自分のたましいの故郷を訪ねる旅
私が 全国を旅した神社の記録と 神霊の系図等を紹介。
人には 皆 魂しいの故郷が有る。 其処に辿り着けば 安らぎがある。 其れは 何故か。 其れは 人は皆 神の子だから。
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2006/2/25
「佐世神社」
神社案内
佐世神社
佐世神社 八幡宮
所在地 島根県雲南市下佐世1
祭神 須佐之男尊・すさのおのみこと 櫛稲田姫・くしいなだひめ
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スサノオの尊が お手植えした木の神社です。
此の木が 1996年8月23日に、京都で 私の霊夢に現われ、他の人にも現れていた事が判明しました。
島根県雲南市下佐世 佐世神社
神社から 土俵に向かう
土俵
霊夢は 此の土俵の中心に立って見た角度で現れました。
現在の木は5代目と云われ 6代目のヒコバエが生えて来ています。
1992年10月27日 大祭
皆でお祭りをする
神社の門前で 陶芸窯を営む 銀鈴さんの献茶
安部忠弘氏と武田真理子さん
記念写真撮
白神さん の 太鼓
友人の笛
出雲学びの家主宰 出雲の旅
記念写真撮
影出雲学びの旅 様御一行 山川拡矢・亜希子夫妻他
スサノオの尊 手植えの謂われを聞く
学びの旅 サントリーの中村さん
ご神木の前で記念撮映
佐世神社参詣
ご神木の前で記念撮映
佐々木将人先生・高木さん・中村いずみさん・野本さん
「スサの木から学ぶ事」
太陽のエネルギーは緑の力に因って物質化し森は水の循環を支えます。
緑は陸のあらゆる動物を育くみ海の魚達にも多くの栄養を送り続けています。この事に昔の人々は気付いており日本では3000年もの昔から植林を行って来ました。その始まりはスサノオの尊とその次男イソタケルの命と伝えられています。
和歌山県が紀(木)の国と呼ばれているのもこの親子が木を植えた事に由来し五十猛命は大八洲国(日本国)に青山に成した功績により有功之神とも称せられたとあります。五十猛命の妹神大屋津姫命と抓津姫の命の二柱神は木種を司り植樹の功により紀伊の国にまつられていて宮崎県高千穂神社ではこの二人神の神楽舞が現在まで続けられています。
五十猛命は出雲地方には数ヶ所の神社の祭神となり全国でも植林の神として祭られ続け、日本人の魂の中に木を大切にする事をしっかりと根着かせているのです。
現在人類にとって一番の問題は森林の減少にあります。私達人類を含む生物は森林の滅亡と共に亡びます。21世紀は人類にとって最後の価値判断を迫られる時代となるでしょう。
その重大事の解決策として木のネットワークを開設致します。
明るい未来を築く為に、皆様のお知恵を出し合う場としてご利用下さい。
大国主の国造りの地出雲より
2000年12月24日
演劇一座参詣 マンジュシャカ一行
投稿者: 礒邉自適
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2006/2/21
「島根県雲南市 須我神社」
神社案内
島根県雲南市須賀 出雲 須我神社
須我神社
所在地 島根県雲南市大東町須賀260
位置 北緯35度21分14秒 東経133度01分53秒
主祭神 須佐之男命 稲田比売命
長男 清之湯山主三名狭漏彦八島野命
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冬景色
出雲 須我神社は スサノヲの尊と稲田姫の暮らした 新居の跡と伝えられています。
子供は 長男湯山主の命 次男イソタケルの命
娘は 大屋津姫 ツマツ姫の二人があります。
須賀の地名は スサノヲの尊が「此の地は 清清しき土地だ 此処に住もう。」と云った事に由来すると伝えられています。
的射 神事
広島の渡邊さん一行 献茶
広島の渡邊さん一行 舞いを奉納
磐座の在る 八雲山入り口にて
奥の院 磐座 参詣
奥の院 磐座 案内をして下さった 安部夫妻
奥院 磐座の山頂から須賀の地を眺める。案内は安部夫妻
此の辞典のコピーは 次の文章の「カン」の所に挿入すべき漢字ですが 入力が出来ませんので 此方の漢字を覚えてからお読み下さい。
島根県雲南市須賀 須我神社 参詣
出雲の須我神社は、スサノヲの尊と稲田姫が生活を始めた、新居の跡と伝えられています。そして有名な、「やくもたつ いずも八重がき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを」の歌が伝えられ 和歌発祥の地とされています。
私は、お参りした日の夜メッセージが有り、其れを文章にして有りますので、載せて置きます。
「萑・カン」
13・8・20
1999年1月20日の夢に、私に対して「求める」との意識が現れて、「萑・カン」 の文字が映って来た。
