お疲れ様 家族のこと
令和元年10月2日0時35分・・・父が他界しました。
昭和14年生まれ、享年81でした。
病院から連絡がきたのが1日の11時20分ごろ。
残り数日と言われてはいましたが
面会時間が15時からなので、
娘と15時に家を出て病院に向かうという約束をして
それまでは通常通り過ごそうと、家事を終え
11時50分からのステップのレッスンと
その後のピラティスに参加するべくジムに向かいました。
ジムでチェックインしたと同時にスマホが
急変ということではありませんが
血圧が下がってきているので
ご本人の体力次第でどうなるか・・・という状態です。
そばにいてあげてはどうでしょうか?
病院からです。スタジオに入っていなくてよかった。
支度をしてすぐに行くと伝え、ジムのフロントで
今チェックインしたんだけど、父の病院から
連絡来ちゃったんで、チェックアウトしてくれる?
と、お願いして急いで帰宅。
施設の支配人と今後の打ち合わせに来ていた兄と
母を拾って、父の待つ病院に向かいました。
その場で下の兄と我が家の子ども達、夫に連絡。
下の兄は仕事を片付けて急いでこちらに向かうと。
15時に面会する予定だった娘も すぐ行くから住所! と
大急ぎで病院に向かってくれました。
13時を回ったくらいに母の疲労がピークになったようで
帰って休みたい と連呼するようになりました。
娘は到着していましたが、下の兄はまだ来れておらず
父を独りにすることはできないので
下の兄が到着したら母を帰すことにしました。
母と上の兄はそのまま母の部屋で待機することにし
あとから来た下の兄を病院に残し、私も一時帰宅。
やりっぱなしだった家のことを済ませ、夕飯を作って
高校から帰宅した次男を連れ18時に再び病院へ。
私はそのまま病院で夜を明かすつもりで
支度をしていったのですが
病院の個室に空きがなく、大部屋のままだったため
面会時間終了後は、病室から離れた廊下の
長椅子にいるよう言われてしまったのです。
下の兄と相談し、帰宅することにしました。
兄は埼玉に住んでいるため、夜中に急変した場合は
来ることができないけれど、あとは頼むと私に託し
帰っていきました。
私も一緒に来ていた次男と、会社帰りに駆け付けた
夫とともに帰宅し、いつ呼ばれてもすぐに向かえるように
支度だけして22時にはベッドに横になりました。
23時45分、病院からの電話で起こされた時の私の心拍
エアロビクスやった直後より早かった
お帰りになられた時よりかなり弱っています。
血圧が40しかありません。
早めにこちらに来られた方がいいかと思います。
すぐに母の部屋に泊まっている上の兄に連絡し
私はすぐに出られるけれど母も行くか尋ねました。
当然行きたいと言うので、迎えに行くから
すぐに支度してと伝え、施設の玄関で待機。
・・・待てど暮らせど下りてこない
何やってるんだよ!と、やきもきしながら待つこと10分
やっと母と兄が現れました。 おっせ〜よ! ←心の声
人前に出るのに化粧しないわけにはいかないから・・・と
お化粧してたんだそうです
向かっている途中、夫から連絡が来て
再び病院から連絡が来て
心臓が止まりそうだから急いでと言われたと伝えられた。
病室に着いたのは0時25分。
看護師に 2分前に心臓が止まった と告げられた。
私はショックで何も言えず。
母は 間に合わなかったの? と、キョトンとしていて
何で化粧なんかしてたんだよ!
そのまますぐ出れば間に合ったじゃん! と
怒りが込み上げてきたが、必死で言葉を飲み込んだ。
心停止していても、医師が立ち会わなければ
呼吸器を止めることはできないため
酸素は供給され続け、肺が膨らんだり萎んだりしている。
それを見て母は まだ生きてるわよ!動いてる! と。
肺に酸素を送って膨らませてるだけだということを説明し
医師が来るのを待つ。
救急外来が来てしまったとのことで
医師の立ち合いまで10分待たされた。
慌ててやってきた医師は、瞳孔と心拍の確認をし
0時35分、ご臨終です。
力及ばず、申し訳ありませんでした。
と、語った。
涙は止まることなく流れ続けたけれど
穏やかな顔をしている父を見て安堵している自分がいた。
その後体に装着された管を全て抜き
きれいにしてもらって霊安室に移動。
死亡連絡を施設に入れるとすぐに
病院から施設に戻る手筈を整えてくれ
施設の支配人も飛んできてくれた。
頼んでいた葬儀屋が2時過ぎに迎えに来てくれて
父を乗せて施設に戻り、施設内の聖堂に安置してくれた。
施設の方に、あとは任せて休んでくれと言われたので
お線香だけ上げさせてもらって帰宅した。
母には兄がついていてくれるからひとまず安心できた。
3時半に帰宅し、ビールを出して独り父に献杯した。
お疲れ様、頑張ったね。ゆっくり休んでよ!
そう言いながら5時までビールを飲んで1時間ほど眠った。
5
昭和14年生まれ、享年81でした。
病院から連絡がきたのが1日の11時20分ごろ。
残り数日と言われてはいましたが
面会時間が15時からなので、
娘と15時に家を出て病院に向かうという約束をして
それまでは通常通り過ごそうと、家事を終え
11時50分からのステップのレッスンと
その後のピラティスに参加するべくジムに向かいました。
ジムでチェックインしたと同時にスマホが


