日本も、必要な時期に、必要な人材が必要なのだ。
松平定信のような人が総理になる時代かもしれない。
松平定信
寛政の改革 [編集]
天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に徳川家治が死去して田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、
徳川御三家の推挙を受けて、幼少だった第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となる。そして幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、
祖父・徳川吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。
老中は、譜代大名が就任するのが江戸幕府の不文律であるが、
白河藩主・松平氏は譜代大名であり、定信はそこに養子に出た者であるから、
この原則には反しない。
家康の直系子孫で、大名に取り立てられた者以外は、親藩には列せられず、
家康の直系子孫以外の男系親族である大名は、原則として譜代大名とされる。
しかし、松平定信は、吉宗の孫だったため、譜代大名でありながら、親藩(御家門)に準じる扱いという玉虫色の待遇だったので、混乱を招きやすい。
前任者である田沼意次の重商主義政策と役人と商人による利権賄賂政治から、
朱子学に基いた重農主義による飢饉対策や、
厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、
旗本への文武奨励などで一応の成果をあげる一方で、
老中就任当初から、大田南畝により
『白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき』とうたわれ、
その改革も形式に流れることが多く、抜本的改革には苦心した。
処士横断の禁で林子平らの世論煽動を禁止し、寛政異学の禁で朱子学を正統とし、
幕府の学問所である昌平坂学問所では朱子学以外の講義を禁じ、
書籍出版取締令により出版統制についても行っている。」
名言、珍言。
「人情は天下一にして、われに汲む所この所は、
またひとのくむ所好む所なり。」
松平定信
勝手な解釈
人は、人情が大切である。
自分の最後の居場所も、人間性、人情にある。
他人のためにも、自分のためにも、すべては、人情で成り立っている。
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名言、珍言。
「楽しきと思うが楽しきの基」
松平定信
勝手な解釈
楽しいと、思うことから、幸福が始まる。
自分の見方で、不幸、幸福は、変わっていく。
貧しい者でも、幸福に感じること、幸福になっていく。
失望しては、破滅するものだ。
赤字の国は、赤字、赤字と唱えても、赤字ばかり。
一つでも、幸福の感じることを見て、
不幸が減っていくものだ。
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名言、珍言。
「友はその所長を友とすべし。」
松平定信
勝手な解釈
友人、友人と、何でも、受け入れるな。
いいところみて、参考にする。
悪友でもいいことを見て、参考にする。
毒には、毒になるか、毒が解毒になるか。
すべては、長所を見ること。

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