prayasさんの日記
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縄文から弥生へVol.4 2009年11月16日21:03
縄文晩期の終わりは紀元前1000年頃と言われ、近畿で稲作が始まったのは紀元前700年頃とされている。九州から300年くらいの間、急激にではなく徐々に農耕文化に移行して行ったのだろう。
狩猟採集文化ではすべての自然界には精霊が宿ると考えた。農耕稲作文化もその信仰を継承し、それは現在まで継続し日本各地には巨石や樹木信仰が残っている。
農耕稲作文化が定着してくると、富の蓄積が起こり、宗教儀式を司る専門職の司祭があらわれる。北米の先住民の研究によると狩猟文化と農耕文化では違いがみられる。
狩猟部族で10歳を過ぎた少年は人里離れた場所に連れて行かれ、小さな焚き火のそばに一人残される。そこで四日以上断食して祈っていると夢の中で動物があらわれ超自然的な力を授けてくれるのである。
トウモロコシを栽培するホピなどの農耕部族はカチーナと呼ばれる仮面を付けた神々の為の複雑な儀式を行う。部族全員が参加し暦に従って、複雑な手順を知り尽くした司祭により厳密な儀式がおこなわる。
シャーマンは個人的な心理的危機を通して、超自然的能力を獲得するが。祭司は組織において前任者の役割を受け継ぐ為に秘儀を伝授され特定の地位を与えられる。農耕社会では天候神に生存を握られている。一年間努力しても肝腎な時に天候が悪ければその努力は水泡に帰してしまう。天候の神々の機嫌を損ねるとたちまち飢饉が訪れるので、個人は共同体に従わなければならず、社会が祭司を任命した。
日本では天皇制に至までには様々なヴァリーエーションが会った様に思われる。
皇后が祭祀を天皇が政治を司どる形態
長兄が祭祀を司り、末弟が政治を司る形態
姉妹が祭祀を司り、その兄弟が政治を司る形態
日本書記には199年、仲哀天皇が熊襲征伐の途中に神功皇后が突然神懸かる話が出てくる。仲哀天皇がそれを信じなかった為に熊襲征伐は失敗して天皇は崩御した。そこで神功皇后は武内宿禰(たけしうちのすくね)に琴を弾かせて中臣 烏賊津(なかとみのいかつ)を審判者(サニワ)として神の名を知ろうとしたという記述がある。
「サニワ」は後に、神楽で琴を弾く者のことをさす様にようになった。
古代日本のシャーマニズムは司祭である審判者(サニワ)と巫女によっておこなわれた。しかし、地方のそれぞれの神々が勝手に託宣していては統制がとれなくなる。天皇を頂点とする国家体制がしかれると、中央に神の託宣を審議する役職がおかれた。神の序列がなされ、女性の地位は低下して儀式から遠ざけられるようになった。仏教が広まると神は仏の臣下となり、神託は仏教教団が管理する様になっていった。
天皇が大王として権力を持ったとき、人々はスピリットを見失いシャーマニズムは形骸化していった。
参考文献
魂の癒し手 クリップナー 春秋社
縄文文明の発見 PHP研究所
日本の原像 吉本隆明 中央文庫
宗教以前 高取正男 NHKブックス
文明と環境 伊東俊太郎 日本学術振興会
野に雁の飛ぶとき キャンベル 角川書店
シャーマニズム―エクスタシーと憑霊の文化 佐々木 宏幹 中公新書
シャーマンの世界 ピアーズ ヴィテブスキー 創元社
写真左 南に向かう白鳥の群れ
写真中 白鳥の編隊
写真右 岩手県 萪内遺跡・出土土偶(国宝)
この遺跡は水没して今は白鳥が舞い降りる。