったのは、北九州市小倉の旦過市場の近くに在る「瑜伽神社」の、境内に有る「猿田彦神」の名が刻まれている石碑での出来事からである。
「猿田彦の神」
http://star.ap.teacup.com/170606/1079.html
「猿田彦神社」
http://star.ap.teacup.com/applet/170606/303/trackback
「人間の深層心理」
http://moon.ap.teacup.com/20061108/390.html
先ほど、埼玉の「高橋伸氏」より電話が有り、今朝見たビジョンの内容を知らせて来た。
高橋伸氏が見たビジョンは、何処かのコミュニケーション-センターらしき建物の会場に、明るい光の世界を求めて、中年の女性ばかりが押しくら饅頭の様に、ギュウギュウ詰めに澤山集まっており、霊能者的人物が登場するのを、待って居たとの事である。
其れは、私が見た、女性歌手が歌う会場に、男性客が集まって居たのとは反対で、人気の有る霊能者の男性の講演に、澤山の女性が集まっている様子を示している。
其れは、「男性」を集めるのは女性の力で、「女性」を集めるのは、男性の力であると言う事になる。
此処まで書いたら、急に睡魔が襲って来たので、事務所のソファーに横に成ると、何処かの森の中の、水が流れる谷川の、丸い花崗岩の岩が現れて来た。
そして、其処の岩の上が神の座であり、其処に座れる者は、其処に二度達した者でなければ成らない理が、文章にて示されて来た。
其のビジョンの意味は、文字が読める者である事、そして一度其処に達しただけでは駄目であるとの事である。
其れは、何故かと謂うと、一度だけの体験では、其の人自身が、其の事に取り組むのに一生懸命で、自分が何を行っているのか、客観的に観る事が出来ないからである。
処が、同じ人間が、同じ場に二度目に立つ時は、前の体験が参考に出来るので失敗もしないし、一度目とは違い、より良き道の選択が出来るからである。
だからこそ「転輪聖王・チャクラブルティン」とは、転生を必要とするのであろう。
其の、映像に現れた場所は、以前、大阪に出かけてホテルに泊まった夜に、ビジョンに出て来た谷川の岩であり、以前には、其の岩の上に三匹の「豸・チ」が居て、其の中の一匹が、ピョンピョンとリズム的に飛び上がって居た場所である。
しかし、今日の映像には、其の岩の上には其の「豸」の姿は見られず、其の豸の霊魂・たましいが、私の中に在って、私を其の岩場に、上げ様と働いていた。
私は、其の意識に逆らいながら、其の場所こそ、出雲で言う「熊熊しき谷」である事を理解した。
「熊熊しき」とは、「神神しき」との意味で、「熊野大社・熊のおおやしろ。(神祖熊野大神櫛御氣の命・かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)」の「くま・神」の意味であり、「くま・神」の気配が強くする谷の意味である。
「豸・かいたい」
http://moon.ap.teacup.com/20061108/87.html
「左の門を出た」
http://moon.ap.teacup.com/20060403/66.html
其れは、大陸から持ち込まれた「天津神・渡来系」の神ではなく、日本列島に古くから住む「蝦夷・えみし」や「アイヌ」の神である。
「熊熊しき谷」こそ、アイヌ語の「カムイコタン・神居川谷」と、同じ背景を持つ言葉であり、沖縄文化の神祭りの場である「御嶽・ウタキ」にも通じる世界である。
それこそが、アニミズムの原点であるのではないだろうか。
そして、其の世界には、背景に同じ決まりが存在する。其の決まりとは、「神の棲む 神聖なる地は 木の枝を折ったり 苔を剥いだり 落ち葉を除いたりしてはならない」と、言う事である。
出雲の「熊熊しき谷」の入り口には、素戔鳴尊と櫛稲田姫の長男である「湯山主命」と、妻の「木花知流比売命 (このはなちるひめのみこと)」が祭られている神社が有る。
木花知流比売命は、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と姉妹で、大山祇神の娘である。
