2008/2/10

サロメについて考えています。  クラシック曲目分析室

11日、新国に「サロメ」を見に行くのに、いろいろと頭をひねっているところです。一般的なイメージでは、R.シュトラウスというと耽美的な、底の浅い作曲家であり、豪華絢爛のサウンドを浪費する贅沢音楽の極みのように考えられていないでしょうか。確かに外見的にはそうかもしれないのですが、もう一枚、ヴェールをめくってみると、いやいや、どうして、なんとも深い世界を描いているように思います。この「サロメ」は、我がままな王女様が意のままにならない聖人を、無理やり自分のものにするために、色仕掛けで王様をたぶらかし、そいつの首を胴体から切り離して弄ぶという、エロ・グロの世界であります。しかし、裸になったサロメは、実はもう1枚、ヴェールを被っていたような気がしてならないのです。

いろいろと考えてはみましたが、情報を集めれば集めるほど、混乱は深まるばかりという気がしました。謎は、たくさんあります。まず、王はなぜサロメを殺害したのか。これは、意外と早く結論を得ました。それは、嫉妬したからです。誰にといえば、それは胴なし首となったヨカナーンにです。王はサロメの魅力にやられ、彼女の踊りのあと、国の半ばさえ与えても構わないと言っていますよね。ところが、サロメはヨカナーンの首を所望し、そいつを愛しそうに扱って接吻する。ここに、王の嫉妬が爆発したのです。王は、サロメのおぞましい行動を倫理的に罰したのではなく、正しく男としての激しい感情の発露として、殺すに至ったのです。

次なる疑問は、サロメは、どうしてヨカナーンの首を所望したかです。これも、わりと簡単に答えを得ました。それは、まだ内心が成長しきっていないサロメの、不安と、幼い幻想や妄想の世界として、考える必要があります。不安というのは、自分をみる王の特別な視線によっています。サロメの生きる世界では、王はすべてを想いのままに操ることができる最高の権力者であります。ヘロディアスへの遠慮などがあって、まだ王は、サロメへの想いを爆発させてはいませんが、元の妻を実家に帰して、ヘロディアスを娶ったような王のこと、サロメへの想いをやがて、何らかの形で満足させるために動いてくるであろうことは目に見えています。このことから、サロメは、王から逃げたいと考えていたはずだと推察できます。でも、どれだけつよく願っても、それは叶えられることではないのです。

そへきて、ヨカナーンとの出会いがありました。ヨカナーンは、声だけでサロメを魅了したとされます。そうなのかもしれませんが、私を悩ませる謎のひとつは、サロメがなぜヨカナーンを愛してしまったかです。それは今、結論を得ないので置いておきますが、ヨカナーンを求めて拒絶されたサロメは、結局、ヘロデとヘロディアスの間に生まれた運命を嘆くようになりま
す。そして、ヨカナーンは自分を愛しているが、その境遇のために結ばれないのだと考えるようになります。否、サロメがそう考えたであろうということを証明するものは、何もありません。ただ、そう考えると自然だということに過ぎないのですが・・・。

さて、この2つの感情が結びついて、サロメはヨカナーンの首を所望するに至るのです。この世で結ばれないならば、せめて、あの世でと思ったのでしょう。サロメは、王から何でも所望のものをやると言われるまでは、ある程度の理性を保っています。しかし、ヘロデのしつこい求めをかわすうちに、思いついてしまったのです。まず、ヨカナーンの首を胴体から切り離し、自由にする。これで、ヨカナーンを縛るものは何もありません。それだけでも彼女は満足なのですが、接吻までしてみせることで、王の嫉妬に火がつくとまで見抜いていたかどうかは分かりません。しかし、公衆の面前でそうまでしてみせれば、いずれ王は自分を罰するであろうと、サロメは予想していたのではないでしょうか。これで、サロメは自らの身を滅ぼすことができる。そうすることでしか、王から逃げ、ヨカナーンのもとに歩み寄る道はなかったのです。

ヘロディアスは、娘への嫉妬に駆られているように見えますが、私にとっていちばん難しいのは、この母娘の関係についてです。ワイルドが改作する前の聖書の記述では、サロメは自らの意思ではなく、母の望みを叶えるために、ヨカナーンの首を所望しています。ここでは、ヘロディアスこそがワルのなかのワルで、娘まで使って王を動かし、邪魔な預言者ヨハネを始末しようとしたのです。サロメはさほど重要でなく、福音書には名前も記されていません。ところが、ワイルドはそこを変えて、ヘロディアスを冷笑的な母親に仕立て、サロメという人格を独立させています。そのため、このドラマを考えるときには、この2つの人格がどのような形で関係しているかを読み解く必要があるのです。

ヘロディアスは、サロメが踊るのを制止しようとしていますよね。これは、どうしてでしょうか。多分、夫の邪まな意図を見抜いているからです。王が何でも与えるというのは、要は、そのことですべてを奪うことを意味するからです。例えば、サロメが国の半ばを所望すれば、そこを与えて、ヘロディアスの目の届かないような場所で、要は囲いものにしてしまおうという腹でしょう。だから、その魂胆を先取りして、娘を守るというよりは、王の謀略を事前に潰してしまおうとしているのです。母親はまた、娘のことを警戒してもいます。彼女の美しさがあれば、王を唆して、ヘロディアスを葬り去ってしまうことだって可能なのです。この2つの意図から、ヘロディアスはサロメが踊ることを阻もうとするのです。

踊りのあと、ヨカナーンの首を所望するサロメの言行に対して、この母親が喜びをあらわにするのは、邪魔なヨカナーンが自分の手を汚さずに消えてくれるということよりも、自分が思っていたほどサロメが成長していなかったことへの安堵を感じ、そして、夫の想いが脆くも打ち砕かれたことへの愉快さがこみ上げてきたからではないでしょうか。

こうして見てみると、単なる官能小説の世界と思われた「サロメ」の世界に埋め込まれた、奥のふかい心理劇の様相が形を表してきたのではないでしょうか。それでも私は、まだまだヴェールが覆っているような気がするんですよね。それにしたって、単純すぎませんか。男女の嫉妬と、少女の妄想だけによって、この作品の世界が語り尽くせるのでしょうか。それは無理です。例えば、ヨカナーンは、キリストの出現を予言する重要な預言者ですよね。ユダヤ世界では、聖書に出現する最後の大預言者として扱われると言います。それが、こんなことで首を刎ねられていいものでしょうか。これはキリストの「受難」と比べると、あまりに陳腐で、重みがありません。まるで、死んでなお、愛人に見向きもされないナラボートのようです。

私はここに、原作のワイルドやそれに共感したR.シュトラウス自身の、信仰に対するひとつの見方が投影されているのではないかと考えていますが、そこをいま、掘り下げていくことは避けたいと思います。また、ここに出現する登場人物たちは、R.シュトラウスの時代の何らかの政治的、もしくは、文化的人物のイメージに重ねあわせられているような気がしますが、そこまでは私の見識が及びません。

まだまだ完璧というには粗すぎる考察ですが、観る前に、こうして書いておいて良かったかなと思います。上演自体の評価は消極的なもの7に対して、好意的なもの3くらいかなと思いますが、オペラほど周囲の評価が当てにならない世界はありません。
3



コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