旅の出来事
私の24年間の旅で有った事を記録する為のブログです。
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1993/9/15
「第一回へそ村会議」
瑞穂の国関係
第一回へそ村会議
1993年9月15日
熊本県阿蘇郡蘇陽町 日の宮弊立神宮境内 地球家族村にて
1 私の左側 家族村の代表 西村見暁先生
2 佐賀の竹富勝彦氏挨拶
3 福岡の秋元さん
4 大阪の大村雄一先生
5 佐賀の岩永氏
6
7 大村先生 未病に付いて講義
8 全て終了し お神酒を回す
9 左から 大村・わたし・岩永・武富
10 私の蘇陽の自宅にて夕食
11 右から大村・岩永・宮崎綾町の姫野夫妻
12 私と有田の窯元 久保さん
投稿者: 自適
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1993/9/7
「法隆寺の奇跡」
お寺での催し
法隆寺の奇跡
93・9・7
私は、1989年9月30日山田竜宝氏、佐藤昭二氏両名と3名で、奈良の法隆寺に立ち寄った。良く晴れて、風も無く穏やかな日で、気楽な旅の1日である。法隆寺の庭に立って、何気なく本堂を眺めていると、本堂の屋根の上空に、四方八方より丸い雲が集まって来ている。不思議な事だと思いながら、其のまま立って見ていると、次から次に集まって来た雲は、皆、屋根の上空で消えてしまった。そして空は、元の雲の無い青空となった。
すると、今度は急に屋根の上空に、白い筋条の雲が縦に並んで出た。左横に居た佐藤氏に、「佐藤さん あの雲は 何本有るかな。」と、何気なく私は聞いた。佐藤さんは、空を見上げ「17本有る」と云う。私は考えてみたが、17と言う数字に意味を見い出さないので、「本当に17本かな。」と再び佐藤さんに尋ねると、佐藤さんはもう一回数えて「やっぱり17本だ」と云う。私は又、考え込んで居た。
菊の紋は16だし、17は中途半端な数である。其処へ、山田竜宝さんが帰って来たので、「竜宝さんあの雲は 17本だけど 17という数字に 心当りがないですか。」と聞いてみた。すると竜宝氏は、直ぐに「17だったら 聖徳太子の17条の憲法だよ。」と応えた。私と、佐藤氏は、「アア そうか まさしく17条の雲」と納得したのである。雲は、屋根の右の方向に流れて行き、松の梢も過ぎていたので、慌てて写真を撮った。アップして有る写真は、其の時のものである。
私は、此の月26日に小倉より蘇陽に引越ししたばかりで、荷物も整理しないままの旅立ちであった。佐藤昭二氏は、蘇陽町の「日の官幣立神宮」近くの地球平和道場に住んで3年位い経っており、山田竜宝氏は蘇陽町で開催された“みどりの祭り”(7月31日〜8月9日)の準備段階から、道場に住んでおられた方である。
日の宮幣立神宮の森には、聖徳太子をお祀りしている聖徳堂が有る。このお堂は、近くに有る「地球家族村」の西村見暁氏(現在77歳)が、発願者となられて建てたものである。私の体を借りている、精霊達(4311と昭和天皇他3名)の中心的役割を狙っているのが、聖徳太子である事は気付いていたし、奈良の「大倭あじさい邑」の矢追日聖氏の所にも、聖徳太子は出入りしているとの事である。私も、あじさい邑に1年間やっかいになって居る時、一度、太子らしき人が部屋の窓枠に腰掛けて、私を見て居る姿を霊視した事がある。
法隆寺で、何故この様な現象が起きたのか、その意味はなんであるのか、私なりに考えてみた。現在、日本には様々な宗教が有るが、その宗教の開祖の殆んどが、私の体を借りに来た精霊達の中に居る様だが、その精霊達の中心に、何故聖徳太子が選ばれているのだろうか。聖徳太子は天皇家の血筋の方であり、天皇になろうとすれば成れたであろう立場であったが、天皇になる事より実務の方を選び、政治や経済の基礎作りを為されたのである。天皇制度は、古神道と、中国から取り入れた儀式の合わさったものであり、また太子は、仏教にも大変理解を示され幅広い考え方の人である。
21世紀の新しい社会を創造するには、17条憲法を作った太子の様な方こそ、霊界が今、人類の未来社会の指導を行おうとする時、中心に立つ魂として一番適しているのだろうと思う。現在人類は、21世紀を目の前にして、新しいライフスタイルを創造し、また精神的に充実できる社会構造の確立を、果さなければならない。
物質文明は、進むだけは進んだが、そのぶん精神的な中軸を失った様である。黄金の代りに、紙幣が使われだし、大量に印刷されたお金に因って人の気持は動かされ、其れに伴なって質量の回転がものすごいスピードと成った。その結果の現代社会である。
金が使用される以前の時代は、神の存在が、人間社会の動きの中心的なものであり、人々は皆見えない世界に対して、心の門を開けていたのである。
時代によっては、其の見えない世界を利用した権力者が現れて、人類を虐いたげた事も有ったが、現在は法律も出来、教育も進んで来たので、皆が神に対して心を開いても、独裁者を造り出す事はないであろう。
人間は、ようやく猿から、人へと進化出来る時を迎えたのである。命令を出したがったり、命令を受けたがったりする段階を卒業して、1人1人が自覚を持ち、聖徳太子の17条の精神を学び、太子の想いが現実社会に完成される様、私達こちら側の者も努力しなければならない時を、迎えたのである。私達は、自分達の魂の源へ帰り、新たな出発への準備をしなければ、21世紀を明るい未来として迎える事が出来ないのである。
私は10年間、この世界に重り合っている2つの世界の狭間に在って、様々な言葉を吐きながら、時間の壁を開いて来た。もうすぐ、彼岸への渡し舟が姿を現わす。
私達は、光の世界へ、手を取り合って1歩階段を上るだけで良いのだ。其処に、此の世界が始まった目的が、私達を待っているのだから。
1993年9月7日
礒 邉 自 適
投稿者: 礒 邉 自 適
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