其れを考えると、今朝の映像に現れた女神は、其の二人であり、右側に座って居た男性は、インドまで飛んで行って、釈迦の霊魂・たましいと成った「大山祇神・大己貴(おおなむち)・大物主」だったのかもしれない。
そうであれば、今朝の木の葉の褥・しとねは、「木の葉な散る姫」の木の葉の世界であり、私の意識は「森依体・グリーンマン」として、素戔鳴尊の霊魂と成っており、長男の嫁さんに大事にされていた事にも成るのだ。
神の世界は、時節毎に、同じパターンで繰り返されているので、「神・はたらき」が重なって来るのは、当然の成り行きである。
其れは、年の始めに立てられる「譲り葉」に、其の訓えが秘められているのだろう。
今朝、私が到達した神の住む家とは、其の事象の決まり事が秘められている、聖なる森の情報が、集約された異次元空間であったのだろう。
其処に、私が案内されたと言う事は、私が豸の霊魂・たましいを内在したからであろう。
だとすれば、決まり事を秘めた、聖なる言葉を判断する、天秤計りの重石調整の権を、私が手にした事に成る。
其の意味は、私が此の世界に入った時に、神に持たされた杖が、真実の力を発揮する時が、来たとの事ではないだろうか。
9月15日は「敬老の日」であるが、大山祇神の8月の研究会の日でもある。そして17日からは、三組の人間が屋久島入りをする。
いよいよ其処から、具体的な動きが、三次元世界に現れて来るのではないだろうか。
今日の昼間の映像で、私の意識は一点に絞られて来た。
其れは、自分の中に内在された、言葉の番神である「一角獣」の角先にである。
其れは、神社の鳥居の左側に座っているユニコーンと、同じ意味を持つ。
是で、私は、他人の行動や言動に対して、簡単に「吽・うん」と頷く事が出来なく成った。
其れは、最早12時間も経たない内に、神の家から出されて、仕事場に復帰しているからである。
平成20年9月10日3時45分
礒邉自適
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2008/9/8
「先達(せんだつ)」
悟り
先達(せんだつ)
20・9・8
本日9月8日は、大本教の出口王仁三郎が「9月8日には12の秘密が有る」と、謂っている日付であり、明日9月9日は九の陽数が重なる「重陽の節句」である。
今朝のビジョンは、簡単に云えば、私が先達として、歩き出さなければ成らない様子が伝えられて来た。
其のビジョンとは、「111=91(13×7)」の数字と、初代から始まった系図の一番下に、私の名が書き込まれており、私が一番下の弟子であるが、私が時間の最先端である事が示された。
そして、私自身が車を運転して、新しい道路を造る現場に行く場面が現れた。
私は、車を運転しながら、唇に白い紙を二枚咥えて居た。
しかし、現場に着いて、其の紙を見ると、其の二枚の紙は、設計図などではなく、未だ何も書き込まれていない白紙の物であった。
どうやら、今朝のビジョンは、昨日のメッセージで「大修者」「動いてみるか」と、告げられて来た事の、続きの様である。
私は「動く」とは返答していないのに、神霊界では、既に、次の段取りに入っている様である。
先ず、数字の「111」は、物事の始まりと、終わりを意味しているのだろう。
「一」は始まりであるが、物ごとが始まる時には、既に、物は「三」に分かれており、三方向に分かれる事自体が、始まると言う事であろう。
そして、物事が終焉を向かえる時も、「三」に返ると言う理・ことである。
今朝の映像には、丸い透明なガラスの様な容器が、六段重ねられているのが映し出され、其れが上の分から、順番に右の方に下ろされて、「三・二・一」の状態に並べられた。
其れは、人間の意識の組み立ての基本を、説明して来ているのではないだろうか。
六段の容器は、「三・二・一」の反対の「一・二・三」にも並べられるが「二・二・二」にも並べられる。
其れは、中国の易の原点をも示唆しているのかもしれない。
其れが、明日の「九」と言う、一番の陽数であれば「三・三・三」の数字になり、易の式 其の侭である。