急変ということではありませんが
血圧が下がってきているので
ご本人の体力次第でどうなるか・・・という状態です。
そばにいてあげてはどうでしょうか?
病院からです。スタジオに入っていなくてよかった。
支度をしてすぐに行くと伝え、ジムのフロントで
今チェックインしたんだけど、父の病院から
連絡来ちゃったんで、チェックアウトしてくれる?
と、お願いして急いで帰宅。
施設の支配人と今後の打ち合わせに来ていた兄と
母を拾って、父の待つ病院に向かいました。
その場で下の兄と我が家の子ども達、夫に連絡。
下の兄は仕事を片付けて急いでこちらに向かうと。
15時に面会する予定だった娘も すぐ行くから住所! と
大急ぎで病院に向かってくれました。
13時を回ったくらいに母の疲労がピークになったようで
帰って休みたい と連呼するようになりました。
娘は到着していましたが、下の兄はまだ来れておらず
父を独りにすることはできないので
下の兄が到着したら母を帰すことにしました。
母と上の兄はそのまま母の部屋で待機することにし
あとから来た下の兄を病院に残し、私も一時帰宅。
やりっぱなしだった家のことを済ませ、夕飯を作って
高校から帰宅した次男を連れ18時に再び病院へ。
私はそのまま病院で夜を明かすつもりで
支度をしていったのですが
病院の個室に空きがなく、大部屋のままだったため
面会時間終了後は、病室から離れた廊下の
長椅子にいるよう言われてしまったのです。
下の兄と相談し、帰宅することにしました。
兄は埼玉に住んでいるため、夜中に急変した場合は
来ることができないけれど、あとは頼むと私に託し
帰っていきました。
私も一緒に来ていた次男と、会社帰りに駆け付けた
夫とともに帰宅し、いつ呼ばれてもすぐに向かえるように
支度だけして22時にはベッドに横になりました。
23時45分、病院からの電話で起こされた時の私の心拍
エアロビクスやった直後より早かった

お帰りになられた時よりかなり弱っています。
血圧が40しかありません。
早めにこちらに来られた方がいいかと思います。
すぐに母の部屋に泊まっている上の兄に連絡し
私はすぐに出られるけれど母も行くか尋ねました。
当然行きたいと言うので、迎えに行くから
すぐに支度してと伝え、施設の玄関で待機。
・・・待てど暮らせど下りてこない

何やってるんだよ!と、やきもきしながら待つこと10分
やっと母と兄が現れました。 おっせ〜よ! ←心の声
人前に出るのに化粧しないわけにはいかないから・・・と
お化粧してたんだそうです

向かっている途中、夫から連絡が来て
再び病院から連絡が来て
心臓が止まりそうだから急いでと言われたと伝えられた。
病室に着いたのは0時25分。
看護師に 2分前に心臓が止まった と告げられた。
私はショックで何も言えず。
母は 間に合わなかったの? と、キョトンとしていて

何で化粧なんかしてたんだよ!
そのまますぐ出れば間に合ったじゃん! と
怒りが込み上げてきたが、必死で言葉を飲み込んだ。
心停止していても、医師が立ち会わなければ
呼吸器を止めることはできないため
酸素は供給され続け、肺が膨らんだり萎んだりしている。
それを見て母は まだ生きてるわよ!動いてる! と。
肺に酸素を送って膨らませてるだけだということを説明し
医師が来るのを待つ。
救急外来が来てしまったとのことで
医師の立ち合いまで10分待たされた。
慌ててやってきた医師は、瞳孔と心拍の確認をし
0時35分、ご臨終です。
力及ばず、申し訳ありませんでした。
と、語った。
涙は止まることなく流れ続けたけれど
穏やかな顔をしている父を見て安堵している自分がいた。
その後体に装着された管を全て抜き
きれいにしてもらって霊安室に移動。
死亡連絡を施設に入れるとすぐに
病院から施設に戻る手筈を整えてくれ
施設の支配人も飛んできてくれた。
頼んでいた葬儀屋が2時過ぎに迎えに来てくれて
父を乗せて施設に戻り、施設内の聖堂に安置してくれた。
施設の方に、あとは任せて休んでくれと言われたので
お線香だけ上げさせてもらって帰宅した。
母には兄がついていてくれるからひとまず安心できた。
3時半に帰宅し、ビールを出して独り父に献杯した。
お疲れ様、頑張ったね。ゆっくり休んでよ!
そう言いながら5時までビールを飲んで1時間ほど眠った。
