2009/5/22

新国バレエ 白鳥の湖 ザハロワ & ウヴァーロフ 5/21  バレエ

新国立劇場のバレエ公演で、「白鳥の湖」牧版を拝見した。3日目の公演は、オデット/オディールにスヴェトラーナ・ザハロワ、ジークフリート王子にアンドレイ・ウヴァーロフという組み合わせ。管弦楽は、アレクセイ・バクラン指揮の東京フィル(コンマス:青木高志)。

【演出・振付について】

プレミエではないので今さらだが、私にとっては初めてみる舞台なので、演出と振付についての所感を書いておく。周知のように、このプロダクションは、新国が伝統的に演じてきたセルゲーエフ版をもとに牧亜佐美監督が改訂振付した「牧版」である。改訂に当たっては、ピーター・カザレット氏に依頼して衣裳と装置を一新したほか、ロシアの踊りを新たに加え、フィナーレを、主役組の愛の絆によりロートバルトが消滅するというものに直した。

さて、この演出・振付が問題である。衣裳や装置が古色蒼然たるものから、華やかなものに変わったのは歓迎だろう。しかし、肝心の振付は、どうだろうか。私には、遠慮が多すぎるように思えてならないのだ。伝統的なプロダクションへの敬意は必要だが、原型からなるべく逸脱しないように、オドオドと薄化粧を施していく牧の奥ゆかしさが、なんともどかしいことだろう。牧は、セルゲーエフという大きな壁に自らの個性をぶつけるということを避け、セルゲーエフも、牧も、まったく傷つかない方法で再創造を試みた。だが、それでは芸術の神は微笑みもしなければ、怒りを露わにすることもないのである。

この中途半端さが、筋書きにおいては作品のもつ厳しさを奪い、全体に美肌クリームを塗ったくったような平滑さを生み、きつい感情のもつれがいつも安易な方向に流れていく印象を与える。また、踊り手たちの実際のパフォーマンスにおいても、どこか煮えきらない、突っ込みきれない雰囲気があり、それもこれも、もとはといえば、この演出・振付に問題があるのだろう。

【伝統的スタイルの厳しさ】

確かに、原振付として謳っているプティパ=イワーノフの踊り自体が、そう容易いものではないということはわかる。派手な動きやシャープなフォルムを徹底的に織り込むのではなく、大らかで、自然な動きをじっくり洗練させていくような踊りは、例えば歌でいうと、童謡をうたうときのような難しさがある。そこでは、1つ1つの動きにバレエ・ダンサーのセンスが滲み出てくるし、踊りの拙さを助けてくれるものは音楽ぐらいしかないのだ。「白鳥の湖」をみれば、そのバレエ団がどこまで到達しているかがわかる。残念ながら、新国はまだまだというところであろう。

【ダンサーたちの個性が輝かない!】

こうした踊りだからこそ、なおさら個性が求められるのだろう。踊りのフォルムを精確に捉えていくことも、無論、重要ではあるのだが、それを内側から突き破っていくものが必要なのである。これはソリストに限ったことではなく、群舞でも同じ。当夜、それができていたダンサーはあまり多いとは言えない。

そういう意味で、もっとも光っていたのは、道化役を踊った八幡顕光ではないか。全体的に穏やかな踊りが多いなかで、細やかな動きが織り込まれ、笑いというフレーバーをも提供するおいしい役柄だが、それに輪をかけて、八幡の道化はすばしっこく、芸が細かい。お決まりの道化衣裳の内側から、弾けるような肉体の動きが客席にまで迫ってくるようだ。王宮の場面では、つい彼に目がいってしまう。これだけ素晴らしい道化ならば、湖の場面でも、なにか役割を与えたいぐらいだ。幸い、原作にフクロウという存在がある・・・。

ザハロワも、さすがというべきだろう。姿態の美しさはいうまでもないが、1つ1つのフォルムにきりっと光る主張があり、それが行きすぎる場面もないではないが、やはり、見ていて飽きないのだ。最後の場面では、ザハロワがもうひとりほしいところだろうか。つまり、オディールの存在がないのが、このエピローグのあり方を難しくしているのが明白だからだ。オデットとオディールでは、王子を取り込もうとして必死に自分をアピールする、オディールのキャラクターのほうがザハロワにぴったり来ている。

