文化とは、過剰性という人類の呪われた部分を蕩尽することだ
と、バタイユが言ったとか言わなかったとか
ともあれ、芸術という理解しにくいものの本質は
そういう部分にあると思うのだ
過剰性を蕩尽するためのある種のしつこさ
ああ、こりゃ敵わないなあと思わされる何か
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圧倒的にでかいとか圧倒的に緻密だとか
圧倒的に複雑だとか圧倒的に多いとか
あるいはそれらの逆もそうかもしれない
まあ、どんなやり方でもいいんだけど
過剰性が作品によって消費されていることを
確信させてくれるようなものが芸術だと思うのだ
じゃあ、どのようなものがそれを顕すのだろう
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かつて「綺麗」にすることは
過剰性を消費することと同義であった、
と言っても差し支えないと思う
しかし、現代の日本では
綺麗なことは必ずしも過剰性の蕩尽に結びつかないだろう
なぜなら、過剰なまでにセイケツなこの社会は
過剰性を蕩尽する以前にすでにキレイなのだから
(むしろ我々が触れることで手垢が付いてしまう)
我々自身が表現者として産み出す物で
過剰性の消費を証明しようとすれば
そこからさらに踏み出さざるを得ない
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昔から「綺麗」と「美しい」は違うのだとは言われるが
それでもやっぱり綺麗な物を美しいと感じてしまう部分はある
それはキレイなものが我々の手元に届く前に消費された過剰性
たとえば規格外の物が見えないところで排除された雰囲気
の、ようなものがなんとなく感じられるからだろう
しかし我々のスタートは綺麗にすることではなく
我々の呪われた部分であるそれを蕩尽するところからだ
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デジタルカメラと通信技術の進歩によって
巷にあふれ出している圧倒的な量のイメージは
総体として過剰性の蕩尽をあらわしているなと感じられる
そして、それらが溢れだしている様子を捉えて顕すことは
まるで罪の告白、懺悔のようだ
罪の意識が深いほどその表現がくどくなるのは仕方あるまい
ボクの写真は芸術を指向したものではないけれど
罪を告白して楽になりたいという欲求がないわけではない

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