2008/7/19

ゲルト・アルブレヒト 「グレート」交響曲 読響 芸劇マチネ 7/19  演奏会

【4曲は見えない絆で繋がっている】

読売日本交響楽団(読響)にとっては前の首席指揮者にして、桂冠指揮者となったゲルト・アルブレヒトが、2年に1回のペースで・・・という約束どおり、読響の指揮台に戻ってきてくれた。この形容がいやに似合うが、相変わらず「矍鑠(カクシャク)としている」アルブレヒトが振るのは2プログラム=4曲と少なめだが、その分、完成度の高さは圧倒的だった。また、ヴァレーズ「アメリカ」、ドヴォルザーク「新世界より」、シューベルトの「ロザムンデ」と「グレート」交響曲という4つの曲目は、一見、何の関わりもなさそうに見えたのに、実際に聴いてみると(といってもシューベルトの方だけ)、どうも見えない絆が存在するようにも思えた。

まず、ヴァレーズの曲自体は存じ上げないが、プログラムによると、「アメリカ」というタイトルは単に地名をさすのではなく、「発見を象徴するもの」「地上の、空の、人のこころの中にある新世界」だと作曲者が述べたのだとある。この考え方が、当日後半のドヴォルザークの交響曲に通じるのは論を待たないが、転じて、この日の演奏を聴いたあとでは、いかにもドイツ人らしい、少しでも新しいものを付け加えんとする(もしくは、発見しようとする)アルブレヒトの姿勢を踏まえて考えたとき、他日のシューベルト演奏をも貫くキーワードだったように思えてくるのだ。もうひとつ、2プログラム目で演奏されたシューベルトの作品はいずれも、どことなく「新世界より」を連想させる要素があることに、多くの注意ぶかい聴き手は気づいたに違いない。私は途中で、14日の定期を聴き逃したことを後悔したぐらいだ。例えば、リズムの処理とか、楽器法、舞踏との関係性、内面の表現に至るまで、かなり2人の作品は接近しているように思われる。

時代的にいえば、ドヴォルザークが、シューベルトの作品を相当に勉強したのは間違いないだろう。そして、19日のメインはシューベルトの交響曲第8番「グレート」で、これはアルブレヒトの解釈(演奏)を信じるならば、ほとんどベートーベン大学の博士論文ともいうべきものであった。ベートーベンの交響曲に似たエレメントを敢えて使い、それを自由自在に使いこなせるようになったことをはっきり示すと同時に、ちゃんと新しいものを付け加えてもいる。ここで、ヴァレーズのメッセージが生きてくるのに気づくだろう。アルブレヒトは2つのプログラムを通して、ドヴォルザーク→シューベルト→ベートーベンという音楽史の流れを遡ると同時に、ベクトルを反対に使って、これらの作曲家たちがいかなる「発見」を、クラシック音楽の殿堂に与えてきたかを俯瞰しているのである。

【狭いレンジでのグラデーション】

前置きが長くなったが、19日の演奏について詳しく述べていこう。まず、劇付随音楽「キプロスの女王 ロザムンデ」は、間奏曲第1番(第1幕のあと)/同第2番(第3幕のあと)/バレエ音楽 アレグロ・モルト−アンダンテ・ウン・ポコ・アッサイ/同 アンダンティーノという管弦楽曲のみを抜粋で演奏した。最初の間奏曲の冒頭部分、ティンパニーの響きを浮き立たせることでリズムが引き立ち、たったそれだけのことだが、面白いように楽曲に新鮮味が表れ、のっけから唸らされる演奏だった。

