2008/10/26

レ・ボレアード 騎士オルランド 北とぴあ国際音楽祭 10/25 A  演奏会

さて、最初のエントリーで総論的なことを一通り示したので、細かいことに掘り下げていこう。

【ハイドンのスピード感を表現した演出】

まず、この公演の殊勲賞ともいえるのが、演出の粟国淳だろう。このシリーズは、歌手にウェイトを賭けているのが明確で、装置は控えめにならざるを得ないが、そこを演出家の工夫で突破していくというのが常道になっている。昨年は、野村四郎がアドヴァイザーとなり(共同演出となっていたが)、日本と西洋の伝統があらゆる面で一体化した舞台が楽しめた。今年は、装置の代わりに映像を多用したヨーロッパで流行中のスタイルで、粟国氏、よく勉強している。

そのこと自体は珍しくないし、特筆すべきことでもない。彼がやったことでもっとも高く評価できるのは、ダイヤ型の舞台を組み、その前方と後方を中間の幕で区切ったことだ。幕には等間隔でワイヤーを張り、幕の一部をスカートの襞をめくり上げるように持ち上げたり、下ろしたりすることができる。これが、便利だった。もともとダ・カーポ・アリアの主体となるハイドンのオペラでは、広い舞台スペースで演技をつける必要もない。広い空間のなかで、歌手たちは持て余してしまうだろう。そのスペースを犠牲にして、彼が選んだのは、短いナンバーだと数十秒もない音楽で一場面がつくられる、転換の激しさを補うための工夫だったと思われる。

例えば、第3幕で、更生したオルランドとロドモンテがバーバリアンたちと格闘する場面は、ほんの数十秒しかない無窮動の音楽が選ばれている。多分、当時は殺陣を表現するような短いバレエ、もしくは、それに類するダンスが踊られていたのではないかと思う。さて、粟国はこの味も素っ気もない場面を、どのように料理したか。2人にはちゃんと出てもらい、バーバリアンは白い張りぼてで表現し、これを黒子に持たせ、敢えて動きをつくらずに、2つの静止画をつくった。乱戦のなか、襲いかかる相手と刃を交える2人の姿と、包囲され背中あわせに剣を構える姿である。これは多分、歌舞伎の発想を利用したものであるが、ライティングなどにこだわり、グラフィックな場面にも仕上がった。こんなアイディアをみせられては、思わずニンマリとさせられる。

この場面の賛否はともかく、舞台の前方と後方をときには連結させながら、基本的には別々のものとして扱うことで、ほとんど展開に揺るぎがなく、ハイドンが作品に仕込んだスピード感をしっかりと表現して、無理がない。また、次々に出てくる類型的なキャラクターの対比がスムーズに進み、二重三重に効果的なのだ。

【この作品をブッファとして考える】

演技は歌手のほうに優れた人材が多いこともあり、粟国だけの手柄とするにはどうかと思うが、例えば、パスクワーレとエウリッラの絡みが、あれほど面白くなったのは、このような場面が、前のエントリーでも言ったように、ドルチェにふりかけたシナモンのようなものではなく、作品にとって本質的なものとして扱えるという、粟国の考え方を反映しているのではないか(これは私の考えだが、粟国もきっとそう思っている!)。そこに感じられるように、粟国は、この作品をまずは喜劇=ブッファとして考えている。

【歌手について】

歌手としては、まず、パスクワーレ役のテノール、ルカ・ドルドーロが素晴らしかったのは、誰も異存がないはずだ。キャラクター・テノールとして、これほどの素材はそうはいない。レチタティーヴォ、アリアともにユーモラスで、歌いくちは工夫に満ちている。もちろん、基本がしっかりしているので、どんな風にでも自由に歌うことができる。声がきれいで宗教曲もいけそうだが、声量も十二分にあり、おまけに演技力まで高い。もともと、パパゲーノと同じく人気者になれる役柄だが、その役をさらに引き立てたのは彼である。

次に、メドーロの櫻田亮。イタリア在住の彼は、日本では宗教曲のイメージぐらいしかないが、意外と、オペラでも表現力が高かった。声の美しさ、フォルムの堅固さは、このメンバーに入っても随一だった。アンジェリカの臼木あいも、もとの天才ぶりに磨きがかかってきたようだ。コロから表現に重みを持たせていくのは常道(最近は、その伝統も破られつつあるとはいえ)だが、その途中で間違った道に迷い込み、声の輝きが翳ってしまう人(幸田浩子もその傾向があり心配)が多いなかでも、いまのところ、臼木はうまくいっている。「狂乱の場」では、一気に雰囲気が変わって驚かされた。結果的にみて、降板した森より良かったのではなかろうか。

