2008/5/30

青いサカナ団 マーマレイド・タウンとパールの森 5/25 B  演奏会

【陳腐ではなかった(!)太陽のこと】

前回、ゾウさんの仕掛けに寄せて、「一見、くだらないと思えたものが、あとでちゃんと意味をもつ」ようなことが、この作品では大事だということを述べておいた。この手の問題で、プロットのなかでもっとも大事な意味をもつのは、「太陽」だろう。もとはパールの森にあり、タウンに持ち去られた「太陽」のおかげで、タウンの支配者たちは力を得た。それで、なぜか子どものようなバッカスを傀儡に立てて、市民たちを統治している。「太陽」の恵みに対して、市民たちは「太陽のお礼」として税金を払う。このバッカスとタウン統治の問題も興味ぶかいが、いまは「太陽」のはなしだ。

この「太陽」がはじめて登場するのは、第1幕第3場、バッカスたちが登場する場面である。ところが、この「太陽」は一枚の丸皿ぐらいの大きさで、すこぶる小さいのだ。首から掛けられるような紐がつけられ、まったく威厳がない。これはどうしたことだろうか。上演の間じゅう、私は、この「太陽」が滑稽でならなかったものだ。しかし、その秘密は、第3幕で明らかになる。この「太陽」は、月子の幼いころの想念が具体化したもので、太陽と月は木に吊るすものだと思っていたというのだ。太陽は東、月は西(方角は反対だったかも?)に吊るしましょうといって、アテネとカリオペと子どもたちが去っていく第3幕のしまいの部分の、たおやかな音楽も印象的だった。

それにしても、なんという発想だろうか。この種明かしを聞いて、私は、「太陽」の可愛らしさや、細々と作り込まれた繊細な表情を嘲笑い、小さい、威厳がない、なんだあれは・・・と考えていた自らを省みて、脳天をぶっ叩かれるような衝撃を受けた。これは完全に、神田の術中にはまったのだ。多くの人が、私と同じことを考えたと思う。すべて、作曲者の(プログラムの)思うままだ。そして、その衝撃は、「太陽が月に喰われる!」というタウンの住民たちの叫びへと、ダイレクトに繋がっていく。

【僕の顔に何かついていますか?】

この台詞も、よく憶えている。「終わりの浜にて」の第2幕第7場とエピローグの部分で、2度使われるせいだ。先程の「太陽」のひねりとは比べられないが、より、ユーモラスティックな重ねあわせである。

最初の場では、アポロへの陶酔を感じながらも、なにかがおかしい、どこかで見たような・・・と月子(ディアナ)が最初に気づきはじめるとき、どこか様子のおかしいディアナを気遣って、アポロが吐く言葉となっている。このときは、やや2人のやりとりの流れが硬いのと、台詞の白々しさがつまらない印象を与える。一方で、目覚めた月子が夢のなかのアポロにそっくりな医師をみて、安心したような笑みを浮かべて、その顔に見入るとき、医師が同じ台詞を吐く。このときは、月子の安心感が見るほうにも伝わって、同じ台詞がとても温かく感じられるのだ。

この対比も、非常に面白く感じられた。こういう重ね合わせ自体は月並みであるし、いまではタブーといえなくもないほど、ありふれた手法だ。だが、いかにも狙ったように使っているのが、かえって興味を惹く。子どもの問題でも触れたが、神田はこうしたタブーを半ば悪戯っぽく使って、観客のこころを突き放したり、逆に、ぐっと引き寄せたりすることに才があるようだ。陳腐と思ったものは、いつか大逆転されて、なくてはならぬものとなる。ほんのつまらぬ重ねあわせが、筋のなかに、すっとポジションを取る・・・。

【仮面のこと・・・は、またあとで!】

ここで、仮面のことに触れるべきだが、これは後回しにする。

【それでも出来の悪い部分について】

出来の悪い部分を、すこしだけ書いておこう。まず、プロット上でいちばん問題があるのは、高いビルから飛び降りて転落死する場合、ほとんどは即死なのだから、「プログラム」が入り込む余地はないということだ。これに限らず、医療の場面は、やはりリアリティがない。低予算だから止むを得ないし、場面の性質からいっても仕方ないことだが、私の母親は病院で働いているので、やはり、あの病院のシーンは違和感が拭いきれない。あんな町の診療所みたいなベッド(ストレッチャー)で、重患の処置はおこなわない。医師のいかにもな立ち居振る舞いも、テレビ・ドラマさながらで、それがひとつのアイロニーなのかもしれないが、事ここに関しては、成功していないと考える。

この「プログラム」という言葉も、ドラマ全体の詩情に見合っていない感じがする。言葉の使い方は、いろいろと問題があるように思われ、「プログラム」のほかでは、例えば、「管理人」、(太陽が月を)「喰った」などという表現が、どうしてもしっくり来ない印象が残った。例えば、「太陽が月を蝕んだ(むしばんだ)」といったら、随分、雰囲気が出るのではないか。「管理人」はインターネット社会では親密な言葉で、そのことを意識しての使用だが、やはり、すこし説明的すぎてひねりがない。例えば、「番人」とか「守役」などではどうだろう。「プログラム」も同様で、すこしひねれば、「からくり」とか「パズル」とか、いろいろと言いようがありそうなものだ。これは、いますこしの配慮が必要かもしれない。

最後に、今回の作品の最大の欠点を述べよう。それは、話の流れと音楽に、あまりにもメリハリがなさすぎることだ。これはどうして起こったのかというと、すべての幕が本当によくできているからなのである。ぎっしり中身が詰まって、揺るぎがない。どこの幕、どこの場も意味を持ちすぎている。確かに、遊びがないわけではない。例えば、盗みのイメージを再現するアテネとカリオペと子どもたちのマイム、バッカスをめぐるコメディ、ゼウスの麻雀、いくつかの演劇的やりとりなどである。だが、こうした場面は、それに連続するか、もしくは、それ自体に含まれる意味に呑み込まれ、まったくのナンセンスというには遠い。意味があってもいいが、それを感じさせてはほしくないのに、実際は、5000mの高山に連なる3000m級の山脈のように、谷というには鋭く、突きあがりすぎているのだ。

そのため、第3幕の最後の月子の覚醒と、クロノスの種明かし、さらに、その破壊を頂点として、プロローグ、第1幕、第2幕がだらだらと続き、予想どおり、第3幕にガーンと燃え上がったところ、エピローグで冷却し、最後にちょこんと仕掛け(コーダ)を置くというように、見事なシンフォニー/ソナタ風の構成が出来上がっていることに気づくだろう。これは面白いといえば面白いが、観ていて、すこし疲れてしまう感じがする。飽きるのではない。ひとつひとつの場面は好きなのに、どうも流れていかないのだ。「僕は見た・・・」などでは、そのような印象はなく、非常にスムーズに筋と音楽が寄り添って、流れていく。ここに、神田の最高傑作との差がみえてくる。

さて、次回は、仮面のことから語りだして、いよいよ、まとめていきたいと思う。
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