だが、それ以外ではどうだろう。湖の場面は、どちらも総じて型どおりの世界におわっており、面白味に欠ける。派手なつくりの第3幕は、どうだろうか。前座の八幡が素晴らしい踊りを披露したあと、花嫁候補たちのパ・ド・シスは、「花嫁候補」というよりは「見物の若い娘」にみえる。前曲の勢いのまま突っ込みたいスペインの踊り(寺島まゆみ、楠本郁子、芳賀望、中村誠)は、内側から滲み出る情熱に乏しい。あちこちに顔を出す魔術師、ロートバルト(貝川鐵夫)だが、これも本気で王子をやっつけようという迫力に欠け、特に最後の部分は演出の問題もあり、あっさりやられすぎで、憎々しさというのがまったくないのだ。

肝心のロシアの踊りは、ほかのナンバーと比べて抑えめの音楽をもっていることを利用し、ソロにしているのは面白い発想だろう。基本に忠実な牧らしい振付で、派手派手ではなく、薄味のしっとりしたダンスに仕上げており、ほかの振付と調和している。それだけに、主役組以外のパフォーマンスでは、作品を彩るフレーバーというよりも、全体を象徴するような役割をもつ。当夜はここに湯川麻美子が配されたが、ここだけの登場ということもあり、やや乗りきらない印象だ。

やや舌足らずだが、このなかで優れていたのは、ナポリの踊りだ。高橋有里、大和雅美、吉本泰久のグルーピングがうまくいって、小気味よい動きをしっかり踊って、弾力性が高い。また、ハンガリーの踊りでの西山裕子も、さすがに筋がよかった(相手はトレウバエフ)。コール・ド・クラスしかいないマズルカも、意外によく踊れている。第3幕は、指揮のアレクセイ・バクランがオケを煽りまくっており、音楽の快活さに助けられた部分が多い。

【主役組】

ザハロワのパフォーマンスは、それは素晴らしいとしか言いようがない。特に、オディールの幕と、最後の幕のほとんどの部分では、文句のつけようがない。だが、ヴァイオリン・オブリガートを伴っての、最初のソロなどは行きすぎている。バレエでは踊り手の呼吸に絶対的なアドヴァンテージがあるのは認めるが、それにも限界というものがある。なぜなら、弦楽器の響きの持続には限界があるからだ。あそこまでテンポを落とされては、どんな名手でも美しい響きを保つことはできないだろう。バレエというのは、舞踊と音楽の両方のいのちが対応したときに、もっとも美しく輝く。その意味で、ザハロワのここでの踊りは、誤解を恐れずに言うならば、美しいとは言いがたいのだ。

さて、このプロダクションでは、オデットとジークフリートは、ほかの白鳥たちの登場を経ずして、いきなり出会う。王子と出会ったときの、オデットの驚きがコミカルに描かれているが、ここで早くも恋愛に火がついたのが手際よく表現されているのは、原振付のプティパの発想なのであろうか。この時点で、主役二役は「未熟」の状態である

このプロダクションの面白さは、ロートバルトとオディールの介入により、幼かったオデットとジークフリートの関係が一気に成熟し、ロートバルトを打ち破るようなところまで高まっていくところにある。例えば、第1幕に出現する王子はいかにもな坊っちゃんで、放っておけば、頽廃へ向かっていく可能性さえ感じさせる。それに対応するように、踊りもゆたかではなく、素朴なものになっている。だが、後半になるにつれて、オデット(もしくはオディール)をジェントルに、しっかりとサポートする場面が増え、その地味な役割がかえって、ジークフリートの力強さを浮き立たせることになるのである。

こうした構造のせいもあるのか、ウヴァーロフの第1幕はパッとしない。この日はジャンプの着地も安定せず、ソロでは、あまり印象がよろしくなかった。だが、後半に行くにつれて増えていく、リフトの堅固な安定感や、相手の腰を回してサポートするときの見事な所作は、どうだろうか。日本人の男性ソリストと、外国人の大きな差は、こうした部分にあるのではないかと思う。そうしたサポートを得たザハロワの自由さや、安心感が、フィナーレに向かって深まっていくオデットの愛情に反映されるのは、言うまでもない。

長くなったので、終幕に対する見解など、つづきは次のエントリーに譲る。
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