この日のプログラムからすると、舞曲のリズムが勝負になると見ていたが、それは半ばしか当たっていない。アルブレヒトの音楽のデザインは、リズムが重要な楽曲であることを前提にしながらも、決して、それに踊らされないために、なにが必要であるかを教えるものであった。これはあとのシンフォニーを聴くにあたっても参考になったが、要するに、リズムというのはあくまで弾くほうが利用するものであって、あたかもそれに踊らされるように、自然とフォルムが決まってしまうわけではないということだ。アルブレヒトと読響の奏者たちは、この指揮者だけが知っている独特の息づかいを完璧に理解した上で、しっかりしたフォルムを決めて、そこにリズムという魂を吹き込んでいった。スピードが必要なときにだけアクセルを踏み込むように、自分たちが必要なときにだけ、リズムの作用が動かせるようにコントロールをかけた。もちろん、そのことで、楽曲が本来もっているはずの、舞踊性ゆたかな生命感が失われることはない。

このような演奏の特徴もあり、細かいダイナミズムのデザインの妙で聴かせた間奏曲第1番やバレエ音楽のアレグロ・モルトの部分と比べると、その振り幅が小さいナンバーのほうが、むしろ面白い演奏になっている。まず、弦のソット・ヴォーチェの美しさは比類もないことに加えて、そこからp、mp までの短い幅を生かしきり、丹念に織り込まれる響きのグラデーションが見事なのだ。とりわけ素晴らしいのが、最後のアンダンティーノのバレエ音楽であり、さほど広くないダイナミズムをさり気なく使いつつ、第2ヴァイオリンやヴィオラの弦の内声部にこの上もない生命感をもたせることで、全体の響きは陽光燦々と浴びた植物のような活きのよさをもった。

過日の「熱狂の日」でも全曲を聴いているし、KSTでも3つの間奏曲を聴いたわけで、ここのところ、この曲には縁が深い。そのなかでも、やはりドイツの中小劇場で叩き上げられた、アルブレヒトの「強烈な個性」は目立った。この括弧の部分の表現には驚かれる方があるかもしれないが、私は敢えて、そのように言いたい。

【グレート交響曲で、ベートーベンを乗り越えた】

さて、シンフォニーの方も、やはり強烈な個性に満ちた演奏である。シューベルトの最後のシンフォニーが、これほど面白い楽曲であるとは知らなかった。既に述べたように、アルブレヒトは、シューベルのこのシンフォニーの中に、ベートーベンの主要な交響曲のエレメントが、ふんだんに取り込まれていることを教えたかったように思う。特に、終楽章には驚きが待っていた。ここに第九の「歓喜の歌」のテーマに似た素材が現れることは誰でもわかるが、それと同時に、交響曲第7番の圧倒的なリズムの奔流にシューベルトが挑戦していることに、私はこれまで不覚ながら気づいていなかったのだ。

アルブレヒトは平均的なテンポよりも幾分はやめに、この楽章をスタートさせた。いかにも彼らしいキビキビした音楽の運びで、「歓喜の歌」のテーマに似た素材が現れるまで、リズムを力強く彫りこみ、ベートーベンの第7交響曲、終楽章の初めの部分を想起させる動きが印象づけられる。第九の素材は、その祝祭的な響きを利用して大きな感動のうねりを築くだけでなく、その内的な特徴がいつしか7番の奔放なリズムと躍動感に溶け出していくようになっている。つまり、ここでシューベルトは、第九の重要な素材を思いきって解体することで、どう頑張っても逆転することができないように思われる、第7交響曲のエネルギーに対抗していくのである。

ここで重要なのは、ここはもっと美しく、ふくよかに聴かせられるのではないかという誘惑に負けることなく、魔王から逃れんとするあの父子の馬車さながらに、あくまでもイン・テンポで突っ切っていくことだ。そのなかでフレーズをしっかりと歌いきりながら、楽曲のもつ瑞々しい表情を印象づけていくことは簡単ではない。ただ、それがこの日の彼らにはできていた。オーボエなど木管が吹く美しいメロディや、節々の弱奏部分を使ってソフィケートしながらも、絶対に手綱は緩めない。終始、フォルムのしっかりした演奏だが、それにも関わらず、形式の堅苦しさがまったく感じられない。いちばん最後、長閑な流れから低音がいきなり挿入される部分の、響きの重みがきわめて印象的であるとともに、それを土台に使った響きの立ち方は既にベートーベンを乗り越えたことの、力強い宣言である。

