2007/8/30

アゲハの恋 青いサカナ団 8/26 A  演奏会

さて、話を整理しながら、もうすこし詳しく検討していこう。

【音楽、歌】

音楽面は、非常にヴァリュエーションゆたかだった。ジャズ、サンバ、ボサノヴァ、ポップス、ロック、ワーグナー調、イタオペ調、ミュージカル風、クラシック名曲のパロディ、童謡など、数え上げればキリがないが、ケンジの職業がギタリスト兼作曲家だという設定を、「悪用」していた。アリア的な歌の部分には、非常にシンプルなものが当てられており、そういった面では反オペラ的な要素もあるが、頑張って「反・・・」などというよりは、オペラの歌の虚飾的なものを取り去ると、このようになってもおかしくない、という見方のほうが、より正しいのかもしれない。

今回の作品は、縦軸に場面にあわせた音楽のフレキシビリティが置かれ、横軸にドイツ音楽的なしっかりした構造が織り込まれている。自由さと束縛。これが、今回のオペラのひとつのポイントを成している。「アゲハの唄」がその象徴であり、よく調べてみると、多分、この曲はガチガチに動かない頑丈な構造をもっているのではないか。そのくせ、とても自由な飛翔を伴うような感じもする。不思議な曲だ。

会話部分は、神田作品に特有のスタイルが踏襲され、彼の作品に触れたことがある者ならば、「いつもの」やり方と感じただろう。古典オペラのレチタティーボのように、この方法により、ある程度は確立した形で、劇を進めることができるようになった。ただし、このスタイルは頭のほうを大事にして、後ろの部分を曖昧にする日本語の特徴をよく捉えているものの、歌となったときにやや鋭すぎる感じもある。そのため、どうしても口調が批判的、直情的な感じになってしまい、なにかを訴えかけるような人物像になりがちという点で、問題がある。ここまでは、そうした「主張」があるのが神田オペラの特徴となり、悪くない結果を生んでいる。しかし、今後、ケンジやジロー、アゲハやサクラのような人物とちがうキャラクターを構想したときには、通用しなくなるかもしれない。

アゲハのテーマは、「ライト・モティーフ」と見られないこともないし、「A・G・E・H・A」音を仕込んでいることから、新ウィーン楽派的な知的構造を伴うともとれるが、実際は、もっとシンプルな意味で使われているにすぎない。そこにも、ある種のアイロニカルな音楽的知性が光っている。

主人公がギタリストであることを踏まえて、若手ながら、既に相当の実績を持っているプロ・ギタリストである松尾俊介を呼んで、ピットに座らせていたのだが、これといって華々しい出番があるわけでもなく、どうも生かしきっていなかった感があるのは勿体ない。

【プロット、演出】

プロットは、すべて紋切型で構成されるが、これは意図されたものであり、そう「なってしまった」のではない点に注意したい。木下順二の「夕鶴」が下地になっており、そのパロディとしての要素が多い。お金をめぐる問題が出てくるのも、「夕鶴」のテーマを踏襲しているが、札束がばら撒かれる場面があることから、さらに「トラヴィアータ」の有名な場面を想像する人もあるに違いない。カエル、モグラ、クラゲのコントでは、ちょっとした芸術論が闘わされ、人数が足りないが、フランス・オペラの常道を皮肉る「ボエーム」終幕のアイロニカルな場面のパロディであろう。

こうした遊びをもたせながら、主には、アゲハの深い信頼に基づいた、ケンジの成長というところに焦点が当てられている。一方、アゲハのほうも、ケンジとの関係により成長し、蝶となって去っていくという展開があることを、前のエントリーで述べた。この二重の成長劇が、結局のところ、このオペラのすべてである。最後、アゲハの自己犠牲により、ケンジの魂がエピローグでみられるように救済されたところを見ると、この作品が「リング」のパロディでもあったことがわかるだろう。ただし、エピローグのケンジは、まだ夢をみている途中だという感じもあり、不安定だ。そこをどのようにみるかは、観客それぞれの感性による。

演出は、転換などが無駄なくスムーズで、よく練られていた。全体に子どもオペラ風のライトさが目立つが、レヴェルを落とすのではなく、それぞれがそれぞれの視点でみられるというようなものを、彼は目指しているのであろう。ただし、油断すると、学芸会風になってしまう恐れもあった。神田らしくもなく脇が甘かったのは、あらすじを読んで大いに不安があった、アゲハの変身前後のシーンに集中する。まず、羽が生えてくる部分では、背中に網状の黒い布をつけてあって、これを引っ張って伸ばすのだが、アゲハにやっつけられるはずの黒服たちが、明らかに羽を手繰っており、それもなかなか伸びてこないので、これでは興醒めというものだろう。

また、アゲハが消えていく場面は、舞台が沈んでいく機械音を利用して、上手くオーケストレーションしているのは面白いが、その前に、ライティングで蝶の羽のシルエットを壁に投射し、その中心にアゲハが立って、蝶の形を完成させるのが、残念ながらずれていた。多分、中央も中央の席に座った人には問題なかったと思うが、数列でもずれると、アゲハの立ち位置と蝶の体幹がずれてしまっていけない。

エピローグでは、コーラスを終わって、街の人たちが両手をかざして暗転する。何かと思ったが、後ろの人が「蝶々だ」と囁いてくれたおかげで、合点がいった。万一、意味がわからなくてもきれいだった。意味がわかると、さらにピリリと来る演出で、印象的に思える。これだけの掌に、ちゃんと光を当てられる照明設備があるのは、新国ならではのことであろう。ケンジの掌に、それが当たっていなかったのは、どういう意図であったか不明だ。また、暗転の前、全体合唱になったときも、ケンジは歌っていない。

舞台人にはその方面の方が多いのか、オカマ系の人物が数多く出てきたのは、どういう意味があるのだろうか。中井英夫とか、島田雅彦とか、両村上とか、現代文学の視点でみれば珍しいことでもないのだが、必然性は感じられない。

ひとつ指摘したい点は、ケンジとアゲハの関係が、順調に進みすぎるということであろうか。例えば、「夕鶴」では、ライバルの女は現れないが、その意味あいを理解できない夕鶴にとって、オカネが与ひょうをたぶらかすライバルのような存在として見えてくる。そのため、夕鶴は必死になって機を織ることになり、かえって墓穴を掘ってしまうのだ。アゲハの場合、お金の問題は、むしろケンジのほうを悩ませるので、アゲハ本人からみて、ケンジをめぐる敵がいないことになる。そこが、筋として甘さになるのではないか。

もし本気でやろうと思えば、ルビーやミッチを、その位置におくことができたはずだ。特にルビーは、ケンジをめぐってアゲハとライバル関係になることで、かつての輝きを取り戻すことができるのではないか。ミッチに関しては、最後の幕でアゲハと対峙するシーンがあるが、すぐにアゲハのことを認め、自分のこころを隠してしまうので、ついに最後まで本性を見せないで終わる。だが彼は、明らかにケンジに想いを寄せている。

過去のことが舞台上で再現されたり、テレビ的な操作も交えながら、自由に舞台を使いきるアイディアは、神田の独壇場である。




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