私は、朝起きて「 カン」の文字を、漢語林で調べて見た。
「萑」 は「古字参考」で、@スイ A漢・カン 呉・ガン と読み、【解字】形声。「艸+隹」。【字義】(一)@草の多いさま。A薬草の名。めはじき。やくも。(二)@おぎ。荻のじゅうぶんに成長した物。若いものを菼(タン)という。A萑蘭は、涙の流れるさま。と 載っている。
何故、この「萑」文字が「求める」の意味と、一緒に出てきたのだろうか。
誰かが、私に、何かを求めて訴えている事は分かったので、しばらく考えてみた。
すると、頭に浮かんで来たのが「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る 其の八重垣を」の歌である。
この歌は、日本初の和歌として伝えられている歌で、島根県雲南市(旧大原郡大東町)須賀に在る「須我神社・すがじんじゃ」が発祥とされている。
須我神社は、「須佐之男命」と「櫛稲田姫命」が新居を構え、住み着いた場所として伝えられ、夫婦と、長男である「清之湯山主三名狭漏彦」が、共に祭神として祭られている。
私は、1998年の11月1日より、この大東町に住み、よく須我神社にはお参りをしている。
だから、私に、何かを求めて来たのは、須佐之男命ではないかと想い、歌の意味から、須佐之男命の気持ちになってイメージをして見た。
歌には「八雲立つ」と有るが、「八重雲・やえぐも」と言うのは自然だが、「八雲立つ・やくもたつ」と言うのは変だし、雲は「たなびく」とは言うが、「立つ」とはあまり聞かない。
私が、辞典を出して調べてみると、古事記では「八雲」ではなく「夜久毛立つ 出雲八重垣・・・」で「八雲」ではない。
是で「八雲」の文字を使ったのは、近代に成ってからだと言う事が判明した。
須我神社から、車で20分程の所に存在する、同じ祭神を祭る「八重垣神社」に行って見ると、八重垣神社の説明版には、古事記通りに「夜久毛立つ・・・」と書かれている。
此の事からも、判かる様に、「八雲」と書いた人が、間違いを犯しているのである。
其れでは、「夜久毛立つ・・・」の「夜久毛」とは、何なのかと考えて見ると、歌の後の「八重垣」から「垣根」の事だと言うことが分かる。
すると「夜久毛」とは、垣根の材料である事になる。
何が、材料かとなると、此処で、1月20日に夢に出て来た「萑・カン」の文字の意味がハッキリする。
「夜久毛」とは「萑・めはじき・やくも」の事なのだ。
私に求められて来たのは、言葉の間違いを正す事なのである。其れで、此のお告げは、須佐之男命が、私に文字の間違いを訂正する事を、頼んで来たことであるのが理解できた。
神社で唱えられる祝詞には、「神魂の思頼・みたまのふゆ」と言う言葉が有るが、それはこの世に生活して居る人間が、禊ぎ祓いをして、昔の人の御霊・みたまを、自分身体に「依代(ふゆ)」し、思いや、頼み事を、聞き取る事を伝えるものだ。その意味からすると、私に其の「神魂の思頼」が起きた事に成る。
そうすると、私が、「須佐之男命」の願いを、受け取らなければ成らない事になる。
日本の住居には、周囲に垣根をするのが一般的である。
垣根に付いて、一番古いと思われる伝説が、この須我神社の和歌である。
須佐之男命が、愛する「寄稲田比売媛・くしいなだひめ」の為に、新居の回りを垣で囲いをし、其の心境を歌ったのがこの「萑(やくも) 立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」の歌なのである。
「萑」とは、昔し、垣根に使われた草の茎の事らしい。
「萑」とは、「益母・やくも」の事で、漢方にも使う薬草で、人間の背丈程にも伸びる多年草だと、辞書に載っている。
日本名では「めはじき」とあり、毎年春に芽を出し、夏には花を付け、秋には枯れてしまう一年草である。
その茎が、人間の顔の高さまで達して、枯れて立っていると丁度目に当たるのであろう。
昔の人々は、細い道を歩いていたので、前の人が、草を押し退けて進んで行くと、曲がった茎がハネ返り、後に続いている人の、目をハジいてしまうので、この「目ハジキ」の名前が付き、又その名を付ける事で「目ハジキ」が生えている場所を通る時は、目をハジかれない様に、注意しなさいとの、心構えにも成ったと想われる。
文字の意味が、良く理解されていない時代に、表音の為に「夜久毛」の漢字が使用され、須我神社では石碑を彫る人が、後の「八重垣」の「八」と混同して「八雲」と彫ってしまい、それから後の人々は、「幾重にも 雲が立ち昇った」と、イメージをする様に成ったのだろう。
「八雲」ではなく「八重雲」なら、棚引くであり、棚の様に横に段々で重なる状態だから、縦に立つとは云わない。
和歌は、自然の情景に、自分の心を歌い込む事だから、自然の絵が、しっかりと魂しいにイメージ出来なければならない。それが、この「八雲」では不自然である。
