2007/6/24
他人を許す事には勇気が要る
19・6・24
今日は、人間にとって、1番の敵は自分の心の中に在る事に気が着いた。其れは昨日、此の世に存在する物は、全て神の意思に因って現れている物だと、改めて自覚出来たからこそ感じるものであろう。
此の世界が、神の恩恵で創造されているモノ・現象であれば、其の恩恵で創造されている自分に、敵など在る分けがないのである。自分に敵として感じるモノが在れば、其れは自分の心が神の心から離脱しているからである。
しかし、人間も他の生物と同じく、自分のDNAを残す為のプログラムがされているので、自分の存続に邪魔に成ると感じるモノが、敵と想われてしまうのはやむを得ないのである。
ただ其れだけのことの理由の為に、人間は争いや戦争を続けて来たのである。
今日は、自分の生に執着が無く成れば、全ての敵は消え去り、平穏が訪れる事に気付いた。其れは、23年前に半年間屋久島の山野に住んで修行した時に、既に感じて居た事なのだが、其れから世の中をどうにかしなければと言う執着が生まれ、其の感情が、長らく自分を縛っていたので其れを忘れてしまって居たのである。
其れが今回、昔の自分を思い出させる様な人に出会って、其の人の感情に触れる事で、思い出されて来たのであろう。
他人を許せなく成っている時は、自分の意識が小さく成ってしまっている時である。何故、自分の意識が小さく成るのか、其れは自分が自分の生に執着が生まれている時である。自分の生に執着が生まれれば、自分の生に必要とされるあらゆる条件を整え様と考えるのである。其の時に、自分の生に邪魔に成る存在が在れば、其れが自分の敵として認識されるのである。
だが能く考えて見れば、自分の生を邪魔する者は殆どいないのである。それが敵と見えるのは、自分が創り出している世界の邪魔に成っているからで、全体的には何も邪魔に成っている分けではない。むしろ、全体的に把握すれば、全ての物は自分の為に存在しているのだと理解されてくる。
此の様な理屈は、世間的な日常の生活をして居れば気が付かない事である。だから、イエスは、其の日常から切り離す為に「私に付いて来なさい。」と言い、釈迦は「出家をしなさい。」と云ったのである。
一度世間の風から離れてしまえば、如何に自分が小さき世界に暮らしており、神の恩恵から離れた意識で暮らして居るかが、理解されて来るのである。
しかし、財産や、家族や、社会的地位等が無い者は、改めて捨てる物が無いので、自由に成る事は容易いが、沢山のモノを抱えている者は、其れを全部捨て去るのには余程の勇気と覚悟が必要である。
其れに、出家をしないで、世間に暮らして居る者が、自分の敵である他人を赦す事は、余程の覚悟がなければ出来ない事である。
其の、他人を赦す行為を、イエスは愛と謂ったのであろう。
しかし、其のイエスでも、権力者に意義を唱えたのである。其れは、全ての存在を赦していた事には成らない。だから、イエスの教えも、戦いや戦争を生み出す原因と成っているのである。
真実の訓えなら、敵が生じないのだから、戦いが生まれる分けが無いのである。其れは、日蓮の教えにも言える事である。日蓮の行動は、釈迦の真意を汲んでいるものではないだろう。もし、其れが正しければ、今の状況には成っていないだろう。そして、私の人生も、こんなモノ・状況には成らなかったはずである。
今日は、日蓮や他の4311体の霊魂も、自分の敵は自分自身が、自らの中に創造したものであると、感じたからこそ、全てを赦す事には勇気が必要であるとの想いが、私の意識に生じて来たのではないだろうか。
其の様に考えれば、私の意識も4311体の神霊の思頼(みたまのふゆ)からようやく自由に成る日を、迎えた事に成るのかも知れない。
本当にそう成れば、私は脱魂状態に成り、腑抜けの様に成るかも分からないが、其れはそれで良い事と言えるだろう。
奈良市の「大倭あじさい邑」の代表矢追日聖氏は、「霊界の魂が全部成仏すれば、人間と神の意識が直結されるので、皆、神の意識に到達する事が出来る。」と謂っていた。其れは、人間が不成仏霊に憑り依かれているからこそ、平和が訪れ無い事を意味している。
其の解決策として、此の世に生を受けている勇気有る者から、自分の敵を赦す行動を起こさなければ成らないのではないだろうか。其れが、愛に満ちた世界を創造する最も近道なのではないだろうか。
平成19年6月24日
礒 邉 自 適
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