2009/5/22

新国バレエ 白鳥の湖 ザハロワ & ウヴァーロフ 5/21 A  バレエ

【終幕】

終幕にはやはり疑問が残る。最大の問題は、やはり安易なハッピー・エンドに求められるだろう。このプロダクションの2006年の改訂に当たって、牧監督が考えたのは、多分、暗い時代だからこそ、バレエの世界ぐらいは明るく結びたいということであろう。音楽は厳しい曲調から、華やかな長調に転調し、金管でぐっと盛り上がって締まる。最後の最後に、金管の低音が残るところまでは、バレエの観客は聴かない(なぜなら、作品がおわりそうになると拍手で盛り上げようとするから)。これはこれで、一見識だろう。

【ロートバルトについて】

だが、そのことによって生じる矛盾点は致命的なものだ。

私にとっていちばん大きな疑問点は、ロートバルトの存在って、何なのだろうということに尽きる。魔術師、ロートバルトはなにを目的として、人間たちを白鳥に変え、オデットをさらって湖に連れてきたのだろうか。私はそのことを考えるとき、たしか70年代に起こった誘拐事件で、10人以上の女子を誘拐した男がそれらの女子と共同生活を営み、女子もその犯人になついていたという事件を思い出す。確かに、ロートバルトはワルであろう。だが、オデットが白鳥に変えられたのを嘆いた母親の涙が、湖になったというその場所に集められてくる娘たちというのは、本当にロートバルトのことを憎んでいるのであろうか。白鳥ならば羽があるのに、なぜ逃げようとしないのであろうか。私はここにこそ、チャイコフスキーの仕組んだイロニーがあると思うのだ。

ここで、歴史を紐解こう。バレエの名品「白鳥の湖」は、1876年に生まれた。翌年からは露土戦争が始まるという時代で、その直前は、トルコからの独立をめざすセルビアを支援して、ロシアも関わりつつあった。戦争の傷病兵を見舞ったチャイコフスキーは、戦闘の厳しさに驚き、傷病兵へのチャリティーのために「スラヴ行進曲」を書いたという。それと同じ年に、この作品も生まれたのだ。オデットの母親の涙がつくった湖は、戦場で息子たちを失った母親たちの涙に通じ、そこを守る白鳥たちの存在は必要不可欠なものとなろう。ロートバルトは、型どおりのワルを演じながら、実は、このような役割をもっている。

まともな解釈であれば、ジークフリートがロートバルトに打ち勝っても、白鳥たちの魔法は解けない。それは音楽をよく聴けば、明らかだ。なぜ、魔法が解けないのかについては、本来のドラマトゥルギーのほか、戦術のような歴史的な背景からも考えることができる。それは戦争が終わるどころか、より泥沼に入っていきそうであることが、チャイコフスキーのような庶民たちにとっても、はっきりとわかっていた証拠である。この戦争には、必ず次があるというわけだ。だから、ロートバルトという災厄が去っても、白鳥たちの役割はおわらない(魔法は解けない)のだ。

ところで、ロートバルトが是非とも必要と考えたのが、オデットの存在だった。彼女は湖の象徴であり、主でもあろう。それをどこからともなく現れたジークフリートが奪っていくのだから、湖の管理人としては堪らない。オディールがジークフリートを本気で愛するように、ロートバルトもオデットをこころから必要としているのだ。そうでなければ、あのような手の込んだはかりごとを為すとは思えない。

ところが、牧版の演出では、ただの勧善懲悪になっている。オディールがあれほど必死になってジークフリートに訴えかけたことや、ロートバルトが自らの持てる力を振り絞って、ジークフリートを騙したことを軽視して、2人の愛の力がロートバルトを打ち破るという、少女漫画的な結末に滑り落ちているのだ。そのため、幕切れのパフォーマンスは甚だ曖昧で、ロートバルトとジークフリート、オデット、それに群舞がチョロチョロと動き回っているうちに、なんだかよくわからないままロートバルトが打ちのめされ、後ろのせりから消えていくというものになっている。

