1998/12/16
不言道
10・12・16
12日の未明の意識の中に、「不言道」なる言葉が現れた。
何の事か、誰に対してか、決めかねて居たら、本日年賀状を書き終えて、一息すると「言葉をしゃべる事で 感情が現れる」との意味を思い出した。
と言うのも、私が17歳の秋に、父親が入院先の鹿児島の病院で死んで、骨が鹿児島から自宅に戻っても、涙は一粒も出なかったのだが、後に、友人と父親の事に付いて話し始めると、突然悲しみが起きて来て、涙が出始めると、其の自分の涙に誘われて、段々と悲しみが強く成るのである。
では、話さなければ、悲しみの感情が起きないのだろうかと、考えてみると、人間の頭と呼ばれている物は大脳の働きで、或る本に書いて有った事だが、三歳までの子供の時に、言葉が多い程、頭の良い子だとの事である。
言葉の数が、多いと言う事は、其のひとつひとつの単語が意味なす、状況(絵)が多いと言う事になる。
つまり、体験の絵・イメージの数と、体験を認識記憶する能力が、高いと言う事に成る。
私達は、親に育てられて社会に出て、先生や友人との接触に因って、状況を認識し記憶して来た。
つまり、頭を使って来たのである。
処が、12日に映し出されて来た「不言道」との言葉は、「話をしない道」と言う事であり、頭を自分の認識作用の為に、使わないと言う事である。
屋久島で育った私は、中学迄しか学校に通っていないので、学園生活でシャベル事も無かったし、普通でも、会話の少ない方であった。
それでも、36歳の時に「土肥無庵」に捜し出されて、37歳の、3月から6月迄の修行の後、半年間全く話をしないで、山・川・海に出掛けて、瞑想を続け、他人と会わない期間があった。
世界中の、聖者と呼ばれている人達は、全てと謂って良い程、荒野で最低40日間は、言葉を使わない期間を過ごしている。
人間とは、子供の時より、言葉を使って感情を創り続けて、其の儘、対象だけに心を奪われて、一生を無駄に過ごすもののようだ。
そして、自分達が集団で創り出した、虚飾の世界の中で一生、本来の自分を知る事なく、終わってしまう。
それではいけないと、時々目覚める者が出現する。
其れは、此の虚飾の中に住んで、平和だと意っている人達にとっては、一種の癌細胞の様な物だろう。
でも、其れは、神の働き・救いであって、自然法則・ダルマなのだから、其の者に拠って、人類は、新しい川の流れの中に、漕ぎ出して行けるのだ。
其の為には、新しい舵取り手を、捜し出さなければ成らない。
平成10年12月16日
礒邉自適
※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。