自分のたましいの故郷を訪ねる旅
私が 全国を旅した神社の記録と 神霊の系図等を紹介。
人には 皆 魂しいの故郷が有る。 其処に辿り着けば 安らぎがある。 其れは 何故か。 其れは 人は皆 神の子だから。
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2006/3/13
「出雲の熊野大社」
神社案内
出雲の熊野大社
所在地 島根県松江市八雲町熊野2451番
位置 北緯35度22分23.50秒 東経133度4分13.98秒
主祭神 熊野大神櫛御気野命
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24 10月15日 亀太夫神事 受け餅の儀式
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御祭神(おまつりするかみさま)
伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなこ) 加夫呂伎熊野大神(かぶろぎくまのおおかみ) 櫛御気野命(くしみけぬのみこと)
「伊邪那伎日真名子」とは国生みを始めて生きとし生けるものを生かし、その主宰の神をもお生みになられましたイザナギノミコト・イザナミノミコトの可愛がられる御子の意です。
「加夫呂伎」とは神聖なる祖なる神様であります。
「熊野大神櫛御気野命」とは、この熊野に坐します尊い神の櫛御気野命という意です。
この御神名は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の別神名であります。
ご神名は神格の本質を表しますことから、ご祭神の本質は人々の食して生くべき食物霊威をみちびき、農耕生産の豊穣を約束して、人々の営む万般の生業の発展を保障され、人の世の繁栄と平和、人々の幸福をみちびかれる深厚高大な霊威を発顕具現されるところにあります。
スサノオノミコトは、出雲の簸の河上で八岐大蛇を退治された神話に見られますように、人間社会を洪水の災害から救われて稲田の豊穣をもたらされ、人の世を和楽にみちびかれました。
スサノオノミコトは不思議な霊威をあらわして成りと成り出づるものが豊富であるようにと世の人々を導かれたのであります
出雲の熊野大社 参詣
案内図
小林美元氏一行 安部氏案内 1997年10月17日
出雲の熊野大社 参詣
白土宏氏と福岡の井上さん。安部忠弘氏の案内。
1998年10月11日 東京より佐々木君 一行
火を起こす建物 開扉された鑚火殿
古式の 火お越しの伝統の説明
受け餅の亀太夫神事説明絵
毎年、10月15日に行われる
亀太夫神事の模様を説明する為に 描かれた絵
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2 出雲大社(杵築大社)から 搗いた餅を熊野大社に納める為に運ぶ
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実際の 受け餅の儀式
儀式終了
投稿者: 礒邉自適
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2006/3/13
「出雲の熊野大社・亀太夫神事」
神社案内
出雲の熊野大社 参詣
1989年10月15日
亀太夫神事(受け餅・保食神)見学
神事の始まり。
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出雲大社(杵築大社)で搗いた餅が運ばれて来るが、何度も搗き直しを言われる。「来年は頑張って良い餅を奉納するから。」と約束をし、最後に頼み込んでようよう今年の分は受け取って貰う。
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出雲大社(杵築大社)で搗いた餅が運ばれて来る。
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代々亀太夫の家を継いでいる。この時は出雲大社よりは上
6左の亀太夫により 餅の検査が始まる
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8100回も榊を渡す
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10 凄い低頭振り