それに、其の「三」自体が、「一」は小さく「一・一・一」に、分けられるので、「三」自体が「九」の数を含んでいるのである。
中国の、老子の道徳経の一節には「始めに 一が有り 一から二が生まれ 二から三が生まれ 三から全てが生まれた」と在り、其れが「道教」の始まりと成り、現在の易の世界が在るのである。
大本教の流れを組む、岡本天明氏の日月神示には「老子だけを内に祭り 他の神は全部外に祭れ」とある。
其の神示からすると、今日から、其の「神一厘の仕組み」が始まるとの事であり、出口王仁三郎の遺言である9月8日の秘密が、開いたと言う事なのかもしれない。
出口王仁三郎が、生前に鹿児島の知り合いである鹿児島出身の政治家・床次竹二郎の弟、「真廣」に渡した手紙・遺書に「現在・いまの宗教は 全て偽物だ 本物が現れたら 大本も終わりだ。其の本物は鹿児島から 下駄を履いて チャラチャラ遣って来る」と云っていたとの事である。
其の出口王仁三郎は、私に起きた4311体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」でマクロビオティックの創出者である「桜沢如一」に次いで、二番目に現れ、私に下駄を履かせて、毎日歩く訓練をさせたのである。
そして、三番目に現れたのは「宮本武蔵」であった。
そして、私が、1985年7月4日に、京都府亀岡市の湯の花温泉に在る、杉岡判太夫政房氏の経営する「憩いの家」の温泉に入りに行くと、私の様子を見た宿の主人である「杉岡判太夫政房氏」が驚いて、私に「今日 此処に泊まってくれないか」と云った。
私は、其れを断る理由も無いので、泊めて貰う事にした。
そして夜、食事が済んだ後「此の本を読んでくれ」と云って、渡してくれた本が東京で「さすら」を主催していた「金井南龍氏」の本であり、其の中に、先ほどの手紙の内容が書かれていたのである。
次の日、杉岡氏に勧められて大本教の本部に行くと、係りの人が出て来て会館に通された。そして、広間に座ると、右隣りに出口王仁三郎の霊が出て来て座り、前方から「出口ナオさん」が、紐に玉を通した櫛玉を、三方の上に澤山乗せて持って現れ、其れを王仁三郎に手渡したのである。
「鴻基始・こうきし」
http://star.ap.teacup.com/2007313/32.html
「儀式開始」
http://green.ap.teacup.com/20060818/749.html
話を、数字の世界に戻すと、何故か、「111」を割る式が、「13×7」だったのである。だが「13×7」は、「91」である。
其の意味する処は、何であろうか。
其れは、111に返るか、辿り着くまでが、「13回×7年=91年」か「13ヶ月×7=91ヶ月」の月日が掛かるとの事であろうか。
其れとも、もっと大きな、サイクルの数字なのであろうか。
其れとも、91年は私の寿命であり、91ヶ月は、私の是から取り組む「仕え事・しごと」の期間なのであろうか。
若し、其れが仕事の期間であれば、61歳+7年と7ヶ月と成って、69歳の4月8日と成るので、4月8日は釈迦の誕生日であり、69は「タオ・道」のマークである。
そうすると、私の「111」の完成は、69歳の4月8日となる。
そして「91歳−69歳=22歳」で、私の隠居生活は、22年間あると言う事に成る。
今朝は、其の件に関してか、初代から現在まで続く、代々の系図が現れた。
その系図は、左上が一代で、下方に順番に横書きで2・3・4と、代々の名前が書かれており、其の列は横に四段有って、私の意識の存在は一番右側の下の最後の所にあった。
私は、昭和62年2月26日に、京都の亀岡市に在る「田中真海老師」の大雲山西光禅寺で在家得度式を行い、「真悠護法居士」の戒名を受けている。
其の事に関係するのであれば、私は「釈迦牟尼佛」の弟子として、81代目の弟子である事に成る。
其れか、霊界の天皇霊に関係があるのなら、平成元年1月7日の夜中、私の心臓に飛び込んで来た「昭和天皇」の124代が関係ある事に成る。
