2007/2/25

日本の作曲 21世紀へのあゆみ 室内楽の諸相X 2/24  演奏会

この日は、マチネは「兵士の物語」、ソワレは日本の室内楽という一日だった。現代の作曲家にも多大な影響を与えたストラヴィンスキーと、現代の室内楽の聴き比べは、なかなか興味ぶかい。このシリーズは1998年から続いてきた企画で、今年の4本のコンサートで締め括られることになっている。こうした蓄積があるだけに、曲目としても奏者としても厳選されたソワレの方も、ストラヴィンスキーの名品にも負けない実力を示した。

特に、クァルテット・エクセルシオの演奏した2つの曲は、特に魅力的に思えた。前半の最後に演奏された、三輪眞弘の弦楽四重奏曲「皇帝」は、同じニックネームをもつハイドンの作品の主題を使っての変奏曲だ。このハイドンの名品はドイツ国家ともなっており、2000年の作曲当時、日本の国旗・国歌の法制化が問題となっていたことへの視点を含んでいる。そのためか、おわりのほうに、僅かに「君が代」の最後の部分が聴かれる。

作風としては非常に聴きやすく、ライヒのミニマリズムの影響が色濃く感じられる。エクセルシオの一本一本が粒立ち、コクのある音色が、この楽曲の表現にふさわしい。特に、最初のテーマの演奏が、全体の美しさを底から支えている。また、彼らの明るめの音色が、三輪がコンピュータ・プログラムとの対話で紡ぎだした響きの組織化を、生き生きと描き出すのが爽やかだった。後半、急に変奏が動かなくなり、明かりを絞っていくと赤い光がクァルテットを照らし、幻想的な雰囲気だ。そのまま終わるかと思いきや、再び変奏が動きはじめ、「君が代」の断片を挟んだりして、僅かに持ち上げたところで演奏がおわる。

最後に演奏された野平一郎の弦楽四重奏曲第2番は、もともとアルディッティ四重奏団のために書かれたこともあり、複雑に散らされたクラスタを形にして、響きとして聴き手に伝えるのは、そうそう簡単な曲ではない。技術的に難しいのは当然としても、深くて理知的な解釈と、作品に対する素直な共鳴(パッション)がなくてはならない。その2つをエクセルシオはしかかりと持っていたばかりか、彼ららしい表現の明晰さで、作品の魅力をダイレクトに客席に届けた。

その作風は多様にして、よく束ねられている。プログラムの解説にもあるように、全体としては一筋にびっちりと貫かれた印象があるものの、音楽の変わり目のタイミングや角度のつけ方が絶妙で、そこに野平らしいシャープなラインが象られており、一刻も気を抜くことができない緊張感が特徴としてあった。エクセルシオの演奏は、そうした特徴を颯爽と弾き上げて、迷いがない。アルディッティにも負けない、素晴らしい演奏であろう。作品としても、この野平の作品が、一歩抜けているように感じられた。

藤家渓子の「深々と」は、笙とヴァイオリンが様々な角度から睦みあい、場面ごとの表情が実に楽しい佳曲であった。今回は石川高の笙と、大谷康子のヴァイオリンによる演奏だが、いずれも紛れのない清楚な美しさで、この曲を上手に表現してくれた。楽曲は、2つの楽器のズレや重なりをいろいろにいじって、次々に表情を変えていくのが面白い。前半がつとに魅力的で、日本的な雅楽のような響きを笙はもちろん、ヴァイオリンが真似してみたり、それが次第に中国風のものに移り、そのうち蒙古のステップを思わせるような響きが出たり、果ては笙がパイプオルガンの響きに姿を変えて、欧州まで届くような感じもちらりとみせながら、世界旅行をしている気分だ。

この作品は多分、笙の奏者との綿密なコミュニケーションがなくては生まれない作品であり、そのような貴重な時間に恵まれた作曲者の幸運に想いをいたしたものである。これは、あとで触れる筝の作品についても言える。

山田泉の「素描 ヴィオラ・ソロによる」という作品は、ヴィオラの甲斐史子が全身を使った表現で、この曲のなかに秘められたエネルギーの動きを、しっかりと感じさせて見事な演奏だった。久留智之の「オーガニック・モーションズU」も、演奏者の千葉純子の見事なタンギングなどが印象的で、こちらはもう、千葉が楽曲の持てるもの以上のものを、しっかりと印象づけていた。北爪やよいの「はる なつ あき ふゆ」は、矢川澄子の10の詩に、筝と演奏者による謡で付曲されたものだが、こちらも、伝統的な日本の芸能を知り尽くした草間路代の、重厚なパフォーマンスが見ものだった。

どの作品も聴きごたえがあり、この分野がクラシック音楽のレパートリーとして、まったくと言っていいほどに開拓されていないのは、残念でならない。素敵な演奏会であった。なお、会場は紀尾井ホールである。
0



コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