11 木の箱を叩いて伴奏をする
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141998年10月15日 千が峰 の・・・御一行
亀太夫神事に参加
投稿者: 自適
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2006/3/12
「日の宮弊立神宮・初参詣」
神社案内
1989年3月13日
佐藤さんの 平和道場にて
天皇霊 其の二 昭和天皇
13・2・10
昭和64年(1989)1月7日の夜、私はいきなり、ドカンと心臓に強い衝撃を受けて、飛び起きた。それで、私は、昭和天皇の死に何か関係が有るのかと考えながら、再び眠りに付いた。
その後は、何事も無いまま過ぎたが、元号が代わり平成元年2月18日になって、今度は妻の「佳子」の夢に、昭和天皇の御影・写真が出て来た。
更に2月24日の未明、私の夢に光り輝く平仮名文字が現れた。其れは、初めに「けいとく」と現れ、次は「あまぎ」であった。
私は、余りにも、其の文字の映像が印象深いモノ・現象だったので、朝起きてから、其れを手帳に書き留めようと、ペンを持ったとたんに、自分の手が勝手に動き出し、「わが身すでにとおく、よき世を 願い奉る」と、書かされたのである。
この日は、昭和天皇の大喪の礼が行われる日であったので、私は「けいとく」と「あまぎ」は、昭和天皇に関係の有る事だと考え、調べて見る事にした。
其の「けいとく」と「あまぎ」の言葉は、私の五年間の修行の旅中でも、聞いた事の無い言葉だったのである。
私は、世界自然遺産に登録された、屋久杉で有名な屋久島の出身である。
38歳の時、ある霊的体験をした事で、其れまでの生活や仕事を止め、屋久島を出て全国雲水の旅を始めた。
それから五年後、福岡県北九州市小倉の足立岳(霧ヶ岳)の中腹に住んでいたとき、この一連の昭和天皇に関するメッセージを受けたのである。
私は、どんなに考えても、伊豆の天城山しか思いつかず、若しかしたら天城山に「けいとく寺」という名の、寺でも在るのかと想いを廻らしていた。
そして、3月2日に、福岡市天神に住む友人の「吉田氏」が主催する集いに出席したとき、彼に「けいとく」とか「あまぎ」とか言う言葉を、聞いた事はないかと訊ねてみた。
しかし、彼も、其の言葉は知らない様子なので、若し何かが分れば、知らせてくれるようにと頼んで於いた。
すると、数日後に、彼から電話が有り、「けいとく」が判明したと云って来たので、早速 私は福岡へ向かった。
彼の話によると、数日前、宮崎県高千穂の「天岩戸神社」参拝の帰り道、熊本県阿蘇郡蘇陽町に在る「日の宮幣立神宮」に立ち寄ったと云う。
すると、其処に、「西村見暁先生」が居られ、「けいとく」と「あまぎ」のことを聞いて見たと云うのだ。
西村見暁先生は、東京大学印度哲学科を卒業後、金沢大学の教壇に立っておられたが、日の宮幣立神宮の存在を知り、教職を辞して、神社の神域に住んで30年になる方で、この時77歳に成られていた。
西村先生は、この蘇陽町に寺を建てた人が「慶徳」と言う僧侶で、その寺には古文書が残されている事を、教えて下さったとの事であった。
更に、其の時、吉田氏が幣立神宮で貰って来ていたパンフレットの由来の中に、「天城彦」と言う名前を見付けた。
何と、「けいとく」と「あまぎ」が、同じ蘇陽町と言う土地に纏わる人名であった事が判明したので、私は直ぐにでも、蘇陽町を訪ねたいと思った。
そして、吉田氏が3月13日に、蘇陽町へ案内してくれる事に成り、其の日は小倉の自宅へ引き上げた。
それで3月13日に、吉田氏と私を含め、六人が車に乗り込み、午前10時に福岡天神を出発した。
そして「日の宮幣立神宮」に到着したのは、午後1時過ぎであった。
その日は、天候は曇りであったが、次の日の新聞には、私達一行が、日の宮に到着した丁度同じ時刻に、太陽のコロナが、観測史上希に見る異常現象を起こしていたと言う事が載っていた。
此れは、「神議りであったに違いない」と、後日一同で話し合った。
幣立神宮で参拝を済ませた私達は、近くにある地球平和道場にお邪魔した。
道場では、道場主の「佐藤昭二氏」と西村見暁先生、それに地元の方二人が、私達一行を待って居た。
そして、話を始めると、間も無く、私の身体に強烈な霊が懸かって来た。