詩の文句を、「萑」か、「益母」に変えられないのであれば、元の「夜久毛」に戻すしかないだろう。
神社の役目は、御手洗で意識を洗い「ア」から「ウン」までの「48音・言霊・ことたま」を、清める事に有る。
其れが、日本で一番古い神社で、言葉が間違っていたのでは、須佐之男命もさぞや困っている事だろう。
現代の人間は、神社は、願い事をする所だと勘違いをしているが、本来の神社は、御霊を祀る「御陵・みささぎ・陵墓」であって、御霊の供養をする所である。その供養の役目の人を、「禰宜職・ねぎしょく(ねぎらう仕事)」と呼ぶ。
本来は、その氏族の子孫が、先祖を敬う事が、御稜の始まりであるので、現在のお墓と、同じ意味を持つものである。
昔は、「霊魂は永遠に存続する」との考えが、当然の事だったのである。
其の、永遠性の価値観の中で、見知らぬ男女が巡り会い、結ばれて一緒に生活を始めたのである。
現代と違って、昔は、自然と人間の間には、何も意識を妨げるモノは無かったのだ。古代社会の人間は、自分の生活の事だけが、意識の中心だったのである。
人気の少ない山中に、二人だけで住み着く事は、さぞや心細かったに違いない。3000年の昔なら、まだ、日本狼や熊等の獣も、澤山居たであろう。
「自然」の「然・ゼン」の文字は「月+犬+火」の組み合わせで、「狼が満月に向かって吠える」意味から、出来ている事からしても分かる様に、両親から離れて、慣れない生活を始めた、心細い新妻「寄稲田媛」に対する、須佐之男命の気持ちが、痛いほど良く伝わって来る歌である。
此の歌は、新妻を大事にする為に「お前の為に 新居の回りに 幾重にも垣根を立てて 大事に護るよ」との、意思表示だと考えて良いだろう。
現在では、垣根は、石垣やブロック塀、其れに板垣や生け垣と成っている。
昔は、刃物も発達していないし、工場も無いから、出来る事には限界が有ったのだ。
秋には、枯れて、根本から折れる「萑・益母草」は、垣にもなるし、台所で使う火を起こす事にも、手近に使われていたと考えて良いだろう。
私が、「夜久毛立つ」の歌を良く噛みしめていると、現在使われている言葉の「愛人(めかけ)を囲う」が、この歌と同じ意味を表しているのではとの、想いに至るのである。
「女を囲う」とか、「囲い者にする」とかの世界が、表現されたのが2000〜3000年前からだと考えれば、男性が、愛する女性を大事にする為、あるいは他の男に見せない為に、垣根を造る事は当然の事であり、もっと遙か昔より、人間の本能として、存続しているものと考えて良い。
日本の天皇家で、一番大事な「大嘗祭・だいじょうさい」の儀式の建物の「悠記殿、主記殿」の周囲には、柴垣が立てられるとの事である。
其の事からも、垣は重要な意味を、現代まで伝えている。
神社の周囲にも「瑞垣・みづかき」と言って、石垣が造られているが、それも外垣、中垣、内垣と三重に造られる。
その意味は、外からの邪念が入らない為とか、悪霊の侵入を防ぐ為とか、云われている。
何れにしても、数千年来続いて来た、垣根の文化は、当分日本から無くならない様である。
「もとめる」と伝えてくる神霊が住む間は、誰かが「神魂の思頼・みたまのふゆ」を受け続け、その伝統は続いて行くだろう。
現代を、生きている我々にも、元始の謎を知りたいとの本能が有る。
其れに、人間は「大日如来」とか「阿弥陀佛」とか「タオ・道」「ダルマ・法」と名付けて、自分の心の源郷を求め続けている。
仏陀の第三の目や、ルシフェルの目とかは、私達の意識の始まりを、表現する言葉なのである。
「もとめる」とは、日本語の本当の意味は、元気の「元」と同じく、「元の目(意識)」を求める意味ではないのだろうか。
元始の目こそ、宇宙の始まりの意識の本体なのだ。
インドの釈迦仏陀は、その意識に目覚めた者を「ブッダ(覚者)」と謂った。
旧約聖書には「始めに 言葉ありき 言葉は神なりき」と有る。
我々人類が、「言葉(真言・マントラ)」の意味を正しく知ろうとするとき、元始の響きが聞こえて来る。その言葉の広がりが、此の日本では、和歌の世界と成って伝わって来たのである。
今、その始まりの処が、再び目覚め様としているのだろう。
「萑」の夢告は、その始まりの予告なのだ。
平成13年8月20日
礒邉自適
屋久島自適塾 HP
http://star.ap.teacup.com/applet/170606/200108/archive
石原宮司さんに お神酒を注いで貰う私
石原宮司さんと 記念写真撮影
石原宮司さんの奥さんが 自分の手で清掃為されて居ました。感謝
東京の佐々木君一行
神社正面
佐々木将人先生と 赤塚植物園社長一行案内
奥ノ院 八雲山の磐座・いわくら
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