其れは、神武天皇が初代であるから、それより前の「天照大神 →「忍穂耳尊・おしほみみのみこと」→「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」→山幸彦 →「鵜草葺不合命・うがやふきあえずのみこ」の五代を足して、129代にしなければならない。
更に、其の上には、天神七代・【陰陽×七代=14。「伊邪那美命・いざなみのみこと」から「国常立命」】プラス 造化三神(高御産巣日神から天御中主)計17神が、存在する。
今朝、其の代々の系図が現れた意味は、「時間・トキ」の概念を意味しているのであろう。
系図では、「釈迦牟尼佛」や「天照大神」が一代・初代であり、彼等が名簿では一番上に位置しているが、其れは、過ぎ去った過去の世界の人であるので、彼等が生きていた世界は、既に消えてしまって無いのである。
在るのは、我々が生きている、今日の「いま・現在」だけである。
其れを考えると、今の瞬間・トキを生きる我々が、最先端に位置するので、一番と言う事に成るのである。
だからこそ、私に「神霊の思頼・みたまのふゆ」が起きて、過去世を生きた4311体もの霊魂が、憑依して来たのである。
其の、過去世を生きた霊魂は、私の身体に憑依して、行動を共にして来たので、全ての事を理解して、昔の意識ではなく成っているのである。
そして、人類の未来社会を構築して、自分達も、新しい此の三次元世界に、生まれ変わりたいのである。
其の為には、自分達が生きて行く為に、未来社会を良い物にしなければ成らないのである。
しかし、彼等は、私と違って、此の世には肉体を持たないので、自らは手も足も出せないのである。
其れに、私以外には、彼等の意志を受け継ぐ者が居無いのである。
だからこそ、私に、ぼつぼつ動き出す事を、要求して来ているのではないだろうか。
其れは、未だ、道無き所に、新しき道を造る事である。
其れも、設計図も無く、道の行く手も決っていない世界である。
そして、其の道は、此の三次元の物の世界と、精神世界の両方の道である。
今朝は、其の他にも、動物のビーバーが現れ、数匹の子供を一人前に成るまで連れて歩き、育てて居る場面が映し出されて来た。
其の映像の意味は、全ての生き物は、命懸けで子供を一人前に成る迄、育て上げなければ成らない理・ことを示しているのだろう。
そして更に、沼から最初に陸に上がる、毛の薄いオットセイみたいな動物が一頭現れて、此方を見ていた。
その映像の意味は、人間の先祖が、葦の生える沼から誕生した理・ことを意味しており、釈迦牟尼佛や、神武天皇等から始まる系図は、ほんの短い間のモノであり、生命の存在は、永遠の時を重ねて来ており、その繋がりは、ビーバーの親の様に、一生懸命子育てを続けて来たからこそ、現在・いまが在るとの事ではないだろうか。
今朝のメッセージは、生物的な私の「血・DNA・遺伝子」の代々の繋がりと、釈迦牟尼佛からの精神的な価値観の繋がりと、神武天皇からの国体である政(まつりごと)の繋がりの、三系統の認識を、私に迫って来たのかもしれない。
其の様に考えると、最初に出て来た「111」の数字は、その三本の系図を、源に還って考えろとの事ではないだろうか。
先ず、其処のところを明白にしないと、DNAの繋がりである、姓名以外の二つの道の設計が、出来ないと言う事なのかもしれない。
しかし、其の三つの系統の流れを、理論的に組み上げれば、未来創造の基本的な枠組みは、自から見えて来るのではないだろうか。
其の様に考えれば、今朝のメッセージは、是から、私が取り組むべき道標を示して来ていると考えられる。
其れは、やはり、神霊界が存在し、私にヒントを与え続けていると言う事である。其れが、日本の伝統である「惟神の道」と言う事ではないだろうか。
そして、其の道の最先端に「先達・せんだつ(先に達した者)」として立っているのが、此の私と言う事なのであろう。
其れは、以前の私ではなく、老子の謂う、天が「嗇・しょく」として育て上げた「大修者」と言う事なのではないだろうか。
平成20年9月8日
礒邉自適
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