時計を見ると、時刻は午後3時33分であり、佐藤氏にお願いして蝋燭を神棚に灯してもらい、神前に、新しい水と、米と、塩をお供えして貰った。
そして、私が神棚に向かい「パンパン」と柏手を打つと、やっと私の身体は楽に成ったのである。
久し振りの強烈な霊力に、私は、幣立神宮の神霊が並々ならぬ物である事を理解した。
其れから暫らく話をした後、地元の「立田謙蔵氏」に「慶徳」が建立したと言う龍泉寺に案内して貰った。
龍泉寺は、幣立神宮より車で5分ほど行った、蘇陽町の玄関口である馬貝原という町の中に在った。
龍泉寺では、先代の住職の奥様が、気持ち良くお寺に上げて下さり、私たちは「慶徳」という僧に付いて、色々な話を伺う事が出来た。
その奥様の話に拠ると、「慶徳」は大分県緒方町(滝廉太郎の「荒城の月」で有名な竹田市の南側)出身の僧侶であり、織田信長が本願寺を攻めていたとき、本願寺の「顕如聖人」を助ける為に、地元の人を240人ほど集めて、大阪に上った人だと言う事が判った。
天正8年(1581)3月に顕如聖人が信長と和議を結び、石山本願寺を明け渡して穏健派と共に紀伊鷺森(鷺森本願寺)へ退隠する。
「慶徳」は其の後、弟子と共に蘇陽町を訪れ、真言宗の荒れ寺を復興し龍泉寺と名を改めた。そして、龍泉寺に弟子を残して南九州への布教に旅立った。「慶徳」は、現在の熊本市内に寺を建立し、その地で亡くなった。
現在その地には、慶徳小学校と慶徳公園があり、また熊本市の銘菓に「慶徳饅頭」が在ると言う。
西村先生にお聞きした古文書は、大学の学生が研究のため持ち出していて、その時には寺に無かった。
一時間ほど、話を伺って記念写真を撮った後、奥様にお礼を申し上げて、私たちはその日泊めて戴く平和道場へ引き返した。
其れから、私は蘇陽町へ三度足を運び、様々に調べて見たが、「慶徳」の墓も生誕地も生年月日も判らなかった。
また、機会を見て調べ直したいと考えている。
「天城彦」の方は、同年5月15日、二度目に蘇陽町へ行った時に、「神武天皇(狭野命)」の子孫である事が判った。
此の時の調査の内容を、後で整理して書いておいたので、下記に転載する。
神武天皇が、東征する時に長男の「手研耳命・たぎしみみのみこと、多芸志美美命」は、神武天皇に付き従う事に成ったが、妻の「吾平津姫」と次男の「岐須美美命・きすみみのみこと」は九州に残る事に成った。
そして、東征した神武天皇は大和の王である「長曽根彦」の勧めで、大物主命の娘である「媛蹈鞴五十鈴媛」と結婚する事に成った。そして、其の姫との間に三人の息子が生まれている。
長男「日子八井命・ひこやいのみこと、彦八井耳命)
次男「神八井耳命・かむやいみみのみこと」- 多朝臣・阿蘇国造・科野国造・火国造等の祖
三男「神渟名川耳尊・かむぬなかわみみのみこと、神沼河耳命・綏靖天皇)
そして、神武天皇が亡く成った後、随行した長男の「手研耳命」と、奈良の三皇子との間で政権移譲の揉め事が発生して、手研耳命は殺され、三男の「神渟名川耳尊」が跡目を継いで「綏靖天皇・すいぜいてんのう」と成っている。
その後、神武69年媛蹈鞴五十鈴媛の長男「日子八井耳命」が、阿蘇の高森に下って来て住み着いている。
其の日子八井耳命が、祭神と成っているのが「草部吉見神社・くさかべよしみじんじゃ」であり、「草部・くさかべ」とはナガスネ王の先兵隊であった「日下部族」の事であり、王子の日子八井耳命に随行して来た人々であろう。
其の日子八井命の長男が「天彦命」であり、「天城彦」とは其の天彦命の事であろう。
だから、日の宮幣立神宮に其の親子が祀られているのである。
其の日子八井命の後から、弟の「神八井命・かみやいのみこと・建磐龍命」が阿蘇に来て住み、阿蘇神社の祭神と成っており、其の息子の「速瓶玉命・はやみかたまのみこと」が「国造神社・こくぞうじんじゃ」の祭神と成っている。
其の建磐龍命が、「日の宮」に参拝し、御幣を地に立てて神を祀った事に因り、幣立神宮と名付けられたと伝えられている。
阿蘇に住んだ、健磐龍命の子孫には多氏、小子部氏、阿蘇の君、肥の君など19氏が在るとされている。
さらに鹿児島には、神武天皇他を祀った陵墓である高屋山陵(姶良郡)、吾平山陵(大隅半島)が有り、鹿屋市吾平町神野には大内川神社が有り、其の神社には「吾平津媛」と「手研耳命・たぎしみみのみこと、多芸志美美命」と次男の「岐須美美命・きすみみのみこと」も合祀されている。
学説によっては、神武天皇を架空の人物とし、第10代崇神天皇からを実在した天皇であるとする説も有るが、この様に各地に神社や伝説の形で残っている事を考えると、神武の一族は実在したと考える方が、整合性がある。