【第2楽章に凝縮されたシューベルトの苦しみ】

しかしながら、白眉は第2楽章であったろう。ABABAの形式であるが、今回の演奏では、ABAから2番目のB部に入ろうとする部分に頂点が来ており、ここで(意図的に)楽曲の構造がメルト・ダウンしてしまうような表情を厳しく印象づけていた。ここにはシューベルトが作品を組むときの苦しさが凝結しているようにも見え、危うく未完成になりかけたのではないかと想像したりした。あるいは、ベートーベンの「田園」の嵐の部分を想起させる面もある。そこからおずおずと音符を並べていくうちに、B部が天からの救いのように降りてくる部分の印象も鮮烈だった。

繰り返しは少しずつバランスを変えており、かなり明確にイメージが変わるデザインが選ばれている。この日は内側を固める木管のトライアングル(ob、cl、fl)に、ホルン、ファゴットなどが加わった陣容がとりわけ好調だったが、ここで大事なテーマを吹いた栞田のオーボエなどは特に伸びやかで、膨らみがあった。

【そのほかの楽章】

第1楽章は、ホルンが適度に抑えた響きで、冒頭の有名なメロディを見事に吹きあげたあと、そこから弦が出るときの切れ味が際立っており、全体への期待を抱かせる。アンダンテの序奏部分は通常、やや退屈な印象も与えるのに、アルブレヒトの演奏はバランスの精妙なコントロール、鋭利で清新なフレージング、修飾音の巧みな浮き沈みを印象づけ、主部の導入までしっかりと楽曲を牽引したところまで、特筆に価する。スケルッツォ楽章は笛の音の軽妙さを中心に、遠近法を使い分けた太鼓の響きなどが印象的に使われて、舞踊的な浮揚感のある全体の響きが強調されると、歌い踊って祝われるカーニヴァルのような雰囲気になった。トリオでは、細かいタンギングによる木管のトレモロの粘りづよさが印象に残る。また、低音弦の自由な歌いくちは、若干、ジャズ風の響きにも聴こえた。

結局、このあたりの徹底したイメージの明確化が際立った演奏であったということになる。相変わらず、こうした確信に満ちたフォルムへの意思は、アルブレヒトの場合、きわめて堅固である。

【音楽家たちにとってのシューベルト】

それにしても、「熱狂の日」を含めてシューベルトの曲目をふんだんに聴いてきたが、音楽たちへのシューベルトに対する愛着というのは、それぞれに特別のものがあるらしい。例えば、エンゲラーにしても、ケフェレック、フィリップ・カサール、フランク・ブラレイ、ペネティエ、吉田浩之、マンメルとレ・シエクルのメンバーたち、それに、ライナー・ホーネック。加えてこの日のアルブレヒト。いずれも、シューベルトとなると目の色が変わり、急に子どものときに戻ったように、はじめて出会ったような新鮮さ、真面目さで、楽曲に向かいあっているのがわかる。

この日の演奏も、演奏的には「グレート」が抜群の出来であったが、「ロザムンデ」のほうに対しても深い愛着が感じられ、オーケストラの響きからは、(アルブレヒトならばいつものことながら)しっかり温められた構想が聴き手にひしひしと伝わってきたものである。アルブレヒトはよほどこの曲に自信があるようだし、格別に愛してもいるのだろうと、はっきりとわかる内容だった。そんなこんなもあって、最近の読響のコンサートの中では、やはり出色の出来となった演奏会である。


【プログラム】 2008年7月19日

1、シューベルト 劇付随音楽「キプロスの女王 ロザムンデ」より
2、シューベルト 交響曲第8番「グレート」

 コンサートマスター:藤原 浜雄

 於:東京芸術劇場
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