2009/8/21

フランツ・ヨッヘン・ヘルフェルト レクイエム 世界初演 8/19  オーケストラ

吉野肇氏より、シュトゥッツガルト楽派に属するフランツ・ヨッヘン・ヘルフェルトに対して委嘱された新作を披露する演奏会を拝聴した。ヘルフェルトは、ソリストを務めたメゾ・ソプラノの小山由美とは夫婦関係。アリオン音楽財団の〈東京の夏〉音楽祭への参加企画。世界初演。

大規模な管弦楽伴奏をもつレクイエムで、男声合唱とメゾ・ソプラノの独唱によって歌われる。無宗教のレクイエムとして作曲したとしているが、テクストは通常のラテン語典礼文と同じであり、キリスト教の影響は排除できない。ただ、プログラム解説に示されているところをみると、確かに、それだけで塗り固められてはおらず、無宗教までを含んだ、こころの在り方が広く包含されている。演奏前は、それが通常のレクイエム典礼文のうえに、どのように載ってくるのかは疑問であった。

実際、耳にしてみると、それは思ったよりもわかりやすい形で実現されていた。まず、典礼文自体は「響き」として使ったとあるが、思ったよりも素直に言葉が歌われていた。そして、その歌い方や、間奏的な部分において、非キリスト教的な要素がナチュラルに入り込んでくる形をとっていたように思う。非キリスト教的な要素は、冒頭にアカペラで歌われた声明のようなものを含め、具体的に音楽的なもの、つまり、ラップやゴスペル、ブルース、ガムランなどの形で表現されている。

キリスト教的なものが中心にあるのは否めないが、どちらかといえば、混沌ではない多神教的な空間、つまり、各々がめいめいの神秘的な領域を固有に築いていき、広大な音楽空間のなかで共有しているというイメージをもった。

また、作品は故意に繰り返し的な要素を音楽に復活させており、古典的なソナタの循環形式や、ときにはミニマル・ミュージックのような単純な繰り返しを使いさえして、音楽的イディオム(形式)の新しさよりも、内容(あるいは、精神といってもよい)の深さや濃密さにこだわった作品構成をめざしている。暴力的で重いモティーフと、深い清潔に満ちた古典的なレクイエムの美しい響きが、非常にわかりやすい形で並べられ、ときに驚くべき展開を含みながらも、全体的には聴き手の想像どおりに推移していく。

ヘルトフェルトの『レクイエム』は、このような点からみて、形式的な新しさという芸術的な実現よりは、聴き手に対して、ダイレクトに寄り添うことを第一に考えた作品であることがわかるのではないか。

言語(歌詞)と音楽の関係については、面白い特徴がある。聖書にも「はじめに言葉ありき」とされているように、古典的なレクイエムでは歌詞は初めからあるのが当然で、それは厳格に定められたある種の形式を成す。音楽は言葉がどっしりと位置をとったあとに、注意ぶかく組み立てられた。しかし、この作品では、初めから決まっているものは何もなく、その代わりに、互いが相手を待つという時間を重視している。

この音楽では、言葉が発するまでに熟していく時間というものが想定されている。なるほど、初めから歌詞はあったにしても、それを発したい、発するべきだという想いが熟するまで、それは表には出てこない。この作品では、瞑想的というべき、予備的な時間がたっぷりとられている。そして、音楽的要素が昂ぶって熟していき、そこに聴き手の想いが載ってきたときに、絶妙のタイミングで歌が発せられる仕掛けなのだ。

もしもヘルフェルトの作品に新しさを見出すとするならば、そうした時間の操り方に求められるのかもしれない。

作品は例えば「輪廻転生」の概念を表すように、無限の円環を想像させる単純なフォルムを重層的につくっている。最後、小山の独唱が言葉の途中で切断されて、甲高い打楽器の音が無造作に残るが、ここで死を想像するか、新しい生へのバトン・タッチを想像するかは、聴き手のセンスによる。

身体から汚いものが抜けていくような快感と、深いリラックスを味わった爽やかな公演であった。ヘルフェルトという作曲家については、他の作品も聴いてみたいと思ったのは言うまでもない。多分、これと比べると、ずっとハードな作品を書いているのではないかと思う。まずは、惜しみない賞賛を禁じ得ない公演である。

【プログラム】 2009年8月19日

フランツ・ヨッヘン・ヘルフェルト 『レクイエム』(委嘱初演)
T原点 U可能性 V自己の戦い W自己犠牲 X聖域 Y生あるものへのメッセージ

 小山 由美(Ms)
 東京混声合唱団
 東京交響楽団(cond:沼尻 竜典 コンマス:大谷 康子)

 於:東京オペラシティ
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