アルチーナは、波多野睦美。彼女にとって歌いやすい役とはいえないように思うが(本来はアルトの役かも)、レチタティーヴォの細やかな演技力など、さすがというべきだろう。エウリッラの高橋薫子は最初の場面だけセーブしていたようだったが、ドルドーロとの絡みなど、互いに演技上手なのも相俟って、これならば恋に落ちるのも当たり前と思えた。前にもいったが、アラウンド40とはいえ、こういう役を歌ったら可愛らしさで右に出る者なし。なお、アルチーナと色ちがいで似たような髪型にみえたが、これはすこし方向性はちがっても、互いに恋に生きる女という対比がなされているのかもしれないと思った。

青戸知(ロドモンテ)の成長は、ここのところ目につく。予てからリート歌いとして相応しいと評してきたつもりだが、バロックならば、身の丈にあった伴奏がついて魅力的だ。青戸らしい真っすぐな演技と歌が、この役の単純さにあっているし、ドイツ的なカッチリした唱法がふさわしいことも、彼に教えてもらったようなもの。

題名役のフィリップ・シェフィールドは、舞台栄えのする肉体美をもっているが、歌はやや朴訥で、色気がない。だが、第3幕はわりとよく、忘却の川での歌については、しっかりした支えをもったソット・ヴォーチェの「強さ」を、十分にアピールしてくれたと思う。もともと、この役は独唱もあるがスイートではなく、うまくいっても、そんなに上手に聴こえない役だろう。それにしても、調子のいいときは、どんな歌をうたうのだろう、という興味は湧くぐらいのパフォーマンスではあった。

【管弦楽について】

寺神戸亮という人は、いま、もっとも流行する尖鋭なバロック・スタイルよりも、長閑で、牧歌的なドイツの田舎風の演奏をつくる。今回も、幕開けの序曲で、そのような傾向が顕著だった。やや安全運転という感じもしたが、全体的には、ハイドンが繊細につけていった感情変化をうまく捉えており、温かみのある響きも魅力的だった。音楽用語をふんだんに交えたパスクワーレのアリアでは、トリル、アルペッジオ・・・と、この歌劇でも多用された技法をなぞっていくので、ここで、オケの巧さを実感した観客も多いことだろう。作品がニコラウス・エステルハージーの命名祝日のために献呈されていることを考えると、彼にもこれまでの当主同様、よく音楽に親しんでもらいたいという音楽家、ハイドンの優しく、また切実な想いが、この場面に込められているのではないかと思う。

どのパートも隙の少ないアンサンブルだが、三宮正満の吹くオーボエは特に素晴らしいものだった。チェロとフォルテピアノで構成される通奏低音は、レチタティーボなどにおいてマイクで増幅されたように聴こえたのだが、これがすこしうるさく感じたのが惜しい。実際、スピーカーを使ったかどうかは不明だが、単に、私の座った席の音響が良くなかったせいかもしれない。通奏低音というのは風が吹くように抜けていくものだが、ときどき妙に重たい響きがしたのだ。

【まとめ】

ウィーン国立歌劇場のムーティ指揮、豪華キャストによる「コジ・ファン・トゥッテ」と重なったこの日だったが、満足度の点でいえば、こちらを選んだ聴衆も決して負けていないだろう。特に、ハイドンがこれほど優れたブッファを書く人だったとは思っていなかった。オペラのユーモアというのは、その後、出現するロッシーニを頂点にして、オペレッタが僅かな期間だけ芽吹きを見せるのを除き、ほとんど姿を消してしまう。そうした歴史のなかに、ハイドンという大きな山があったことが、この舞台で明らかになった。彼は、チマローザやパイジェッロの出現にさほど遅れることなく、モーツァルトやロッシーニへの橋渡しを、しっかりと務めたようだ。そのことがわかっただけでも、「コジ」を向こうでやっているときに、こちらでも負けず痛快な出来事が起こったといえるのかもしれない。

なお来年は、グルックのオペラ・コミーク「思いがけないめぐり会い、または、メッカの巡礼」の上演が予定されている。まったく知られていない作品だが、正にタイトルどおりのことを、観衆の身にも起こしてやろうという意気込みなのであろうか。寺神戸らの手腕に期待!
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