「けいとく」が実在した「慶徳」なら、「あまぎ」も実在した「天城彦」であり、昭和天皇の祖先は、実在した神武天皇なのだ。
神武天皇は、「塩土老翁」のお告げの「東の地に 山に囲まれた肥沃で豊かな国がある。その地へ行き 国を治めなさい。」に従い、兄である五瀬命と日向の地を出発した。
それから16年半後、大和へ達し長曽根族と戦っているとき、天が輝き金色の「鵄・トビ」が降りて来て神武の弓に止まった。
それを見た長曽根族の王「長曽根彦命」は戦を中止し、互いの神宝を見せ合うことにした。
すると、両者の神宝が完全に符合したため、長曽根彦命は両族が同族であることを認め、これは神議りであるからと、神武に国譲りをする事になった。
そして、神議りによる国譲りを、大和の部族に納得させるため、長曽根彦の身内である「媛蹈鞴五十鈴媛」を神武の正妃とし、橿原で国を治める事に成ったのだ。
つまり、昭和天皇は、神武天皇と二番目の妻(媛蹈鞴五十鈴媛)との間に生まれた三男「神渟名川耳尊」の、子孫であると言う事になる。
平成5年(1993)7月13日記す
上記の文章を書いてから、8年目を迎えようとしているが、現在私の住んで居る処は、弘法大師空海ゆかりの地、四国である。
弘法大師は、日本に密教を齎した人物であり、書も「弘法も筆の誤り」と言う言葉が「万に一つの誤り」を表す例えとして使われる程の能書家であった。
弘法大師空海が開いた、四国八十八カ所を廻る遍路道を歩く人達は、「同行二人」と書かれた「編み笠」と「法被・はっぴ」を身に着けている。
「同行二人」とは、何時でも「弘法大師空海」が見守って居ると言う意味である。
私の16年半の旅でも、「同行二人」と言う事を、嫌と言うほど体験させられた。
私の場合、其の同行者は、国を憶う代々の天皇霊であったのだ。
建国記念日を明日に控えて
平成13年2月10日
礒邉自適
1989年3月14日
龍泉寺で 奥様と娘さん 中央
投稿者: 礒邉自適
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2006/3/12
「日の宮弊立神宮・参詣記録」
神社案内
日の宮弊立神宮・中健二郎君 初参詣
熊本県阿蘇郡山都町(旧 蘇陽町) 日の宮弊立神宮
1991年8月1日 中健二郎君 初参詣
日の宮弊立神宮は、其の名の示す通り太陽を祀る社です。
祭神は、神武天皇の最初の奥さんアイラ姫の長男「天城彦」です。
其の天城彦の息子が、阿蘇一の宮・阿蘇神社の祭神 阿蘇開拓の祖神である「健磐龍命・たていわたつのみこと」で、健磐龍命の奥さんは神武天皇の二番目の奥さん(ナガスネの娘 媛蹈鞴五十鈴媛)の長男(高森町の日下部神社の祭神 日子八井耳命)の娘さんです。
其の、健磐龍命の第一子が 国造神社の祭神 速瓶玉命(くにのみやっこ はやみかたまのみこと)で、他に国造神社にお祭りしている祭神が、速瓶玉命の妃神 雨宮神、速瓶玉命の第二子 高橋神および第三子 火(日)宮神です。(先代旧事本紀 巻10 国造本紀)
宮崎県高千穂の高千穂神社の高千穂神社の主祭神は三毛入野命(ミケヌノミコト)、神武天皇の兄弟となる。
他に五瀬命(イツセノミコト)、稲飯命(イナヒノミコト)、佐野命(サノノミコト)を合わせた四柱を四皇子として境内の四皇子社に祀る。
1992年5月20日
漢方医 大村雄一氏 初参詣
1992年9月6日
子供達と 白土雅一君
豆仙人 息子 嵩靖 神社 お祭りにて
1994年4月17日 参道の御神木の杉の側で自適
1991年1月23日 赤峰勝人氏参詣
1991年1月23日
大分野津町の赤峰勝人氏・河内氏 参詣
小倉より 常安さん一行参詣
投稿者: 自適
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2006/3/12
「日の宮弊立神宮 」
神社案内
日の宮弊立神宮
熊本県阿蘇郡山都町(旧 蘇陽町) 日の宮弊立神宮
1 阿蘇山の拝所
2 参道
3 鳥居階段
4 御手水舎
5 境内
御神木
御神田
水神様
御陵へ
天児屋命 の碑
断層 こうや火災流 か?
天城彦(天彦命)の御陵
1992年7月18日
前の「春木宮司」と 私の息子と シンさん
投稿者: 礒邉自適
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