こんな酷い演出はない。

そのほか、ジークフリートが裏切ると、オデットは人間の姿に戻れないという約束が完全に反故になってしまうので、ロートバルトの存在はなおさら無駄であろう。危機が実質的にはないのであれば、2人の成長もないはずだ。そのほかにもいろいろあるが、いま述べた論点がもっとも大きいので割愛する。

【全体像】

こうした終幕の問題もあり、やや欲求不満の部分は残った。また、先のエントリーに述べたように、ダンサーたちの内側から弾け出てくるようなものが少なく、コール・ド・バレエなどの面白みもない。整然と揃っているだけでは、表現に力がないということもある。白いバレエの伝統的なチュチュ姿は、日本人の体型には不似合いな部分もあるので、それを埋める表現の息吹きが必要なのに、それが犠牲になっている。さらに言えば、今回の出来をみる限り、さほど整然と揃っているわけでもない。動きの質に微妙に揺らぎがみえ、ポジションも精確ではない面が散見する。

例えば、最後の幕で、白鳥と黒鳥が「∩」の字型に整列し、奥の黒鳥の列の真ん中を境にシンメトリー構造をつくる場面がある。ここで、ちょうど境目の黒鳥2羽の動きが美しいシンメトリーをなさず、フォルムもタイミングも微妙にずれているのが、しかし、はっきりとわかった。こういう部分でアラを出すようでは、全体のフォルムへの共感を抱きにくい。

牧版演出について、もうちょっとだけ。まず、プロローグであるが、これは明らかにアイディア不足だ。イントロダクションの途中に幕が開き、友人と針仕事をしているオデットの前にロートバルトが現れ、窓からさらわれる場面をさらっと描いているが、すぐに幕が閉じて、再び音楽だけとなり、情景で再び幕が開く。「これだけ?」という感じで、いかにも説明的なのだ。もしも私が演出家ならば、針仕事をしている相手を友人ではなく母親にし、ロートバルトに娘がさらわれたあと、母親の嘆きを短くはさんで、湖ができるところまで手際よく描いてしまうだろう。

もうひとつ陳腐なのは、第3幕で、王子に向かって本物は自分と訴えかけるオデットが、スクリーンに映し出されるところだろう。

ただ、全体的には素直に楽しめる舞台であり、新しい振付のような刺激を期待しなければ、のんびりと作品世界に浸れる舞台ではあると思う。ただ、2回、3回、と繰り返しみたいとは思わない。

【音楽面】

音楽面では、今回、ウクライナ歌劇場のアレクセイ・バクランが、ハイ・テンションで頑張っている。舞踊の舞台にふさわしい手ごたえのある響きで、舞踊よりも音楽に関心のふかい人たちの欲求も満たしてくれるだろう。舞台へのつけ方がうまく、最後の盛り上げでは演出に配慮して悲劇性を薄め、アーティキュレーションを軽めにデザインし、できるだけ明るい響きを用いているのがわかる。舞踊音楽のリズムをよく捉えており、舞台上に配慮しながら、音楽的な構造をなるべく生かした演奏にしているのは評価できる。

マズルカの演奏などは聴いたこともないほど起伏に富んでおり、非常に突っ込んだ表現になっている。ワルツにしても、マズルカにしても、ロシア人の書いた曲は現地(例えば、ポーランドやウィーン)のものより表現が露骨になるような気がするが、バクランの演奏では、それに輪をかけた元気の良さだ。一方、トリオの艶やかな演奏は魅力的で、こちらはきれい・・・というよりは、スイートに感じた。

東京フィルは響きを盛り上げながら、冷静にバクランの指揮に対応している。イントロダクションのあとの情景では、ややドライすぎる響きが気になったが、場面が進むごとにまろやかな響きに変わっていった。バクランは縦の線につよく、そこに有機的な和声の動きをみせることができる優れた指揮者だ。フォルムのキメも美しく、なかなかに腕利きという印象を残す。木管のいいオーケストラであるというイメージがないが、オーボエ首席の加瀬孝宏などは、意外にふくよかな響きを出す。弦のソロは、青木コンマスのヴァイオリンは徹底的にザハロワに苦しめられたが、チェロの金木首席などはふかい響きをつくっていた。ホルンはまあまあ。トランペットは、すこし外しすぎか。パーカスはよかった。
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